第36話

 セリオルは出入り口の扉を目貼りした“騎士の剣亭”の部屋で、幻獣たちと相談していた。サラマンダー、イクシオン、アシュラウル、ヴァルファーレ、オーロラ。5柱の幻獣たちはそれぞれに柔らかな気高き光を纏っている。アルベルトが特別に用立ててくれた一行の男性陣が起居する4人部屋も、幻獣たちが並ぶと狭く感じた。
「マナで加工、か。金属や甲殻を」
 アシュラウルが興味深そうに言った。幻獣たちの前のテーブルの上にはセリオルが準備した金属片や魔物の甲殻などがあった。商業街区の武具素材卸売店で購入したものだった。セリオルは再び、大陸風の服装に色眼鏡という変装に身を包んでいた。
「はい。クロイスの剥ぎ取り技術を活かすことが出来ればと思いまして」
 色眼鏡の位置をくいと直しながらセリオルは言った。オーロラが顔を上げ、そのセリオルの目を見た。
「今後も魔物と戦うことがあるのですか? もう少しで幻獣研究所に入るのでは?」
 心地良いせせらぎのような響きのオーロラの言葉に、セリオルは小さく頷き、色眼鏡を外した。それは武具素材の脇に置かれた。
「念のため、です。幻獣研究所の中でも何が起こるかわかりませんからね、正直」
「おもしろいことを思いつくね、セリオルは」
 サラマンダーは炎のマナを揺らめかせた。エメラルドの瞳が輝く。
「確かにな。永年生きているが、鉱物などを加工するのに我々のマナを使うなど、考えたことも無かった」
 ヴァルファーレは愉快そうだった。翼を畳んで身を小さくしながら、嘴が艶やかに煌く。
「人間は、進歩するものだな。かつてのリヴ・フォン・カンナビヒもそうだった」
 イクシオンから統一戦争時代の伝説の名宰相と並び称されて、セリオルは少々恐縮した。苦笑しながら、彼は言った。
「それぞれのマナの特性を使って、加工が出来ればと思うんですが」
「そうだな……」
 そう呟いて、ヴァルファーレは沈黙した。他の幻獣たちも口を開かない。セリオルは幻獣たちを順番に見遣った。5柱の獣たちは、悩んでいるようだった。その様子に、セリオルは自ら口火を切った。
「私の推論では、ヴァルファーレの力で“分解”、サラマンダーの力で“変形”、アシュラウルの力で“増強”、イクシオンの力で“精製”、オーロラの力で“保存”といったようなことが出来るのではないかと」
「ふむ……」
 アシュラウルが鼻から息を抜くようにして呟いた限りで、幻獣たちはやはり沈黙したままだった。幻獣たちがそれほど悩むことを想定していなかったセリオルは戸惑った。
「難しそうですか? そんなに的外れではない理論だと思ったんですが……」
 新しく考案した技術のことで、セリオルにも確固たる自信があるわけではなかった。しかし理論上大はずれと言うほどのものではないとの自負はあった。
「こういうことだ、セリオル」
 ヴァルファーレの光が強まった。風のマナが集まる。
 その影響で、小さなつむじ風が起こった。風は部屋に満ちてベッドのシーツを舞い上げ、セリオルが理論構築のために様々なことを書き込んだ紙を床にばらまいた。ヴァルファーレは力を止めた。風が治まった。
「……なるほど」
 風に乱れた髪を直しながら、セリオルは吐息とともに呟いた。盲点だった。
「幻獣の力を使うとなると、それはこうなりますよね」
「いい加減に力を出したわけではないぞ。お前の言うとおり、その甲殻を分解しようと力を集中したつもりだ」
 幻獣は物体を意図的に加工するという作業に慣れていない。それを考えに入れていなかったことを、セリオルは自嘲した。
「我々は人間のように器用にマナを操ることをしてこなかったからな。それをこれから短期間で出来るようにするのは難しかろう」
