第43話

 そこは木の板張りの部屋だった。部屋の隅の壁には火の入ったランプが掛けられている。ランプは炎の柔らかい光を部屋にもたらしている。小さな羽虫が1匹、ランプの光に誘われて舞っている。
 額に置いていた左手を、サリナはゆっくりと下ろした。自分の身体にかけられた柔らかい毛布をめくって、彼女は身体を起こした。武道着から部屋着に、彼女は着替えさせられていた。
「ここは……」
 呟いて、彼女は部屋を見回した。木の香りの満ちる、暖かな部屋だ。カーテンが半分ほどひかれた窓が少しだけ開いている。そこから入る微かな風には、緑の爽やかな香気が乗っていて心地良い。外の木々の葉が揺れ、その隙間から木漏れ日が差し込んでくる。
「目が覚めた? サリナ」
 その声に振り向くと、部屋の扉をアーネスが開いて入ってくるところだった。彼女は見慣れた鎧姿ではなく、軽装で、それが彼女の部屋着のようだった。
「アーネスさん」
 鎧の具足ではなく革の靴で床板を踏んで、アーネスはベッドのサリナのそばへ来た。木製の椅子に腰かけ、彼女はサリナの額に手を当てた。
「熱、下がったみたいね。良かった」
 アーネスは王都で接していた時の厳しい顔ではなく、優しい微笑を浮かべていた。サリナは困惑した。
「あの、アーネスさん」
「ん?」
 組んだ膝の上に頬杖をついて、アーネスはサリナを見ていた。綺麗なひとだなと、サリナは思った。
「あの、ここは? ゼノアは、みんなは?」
 不安な様子のサリナの頭を、アーネスはゆっくりと撫でた。優しい手だった。
「ここは、森林の街クロフィールの“大樹の木漏れ日亭”。私たちは、逃げてきたの。王都から」
「……え?」
 状況をよく飲み込めないサリナに、アーネスは微笑んで立ち上がった。
「ちょっと待ってて。今皆を呼んでくる」

 サリナが座るベッドを囲むようにして、セリオル、カイン、フェリオ、クロイス、アーネスが集まった。それぞれ、隣りのベッドや木の椅子に腰かけている。目を覚ましたばかりのサリナに温かいミルクを飲ませながら、セリオルが経緯を話したところだった。
「そっか……。私たち、負けたんだね」
 ミルクの入ったカップを両手で包むようにして持って、サリナは俯き加減で言った。消え入りそうな小さな声だった。
「強かったな、あいつ。くそ」
 カインが悔しさを滲ませて言った。彼とフェリオは、この街へ着くまでの道中で目を覚ましたということだった。これまでにもセリオルたちから話は聞いていたはずだが、改めて口惜しさがよみがえったのだろう。
 静寂が流れた。サリナはミルクの温かな熱を、両手で感じていた。カップの中で、ゆらりとミルクが揺れる。
「――セリオルさん」
 ミルクを見つめたままで、サリナはセリオルの名を呼んだ。セリオルが顔を上げる。サリナはゆっくりとミルクから視線を外し、兄の顔を見た。
「教えてください。ゼノアは、どうしてあんなことをしたんですか?」
 その質問に、仲間たちの視線がセリオルに集まった。全員が知りたかったことだった。セリオルはそれを、サリナが目を覚ましたら話すと約束していた。
 ひとつ息を吐いて、セリオルは口を開いた。
「ひとつは、黒騎士の能力を試すため。ひとつは、王都を恐怖で支配するため。そしてもうひとつは、サリナ、君を手に入れるためです」
「私を?」
 頷いて、セリオルは話を続ける。
「黒騎士は、私が幻獣研究所を離れる頃から、ゼノアが構想を開始していた生体兵器です。闇の幻獣たちをアシミレイトさせ、マナの共鳴度を強制的に引き上げることで通常より遥かに高い能力を生む。私がゼノアの研究の中で最も恐怖を覚えたもののひとつでした」
「それが、完成してたってことか」
 フェリオの言葉に、セリオルは頷いた。
「予想外でした。あの研究はそう簡単には実を結ばないだろうと、高をくくっていました。もうひとつの盲点は、マナ観測装置の完成でした。恐らくルーカスさんとレナさんの装置をそのまま応用して完成させたんでしょうね。謁見の間で幻獣たちを呼んだことがあだになった。その後、ゼノアは我々の行動を監視していたのでしょう」
