第38話

 王立高等学院と王立職業訓練校。ふたつの学校の生徒たちが暮らす寮の中の広い庭に、王立機関見学会の参加者たちが集合していた。全校の生徒というわけではなく、高等学院からはサリナやフェリオの学年、職業訓練校からはクロイスの学年が招集されていた。
 王立機関見学会の朝である。学生たちは今日は制服ではなく、思い思いの私服に身を包んでいた。見学する機関によっては、衣服が汚れる可能性もあるためだった。
 整然と並ぶ生徒たちの中で、サリナは両手を握りしめて緊張していた。いつもの武道着に、真紅のリストレイン。黒鳳棍は三節棍の形態で、腰の帯に結わえてある。今日は晴天である。空は高く、雲が白い。何の変哲も無い、平和な空。同じように整列しているはずのフェリオとクロイスのことを、サリナは考えた。ふたりも、自分と同じ気持ちでいるのだろうか。
「ねえサリナ、どうしたのその服」
 潜めた声で話しかけてきたのは、隣りに並ぶカミーラだった。彼女はワンピースを着ていた。サリナとは対照的な服だった。
「え? これはあの、その……」
 一瞬前まで考えていたことがすぐには頭から離れなくて、サリナは戸惑った。今、自分はどんな顔をしていただろう。
「どこか汚れがつくところでも見学するの?」
 カミーラは不思議そうな顔だった。
「あ、うん、そうそうそう。見学のお知らせに汚れてもいい服って書いてあったから」
「ふうん……」
 釈然としない様子で、しかしカミーラはそれ以上は追及しなかった。
「よーしそれでは、諸君!」
 その学者らしい風貌からは想像出来ないほどの大きな声で、クリストフ・ベルトラム教師が学生たちに呼びかけた。どうやら彼が今日の見学会を取り仕切るらしい。彼以外にも、カルラやその他の教師らが学生たちの前に並んで立っている。教師たちもまた、いつもの教師用法衣とは違って、それぞれの私服らしい服装だった。
「これより、王立高等学院、王立職業訓練校合同での、王立機関見学会を開始する。各機関、1名ずつの教師が同行する。手元の案内を見て、見学したい機関へ同行する教師の元へ集合したまえ。なお、見学の途中で他の機関へ移動することも出来る。その際は同行している教師に申し出て移動すること。各機関では受付の方がいらっしゃるから途中で合流することは問題無い。何か質問のある者は?」
 かくしてサリナたちは幻獣研究所へ向けて出発した。

 セリオルはマナ・シンセサイザーから合成した武器を取り出した。薬瓶を割るために使う、投擲用ナイフの類だった。その他に完成させられたのは、クロイスが使うのであろう短剣が2本のみだった。シンセサイザー自体が使用可能になって間もないため、今日までにそれだけが限界だった。
「おっ、出来たか?」
 カインは興味津々で、セリオルのすることを眺めていた。部屋で椅子に座っていた彼は、勢いをつけて立ち上がり、セリオルのそばへ行った。
「ええ、なんとか。あまり大したものは作れませんでしたが……まあ、こんなものでしょう」
 クリスタルをシンセサイザーから取り外してリストレインへ戻し、セリオルは汗を拭った。慣れない作業を続けたため、やや疲れが出ていた。彼はエーテルを1本飲んだ。どうやらマナ・シンセサイザーの操作にはマナを消費するらしかった。
「なあなあ、俺の鞭もそのうち作れるようになるのか?」
 ひとの背丈ほどもある釜を点検でもするかのようにつぶさに観察しながら、カインは質問した。目新しいおもちゃを見る少年のような顔だった。
「そうですね。強靭な革が手に入ったら、出来ると思います。あとは私の杖を強化するために、地のクリスタルの力がほしいところですが……それは今言っても仕方ないですね」
 セリオルは小さく溜め息をついた。
「アーネスか」
 そう言ったカインに、セリオルは頷いて見せた。カインはベッドに腰掛けて脚を投げ出した。
「あいつが地のリバレーターだなんてなあ」
「国王様はわかっていたんでしょうか」
 カインは首を傾げた。