 紫紺の光を纏うイクシオンが淡々とそう言った。セリオルは小さくかぶりを振った。残念だったが仕方が無い。他の方法を検討すれば良いだけの話だと、彼は自分に言い聞かせた。とはいえ、幻獣のマナのようにほぼ無尽蔵に、かつ極めて純粋なマナを生み出す方法を、彼はすぐには思いつかなかった。
「人間はすごいよね。ずっと昔からもそうだけど、セリオルやサリナを見てていつも思うよ。あんなに器用にマナを扱ってさ」
 サラマンダーのその何気ない言葉に、セリオルの脳のある回路が反応した。彼は顔を上げた。頭の中でいくつかの回路が急速につながり、新たな回路の形を取って組み上がっていく。セリオルの口元に笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます、サラマンダー。お陰であなたたちの力を有効に使う方法を思いつきました」
「え? どういうことだい?」
 不思議そうな幻獣たちの前で、セリオルは満足げだった。顎に手を当ててぶつぶつと何かを呟いている。
「問題は、フェリオにどうやって時間を取ってもらうかですね。今日は休みのはずですが、寮には入れるのかな……」
 幻獣たちは顔を見合わせた。人間の考えることは、やはりよくわからない。

 ルカの手綱を操りながら、カインは考えていた。
「俺ぁ思うんだよ、ルカ。もうちょいこう、獣使いらしくいきたいと」
 ルカは首を傾げて小さく啼いた。何のことかと尋ねているようだった。
 カインとルカは王都近くの草原に出ていた。そよ風が心地良く、背の高い草がそよいでいる。
「獣使いは獣ノ鎖と獣ノ箱で魔物を使役する。それはまあ、いいんだよ」
 草原には小型の野生動物や魔物の姿がちらほらと見えた。カインはぐっと勢いをつけてルカの背から降りた。柔らかな草がかさりと音を立ててカインの体重を受け止めた。
「けどほんとはその前に、魔物を“あやつる”ことで使役することも出来るんだ」
 ルカが頷くような仕草を見せた。カインはその紫紺色の羽毛に覆われた首を撫でてやった。チョコボが気持ち良さそうに目を閉じ、穏やかな声で啼く。
「生きていくのに必死だったからな――あやつることより、獣ノ箱で使役することに目が行ってた。あやつりもちっとは出来るけど、あんまり精度が高くねえ。そのせいで青魔法の修得が遅くなっちまった。もっとバリエーションを増やさねえと、こっから先の戦いで足、引っ張っちまう」
 チョコボには興味を示さない魔物たちが、地に降り立った人間の匂いに過敏に反応してこちらへ近づいてきていた。カインはその群れをさっと確認し、鞭を構えた。鳥、蜂、トカゲ、蛇、狼、植物などの魔物が気勢を上げている。温厚な野生動物たちは危険を察知したか、姿を隠したようだった。
「幸いここいらの魔物は、ハウリング・ウルフにもヴァイパー・バイトにもキラー・ウィングにもなる。空の獣ノ箱も用意した。ちょいと暴れるから安全なとこに逃げてろよ、ルカ」
 利口な騎鳥はひと声甲高く啼いて駆けて行った。万一の危険の際には主人を助けられるよう、自分の瞬発力が効果を発揮する範囲ぎりぎりのところまで。
 鞭は上機嫌に、よくしなった。腕と手首を巧みに操る。鞭は千尋の雨となって草原を散らした。
「さあ、かかってこいよ。1匹残らず相手してやる」
 魔物たちは咆哮を上げてカインに襲いかかった。赤毛の獣使いは、その瞳に獰猛な光を宿す。

 職業訓練校の教室で、クロイスは賞賛の声を浴びた。それは革細工の授業の時だった。用意された大羊の皮を、クロイスは訳も無く簡単になめしてみせた。用意された道具をほとんど使うこと無く、自作の小道具でその作業をこなしたクロイスに、クラスメイトたちは驚愕の声を上げた。