「シドのおっさんは偵察には気を付けろって言ってたけど。んな生易しいもんじゃなかったってことか」
「ええ。もっと綿密に計画を練るべきでした。私のミスです」
 沈痛な面持ちで言うセリオルに、誰も掛ける言葉を持たなかった。セリオルは先を続ける。
「王都は恐らく、ゼノアの支配下に置かれたでしょう。黒騎士の力を目の当たりにした金獅子隊の騎士たちは、それを正確に報告しているはずです」
「ええ、恐らくね。彼らは優秀だから」
 アーネスの言葉は皮肉な響きを含んでいた。全員が、小さく肩を落とす。
「勝てるのかな、俺たち」
 クロイスがぽつりと言った。誰も答えなかった。黒騎士の圧倒的な力が脳裏によみがえる。サリナは小さく身震いした。
「そういえば、黒騎士を止めたのはアイリーンだってのはほんとなのか?」
 カインの疑問に、セリオル、クロイス、アーネスの3人が大きく頷いた。
「信じられない光景だったわ。黄色い羽毛が真紅に染まって、すごい量のマナを放出してた。黒騎士はそれで力を失って、私たちは逃げ切ることが出来た」
「マジで信じらんねえなあ」
 カインは椅子の背もたれに身体を預け、頭の後ろで手を組んで天井を見上げた。
「俺たちも目の前で見たけど、いまだにわけわかんねーよ」
「セリオルさん、どうしてそんなことになったのか、わからないですか?」
 アイリーンの主として、やはり気になるのだろう。サリナが尋ねた。しかしセリオルは、首を横に振るのみだった。
「わかりません。ただ、アイリーンは出会った時から不思議なチョコボでした。何か特殊なところがあるのは確かでしょうね」
「チョコボがマナを放つなんて、聞いたことが無いな。それも黒騎士を止めるほどの、なんて」
 フェリオは腕組みをして首を捻った。しかしいくら考えても答えは出ない。
「ま、いずれにしても私たちはアイリーンに助けられたってことね。感謝しないとね」
 そう言って、アーネスはサリナを見た。サリナはなぜか恐縮した。
「ゼノアは王都を攻撃するつもりなのか?」
 フェリオがセリオルを向いて尋ねた。セリオルはこの問いにも首を横に振って答えた。
「恐らくそれは無いでしょう。あれから数日が経ちますが、いまだこの街に王都襲撃の報はありません」
「じゃあ、ゼノアの狙いは何なんだ? 何のために王都を支配しようと?」
「自由に行動するためでしょうね」
 セリオルの言葉に、サリナたちは疑問符を浮かべた。
「これまで、ゼノアは水面下で行動してきました。軍の一部は彼に協力していたでしょうが、国王様をはじめ、王国の多くは彼のことを知らなかった。それは彼が、自分の行動を規制されることを避けたためです。しかしいまや、彼は黒騎士という絶対的な力を手に入れた。万一王国軍と衝突することになっても、勝利は確定的です。だから水面下から水上へ、その姿を現して自分の力を誇示した。行動範囲を広げるためにね」
「王都を攻撃しないかわりに、自分を自由にしろって言ってるっていうこと?」
 悔しさの漂うサリナの声に、セリオルは頷いて答えた。カインが自分の膝を殴る。怒りに震えているようだった。
「サリナを手に入れるってのは、どういうことだ?」
 クロイスが尋ねた。セリオルが再び口を開く。
「ゼノアの目的は、あらゆるマナを支配して世界を我がものとすることです。その実現のために、必ず障害となるものがある」
「何だ? 俺たちか?」
 セリオルはクロイスに、小さく首を横に振って答えた。拍子抜けしたように、クロイスは椅子に座り直した。
「現状の私たちには、ゼノアを止める力はありません。それはゼノアもわかっているでしょう。唯一、彼にとって誤算だったのはアイリーンですが、その現象がいつも起こるわけではない。それはゼノアにも知れているはずです。もしそんな力を自由に扱えるなら、我々は初めからアイリーンを使ったわけですからね」
「じゃあ、一体何なの? その障害っていうのは」
 尋ねたアーネスのほうは向かず、セリオルはサリナを見つめて言った。
「幻獣たちですよ。玉髄の座のね」
「え……?」
 サリナは瞬きをした。玉髄の座の幻獣と、自分にどんな関係があると言うのだ?