「どうなんだろうな。アーネスにリストレインに触ってみろって言ってたんだから、わかってたのかもな」
 眼鏡の位置を直して、セリオルは思案しているようだった。
「本来、地のリストレインは王都の騎士家が所有していたはずです。それがグランドティア家だったかどうかはわかりませんが」
「え? じゃあなんで王様は自分のものを授けるような言い方したんだ?」
「そこの真意が、私にもわからないんです。もしかしたら以前、偶然なのか何なのか、アーネスがリストレインに触れる機会があったのかもしれませんね。それを国王様は知っていた」
「今まであんま深く考えなかったけど、じゃあなんであのタイミングで、俺たちの目の前でリストレインに触らせたんだ?」
 セリオルは目を閉じてかぶりを振った。彼は肩をすくめながらカインを見た。
「わかりません。あの方のお考えになることは、しばしば我々の想像を超える」
 カインはからからと笑った。愉快そうだった。
「あんたにわかんねえんじゃ、俺らの誰にもわかんねえな」
 セリオルは苦笑しながらマナ・シンセサイザーを分解した。驚くべき効果を生み出す魔法の釜は、いとも簡単にひとが運べる大きさに小分けされた。
「行くか?」
 カインが尋ねた。悪戯っぽい光が瞳に宿っていた。戦いを前に、徐々に高揚してきているようだった。
「ええ、行きましょう」
 セリオルが立ち上がった。カインとは反対に、彼はやはり至って冷静沈着だった。しかし眼鏡の奥の瞳は、鋭い光を宿している。その見つめる先には、旧友であり、そして今や最大の敵となった男の姿があった。

 王都イリアスは5つの街区に分けられる。省庁街区、庶民街区、貴族街区、商業街区、そして学究街区の5つ。各街区はそれぞれに特徴的な街並みを形成していたが、学究街区は中でも特に奇妙な街だった。
 王城を中心とするイリアスにあって、省庁街区は中心付近に帯状に広がる街区である。そのため大きな建物が並んでもあまり違和感は無かった。中心に向かって徐々に高まる山並みのようにも見えた。もちろん、頂きが王城である。
 それに対して、学究街区は言うなれば、頂き無き山脈のようだった。学校などの教育機関や学術的な研究を行う施設が集まっているため、必然建物は大きくなる。しかし際立って背の高い建物があるわけではないので、そのような印象を与えるのだった。美術館や博物館も存在する。それらの建物は美しく芸術的に調和のとれた外観をしていた。
 サリナと一緒に、カミーラ、フェリオ、クロイスの3人が歩いていた。フェリオとクロイスは大きめの鞄を持っていた。そこには銃や弓が入っているのだろうとサリナは思ったが、ふたりはカミーラには、この後で向かう機関での実験に使うものだと説明した。物理学部と革細工教室のふたりが幻獣研究所に興味を持っていることについてカミーラは不思議がったが、フェリオがマナの力を蒸気機関に活かすヒントがあるかもしれないと説明すると、彼についてはすんなり納得した。クロイスは上手い言い訳が出来なかったが、狩りをする時の武器のアイデアを得るためだと、フェリオがあながち嘘でもない補足をして難を逃れた。
 サリナは、幻獣研究所に入ったらどうやってカミーラと別れようかと気が気ではなかった。いざとなれば消失と消音の魔法を使えばなんとかなるとは思うものの、カミーラ相手にそのような手は使いたくなかった。純粋に自分と行動したいと思ってくれるカミーラが、サリナは嬉しかった。フェリオとクロイスも時折困ったような表情を僅かに浮かべるものの、やはり別行動にしようとは言えないでいた。
「ねえサリナ、研究所に入ったらさ、この幻獣の像があるっていう広間に行こうよ」
「あ、うん、そうだね」
 見学会の案内を手に遠足気分ではしゃぐカミーラに、サリナは困惑した。とてもこれから、父を助けるための戦いに向かうのだとは言えなかった。
「なあ、どうすんだあの子」