 とはいえ、その程度の作業はそれで生計の一部を立てていたクロイスにとっては日常的な行為であり、注目を集めるようなことではないと認識していた。
「けど、悪ぃ気はしねーな。へへ」
 王立職業訓練校は全寮制で、それは王立高等学院と共通だった。ふたつの学校の寮は同じ敷地内にあり、行き来は容易だった。ただ、男子寮と女子寮では厳格に行き来が制限されていた。
「君の技術は大したものだと思うよ、実際」
 そこはフェリオの部屋だった。フェリオは備え付けのベッド、クロイスは壁際に置かれた椅子に腰掛けている。ふたりの間にはテーブルがあり、その上にはとりどりの色の石のようなものがいくつも、無造作に並べられている。
「セリオルのほうは順調かなあ。幻獣の力を使うつっても、けっこうムズそうな気がするんだよな」
「そうだな……まあ、セリオルが出来ると思うって言ってたんだから大丈夫なんじゃないか?」
「ま、そうだよな。俺らが心配しても意味ねーか」
 今日と明日、訓練校も高等学院も休みである。ふたりは今後の行動指針を決めるのと、試練の迷宮でのアーサーとの戦闘の反省を兼ねて、フェリオの部屋に集まっていた。
 テーブルに広げたのは、フェリオがバーナード鉱物学学会長から譲り受けたマナストーンである。マナストーンは貴重な鉱石だが、その中でも比較的入手の簡単な、炎、雷、風、力、地の5属性のものが並んでいた。
「で、マナストーンだけど」
 フェリオが切り出した。彼はベッドから立ち上がって、クロイスの対面に置いたもうひとつの椅子に腰掛けた。クロイスもテーブルに近づき、マナストーンをひとつ摘み上げる。
「こいつを弾丸と矢尻に加工……だよな」
 指の間で部屋の明かりを反射し、きらきらと光の粒を散らすマナストーンを、クロイスは難しい顔で見つめた。
「削って薬莢に詰め込んだり、矢尻の形にするだけじゃだめなのか?」
「だめだな」
 答えて、フェリオはマナストーンをいくつか握って手のひらに載せた。今後の戦いで、彼らふたりの攻撃力を増すことが出来るかどうかが、これに懸かっている。
「マナストーンはこうしてここにあるだけだと、ただの石だ。一定の衝撃を加えて、内部のマナを活性化させないと効果が無い。試練の迷宮で出た大蠍とか金属の塊みたいなやつなら身体そのものが硬いから、着弾時の衝撃で効果が発生するはずだ。問題は獣系の魔物なんかの身体が柔らかいのに着弾した時に、上手くその衝撃を加える方法だな」
「いや、そんなこと出来んのか? 弾丸にも矢尻にもちっこい仕掛けをつける、ってこと?」
「それは難しいだろうな」
「なんだよ、じゃあどうすんだ? 考えでもあんのか?」
 クロイスの言葉に、フェリオはにやりとしてみせた。待っていましたと言いたそうな顔だった。
「もちろん。目星はついてる」
 竜王褒章を受章した天才の言葉に、クロイスは椅子の背に体重を預けて頭の後ろで手を組んだ。知らず、唇が尖る。
「なんだよ、最初っからそう言えよな」
「はは。悪い悪い」
 手の中でいじっていたマナストーンを、フェリオはテーブルに戻した。ころころと、マナストーンは転がった。
「君にも協力してもらいたいんだけど、銃と弓用のマナストーンボックスを作ろうと思う」
「ボックス?」
「そう。マナストーンをセットすると内部で衝撃が加えられて、マナの効果を発動する仕組みのものをさ。弾丸と矢尻のそれぞれを同じようにボックスにセットして、マナを纏わせる」
「すげえな。そんなこと出来んの?」
「たぶんね。ただ、マナとよく馴染む金属で弾丸も矢尻も作らないとまずい。あと俺の場合は、マナの射出で変性しない銃身もだな」
 クロイスは感嘆の声を漏らした。さすがだと思った。マナの扱いをよく知らない自分には、とても思いつかない方法だった。
