第40話
全身を黒い鎧で覆ったその人物は、ゆっくりと瓦礫の上から庭園へと下り立った。重厚な漆黒の鎧がガチャリと音を立てる。その腰には、同じく漆黒の鞘に包まれた剣が佩かれている。その姿は、さながら悪夢に現れる闇の騎士だった。 サリナは困惑した。セリオルが取り乱している。常に冷静沈着なセリオル・ラックスターが、彼女が兄と慕うあのセリオルが、あの黒い騎士を前に震えている。 「早くするんだ、サリナ! 早く! あれを自由にしちゃいけない!」 サラマンダーの声。焦燥に駆られた口調だった。信じられないことだった。世界を超越した幻獣が、永遠の存在であるあの幻獣が、怯えている。 「な、何なんだよ? どうしたイクシオン」 「なあ、落ち着けよオーロラ。あいつそんなにやばいのか?」 仲間たちも、幻獣の狼狽ぶりに戸惑っているようだった。その間にも魔物たちは攻撃を仕掛けてくる。サリナたちは幻獣の言葉に従う前に、魔物の攻撃を回避してそれを撃退しなければならなかった。 サリナには、あの黒き騎士がそれほど強大な敵には見えなかった。どこから現れた何者なのか、まったくわからない。ただ、その漆黒の姿がある存在を連想させた。 闇の幻獣、ハデス。サリナたちは漆黒の騎士がゼノアではないかと推測した。しかしあの騎士から伝わって来る気配やマナの強さは、それほど恐れるべきもののようには思えなかった。 「渦巻け、私のアシミレイト!」 翠緑色の光が膨れ上がった。セリオルがヴァルファーレの力を解放した。首飾りのリストレインが変形する。騎士たちからどよめきが上がった。翠緑の神々しき光はまだ靄となって残っていた闇を散らした。 セリオルは風のマナを纏った杖を振るった。翠緑の光の刃が黒き騎士を狙う。 「集え、俺のアシミレイト!」 銀灰の光が出現した。解き放たれたアシュラウルの力が鎧となってフェリオを包む。力のマナの鎧はフェリオの銃も包み、マナの銃へと変貌させる。フェリオがトリガーを絞ると、銃口からは弾丸ではなく、力のマナの塊が射出された。 「フェリオ……」 サリナが呟いた。フェリオはまっすぐに、黒騎士を見据えていた。彼の銃の照準は、黒騎士にぴたりと合わせられていた。 「何してるんだ、みんな」 フェリオは静かに言った。襲来した鳥の魔物を、彼のマナ弾は容易く迎撃した。 「セリオルがアシミレイトしろって言ってるんだぞ」 その言葉に、仲間たちは卒然として黒騎士に顔を向けた。フェリオの言うとおりだった。セリオルがアシミレイトしろと言っている。それだけ危険な相手だというは、明らかだった。サリナたちはそれぞれのリストレインを掲げる。 「弾けろ、俺のアシミレイト!」 「奔れ、俺のアシミレイト!」 「輝け、私のアシミレイト!」 紫紺、紺碧、真紅の光が現れた。3色の神々しき光があたりを照らす。靄状の闇が払われた。 5人のマナの戦士による総攻撃が開始された。彼らに襲いかかった牙や爪、触手、翼、嘴にマナ、あらゆるものはすべて灰燼へと帰した。ある者は雷光に打ちひしがれ、ある者は業火に斃れた。 サリナの炎を纏って真紅に染まった黒鳳棍が舞った。セリオルは風に包まれた杖を掲げた。カインは雷を生む鞭で大気を切った。フェリオは力に満ちた銃のトリガーを引いた。クロイスは水に祝福された盗賊刀を振り下ろした。 5色の光がほうき星のように尾を引いて黒騎士へと飛んだ。幻獣の力の篭もった、純然たるマナの力。たったひとりの騎士に、全ての力が集う。 黒騎士は腰の剣を抜いて水平にひと振りした。闇が拡がった。 美しきマナの光は霞と消えた。 「くっ……」 セリオルは歯を食いしばった。サリナは呆然と、黒騎士の闇を見つめた。闇はしばしの間空間に留まった後、大気に溶け込むようにして消え失せた。 隙が生まれた。これまで一度も防がれることのなかった幻獣の力を借りた攻撃が、空気のように切り裂かれたことが、サリナたちに衝撃を与えていた。 