第42話

 時が止まったようだった。瞬きも出来ず、セリオルはその光景を見つめ続けた。
 解放されたケルベロスの力が、サリナの身体を灼き尽くした。闇の炎が燃え盛る。その暴力的なマナは、倒れたサリナを執拗に攻め立てる。
「サリナ……」
 セリオルは地面にひざまつき、動くことも出来なかった。彼の前で、サリナは一切の抵抗をすることなく闇の炎に灼かれていく。
「リバレート・オーロラ! アクア・スパイク!」
 紺碧の光が膨れ上がった。クロイスの頭上に膨大な光が現れた。紺碧のリストレインからクリスタルが分離し、光の中で変形していく。やがてクリスタルは、額に角を生やした銀色のイルカとなった。
 オーロラは恵み豊かな清水を纏って宙を舞い、甲高い声で啼いて黒騎士を見据えた。そしてその姿を紺碧の美しい矢へと変じ、オーロラは黒騎士へと飛んだ。
 黒騎士はその攻撃を迎え撃とうと黒き剣を掲げた。
 しかし紺碧の矢は黒騎士には到達せず、サリナに命中した。美しい水のマナが、サリナを覆う漆黒の闇を払う。オーロラの清らかな力が、忌むべき闇の力を打ち消した。
 そこへアシミレイトを解除されたクロイスが走り込んだ。彼は傷ついたサリナをおぶった。そのまま黒騎士から離れようと、彼は背を向けた。
 黒騎士はそれを黙して逃がしはしなかった。背を向けて地を蹴ったクロイスへ、剣を振り上げて庭園の芝を踏みこんだ。
「リバレート・アーサー! ソイル・エンゲージメント!」
 アーネスが黒騎士へ向けて疾走しながら叫んだ。琥珀色の光が出現し、アーネスの頭上で膨れ上がる。
 リストレインから琥珀のクリスタルが分離する。クリスタルは獅子の形へを姿を変える。琥珀色の光から、美しい翼を持つ力強き獅子が現れた。大地を震わせる咆哮を上げて、アーサーが光を放つ。地の幻獣は土の津波となって黒騎士へと向かった。
「奴もアシミレイトは解除されている。これは止められまい!」
 アーネスは会心の笑みを浮かべた。アーサーの強靭な大地の波が突き進む。
 黒騎士は動かない。アーサーの渾身のマナを正面から受け止めようとでも言うかのように、微動だにしなかった。
 恐るべき量の闇が拡がった。黒騎士が放出したようだった。
「なにっ!?」
 息が止まる思いで、アーネスは黒騎士を見つめた。
「馬鹿な……」
 セリオルはごく小さく呟いた。傍らにクロイスが到着した。サリナを芝の上へ横たわらせる。そうしてクロイスも、黒騎士を振り向いた。
 信じがたいことだった。黒騎士がさきほどまでよりも強大な闇を纏ったように見えた。クロイスは頭を振った。しかし黒騎士が放つ闇は変わらない。
「どうなってんだよ! あいつ、さっきリバレートしたんじゃないのかよ!」
 ゼノアの哄笑が響く。彼は身体を折って、本当に愉快そうに笑っていた。セリオルたちの様子が、よほど可笑しく思えたのだろう。
「あっはっはっは! 本当に馬鹿だね君たちは! 闇の幻獣が、ケルベロスだけのはずが無いだろう!」
 アーサーのマナは、巨大に膨れ上がった黒騎士の剣によって、あっさりと断ち斬られた。さらにその闇の刃は、漆黒の波動をアーネスに向けて放った。
「くっ!」
 アシミレイトを解除されたアーネスは、高速で接近するその波動をかろうじて回避した。黒騎士は闇を纏って、ゆっくりと彼女へ近づいてくる。
「あははは。無様だねえ、騎士隊長さん! 手も足も出ないかい? 今度はディアボロスだよ。闇の幻獣、瑪瑙の座さ」
 瑪瑙の座。その言葉にアーネスは恐怖を覚えた。碧玉の座のケルベロスでさえ、あの強さだった。瑪瑙の座の幻獣をアシミレイトした黒騎士など、考えたくもなかった。
「クロイス、3人を頼みます」
「あ?」
 意識を失ったままのサリナの頬を撫でて、セリオルは立ち上がった。サリナは闇の攻撃でダメージを受けていたが、致命的な外傷は無いようだった。サラマンダーのマナがある程度は闇を抑えたのだろう。