「クロイス、この後時間はあるか?」
「ん? ああ、あるよ。夜は歓迎会だかで、ちょっと呼ばれてるけど」
「君もか。俺もなんだよ……ちょっと憂鬱だな」
 クロイスは吹き出した。フェリオが高等学院のクラスメイトたちとわいわいやっているところを想像した。あまり馴染めないんだろうなと思った。彼自身は訓練校の連中と気が合いそうに思っていたので、フェリオを少し不憫に思う気持ちもあったが、それより脳裏に浮かんだ光景の可笑しさが勝っていた。少し笑った後、フェリオが不服そうな顔をしていたので、彼は素直に詫びた。
「とにかく、これから“騎士の剣亭”に行こう。セリオルと相談しないと、たぶん俺たちだけじゃ出来ない。幻獣の力も、きっと必要だ」
「セリオルの、合成つったっけ、あれが出来ねーと無理ってことか」
「たぶんね」
 これはなんとしてもセリオルに成功してもらわなければと、ふたりは頷き合って寮を出た。

 夕刻、王城を下がって自宅へ戻る道すがら、アーネスは自問していた。王から下された命令は、不可解だった。
「地のリストレイン、ね……」
 腰に佩いた剣を収めた琥珀色の鞘に手を遣る。これまで使っていた騎士剣用の通常の鞘より、リストレインの鞘は剣にしっくりきているように思えた。鞘走りも速く、抜刀がこれまでより容易だった。
 彼女は初めて会った時のサリナたちのことを思い返した。これまでの人生で、あれほど大きな衝撃を受けたことは無かった。女性でありながら若くして騎士隊長に任命された時にも、あの時ほど心が揺さぶられはしなかった。
 試練の迷宮攻略後、サリナたちは王城で歓待を受けた。国王の来賓として扱われ、非公式ながら国王と食事を共にし、王城の貴賓室で数日間、身体を休めることを許された。その間に王立高等学院や職業訓練校への編入のための手続きが、国王の指示の下、秘密裏に粛々と進められた。
 迷宮攻略の日のみだったが、アーネスも鎧を外してサリナたちと時間を過ごした。本来であればあり得ないことだったが、騎士隊長であるアーネスもサリナたちと同様に扱われたのだった。それについて、国王は「今後のことがあるからな」と述べるに留まった。その時には国王の言葉の意味を量りかねたアーネスだったが、今になってその真意がわかった。
「国王様のお言葉……やっぱりこれが関係しているのかしら」
 リストレインに触れる。琥珀色の金属は柔らかな光を放った。差し込む斜陽に、その光は上手く紛れた。
 貴族街区、グランドティア家。統一戦争の時代より以前から続く、騎士の名門。代々の嫡男たちはいずれも騎士の職を務め、才ある者が多く輩出された。グランドティア家出身の騎士隊長や騎士団長も多い。その分、才無き者はグランドティア家でありながらと謗られることもあった。
 アーネスは自覚していた。彼女には剣の豊かな才能があるわけではない。彼女は努力のひとだった。グランドティア家お抱えの指南役や、王立騎士団の上官らを相手にし、死に物狂いでの修練を重ねた。それでも足りぬ剣の腕を、彼女は風水術で補うことを考えた。
「ただいま」
 屋敷は広い。玄関を入ると広間があり、そこには巨大なシャンデリアが天井から下がっている。アーネスが帰ると、すぐに執事が出迎えた。
「お帰りなさいませ、アーネス様」
「ただいま、フランシス。セシリアはいるかしら?」
「自室にいらっしゃるかと存じますが、アーネス様、お仕事終わりにひと休みなされては?」
 久方ぶりに自宅へ戻ったアーネスを、執事は気遣った。彼はすぐに、アーネスの好きな紅茶を淹れようと準備をしていた。
「ありがとう。でもいいの。セシリアを修練所へ呼んでもらえる?」
「左様でございますか。かしこまりました」