瞬きひとつの時間だけが経過した。 そしてセリオルが倒れた。 闇の斬撃がセリオルを襲っていた。刀身すらも漆黒に染まった剣が、邪悪な闇を孕んでギラギラと凶悪な光沢を放つ。 言葉を発することも出来ぬまま倒れ伏したセリオルの、アシミレイトは解除された。足元に横たわるセリオルに一瞥もくれず、黒騎士は次の標的を物色でもするかのような仕草を見せた。 「そん、な……セリオルさん……」 言葉を失った。初めて見るセリオルの姿に、サリナの思考は停止した。 「おいおい、嘘だろ……?」 カインが呆然としてそう言った。フェリオとクロイスは、何も言わなかった。いや、言えなかった、と表現すべきだろう。明晰な頭脳と優秀な魔力で一行を導いてきたセリオル・ラックスターが、容易く敗れた。 魔物どもすら静まる緊迫した空気の中、黒騎士はゆっくりと歩を進めた。漆黒の具足が庭園の芝を踏む。踏まれた芝は、まるで腐敗したかのようにしおれていった。 「――なかなか強いだろう? 僕の黒騎士は」 その声はさきほどまで黒騎士の立っていた場所、崩壊した幻獣研究所本庁舎の瓦礫の上から聞こえた。サリナは信じられない思いで瓦礫の上を見た。 「おやおや、呆気ないねえ、セリオル。旧交をあたためる前にもうやられてしまったのか」 そこにはゼノア・ジークムンドが酷薄な微笑を浮かべて立っていた。白衣の裾が微風になびいている。退廃的な光景だった。 「ゼノ、ア……?」 サリナの口からその名が漏れ出た。彼女の声は震えていた。 「んなバカな……」 クロイスは愕然として膝を地についた。群れる魔物の姿は、もはや目に入らなかった。 「どういうことだ。どうなってる?」 フェリオは額に手を当てた。混乱する頭を落ち着かせようとでもするかのように。彼も目の前の現実を理解することが出来なかった。 彼らは呆然と黒騎士を見つめた。漆黒の鎧。漆黒の剣。そして今、その身に纏われる漆黒の闇。それはサリナたちが纏うマナの光に似ていながら、粒子を散らすものの輝くことの決してない、暗黒の力だった。 「誰……?」 サリナは絞り出すようにして声を出した。その声に表れる、恐怖と、不安。 「誰、なの? ねえ、あれは誰なの?」 彼女の質問には、誰も答えなかった。答えることが出来なかった。 1歩1歩、黒騎士は足を進めた。不気味だった。何も語らぬ、闇を携えた漆黒の騎士。その鎧の下にいるのは、一体誰なのか? 黒騎士がクロイスに向かって走り出した。芝がしおれていく。 しかし誰も動かなかった。黒騎士がクロイスに肉迫する様子を、ただ茫然として見つめるのみだった。 クロイスは立ち上がって武器を構えた。水のマナに祝福された盗賊刀。彼はそれで、黒騎士の攻撃を防ごうとした。 黒騎士は抜刀し、クロイスに袈裟に斬りつけた。闇を纏った斬撃が水の盗賊刀を捉える。 その時感じた悪寒は、クロイスには表現出来なかった。ただひとつ確かなのは、彼がほんの一瞬の判断を誤っていれば、命に関わる重大な痛手を被っていただろうということだった。 クロイスは黒騎士の攻撃を受けずに、回避した。斬撃はそれほど速いものではなかった。だが眼前に迫ったその攻撃の危険度を、クロイスは直感的に察したのだった。クロイスはその場を跳び退り、可能な限り黒騎士から距離を取ろうと走った。 「あ、あぶねえ……」 大量に滴った汗を、クロイスは拭った。心臓が大きく跳ねている。 「あはは。どうしたんだい。君たちのアシミレイトはその程度かい」 愉快そうなゼノアの声が響いた。魔物たちと騎士たちの戦いの中でも、ゼノアの声は不思議とよく通った。彼は心の底から楽しそうだった。 初めてのことだった。フェイロンを旅立って初めて、サリナは恐怖で動けなくなっていた。彼女の仲間たちも同様だった。