第37話

 教壇で、ベルトラム教師はその長身を徹底的に活用して、熱弁を振るっていた。
「つまり物体の熱が極限まで奪われた状態を絶対零度と呼ぶわけだが、実際にはこの絶対零度の物質というのは存在しないんだよ。なぜなら物体の温度を下げるにはその物体よりも低い温度の別の物体と触れさせるのが一般的な方法だが、絶対零度より低い温度は存在しないわけだからこれは不可能なんだ。ほかには物体を膨張させて温度を下げるという手もあるけど、これも物体を無限に膨らませることは出来ないわけだから、厳密な絶対零度に到達することは不可能だ。これを有限回の操作で物体を絶対零度にすることは不可能だとする定理だが、これは逆説に満ちた定理だ。なぜなら無限回の操作なんて実行され得ないわけだからね」
 何かに憑かれたかのような様子で黒板に文字を書き殴りながら、ベルトラム教師は話し続けた。その間、彼は生徒たちのほうを全く見なかった。
「かつて熱量と質量とは別個のものと考えられていた。熱量保存の法則と質量保存の法則のことだ。しかし近年では熱量と質量は等価だとする考え方が一般的になってきている。と言うより、質量とは熱量の形態のひとつだという説が主流になっているんだ。これは位置エネルギーや運動エネルギーは質量に依存しながら、そこに熱量を発生させるという事実を内包していることから明白だ。しかしここでポイントになるのがさっきの絶対零度で、絶対零度とは熱量が完全にゼロの状態を指すが、物体の膨張をもって絶対零度を実現したと仮定すると、その時その物質の質量はゼロになる。だが膨張によって物質の質量がゼロに変化することは起こり得ない」
 フェリオはベルトラム教師の話を興味深く聞いていた。彼の講義は、現状では魔法やマナの存在を無視した、物質物理と呼ばれる範囲で行われていた。それは魔法にもマナにも頼らずに動力を生み出す蒸気機関にとって、極めて重要な学問だった。
 対して、他の生徒たちはどこか諦めたような表情でクリストフの講義を受けている。フェリオはそれを初めは不思議に思ったが、もう慣れてしまった。
「……すまない、またやってしまったな」
 黒板に叩きつけるようにして文字を書いていた手をはたと止めて、クリストフは生徒たちを顧みた。教師用法衣の裾が揺れる。
「要するに簡単に言えば、絶対零度というのは理論上は存在するが、現実には存在しないということだ」
 ごくシンプルにまとめたクリストフの言葉を、生徒たちはノートに書き留めた。そこまでの過程の部分が面白いのにとフェリオは思ったが、特に何も言いはしなかった。どうやらクリストフの話は難解で、結論を理解してから過程を把握しようとしているらしかった。平易な言葉で過程を解説出来ないことがクリストフは悔しそうだったが、生徒たちがそれでも理解する努力を放棄しないことを、彼は嬉しく思った。
「さて! ではこのバッハマンの定理の展望についてだが――」
 気合を入れ直すかのように腕まくりをして、クリストフは再び黒板を向いた。
 フェリオは充実感を覚えていた。クリストフは力学の分野を扱っていた。蒸気機関の研究に関して、最も重要と言える分野だった。またこの分野の知識は、フェリオが戦闘の際に扱う銃のことを考えるのにも役立った。物理学的知識にマナの知識を加えることで、フェリオの中に先日セリオルと話したマナストーン弾を撃てる銃の理論が構築されていった。
 いくつかのことが、フェリオの脳内で処理されていた。蒸気機関、物理学、マナストーンと銃、幻獣研究所の見学会、そこで迎えるであろう決戦などだった。
「フェリオくん、熱力学とマナ力学の観点からカインナイトの性質を話してもらえるかい?」
「はい」
 席を立って教壇のほうへ、フェリオは進んだ。その間にクリストフがこんなことを言う。
「カインナイトは熱量保存の法則に囚われないマナ物質だ。マナや魔法は全般にそうだが、熱量や質量の保存からかけ離れた事象だからね。中でもカインナイトは、さっき話した絶対零度を実現する可能性を秘めた唯一の物質なんだ」
 フェリオが教壇に来たので、クリストフは彼を促して登壇させた。フェリオは教壇に両手を置き、クラスメイトたちに向けて話し始めた。