 フランシスは上の階にあるセシリアの部屋へと歩いて行った。
 セシリア・フォン・グランドティア。アーネスの妹にして、剣の天才。アーネスは幼少のころより、セシリアに剣の腕で勝てた試しが無かった。天才でありながら騎士の職に就く気は一切無く、いつか現れるはずの白馬の王子様を待ち続ける乙女。しかしながら、その性格は破天荒で破壊衝動の塊という厄介な人物である。
 アーネスは修練所へ向かった。腕を磨かなければならない。迷宮で目にした、サリナの驚異的な身のこなしが幻影のように、彼女の視界に浮かんでいた。

 休日である。サリナは高等学院の白魔法修法堂に来ていた。カミーラをはじめとするクラスメイトたちが息を潜めてサリナを見つめている。
 肩幅に脚を開いて腕を伸ばし、身体の前で両手を重ね合わせる。ひとから見られていることに緊張を覚えつつ、サリナは呪文の詠唱を開始した。
「天の光、降り注ぐ地の生命を、あまねく潤す恵緑の陽よ――ケアルラ」
 幾何学的な紋様と魔法文字が浮かび上がる。白き清浄な光に包まれた円陣が現れ、回転する。初級魔法よりも多くの文字が空中に踊る。ひとつひとつの文字が明滅し、練り上げられたマナが回復の魔法としての法則を生み出す。
 ふわりと柔らかな、純白の光が生まれた。光はサリナの身体を包む。優しく暖かな癒しの光が、身体の疲れを取り去っていく。サリナは目を閉じた。心まで軽くなるような、それは心地良い感覚だった。
「おお〜〜〜」
 クラスメイトたちが喚声を上げる。拍手も起こった。初級魔法の修得を始めたばかりの彼らにとって、同い年のサリナが中級魔法を詠唱した光景は、驚愕すべきもの以外の何物でもなかった。
 サリナは目を開いた。彼女が手を上げると、癒しの光はその腕を伝って手のひらから飛んだ。光はクラスメイトたちのそれぞれに届き、その身体を包む。
「うわあ。すごいこれ、気持ちいい」
 カミーラが弾んだ声で言った。自分の身体を見下ろし、彼女は白い光を観察した。光はぼんやりとしていて儚げだったが、マナの力は暖かかった。
「サリナ、すごいねこれ!」
 光が消えて、カミーラはサリナに駆け寄った。彼女はサリナの手を取って飛び跳ねた。サリナの中級魔法修得を、自分のように喜んでいるようだった。
「えへへ。ありがとう、カミーラ」
 友人が喜んでくれるのが嬉しかった。編入して数日、サリナはクラスメイトたちにすっかり馴染んでいた。中でもカミーラとは仲が良く、ほとんどの授業で席を並べ、協力して課題をこなしていた。寮はひとり部屋だったが、夜に眠る時以外の時間の多くがカミーラと一緒だった。魔法学に関しては群を抜いた成績を叩き出すサリナに助けてもらいながら、カミーラは役人登用試験の範囲外であるいわゆる一般教養部分での勉強に関して、サリナの手助けをした。
 修法堂を出て学院の庭を並んで歩きながら、カミーラはサリナの顔を窺った。友人の少女は複雑な表情をしていた。嬉しさと満足感だけではなく、そこにはある種に悲壮感のようなものを見て取ることが出来た。
「サリナ、どうしたの?」
 カミーラの心配そうな声に、サリナは顔を上げた。自分が難しい顔をしていたことを自覚した。
「あ、ううん、なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」
「ほんと? 悩みでもあるの?」
 サリナは小さくかぶりを振った。この優しい少女に、余計な心配をかけてはいけないと彼女は考えた。自分たちの秘密――幻獣研究所に関することが露見する可能性はきわめて低い。だから、とセリオルは言った。学院での暮らしに、出来る限り自然に溶け込むことを心がけるようにと。ただでさえ異例の経緯で編入を実現したことが知れているのだ。編入後は通常の学生なのだと周囲に認識させる必要があった。