これまでいくつもの厳しい戦いを潜り抜け、あらゆる敵に打ち勝ってきたサリナたちが、黒騎士の圧倒的な力に身がすくんでしまっていた。サリナの視界には、セリオルが倒れた瞬間が何度も繰り返し再現されていた。 黒騎士はゆっくりと進む。漆黒の仮面の下からは、何の言葉も発せられない。 その恐怖はサリナたちの心を支配した。どんな強敵にも立ち向かってきた彼らの心が、闇に飲み込まれた。セリオルは地に倒れたまま、ぴくりとも動かない。その姿に、サリナたちは駆け寄ることすら出来なかった。 黒騎士が芝を踏んで歩く姿が、サリナには殊更ゆっくりに感じられた。 「轟け、私のアシミレイト!」 凛と響いた声があった。庭園に琥珀色の光が膨れ上がった。 騎士隊長アーネスの腰に佩かれた剣の鞘が、変形を始めた。地のアシミレイトはアーネスの身体を覆うマナの鎧となる。地のアシミレイトはアーネスの騎士鎧を美しく装飾し、さらに強固な護りを与える。 「アーネス――」 自分の名を呼ぶカインを一瞥して、アーネスは地のマナを纏った剣を構え、黒騎士へと走った。騎士隊長の鬨の声が上がる。 大きく振りかざした剣を、アーネスは黒騎士に振り下ろした。黒騎士は片腕で掲げた剣で、易々とその攻撃を受け止めた。そのまま振り抜かれる漆黒の剣に、アーネスはたたらを踏んで退いた。琥珀色のマナの戦士は歯ぎしりをながら、斬撃を繰り返した。 黒騎士の力は恐るべきものだった。鍛え上げたアーネスの攻撃が一切通用しない。地のマナを纏って強化されたはずの攻撃ですら。それでもアーネスは諦めること無く、攻撃を繰り返す。アーネスは黒騎士の向こう、薄く笑っているゼノアの姿を睨みつける。 「サリナ!」 剣戟の合間に、アーネスの声が響く。鋭く、彼女はその名を呼んだ。サリナが顔を上げる。 「カイン! フェリオ! クロイス!」 渾身の一撃を楽々と止められて、アーネスは黒騎士から距離を取った。息が上がっている。黒騎士にはその様子は全く見えない。 闇が浸食し始めたように見えた剣を、アーネスはさっと振った。美しい琥珀色のマナが闇を駆逐する。 「貴殿ら、何をしている」 その声は淡々として怒りに満ちていた。そして失望の色が混じる。 「試練の迷宮で見た貴殿らの姿は、あの木偶どものように、ただの幻影に過ぎなかったのか?」 顔だけで振り返ったアーネスの目に、自分を見つめるサリナの姿が映った。小さく、華奢な少女。真紅の鎧を纏う、恐るべき戦闘能力を誇る少女。だが今そこにいるのは、意志を挫かれてひざまずく、力無き少女だった。 「あの迷宮で私が見たのは、繰り返し襲い来る強敵を前にしても、決して背を向けない貴殿らの姿だった。魔物にも、木偶どもにも、アーサーにも正面から立ち向かった貴殿らだった」 アーネスは剣を構えた。大きな動きで、彼女の剣は正眼に構えられた。琥珀色のマナがゆらりと立ち昇る。 「この敵は強大だ」 地のマナが集まり、アーネスの剣が琥珀色に染まる。 「立ち上がれ。そして戦え! 貴殿らにはその力があるだろう!」 琥珀色の騎士は再び黒騎士へと走った。黒騎士は漆黒の剣をゆっくりと掲げる。地を蹴るアーネスの具足。そして騎士隊長は跳躍した。 大上段から振り下ろされた琥珀色の剣が、大地の力を乗せた脅威の斬撃を繰り出す。 その攻撃に、黒騎士は初めて両手で剣を握った。鋭い金属音。地のマナと闇のマナがぶつかり合う。 「へえ。なかなかやるねえ」 ゼノアは口に手当てて、愉快そうにそう言った。純粋に楽しんでいる声だった。 サリナは横たわったままのセリオルを見た。うつ伏せで、彼は微動だにしない。魔物が1体、倒れたセリオルに近づいた。 その魔物を、紫紺の鞭が打った。雷光を纏った鋭い一撃が炸裂する。 「やれやれ、俺としたことが」 カインはすっとまっすぐに立っていた。手元に戻った鞭を、彼は素早く振るった。雷のマナに、大気が痺れる。 「ちょいとびびっちまったぜ。