「カインナイトは水のマナを内包する鉱石です。精製すると、通常の状態で氷点、つまりゼロ度になります。ただその瞬間から、周囲の熱を奪い始めます。奪われた熱は鉱石内のマナによって処理され、完全にゼロになります。これだけだと極めて危険な物質ということになりますが、カインナイトの質量が処理できる熱量を制限するため、精製されたカインナイトが無限に熱を奪い続けるということはなく――」
 話しながら、フェリオは考えていた。幻獣研究所の見学会は、明日に迫っている。今日中に、マナストーンの銃を完成させなければならない。

 幻獣たちはクリスタルの中から、セリオル・ラックスターのことを観察していた。
 セリオル・ラックスターとフェリオ・スピンフォワード。ふたりがたったひと晩で造り上げた装置は、製作者たちによってマナ・シンセサイザーと命名された。ひとがひとり入れるくらいの大きさの、蓋と覗き窓付きのずん胴のような機械に、クリスタルをセットしてそのマナを伝えるための装置が取り付けられたものである。クリスタルは同時に3つまでセット出来るようだった。
 サラマンダー、イクシオン、アシュラウルのクリスタルがセットされていた。セリオルはクリスタルに手を翳し、幻獣たちのマナの流れを操作しようとしていた。
(人間は、すごいね)
 外には出ない幻獣たちのみの会話で、サラマンダーは呟いた。イクシオンとアシュラウルは、息を吐いたような声で同意を示した。
(昔は、あんなにも無力だったのに)
(……人間の進歩は凄まじいな。これほど精密なマナの操作が出来るようになるとは)
 イクシオンは感嘆と自嘲のこもった口調で言った。太古の昔から、幻獣たちはマナを扱う技術を磨きなどしてこなかった。彼らは不変の存在だった。進化も無く、退化も無い。世界とマナのバランスを保つ調停者としての役割を、彼らはただ担うのみだった。
(ウィルムの時代より、更に格段の進歩を遂げている)
 アシュラウルの声には警戒の色すら含まれていた。サラマンダーとイクシオンも、その認識は同様だった。
 統一戦争の時代、リプトバーグや試練の迷宮の建造に、幻獣たちは力を貸した。当時天才と呼ばれたイリアス王国の宰相、リヴ・フォン・カンナビヒは、幻獣たちの力を活用してヴァルドー皇国に対抗する術を見出そうとしたからだった。マナと世界樹の危機に、幻獣たちは惜しみなく人間に力を与えた。
 しかし、と幻獣たちは自問した。それは果たして、本当に正しい決断だっただろうか。
 統一戦争が終結し、パスゲア・フォン・ヴァルドーの野望は潰えた。世界樹とマナは安全を保たれたかに思えた。だが統一戦争の経験が、人間にマナと幻獣の力を研究しようとする動きを生ませてしまった。それまで、マナとは神話と伝承の中より生まれ出で、魔法というかたちをとってのみ人々に影響するものでしかなった。人間は神なる幻獣の意志と自然の恵みに感謝を捧げ、世界を改変するような力を生み出そうとはしなかった。
 時は流れ、学問は進化した。数学や物理学といった、世界の成り立ちを科学的に究明しようとする分野が豊穣の時を迎える。学者たちの目は、そこからマナにも向かった。
 マナとは、科学で解明出来ない力だった。何も無いところから炎が、水が、雷が生まれる。それは学問の世界で理由付けすることが出来ない事象だった。
 そこで学者たちは、マナを科学的に捉えることを考えた。そうして生まれたのが、マナ物理学やマナ力学など、マナ科学もしくは魔法科学と呼ばれる学問体系である。
 マナ・シンセサイザーは、その粋であると言えた。これまでこの世界に、幻獣の力を直接用いることを実現した者はいなかった。セリオル・ラックスターは、それを実現させようとしている。
「これが出来れば、きっとゼノアを止めるための大きな力になるはず……」
 誰に向けることも無く、セリオルはひとりごちた。真剣なまなざしで、彼はシンセサイザーを操作した。
 幻獣たちは警戒していた。統一戦争で人間に力を与えたことが、今日のゼノアを生んだのではないかと、彼らは考えていた。
 セリオルやフェリオがマナと幻獣を正しきことに使おうとする者の結晶であるとするなら、ゼノアはその真逆、悪しきことに用いようとする者の正統後継者であると言えた。だが統一戦争を人間たちの手だけで終結させていれば、マナや幻獣を研究しようとする人間たちの動きも生まれず、ゼノアは誕生しなかったかもしれないと、幻獣たちは思うのだった。
