第45話

「お化けの大木だあ?」
 胡散臭いと思っていることを隠しもしない父の声に、少年は憤慨した。客たちのことなど目にも入らぬか、押しのけるようにしてカウンターまで、床板を踏み鳴らして少年は進んだ。
「嘘じゃねえよ!」
 大きな声で言って、少年は両手でバンとカウンターを叩いた。
「ちょっとアルト、お客様に失礼でしょ。ご挨拶なさい」
 たしなめようと肩に伸ばされたイーグレットの手を、アルト少年は乱暴に払いのけた。イーグレットは家族の態度を諌めるのが大変だなと、サリナは思っていた。
「それどころじゃねえんだって! ティムがさらわれたんだ!」
「えっ!?」
 声を上げたのはイーグレットだけではなかった。ガンツも腰かけていた椅子を蹴って立ち上がった。アルトに掴みかからんばかりの勢いで、ガンツはまくし立てる。
「おいアルト! おめえそりゃほんとか!? ビッグスとウェッジはなにをしとんだ!」
「知らねえよ! 詰め所にはいなかった! また昼寝でもしてんじゃねえの!」
 ガンツは大きな溜め息をついて、椅子にどさりと腰を下ろした。眉間に皺が寄っている。
「あの、ティムって……?」
 サリナが尋ねた。ガンツが答える前に、イーグレットが口を開いた。彼女もガンツと同じように、暗い表情だった。
「この街に、“大樹の木漏れ日亭”っていう宿があるんだけど、そこの息子さんなの。アルトととっても仲が良くて……」
「“大樹の木漏れ日亭”って、私たちもお世話になってる宿です!」
 サリナの声が大きくなった。恰幅の良い宿の女将の姿が脳裏に浮かぶ。彼女は眠っていたため、あまり会話を交わしてはいなかったが、ちらりと見た女将は溌剌とした女性で、優しそうな目をしていた。彼女に寄り添うようにして共に働いていた男性は夫だろうと、サリナは推測した。ふたりはつましい暮らしながらも幸せそうに見えた。
「それなら会ってるわね、女将のコンスタンスさんと、ご主人のマシューさんに。ティムはふたりの息子さんなの」
 魔物に息子がさらわれた。それを知った両親はどんな気持ちになるだろうと想像して、サリナは胸を痛めた。
「アーネスさん」
 サリナの呼びかけに、女性騎士は無言で頷いた。彼女は1歩進み出て口を開いた。
「ビッグスとウェッジというのは?」
「あん? ああ、この街の自警団の団長と副団長よ。腕は立つんじゃが、いつも肝心な時に頼りになんねえ」
 やれやれと言うかのように、ガンツはまた大きく息を吐いた。父親のその様子に、アルトが地団駄を踏んで大声を出す。
「なあ親父、なんとかしてくれよ! ティムが食われちまうよ!」
「わかった。アルト、お前は自警団の他の連中に声掛けてこい。イーグレットは“木漏れ日亭”に知らせてこい。とりあえずわしが武具を持って出る。ビッグスとウェッジ以外の連中は頼りにならん」
 そう言って奥の部屋へ武具を取りに行こうとしたガンツを止めたのは、サリナとアーネスだった。
「待って、ガンツ。あなたは蒼雷鋼の盾と黒鳳棍の手入れをしてちょうだい」
「私たちが行きます!」
 背後からかかったその声に、ガンツはゆっくりと振り向いた。
「あんだと?」
 振り返って、ガンツはふたりの女を観察した。小柄な少女と、長身の女性。さきほどのやり取りで、武具に関しての人並みではない知識があることと、あの棍がこれまでに相当な修羅場を潜り抜けて来たことはわかった。しかし――
「わしにゃあお前さんらが、そこまでの使い手であるようにゃあ見えんがのう」
 サリナとアーネスは顔を見合わせた。確かに、今のふたりは宿でくつろぐ時の服装である。特に意識した立ち居振る舞いもしていない。ガンツの意見はもっともだった。
「ガンツ、イミテーションの剣と盾と、棍を貸してもらえるかしら?」
「あん?」
 アーネスの言葉を、ガンツは理解出来なかった。しかし彼の娘は違ったようだった。イーグレットは樽の中にいい加減に突っ込んである見本品の剣と盾、棍を取り出して、アーネスとサリナに手渡した。
「ありがとうございます!」
 ぺこりと礼をするサリナに、イーグレットは頷いた。
「いいのよ。それよりサリナちゃん、急いで! ほら、お父さんも!」