 しかしサリナはそれを意識すればするほど、自分の思考も動きも固くなってしまうということを自覚してもいた。セリオルは難しいことを言うと、彼女はカミーラに気取られないように考えた。
「なんでもないよ、大丈夫。ちょっとさっきの魔法のマナ構成を考えたんだ」
「そっか。でもほんとすごいよね、サリナ。私と同い年なのに、もう中級だもんねえ」
 カミーラの言葉に、サリナは苦笑いした。サリナにとって、魔法は生まれた時からそばにあったものだった。生活の一部であり、幼いころから祖父にそれを教わるのはごく自然な流れだった。
 それを話すと、それでもやっぱりサリナはすごいよとカミーラは言った。
「だって、ただ魔法が使えるだけじゃないもん。中級の教本を読んだだけですぐに理論を飲み込んで、実践出来るんだもん。才能があるんだよ、やっぱり」
「そうかなあ……」
 そういう風に考えたことの無かったサリナは、照れ隠しに頭を掻いた。
 ふと、サリナは気づいた。カミーラの言葉に含まれた、ごく僅かな羨望の響きに。彼女はカミーラのほうを見た。友人はどことなく寂しそうな表情を浮かべていた。
「サリナに比べて、私は才能無いなあ……」
 カミーラは教室の中でも、白魔法の修得に関して遅れを取っていた。試験に合格して少しずつマナ練成や呪文研究に入っているクラスメイトが増えてきている中、カミーラはいまだ理論構築から先に進めていなかった。
「大丈夫だよ、カミーラ。私も理論構築に一番時間がかかったんだよ」
「ほんと?」
 サリナの言葉に、カミーラはぱっと顔を上げた。少し元気を取り戻したようだった。
「うん。だって難しいんだもん、マナ理論って。最初は全然意味がわかんなかったよ。おじいちゃんが根気良く教えてくれたから、なんとか覚えられたけど。おじいちゃんから教わったんじゃなかったら、私きっと挫折してたなあ」
「そっかあ。サリナもそうだったんだ……」
 顎に手を当て、カミーラは小さく数度頷いた。カミーラに笑顔が戻っていた。
「うん、ありがとう、サリナ。私も頑張るよ!」
 友人の元気な言葉に、サリナも笑みを返した。
 ふたりは寮に戻って来た。玄関で掲示板を確認しながら、カミーラがこの後の予定を聞いてきた。週に2日ある休日のうち、まだ1日目の昼にかかろうかというくらいの時刻である。休日はまだまだ残っている。
「これからちょっと、行くところがあるんだ」
「あ、こないだ言ってたお兄さんのところ?」
 カミーラの言葉に少々照れながら、サリナは答えた。
「うん、そうそう。黒魔法の教本を見せてあげなきゃ」
「そっか。じゃあ明日は時間ある? 買い物に行こうよ」
「あ、うん、わかっ――」
 返事をしかけて、サリナは凍りついた。掲示板に、ある貼り紙を見つけたためだった。
 それは決して大きな貼り紙ではなかった。普通の紙に普通の文字で、ごくさりげなくそれは貼られていた。
「どしたの?」
 カミーラはサリナが目を留めた貼り紙を覗き込んだ。何の変哲も無い、ただの学院行事の知らせだった。
「王立機関見学会のお知らせ……?」
 それは職業訓練校との合同で行われる、学生のための行事だった。将来の就職先として訓練校や学院が推薦出来る、王立の各機関の仕事を見学するというものだ。サリナが言葉を切ってその貼り紙を見つめる理由が、カミーラにはわからなかった。そんなに就職したい機関があるのかな?
 サリナは無意識に呼吸を止めていた。彼女の目はある1点から動くことが出来なくなっていた。
 幻獣研究所。その王立機関への見学会は、数日後に企画されていた。

挿絵