(――やめよう。昔を振り返っても仕方が無いよ)
 クリスタルの中でかぶりを振ったつもりで、サラマンダーは呟いた。クリスタルと向き合うセリオルに、彼の視線は注がれていた。
(そうだな。今はゼノアとハデスを止めるため、我々に出来ることをするまでだ)
(ああ。我らは決めたのだから。この者たちの力となり、世界の破滅を止めることを)
 セリオルの傍らには、サリナが持ってきた中級黒魔法の教本があった。いくつもの付箋が貼られている。
 シンセサイザーの中では、鉱石が精製され、変形を始めていた。

 職業訓練校の野外演習。革細工職人としての技術の一環で、狩りの授業だった。クロイスは王都近くの草原に出ていた。
 教師からは数人のグループで行動するようにとの指示が出されていたが、クロイスは早々に自分のグループメンバーを撹乱して単独行動をとっていた。彼には試したいことがあったからだ。
 飛び出してきたのは野生動物ではなく、トカゲの魔物だった。巨大化した褐色のトカゲが、通常ではありえない巨大な牙と鋭い爪を振りかざして襲いかかった。
 クロイスは短剣を素早く抜き、斬りつけた。王都で新調した、切れ味の鋭い短剣である。刃は魔物の皮膚を切り裂いた。血を流し、悲鳴をあげて魔物はもんどりうった。
 距離をとって、クロイスは持参した弓に矢をつがえ、引き絞った。ひゅんと風切り音が響き、矢が1本、正確に魔物へと飛ぶ。紺碧に煌く光の粒を纏って。
 矢は魔物の背に突き刺さった。同時に水のマナが発動し、矢から生まれた氷柱が魔物を襲う。魔物はか細い声を上げて動かなくなった。
「おお、すげえ。成功じゃん」
 マナストーンボックスは完璧な性能を発揮した。ボックスはクロイスの矢筒にセットされ、マナストーンが発動すると矢筒内の矢は自動的にそのマナを纏った。マナストーンは同時に3つまでセット可能で、一度セットしたマナストーンはマナを放出し尽くしてしまうまでは矢にマナを送り続ける。
 クロイスは矢筒を背中から下ろして観察した。底にマナストーンボックスが取り付けられている。金属製の箱は無骨なつくりだったが、クロイスは自分にもマナを扱った攻撃が可能になったことが嬉しく、その箱が宝石であるかのように思えた。
「へへ。いいな、これ。俺も結構才能あるんじゃね?」
 背中に衝撃が走った。気づいた時には地面に倒れていた。
 攻撃を受けた認識が遅れた。それは魔物によるものだった。鋭い痛みが背中に走る。クロイスは激痛に叫びながら身を翻し、立ち上がろうとした。
 鳥の魔物だった。鉤爪で攻撃をしかけてきたらしい。矢筒も下ろしていたため、彼の背中はがら空きだった。そこを突かれた。裂傷から血が流れるのがわかる。クロイスは歯軋りして短剣を構えた。
 鳥は素早く宙を舞った。攻撃を仕掛けようと接近し、すぐに離れた。クロイスは攻撃を回避しながら反撃を試みるが、背中の痛みが邪魔していつもの敏捷さを発揮出来なかった。魔物は大して強くはない。いつもなら難なく撃退出来る相手だったが、一瞬の油断が危機を招いた。
「ちくしょう!」
 クロイスは弓を構えた。しかし宙を自在に舞う魔物に、狙いはなかなか定まらない。彼は自覚していなかった。両手を弓と矢でふさいでしまっている。そして彼は素早く動くための瞬発力を、背中の痛みに奪われている。
 魔物が急降下した。その速度はクロイスの予想を超えていた。瞬間、魔物の鉤爪がクロイスの眼前に迫る。
「ストリング!」
 糸のようなものが魔物に絡みついた。魔物の動きが止まる。空中で翼を動かし、浮いたままで停止した。クロイスは止めていた息を吐き出した。弓を下ろす。膝から力が抜けた。
「おいコラガキんちょ。何やられてやがる」
 男の声だった。足音が近づいてくる。クロイスは身体の後ろで両手を草の上について、男が来るのを待った。背中の痛みが引かない。
「うっせえよ、おっさん。来るならもっと早く来いよな」
「んだとコラてめえ、誰がおっさんだコラ。次言ったらマジでぶっ飛ばすつっただろがコラ」
「んなこと忘れた」
「てめえおいコラてめえ」