「お、おい、セリオル! 何する気だ!」
 風のマナを纏った黒魔導師は、ちらとクロイスを振り返って言った。
「なに、少し時間を稼ぐだけですよ」
「時間って、お、おい!」
 手を伸ばすクロイスを置いて、セリオルは駆け出した。
「アーネス! さがってください!」
 かかった声に、アーネスは素早くその場を離れてクロイスの元へ走った。すれ違い様、彼女はセリオルの顔を見た。何か確固たる決意を秘めた表情だった。
「ゼノア!」
 セリオルは叫んだ。ゼノアがこちらを向く。薄笑いは消えていない。
「やあ、セリオル。どうしたんだい、今頃になって。僕の研究の手助けをしてくれる気になったのかい?」
「下らない冗談はやめろ!」
 セリオルの激しい声に、ゼノアは声を上げて笑う。滑稽な芝居でも観劇しているかのようだった。
「あっはっは。君は本当に愚かだよ。あのままここに残って研究を続けていれば、君も幻獣の力と世界を手に入れることが出来たのに」
「黙れ! 私はそんなものに興味は無い!」
「くくく……。まあ、そういうことにしておいてあげるよ」
 ゼノア、黒騎士のふたりと対峙して、セリオルは足を止めた。魔物の声も消え、庭園は静かだった。
「よくサリナを連れて来てくれたね、セリオル。お礼を言うよ」
「……私たちのことに、いつから気付いていた?」
 セリオルの質問に、ゼノアは首を傾げて見せた。
「最初からさ。幻獣の力を隠しもしないで王都に入るなんて、僕に居場所を知らせているようなものだろう?」
「幻獣とリストレインを観測する装置が、完成していたのか」
「あはは。当然だろう? 僕のそばには、彼女がいるんだよ」
 その言葉に、セリオルは瞬間、ゼノアから視線を外した。その様子は、背後から見つめていたクロイスたちにもわかった。クロイスとアーネスは顔を見合わせた。
「さあ、セリオル。サリナを渡してくれないか? 僕は君を傷つけたくはないんだ」
 ゼノアの言葉に反応したか、黒騎士の闇が増大する。そのマナの巻き起こす不愉快な風に、しかしセリオルは1歩もさがらなかった。
「断る。サリナまでお前の手に落とすわけには、いかない!」」
 セリオルは杖を掲げた。翠緑色の煌めくマナがセリオルへ集う。
「残念だよ、セリオル。ここで君にさよならを言わないといけないなんて」
「お前の思いどおりにはさせない!」
 セリオルは杖を振るう。翠緑の光が膨れ上がる。
「リバレート・ヴァルファーレ! シューティング・レイ!」
 セリオルの頭上に現れた翠緑色の神々しき光の中で、リストレインから分離したクリスタルが変形し、巨鳥ヴァルファーレとなって現れた。ヴァルファーレは天高く舞い上がり、美しい声で啼いた。空中で静止し、黒騎士を睥睨する。広げられた美しい翼から、開かれた嘴に黄金の光の粒が集まっていく。
 風の結晶が解き放たれ、無数の光線となって黒騎士へと降り注いだ。黒騎士は黒き剣を縦横に振るい、降り注ぐ風のマナを乱雑に払い除けた。
「セリオル、ねえセリオル! 一体何をしてるんだい? そんなことで僕の黒騎士が倒れるはずがないじゃないか! あはははは!」
「……それでいいんですよ」
 にやりと笑ったのは、セリオルのほうだった。
 いくつかの足音が聞こえた。騎士隊が駆けつけた時よりも少なかったが、同じ種類の足音だった。
「イロ!」
 クロイスが叫んだ。チョコボたちが戦闘の場に来たのだ。主人を救いに来たチョコボたちの声が響き渡る。その鞍には、サリナたちの荷物がしかと結いつけられている。
 イロはクロイスを急かした。クロイスは頷き、気を失ったままのサリナとカイン、フェリオを、それぞれアイリーンとルカ、エメリヒの背に上げた。チョコボたちは、主人に心配そうに頬ずりをした。