はっはっは」 黒騎士に向かって走り出した兄を見て、フェリオはかぶりを振った。 「なんでも突っ込めばいいってもんじゃないぞ、兄さん」 銀灰の長銃が力のマナ弾を射出する。連発されたマナは、周囲の魔物たちを一掃した。数の多さに手を焼いていた騎士たちが、驚いてフェリオのほうを向いた。 「難しい命題にこそ、研究者は燃える」 長銃の照準は、黒騎士に合わせられた。 クロイスは震える膝を叩いて立ち上がった。間近で見た黒騎士の衝撃がなかなか抜けない。 「ったくよ……反則だよあいつ」 脚の筋肉に意識して力を入れる。笑いそうになる膝も、強い意志が支配すれば問題ではなかった。彼は立ち上がり、盗賊刀を元の短剣に戻して両手に構えた。水のマナがその刀身を潤す。 「ニルス、ソフィー、ロニ……見ててくれよ」 全身の力を足に込めて、クロイスは黒騎士に向かって走る。 震えそうになる脚を叩いて、サリナは立ち上がった。両目を閉じる。戦いの声が一瞬だけ遠のく。 身体の中心と心の中心に、サリナは意識を集めた。自分の真ん中に炎を灯す。炎がゆっくりと大きくなっていく。炎は彼女の内側を満たす、暖かな力となる。 「行こう、サリナ」 サラマンダーがサリナに言った。炎のドラゴンの幻影がサリナに重なる。サリナは目を開けた。 頬を両手で叩いて、サリナは走った。倒れたままのセリオルの元へ。 セリオルは動かない。サリナは彼の脇にしゃがみ込んで、うつ伏せになったその背中にそっと手を置いた。 安堵の息がサリナの口から漏れた。心臓は動いている。闇の攻撃による衝撃で、昏倒しただけのようだった。 「――セリオルさん、ごめんね」 サリナは素早くマナを練り上げた。彼女の中に生まれた柔らかい力が、世界と繋がる。 「天の光、降り注ぐ地の生命を、あまねく潤す恵緑の陽よ――ケアルラ!」 清浄な白い光が満ち、セリオルを包む。癒しのマナが彼に流れ込んでいった。 「う……」 小さく呻いて、セリオルは意識を取り戻した。薄らと目が開かれる。やや回復したらしいセリオルに、サリナはほっとして微笑んだ。 「セリオルさん!」 「サリナ。戦いは、黒騎士はどうなりました?」 覚醒してすぐに起き上がり、セリオルは頭を振りながら尋ねた。彼の耳に、戦闘の音が入ってくる。 闇を纏った黒騎士の攻撃に、アーネスが吹き飛ばされて地面を転がった。間髪を入れずにフェリオのマナ弾が襲うものの、剣のひと振りがその全てを無力化した。そこへクロイスの連続攻撃が入るが、闇のマナは水のマナを容易に散らしてしまう。カインの雷の鞭が襲いかかる。黒騎士の腕を絡め取ろうとした鞭は、しかし闇のマナの奔出によって勢いを殺された。 「アーネスがアシミレイトを……。しかし状況は芳しくないようですね」 「うん。もの凄く強いです」 サリナの肩を借りて、セリオルは立ち上がった。まだ足元がふらつく状態ながら、彼は首飾りに手を遣って叫ぶ。 「渦巻け、私のアシミレイト!」 再び翠緑の光が膨れ上がった。カインたちがこちらを振り返る。 「セリオル! 無事か!」 風のマナが溢れ、リストレインの鎧がセリオルの身体を包む。光がおさまり、セリオルは杖に風を纏わせた。 「心配をかけてすみません。なんとか大丈夫です」 安心した様子の仲間たちに頷いて、セリオルはゼノアのほうへ顔を向けた。 薄く冷酷な笑いを顔に張りつかせて、ゼノアはセリオルを見ていた。氷のように冷たい視線。懐かしい友人に向ける目としては、それはあまりにも不似合いだった。 「ゼノア。まさか黒騎士を完成させていたとは」 「くく。驚くのはまだ早いよ、セリオル」 愉快そうに笑うゼノアから、セリオルは視線を外した。今はそんなやり取りをしている時ではない。 「行きましょう、サリナ。黒騎士を止めなくては、王都が危険です」 「はい!」 ふたりは魔法の詠唱をしながら、黒騎士へと走る。 |