 かさりと音を立てて、何かがクロイスの傍らに落ちた。見ると、透明な青い液体の入った瓶だった。セリオルの薬瓶。中身はポーションだろう。クロイスは瓶を開け、飲み干した。背中の痛みが和らぐ。
 膝に力を入れて、クロイスは立ち上がった。すぐそばに、赤毛の青年が立っていた。
「よお。無事か?」
 カインはにやにやと笑い顔でクロイスを見ていた。魔物はカインの上でくるくると回っている。カインは左手の人差し指を空へ向け、円を描くように動かしていた。どうやら魔物はその指と同じ動きをとっているようだった。
「なんだよ、何してんだそれ」
「ん? これか」
 人差し指を振って、カインは魔物を自分の肩に止まらせた。魔物は大人しかった。
「ストリングつってな、獣使いの能力さ。魔物をあやつる力だ」
「お前そんなこと出来たのか」
 驚いた口調のクロイスに、カインは呵々と笑った。
「ついこないだ出来るようになった。というかマスターした。全部の魔物をあやつれるわけじゃねえけどな」
 カインは魔物を飛び立たせた。獣ノ鎖が魔物に巻き付く。魔物は青白い炎となって、獣ノ箱に入った。
「しかしクロイスくん、油断したねえ。あんなのにやられそうになってるとは。いやいや」
「う、うっせえ!」
「はっはっは。でもなんか新しい力も手に入れたみてえじゃねえの」
「何だよ、見てたのか」
「なかなかいいと思うぜ、あれは」
 からからと笑うカインに、クロイスは顔を向けなかった。風が吹いて草が揺れる。さらさらと心地良い音。
「……助かったよ」
「お?」
 小さく言ったクロイスに、カインは意外そうな声を上げた。彼はにやにやしながら、クロイスの頭に手を置いた。訓練校の制服なので、クロイスは帽子をかぶっていない。カインは帽子の抵抗を受けることなく、少年の髪をくしゃくしゃとやった。
「くくく。素直になったじゃねえの、クロイスくん。ほれ言ってみ、ありがとうって」
「う、うっせえこのバカ! 誰が言うかバカ!」
 大笑いするカイン。クロイスは不貞腐れたような表情だった。そこに訓練校の生徒の声が聞こえた。クロイスを捜してやって来たようだった。クラスメイトの姿が見え、クロイスは大きく手を振った。

 王立高等学院、フェルレル教室。サリナは緊張していた。
「白魔法は癒しや護りの魔法。対して黒魔法は、攻撃や破壊を旨とする術。このふたつは正反対の性質を持つがゆえに、その構成やマナの練成方法も正反対よ。白魔法は自らの内なるマナを練成することで世界樹のマナと共鳴させ、術を発動する。黒魔法はその反対、世界樹のマナを自らに取り込むことで自身のマナと共鳴させる。いずれにしても、重要なのは世界樹のマナをいかに捉えるかということね」
 カルラはマナの練成について、黒板に書いた文字や図を指示棒で指しながら話した。彼女のよく響く声は、生徒たちに程良い緊張感を与えた。
「では具体的に、マナを練成する方法を考えていきましょう。とは言っても、厳密にはマナ練成の方法は術者ひとりひとりで異なるの。総合的に見ればさっき話したとおりだけど、マナや世界樹と共鳴する感覚はひと通りじゃないから。ひとに限らず、生物は皆マナを内包している。だから誰でも、世界樹と共鳴することが出来るの。問題はその深度ね。世界樹と深く共鳴出来る者ほど、高度な魔法を操ることが出来るようになるわ」
 カルラの声が続く。しかし、失礼だとは認識しつつも、サリナはカルラの講義が耳に入らずにいた。クラスメイトたちの緊張とは全く違う理由で、彼女は緊張していた。
 幻獣研究所への見学会が、明日に迫っていた。奇妙な浮遊感がサリナを覆っていた。昨夜からずっと、何かに急かされているような感覚があった。心が落ち着かない。神経が昂ぶっている。五感で得る全ての刺激が、彼女の心に波を立てた。
 講義を受けていても、こんなことをしていていいのだろうかという疑問が湧き上がって消えない。黒魔法の教本を持って行った時、セリオルはそれでも普通に過ごしているようにと言った。サリナは不安だった。セリオルの言葉を信じようとするものの、やはり突入前日には武術や魔法の腕を磨いたほうがいいのではと思えてくる。
「サリナ、同世代の習熟者として、あなたの共鳴方法を皆に紹介してもらえるかしら?」