「なんだ、チョコボを呼んだのかい」
「あるひとに頼んでね。残念だが、ゼノア、私たちはここで失礼する」
 セリオルもブリジットの鞍へ上がった。仲間たちが離脱する時間を稼ごうと、セリオルは可能な限り長くヴァルファーレのマナを放出し続けた。黒騎士はその全力の攻撃を防ぎつつ、ゆっくりとこちらへ進んでくる。
「アーネス、あなたたちも逃げてください! 彼らは我々以外を攻撃することはありません!」
 セリオルの言葉に頷き、アーネスは首元から笛を取り出して吹き鳴らした。騎士たちもそれに倣う。高く美しい音が響き、ほどなくして騎士たちのチョコボが駆けつける。
「離脱せよ!」
 アーネスが号令をかけると、騎士たちはチョコボの鞍に上る。
 ヴァルファーレの攻撃が終わる。白き巨鳥は消え、セリオルのアシミレイトは解除された。
 その瞬間、黒騎士の闇のマナが一気に膨れ上がった。それは離脱の態勢を取っていたチョコボたちを威圧し、その足をすくませる。闇のマナの圧力が、騎鳥たちの動きを縛る。
「くそ、ゼノア!」
 セリオルが歯の間からこぼした声に、ゼノアが嘲笑を浴びせかける。
「馬鹿だなあ。逃がすわけがないじゃないか」
 黒騎士はゆっくりと近づいてくる。誰も動くことが出来ない。チョコボから降りることすら出来ないほど、敵のマナは圧倒的な威圧感で彼らを縛る。黒騎士が迫る。ブリジットの間近で、漆黒の剣が振り上げられる。
 その呪縛を断ち切ったのは、また別の巨大なマナだった。
 吹き荒れる闇のマナに抗って、唯一動く影があった。
 気を失ったサリナをその背に乗せた、アイリーン・ヒンメルだった。
「なんだ!?」
 狼狽したのはゼノアだった。黒騎士の放つマナが、黄色い羽毛のただのチョコボの、動きを奪えなかった。
「アイリーン……?」
「なんだ? どうなってんだ?」
「サリナのマナ、か……?」
 セリオルだけでなく、クロイスもアーネスも、その光景を信じがたい思いで見つめた。何が起こっているのかわからなかった。
 アイリーンは黒騎士の前に立った。その羽毛が、黄色から徐々に変化し、美しい真紅へと変わる。長い尾羽は純白で、真紅との美しいコントラストをなした。
 信じがたいことだったが、アイリーンは真紅のマナを放っているようだった。真紅に染まったチョコボは、天を仰いで高く啼く。その声に伴って、黒騎士のマナを打ち消す神々しき真紅のマナが、波動となって放出されていく。
 黒騎士が膝をついた。もはや漆黒のマナはその力を失ったようだった。後ろではゼノアが、目の前の現象を理解出来ずに混乱している。
「何なんだお前! チョコボが、なんで黒騎士のマナを!? 何が起こった、何が起こった!」
 いずれにせよ好機だった。アイリーンは力を失った黒騎士に背を向け、地を蹴った。その羽毛は黄色へと戻っていた。
「……ともかく、今はこの場を離れましょう! 出来れば王都の外へ!」

 セリオルとクロイスは王都をチョコボで駆け抜けた。幻獣研究所の周辺は大変な騒ぎになっていた。大きな施設が闇の半球によって破壊される様は、学究街区のかなりの範囲から見取ることが出来たためだった。王都民や研究者たち、そして機関見学の学生たちが、混乱を来してざわめいていた。
「セリオル、王都の外に出る必要があるのか!? 戻って来れるか!?」
 イロの手綱を握りながら、クロイスが叫んだ。セリオルは長髪を風にたなびかせながら答える。
「もう隠れていることに意味はありません! ゼノアは我々の居場所を突き止めた。まずは遠くへ逃げなければ。黒騎士が力を取り戻す前に!」
 チョコボたちは金獅子通りを走り、北門をくぐって王都の外へと脱出した。安全と思われる距離まで離れて、セリオルはブリジットに停止を命じた。
 ブリジットを回頭させて振り返ると、王都は異様な様相を呈していた。