「おお、おおう?」
 娘にカウンターの向こうから手を引っ張られて右往左往しつつ、ガンツはようやく店の外へ出た。アルトも状況がよく掴めない表情ながら、ついてきた。
「アーネスさん、いきます」
「いらっしゃい」
 棍と剣を構えたふたりが、一定の距離を保って対峙した。見守るスウィングライン一家の前で、サリナは地を蹴った。
 イーグレットが驚愕の声を上げる。ガンツは自分の目を疑った。
 サリナの動きは常識を遥かに超えていた。彼がこれまで見てきたあらゆる旅の戦士を凌駕していた。ビッグスとウェッジなど、話にならない。サリナは旋風だった。まさしく風のごとき速さで走り、身体を捻ってアーネスに攻撃を仕掛けた。
 対するアーネスも驚異的な戦闘能力を見せ付けた。彼女の動きはサリナほど素早くはなかったが、竜巻のような猛攻撃を繰り返す少女の動きを、全て見切っているように見えた。嵐のように繰り出される乱撃を、剣と盾で全て受け流す。その合間に放たれる斬撃を、サリナは身体のバネを駆使してことごとく回避した。
 ぴたりと、ふたりの動きが止まった。剣がサリナの喉もと、棍がアーネスの鳩尾へぴたりと当てられていた。それでいて、ふたりの呼吸は全く乱れていない。
 沈黙が流れ、そしてガンツはかろうじて言葉をひねり出した。
「……わ、わかったわかった! わかったからもうやめてくれ、うちの見本が壊れっちまう!」
 サリナとアーネスは武器を下ろし、にこりと微笑み合った。

 アルトの案内で、サリナとアーネスはクロフィールを取り囲む森を歩いていた。ふたりは一度宿に戻り、戦闘用の装備を身に付けていた。とはいえ、サリナは素手である。今の黒鳳棍を戦いに使うと、再起不能になる可能性が高いとガンツが言ったためだった。
 イーグレットからティムのことを聞いたコンスタンスは、卒倒せんばかりだった。夫のマシューがかろうじてその身体を支え、昏倒は回避された。イーグレットがサリナとアーネスを手練の戦士だと紹介し、コンスタンスとマシューは半信半疑ながらも他に頼る者も無く、ふたりを見送った。コンスタンスに至ってはしばらく眠り続けていたサリナを心配したほどだった。
 ふたりは宿の部屋に置き手紙をしてきた。相変わらず宿には誰も戻っていなかったが、手紙を見れば状況を理解するはずだ。カインにスペクタクルズ・フライを飛ばすようにとの依頼も添えておいた。アーネスは騎士隊で使っていた連絡手段である即席の小型打ち上げ花火を持ち出した。スペクタクルズ・フライが来たら使うのだ。それで森の中であっても、仲間たちへ居場所を知らせることが出来る。通常の魔物ならサリナとアーネスのふたりで十分なはずだが、サリナはバッファリオンとの戦闘を想起していた。アルトは“お化けの大木”と言った。相手は巨大な魔物である可能性が高い。
 イーグレットが言ったとおり、この森は筆舌に尽くしがたい美しさだった。マナが豊富に満ちているのだろうと、サリナは思った。木々は生命力に溢れていた。木の葉1枚1枚が鮮やかな宝石のような緑を誇り、小川は水晶の粉が散りばめられているかのような煌きを生んでいた。
「サリナ、なんだか嬉しそうね?」
「えっ!」
 アーネスの言葉に、サリナは両手で頬を押さえた。顔が緩んでいただろうかと考えるも、無意識のことなので思い出しようが無かった。
「ごご、ごめんなさい。私ったら、不謹慎ですよね」
「まあ、この森を見ていたらうきうきするのもわかるわ。すごく綺麗だもの」
 アルトがじとっとした目でこちらを見てくる。少年は不満を隠さない口調で言った。
「なああんたら、ちゃんとやってくれんのか? 俺、不安なんだけど」
 振り返って立ち止まった少年に、アーネスが近づいた。アルトは怖気づいたように後ずさる。アーネスはアルトの目の高さに合わせるようにしゃがんだ。彼女は微笑を浮かべていた。
「な、なんだよっ」
 それでも強がるアルトの頭に、アーネスの手が置かれる。女性騎士は少年の頭を撫で、ぐっと顔を近づけた。少年がぎくりとしたように顔を下げる。そんなアルトに、アーネスは殊更に優しい口調で言った。