 名を呼ばれて、卒然とサリナは顔を上げた。頭の片隅に入ってきていた講義内容を、彼女は急いで脳内で組み立てた。
「あ、は、はい」
 サリナは慌てて立ち上がった。カルラを見る。教師は静かにサリナを見つめていた。
「どうしたの? サリナ」
「あ、いえ、あの……」
 若干の混乱を来たした頭を振って、サリナは落ち着こうとした。鼓動が速い。妙な汗が出てくる感覚。その様子に、カルラが小さく首を傾げた。
「サリナ、今日はどうしたの。集中出来ていないみたいだけど、大丈夫?」
 カルラは心配していた。編入からこれまでの講義で、サリナが集中を欠いたことは皆無だった。彼女は熱心な生徒であり、カルラにとっては期待の星だった。
「はい……すみません」
 立ったまま、サリナは詫びた。カミーラもどうしたのかと、心配そうな顔でサリナを見上げている。他のクラスメイトたちも同様だった。
「サリナ、今日ずっと落ち着かない感じだよね……」
 カミーラが小さい声で言った。サリナはちらりとカミーラのほうを窺って、謝るように目を伏せた。心配かけてごめんね、という意味だった。
「大丈夫です。集中していなくてすみません」
 サリナはぺこりと頭を下げた。顔を上げて、彼女はカルラの質問に答えた。
「私は、マナを練る時にあまり共鳴しようと意識することがありません。小さい時からずっと祖父から魔法を教わっていたので、それが自然なことになっていて……」
「そう、なるほど。ではサリナ、練成したマナを呪文に乗せて発動する時に、何か意識することはある?」
「呪文に乗せて発動する時……」
 握った手を顎に当てて、サリナは短く考えた。普段は意識することも無く使っている魔法。マナを練成して、呪文を唱え、マナと世界を繋ぐ。すると魔法の効果が発動し、例えば癒しの光が生まれる。
「自分の中のマナと、世界を繋ぐような感覚、でしょうか」
 サリナのその言葉に、カルラは大きく頷いた。
「そうね。まさにその感覚が重要なの。自分のマナと世界を繋いで、マナを世界に送り出すという意識。魔法の発動の時に現れる円陣や魔法文字は、術者の意識がマナを通して世界に投影されているの。あの文字は術者の意識なの。そこの感覚を磨かないと、魔法は上達しないわ」
 カルラはそこで言葉を切って、再びサリナを見た。
「ありがとう、サリナ。座っていいわよ」
「はい」
 サリナは椅子に腰を下ろした。カミーラが心配そうにこちらを見ているのを感じたが、彼女はそちらを向かなかった。
「自分と世界を繋ぐ感覚は、もちろん理論もあるけれど、最も効果があるのは何よりも実践。つまり結論としては、練習が上達への最短の道ね」
 そう締めくくって、カルラは講義を終えた。明日は学院行事――すなわち王立機関見学会があるため、明後日に修法堂での練習を行うとの予告がされた。
 クラスメイトたちが教室を出て行く中、サリナは教材をゆっくりと片付けていた。席を立つのが、なんとなく躊躇われた。
「サリナ、なにかあったの?」
 教材を片付けたカミーラが声をかけてきた。心配そうな声だった。サリナはカミーラの顔を見て、微笑んで見せた。安心させようとしたためだった。
「うん、大丈夫。ちょっとね、考えごとをしてたんだ。講義中なのに、だめだよね」
 しかしサリナの声と表情に力は無く、カミーラを安心させることは出来なかった。級友の少女は更に心配さを増した顔で、サリナのそばに来た。
「ねえ、サリナ、何か悩んでることでもあるんじゃない?」
「え……どうして?」
 動揺がカミーラに伝わらないようにと、サリナは注意した。表情を変えまい、声の調子を落とすまいと。
「だって、よく考えごとしてるもの。私、いつもサリナと一緒にいるけど、よくサリナ、何かを考えてるよね?」
 サリナは何も言えなかった。この心優しい少女に、本当のことを打ち明けられないのが辛かった。それに、明日になればもはやカミーラを話すことすら出来なくなる。幻獣研究所に入り込んで、恐らく命を賭した戦いになる。
 サリナは不安だった。仲間と一緒にいたかった。作戦の性質上、それが望めないことはわかっていた。覚悟もしていたつもりだった。しかしいざその時を迎えるとなると、急激に不安感が彼女を支配した。セリオルにそばにいてほしい。彼の絶対的な安心感が欲しかった。リストレインやクリスタルがそばに無いのも不安だった。セリオルは今日の間に部屋に届くと言っていたが、安心出来なかった。