「玉髄の座って、あの幻獣研究所の門のとこにあった、バハムートとかフェニックスのことか?」
 フェリオの質問に、セリオルはやはりサリナを見たままで答える。サリナはセリオルから視線を外し、ミルクをひと口飲んだ。優しい甘みが口に広がり、心が落ち着く。
「そうです。ゼノアは考えているはずです。ハデスと同等かそれ以上の力を持つ、玉髄の座の幻獣たち。自分がマナを独占しようとして行動すれば、必ず彼らとぶつかるだろうと。そのために、彼はアシミレイトの力を増大させる黒騎士を研究したわけです」
「ハデスの力を水増しして、対抗しようってことか」
 カインの言葉に、セリオルは頷いた。彼はサリナを見つめている。
「黒騎士は、闇のリバレーターでない者でも強制的にアシミレイトをさせてしまう、恐ろしい兵器です。しかもそれは、恐らくマナとの共鳴能力に優れた者ほど、適している」
 セリオルのその言葉に、全員がサリナへと顔を向けた。そういうことか、とフェリオが呟いた。怒りが含まれた声だった。サリナはミルクを見つめている。
「私を兵器にしようとしてるんですね、ゼノアは」
 ぽつりと、サリナはそう言った。誰も答えなかった。しかし答えは明白だった。
「だからお父さんは、セリオルさんに私を幻獣研究所から連れ出させたの? 危険な黒騎士を生み出させないために」
「それもあります。ですがそれ以上に、先生は純粋に、君が心配だったんです、サリナ。ゼノアは君に研究対象としての興味を抱いていた。先生は、君に危険が及ぶことを避けようとしたんですよ」
 サリナは答えず、ミルクを見つめている。誰も何も言わなかった。サリナの心を思うと、何も言えなかった。
 サリナはミルクを飲み干した。少しずつ、身体に力が戻って来る感覚。空になったカップを枕元の台に置き、彼女はセリオルを見つめて口を開いた。
「セリオルさん、あの黒騎士は、一体誰なの? 知ってるんですよね?」
 その質問にセリオルはほんの少しの間を置いて、静かにかぶりを振った。その目は閉じられていた。
「残念ながら、私にもわかりません」
「そうですか……」
 サリナは肩を落とした。自分の代わりにゼノアの研究の犠牲となっている人物のことが知りたかった。
「いずれにせよ、ゼノアはこれからより大胆に行動してくるでしょう。場合によっては、サリナを手に入れるために我々に攻撃を仕掛けてくる可能性もある。考えて行動しなければいけません」
「行動すると言っても――」
 フェリオが言葉を挟んだ。彼は両膝の上に肘をつき、両手の指を組んで口を隠していた。
「これからどうするんだ? 幻獣たちの力は黒騎士に通用しなかった。俺たちは、勝てるのか?」
 セリオルはそれには答えなかった。その代わり、彼はこう提案した。
「ここでしばらく身体を休めたら、マキナへ行きましょう」
「マキナだって?」
 クロイスが椅子を蹴って立ち上がった。マキナは彼にとって、特別な場所だった。
「何しに行くんだ、マキナになんて」
「調査です。大枯渇のね」
「……え、大枯渇の?」
 予想もしなかった答えに、クロイスは唖然とした。他の仲間たちも同様だった。
「大枯渇の調査って、何を調べるんですか?」
 サリナはさきほどまでよりも、やや張りの出てきた声で尋ねた。温かなミルクが、彼女に栄養と元気を与えていた。
 セリオルは椅子から立ち上がった。彼はサリナのベッドの隣りにある窓の前に立った。入って来るそよ風に、彼の長い黒髪が揺れる。木の葉の香りが、心を落ち着かせる。
「これは私の推測ですが――」
 いったん言葉を切って、彼は息を吸い込んだ。森の香気が肺を満たす。爽やかな生命力が身体を潤すようだった。
「マキナで起こった大枯渇は、ゼノアの実験が原因である可能性が高い」
 仲間たちから驚きの声が上がる。特にクロイスの声が大きかった。彼はセリオルの背中に近寄った。
「ゼノアの野郎、マキナでも何か悪さしてやがったのか?」
「まだわかりませんが――」
 セリオルは振り返った。一行を導く青年は、その碧色の瞳に煌めく知性の光を宿す。