 クロイスが小声でフェリオに言った。ふたりはサリナたちの後ろを歩いているため、カミーラに気取られてはいない。サリナがちらりとこちらを窺ったのがわかったが、クロイスもフェリオもどうすることも出来なかった。
「やれやれ、参ったな」
 フェリオは小さく吐息をついた。最後は撒くしかないなと、彼は考えた。気の毒だけれど。
 そこへ、ごく小さな青白い綿のようなものがふわふわと飛んできた。フェリオはそれに気付き、さっと腕を伸ばしてその綿のようなものを手の平へ招き入れた。
「なんだ?」
 クロイスが覗き込んだ。それは青白いマッチの火のような、虫のような、よくわからないものだった。
「スペクタクルズ・フライだ。兄さんが連絡用に寄越したんだな」
「そいつがなんとかフライか! 俺を偵察したっていう」
「はは。そんなこともあったな」
 なんとも言えない顔でスペクタクルズ・フライを見つめるクロイスをよそに、フェリオはその青白い虫を耳元へやった。
「――兄さんたちもすぐ近くで待機してるらしい。東側の通用口付近だそうだ」
「わかった」
 頷いて、クロイスは帽子をぐっと深くかぶった。彼も緊張しているらしい。
「そういえばマナストーンはどうだった? 試してみたか?」
 フェリオの質問に、クロイスは顔を上げた。
「ああ。すげーいいよ、あれ。もったいねえから乱用はしねーけど、いざという時は使えるな」
「そうか、よかった」
 フェリオは満足そうだった。クロイスとふたりで製作したものだったが、フェリオのマナ物理学の知識が大いに役立ったためだった。彼は技術者として、それを誇らしく思った。
「フェリオのほうはどうなんだよ? 銃、完成したのか?」
 そう言うクロイスに、フェリオはにやりと笑って見せた。
「ああ、いい銃が出来たよ。効果は見てのお楽しみだ」
「ほほー。いいな、楽しみだ」
 1歩1歩、4人は幻獣研究所へ向けて進んだ。周囲には他の学生たちもいる。何も知らずに研究所内へ入る学生たちを、戦いに巻き込むわけにはいかない。サリナたちは研究所へ向かう学生たちの中でも先行した一団だった。
「幻獣研究所が近づいたら、走るぞ。他の連中より早く入って、入口を封鎖する」
「そうだな、わかった」
 フェリオとクロイスはそう示し合わせた。サリナはひっきりなしに話しかけてくるカミーラと平静を装って会話しているが、ふたりは駆け出す時にサリナに声をかけるつもりだった。
 そのサリナはというと、さきほどからのカミーラとの会話は完全に上の空だった。彼女の頭の中は、父のことやゼノアのことでいっぱいだった。さきほどから、後ろでフェリオとクロイスが作戦立てのようなことをしているのも気になった。
「ねえサリナ、ほんとにどうしたの? 今日何か、落ち着かない感じだね」
 カミーラの言葉が辛かった。出来ることなら、普通の学生として見学会に参加したかった。その思いが、サリナの心を乱した。
「うん、ごめんね、ちょっと……」
 口ごもるサリナに、カミーラはただ頷いた。彼女はサリナから視線を外して、前を見た。
「いいよ、大丈夫。ゆっくり見ようね」
 研究所の中を、という意味だろう。カミーラはサリナがまた何かに悩んでいるのだと思ったらしかった。サリナはその勘違いに心を痛めながらも、カミーラの優しさに感謝した。
「うん、ありがとう、カミーラ」
 カミーラはにっこりとほほ笑んだ。
 サリナは歩きながら、そっと自分の胸に手を当てた。心臓が、いつもより強く打っている気がした。特別速くはない。その鼓動は、まるで主に言い聞かせているようだった。必ず成し遂げるんだ、と。
 胸に当てた手を強く握る。心臓から手へ、力が通った。それは全身に広がって、サリナは身体が熱くなるのを感じた。足を進めるたび、不思議と心は落ち着き、身体の熱は高まっていった。
 やがて幻獣研究所の見学を希望する学生たちは引率の教師に連れられて、目的地の研究所に到着した。
 サリナたちは門の前に立った。広い敷地に建つ、いくつかの石造りの建物。やや黄色がかった、白に近い色の石材。それらが幻獣研究所の施設らしい。入口の門は鉄製のようだった。