 我知らず、涙がこぼれた。自分と父のために協力してくれる仲間たちの前では、サリナは決して弱いところを見せまいと思っていた。自分が不安を口にすることが、仲間に申し訳ないからだった。それに、仲間たちといれば不安感に襲われることも無かった。
 だが、今は違った。彼女は学院の中で、ひとりだった。
「サリナ、ねえ、大丈夫?」
 柔らかい手が、サリナの肩に置かれた。カミーラの手は温かかった。
 嗚咽が漏れた。心に溜まった不安が、堰を切ったように溢れ出した。幻獣研究所へ、無事に侵入出来るだろうか。ちゃんとセリオルたちを呼び入れる手引きが出来るだろうか。父を助け出せるだろうか。ゼノアに勝てるだろうか。皆、生きて戻って来れるだろうか。
 サリナが泣く理由はわからなくても、カミーラは黙ってその肩を抱いてやった。彼女から見れば天才的に優れた白魔導師のサリナも、やはりただの少女なのだ。国王の推薦を受けて編入してきたという経緯を考えれば、サリナがこれまでに経てきた険しい道のりが想像された。サリナはその苦しかったはずの経験を語りはしなかった。そんなサリナを、カミーラは尊敬していた。
「サリナ」
 カミーラは小さく、少女の名を呼んだ。サリナはまだ小さくしゃくり上げている。
「私には、サリナの大変さはわからないけど、きっと大丈夫だよ。だって、サリナは凄いもん。白魔法専門のフェルレル教室で、1番の術者なんだよ。サリナは頑張ってきたんだよね。大変だったよね」
 何度も何度も、サリナは頷いた。嗚咽の中に感謝の言葉が混じった。
「落ち着いたら、話を聞かせて。今日じゃなくてもいいよ。サリナの悩みが解決するように、私も力になりたい。フェルレル教室は、皆サリナの味方だからね。私が1番の味方だけど」
 サリナは顔を上げた。カミーラは微笑んでいた。この学院でこの少女と出会えたことを、サリナは感謝した。心が救われる思いだった。
「サリナ」
 別の声がサリナを呼んだ。カルラ・フェルレル教師だった。彼女は一旦教室を出たものの、サリナのことが気になって戻って来たのだった。
「はい、先生」
 フェルレル教師は怜悧な瞳をサリナに向けた。ひっつめ髪で、知性に満ちた美貌。一見冷たそうに見えるその顔に、微笑が浮かんだ。
「いいこと、サリナ。優れた魔導師は、常に集中力を欠かさないわ。なぜなら、心の乱れはマナを乱すから。マナが乱れれば、魔導師は自分の力を十分に発揮出来ない。だからね、サリナ。深呼吸をして、心を落ち着けなさい。それが、今のあなたへの光となるはずよ」
 カルラは屈み込んで、涙に濡れるサリナの瞳を見つめた。静かな時が流れた。サリナは、少しずつ冷静さを取り戻していった。そうだ、と彼女は自分に言い聞かせた。仲間たちを信頼しよう。セリオルを、カインを、フェリオを、クロイスを、信じよう。彼らならきっと大丈夫だ。王都で、仲間たちはそれぞれに力を高めようとしているようだった。私も、私に今出来ることをしよう。それが、仲間たちへの感謝に繋がるはずだ。
「はい。ありがとうございます、カルラ先生」
 カルラは柔らかく微笑んだ。彼女はサリナの頭を撫で、ヒールの音を響かせて教室を出て行った。頑張りなさい。そう言われたように、サリナは思った。
「ね、サリナ。カフェに行こうよ。甘いもの食べよ」
 背中をぽんぽんと叩いて、カミーラが立ち上がった。涙を拭いて、サリナも立ち上がった。
「うん、いこいこ!」
 校舎を出て庭に出ると、フェリオとクロイスがいた。どうやらサリナが出てくるのを待っていたらしかった。初対面のカミーラとふたりが挨拶を交わした。サリナ同様、国王からの推薦で編入したと知って、カミーラが驚きの声を上げた。
 4人は揃ってカフェへ向かった。そこでサリナは、クロイスが怪我を負った話を聞いた。傷は既に癒えていたが、その話の中でのカインとのやりとりを聞いて、彼女は大いに笑った。
 その夜、サリナ、フェリオ、クロイスの3人は密かに集まって作戦を話し合った。明日、彼女らは幻獣研究所へ入る。

挿絵