「大枯渇のことを、王都で調べてみました。大枯渇はマナのバランスが局所的に崩壊することで起こる災害です。ですがそれは、これまでの歴史上、100年単位でしか起こらないものでした。ところが――」
「この間の大枯渇は、確か30年ぶりだったわね」
 アーネスが顎に手を当ててそう言った。セリオルは静かに頷いた。
「気候の専門家たちの間では、前回の大枯渇はマナの異例の増大によって引き起こされたという、曖昧な結論がまかり通っているようでした。私も特に疑問を持たずに、そう認識していました。皆もそうだと思います。しかし――」
「そうじゃなかった、ってのか」
 クロイスの声には怒気が含まれていた。彼の両親が眠るマキナの地に、やはり思い入れがあるのだろうと、サリナは思った。
「ええ。大枯渇は、ある意味でマナの暴走。そしてマナの自然なあり方を歪ませている者がいる」
「ゼノア、ですね」
 セリオルはサリナに頷いた。サリナたちにも、なんとなくセリオルの話の先が見え始めた。
「大枯渇は、局所的に増大したマナが弾けるようにして波のように広がり、その中心のマナが枯渇する現象です。マキナは観光地ですが、森の奥地などにはほとんどひとが入らない。黒騎士を完成させるための研究には、持ってこいだったでしょうね。王都からも近いことですし」
「そういうことか。だったら大枯渇の中心地でマナの調査が出来れば、ゼノアがどんな研究をしていたかが推測出来るな」
 フェリオの優秀な分析に、セリオルは深く頷いた。
「でもよ、大枯渇があったのってもう半年以上も前だろ? 痕跡なんて残ってんのか?」
 疑問を差し挟んだのはカインだった。彼はよくやる、椅子を前後逆にして背もたれの上端に両腕を乗せ、その上に顎を置く姿勢をとっていた。セリオルはそのカインを見遣って、眼鏡の位置をくいと直した。
「カインくん、忘れてはいませんか? 我々には、この世界で何者よりマナを感知出来る味方がいるじゃないですか」
「え? いやおい、サリナか? サリナ、そんなにマナを感じ取れるのか?」
「えええ? 私ですか?」
 サリナは目をぱちくりさせて瞬きを何度もした。仲間たちはその顔を見て苦笑した。サリナは赤面して毛布で顔を隠した。
「いえいえ、サリナではありませんよ。いかにサリナでも、そこまでマナを感じ取ることは出来ないでしょう」
「は、はい、難しいと思います……」
「じゃあ誰だよ? 誰誰誰?」
「落ち着け、兄さん」
 セリオルはカインに向けて、その首から提げた翠緑色の首飾りを示して見せた。
「幻獣たちですよ、カイン」
「ああ。あ〜あ〜あ〜あ〜。なるほどね」
 カインはふらふらとリストレインを指さして頷いた。そこにアーネスの声が響く。
「でも、幻獣を使ったらまたゼノアに知られてしまうんじゃない?」
 その疑問に、セリオルは間髪を入れずに答えた。全てを検討した上での結論だと、その声の響きは語っていた。
「ゼノアは、いずれは来るでしょうが、しばらくは我々を追っては来ないはずです。アイリーンが見せたあの力の正体が、わからないはずですからね。彼は8年も地下で姿を隠していた男です。その慎重さは確かです」
 なるほど、と答えてアーネスは納得したようだった。
「さて、ともかく」
 再び窓を向いて、セリオルはカーテンを全開にした。窓から差す木漏れ日が増える。サリナは眩しさに目を細めた。小鳥の声が聞こえる。
「今は態勢を整えるのが先決です。サリナもですが、全員まだあの戦いでの疲れも癒えていないでしょう。ここは森に囲まれていて、温泉もある。栄養の多い食事もとれる。少しの間、ここで休息するとしましょう」
「賛成だ。王都では気も張り詰めだったしな」
「心を休めることも大切だからね」
 フェリオとアーネスの言葉に、セリオルは頷いた。
 そこに、小さな動物の唸るような音が響いた。全員の顔がベッドに集中した。サリナは毛布に潜っていた。
「お、お腹空きました……」
 毛布の中から消え入りそうな声が聞こえて、“大樹の木漏れ日亭”の一室に笑いが満ちた。

挿絵