「な、なんだありゃあ……」
 イロの背の上で、クロイスは目を凝らして見つめた。
 王都は巨大な闇の半球に包まれていた。幻獣研究所の施設を破壊したのと同じものに見えた。さきほど目にした悪夢のような光景が、脳裏によみがえる。
「お、おいおいおいおい、ゼノアのやつ、王都をぶっ壊す気か!?」
 クロイスは狼狽した。エリュス・イリアの中心、世界を支えるあらゆる機能が存在する王都。100万の人々が暮らす、永遠の都。その巨大な都市が、あの地獄のような破壊をもたらす闇に覆われている。
「いえ、それはないでしょう」
 セリオルの声は冷静だった。いつものように、彼は静かに状況を分析した。
「あれは我々に対しての警告でしょうね。あれだけの力を実戦投入することが可能だ、という」
「……おっそろしいな」
 ついさきほどまで相対していた黒騎士の力を思い出したか、クロイスは身震いとともに額の汗を拭った。
「それにしても、なぜゼノアはあんな行動をとったのだ?」
 アーネスが尋ねた。彼女は鎧を纏った琥珀色のチョコボ、オラツィオの背で凛として王都を見つめている。
「あれ?」
 クロイスはぽかんとしてアーネスを見た。瞬間的に頭が真っ白になった。
「ア、アーネス、なぜここに?」
 それはセリオルも同様だった。彼もブリジットの手綱を握ったまま、ぽかんと口を開いた。
「ん?」
 なんでもないことのように、アーネスは小首をかしげてセリオルたちを見遣った。そして小さく、ああと呟いて口を開いた。
「国王様の命だ。幻獣研究所とゼノアが不穏な動きを見せれば、貴殿たちに同行して力を貸すように、とのな」
「国王様が……」
 セリオルは闇に包まれた王城に座しているはずのヴリトラ王に感謝した。アーネスの力が加わることは、ゼノアを止めるという目的において極めて有益なことだった。
「今後しばらく、貴殿らと行動を共にさせてもらう。私自身も、地のリバレーターとしてアーサーに選ばれたようだしな」
「助かります。よろしく願います」
「あんまおカタイことは言うなよ、隊長さん」
 そう言ったクロイスを、アーネスは見遣った。にやりとして、彼女は言った。
「隊長さん、ではないわ。私はアーネス。アーネス・フォン・グランドティアよ」
 その言葉に、またしてもセリオルとクロイスはぽかんと口を開いた。
「国王様からの命ということもあるけど、私自身があなたたちに興味があるし、ゼノアの凶行を止めなければと思ってる。だから王国騎士団金獅子隊隊長としてではなくて、アーネス・フォン・グランドティア個人として、あなたたちに同行出来ればと思うの。騎士隊長としてだと、出来ないことも増えてしまうし」
 口を開いたままのふたりに、アーネスは苦笑した。
 しばらくアーネスを見つめて、ようやくセリオルは反応を示した。頭を軽く振って、彼は言った。
「突然口調が変わるから、驚いたじゃないですか」
 その隣りでクロイスがこくこくと頷く。アーネスは苦笑いを返した。
「あなたたちから教わったのよ。いつも肩肘張って騎士らしく模範的な行動をとらなければなんて、思う必要は無いんだって。実際あなたたちと一緒に行くのに、仕事の時の調子でやってたら疲れて仕方ないわ」
「……あんた、意外とさっぱりした性格だったんだな」
 クロイスのその言葉に、アーネスは軽く笑って見せた。
「それで、ゼノアがあんな行動をとったのはどうして?」
 話を戻すアーネスに、セリオルとクロイスも意識を元の話題に戻した。王都はやはり、闇に包まれている。
「その話は、次の街へ着いてサリナたちが目を覚ましたらしましょう」
「どこへ向かうんだ?」
 闇の王都に背を向けて、セリオルは北を指した。
「目的地は、森林の街クロフィール。ゼノアから身を隠し、サリナたちの回復を図ります」

挿絵