 その両脇に、大きな石像が立っていた。片方は翼を広げた鳥。逆立った鶏冠が揺らめく炎のようだった。尾羽が長く、繊細で美しい鳥である。嘴はどこか女性的な丸みを帯びた優美なつくりで、彫り込まれた両目は石でありながら慈愛を感じさせる。またもう一方は、こちらも翼を広げているが、鳥ではなく竜だった。地を踏みしめる力強い足に鋭い鉤爪を持つ腕、そして重厚な翼に、獰猛な牙を生やして開かれた口。強大な力を感じさせる竜。
「幻獣王バハムートと、幻獣神フェニックス……」
 カミーラが呟いた。その2柱の幻獣は、エリュス・イリアに住む者なら誰でも知っている、創世物語や神話に登場する伝説の幻獣だった。
「天空の覇王と、偉大なる太陽神、か」
 フェリオが言った。
「実在するのかな」
 クロイスとサリナは何も言わなかった。身近に碧玉の座の幻獣たちがいるが、バハムートやフェニックスは恐らく玉髄の座の幻獣なのだろう。それは神話や伝説の中に登場するもので、彼らにとっても現実感の無い存在だった。
 でも、とサリナは考える。ゼノアにはハデスがついている。ハデスは玉髄の座の幻獣だという。神話などの中でその名を聞いたことは無かったが、もしかしたらバハムートやフェニックスと同じような位の幻獣なのかもしれない。
 そんな存在に戦いを挑んで、勝てるのだろうか?
 サリナは身震いした。良くない想像が頭を駆け巡る。彼女は強く、頭を振った。幻影を必死で追い出そうとした。
 心配そうにその様子を見つめるカミーラのわきを、フェリオが通った。彼はサリナの肩に手を置いた。
「大丈夫だ、サリナ。心配しなくていい。みんながいる」
 彼の声は低く、小さかった。しかしサリナの心に、まっすぐに届いた。その声は雲の間から差し込む太陽の光のように、サリナの心を照らした。
「うん……」
 頷いて、サリナは顔を上げた。4人は研究所の門をくぐった。
 緑豊かな庭園の小道を、学生たちは歩いた。石造りの建物群の中で最も大きな建物に、小道は続いていた。その建物が、どうやら幻獣研究所の本庁であるらしい。引率の教師がその建物を指さして何か説明している。
 徐々に徐々に、サリナの鼓動は高まっていった。足を進めるごとに大きくなる、幻獣研究所の建物。あそこにエルンストがいる。そしてゼノアがいるのだ。カミーラが話しかけるのをやめてしまうほど、サリナがその身に纏う気迫は勢いを増していた。
「行くぞ」
 間もなく入口に着くというところで、後ろにいたフェリオが声を掛け、クロイスとふたりで駆け出した。それを瞬時に察知して、サリナも地を蹴った。置いてけぼりを食ったカミーラが3人を呼ぶ声が聞こえる。しかしサリナは、もう振り向かなかった。
 研究所の入口が眼前に迫った、その時だった。
 音も無く、入口の扉が開いた。サリナたちはたたらを踏んで停止した。
「やあ、学生諸君。ようこそ」
 白衣を纏った男が立っていた。セリオルと同じくらいの長身である。年齢も、セリオルと同じくらいに思われた。髪が白く、双眸は暗い赤色だった。その瞳は冷たい光を宿し、得体の知れない気配を漂わせている。その目に映るあらゆる者を蔑むような視線。男の顔には薄く冷酷な笑みが張り付いていた。
 急に駆け出した3人を呆然と見送ろうとしていた学生たちが、男に注目した。男はほんの少しの間、沈黙した。
 耳の奥に心臓があるようだった。全身の血液が逆流するのを、サリナは感じた。顔が熱い。そしてそれ以上に身体が熱していた。まるで本物の炎を纏ったようだった。
 彼女は直感的に確信していた。この男の正体を。
 男は不気味な笑みを浮かべたまま、再び口を開いた。
「そして、久しぶり――サリナ」
「ゼノアァァァァァァァァァァァァ!!」
 咆哮とともに、サリナは地を蹴った。これまでのどの時よりも、彼女の動きは迅速だった。真紅の雷光となって、サリナは男に迫った。
 そして全てが闇に包まれた。

挿絵