「アルトくんは、まだ子どもだもんね〜。さっきのお姉ちゃんたちの演習見ても、よくわかんないよね〜」
 なでなでなで――と少し強めの力でやられて、アルトは顔を真っ赤にした。だんだん目も回ってくるようだった。間近で見るアーネスは、美人だった。
「う、うううう、うるうるるせー! 俺だってわかってるっつーの! あんたらの強さぐらいとっくに知ってるっつーの! バカ! おばはん!」
 アーネスが笑顔のまま固まった。アルトの最後のひと言がそうさせた。はらはらしながらも、サリナはアーネスのこめかみがぴくぴくと動くのを見逃さなかった。
「アルトくん、口には気をつけようね〜。口は災いのもと、なんだよ〜」
「うるせえおばはん! ババア!」
 捨て台詞のようにそう叫んで、アルトは走り出した。アーネスは剣を抜いた。目が据わっている。
「ああアーネスさん、おちおち落ち着いてください」
 サリナは慌ててアーネスを止めようとした。しかしアーネスはサリナの制止をかわして、少年の後を追って駆け出した。
「アーネスさん!」
 サリナが追いつく前に、アーネスは少年に手の届くところへ来た。彼女は剣を腰の位置に構えた。アルトが迫り来る足音に振り返り、ぎらりと光る抜き身の刀身に悲鳴を上げる。
「わ、悪かったよ! ごめんなさい! もう言わないから許して!」
 少年の声は空しく響いた。アーネスは冷徹に、剣を一閃した。サリナの悲鳴が響く。
 ほんの一瞬の静寂。そして獣の声が上がった。狼の魔物の、それは断末魔だった。
「……い?」
 しゃがみこんで頭を両手で押さえていたアルトは、ゆっくりと目を開いた。見上げると、そこには魔物の血を払って剣を鞘に収めるアーネスがいた。
「何してるの、アルト。立ちなさい。ティムを助けるんでしょ?」
「あ、アーネスさん……なんだ、良かった……」
 ほっとして胸を撫で下ろすサリナに、アーネスの厳しい目が向けられた。
「何が良かったの、サリナ。あなたはさっきの魔物に気づかなかったの? アルトが襲われるところだったのよ」
 卒然として、サリナはアルトを見遣った。少年は何が起こったのかをようやく理解したようだった。今さらながら、恐怖に身体がすくんでいるらしい。
 もしアーネスが気づかなかったら、少年は茂みから飛び出した魔物に襲われて怪我を負っていただろう。もしかしたら大怪我になっていたかもしれない。森のマナに触れて緊張感を失っていたことを、サリナは反省した。
「ごめんなさい……」
 下を向いて謝るサリナに、アーネスは声を和らげる。
「まあ、済んだことはもういいわ。それより、気をつけましょう。魔物が出るなんて、おかしいわ」
「え?」
 サリナはあたりを見回した。美しい森。マナの祝福を受け、生命力に溢れる森だ。
「確かに、魔物が出そうな森じゃないですね」
「ええ。ここは昼間は魔物が出ないはずなの。この森に巣食う魔物たちは、夜行性のものばかりだったはず……」
「あ、そういえばイーグレットさんが、森にも昼間は魔物が出ないって言ってました」
 アーネスは顎に手を当てて考え込んだ。しかし答えは簡単には出ない。彼女は自分をじっと見つめている少年へ顔を向けた。アルトはぎくりとしたようにたじろいだ。
「アルト、何か心当たりはある?」
「わ、わかんねえよ。けど――」
「けど?」
 アーネスに促されて、アルトは唾を一度飲み込んだ。咳払いをして、少年は続ける。
「けど、最近森で遊んでる時に、今まで聞いたことの無かった唸り声なんかが聞こえることがあったんだ。それで皆びびっちまって、だんだん森に出なくなった」
「それを大人たちには知らせなかったの?」
「うん。俺、大したことじゃないと思ってたんだ。まさかほんとに魔物が出るなんて思わなかった」
「そう……」
「ごめん。俺がもっと早く皆に知らせてれば、こんなことにならなかったんだ」
 悔しさに唇を噛むアルトの頭に、アーネスの手が載せられた。ぽんぽんと、アーネスの手は少年の頭を軽くたたいた。勇気を分け与えるかのような行為だった。
「あなたは私たちに知らせてくれたわ。さあ、ティムを助けに行くわよ」
 長身の女性騎士はそう言って、先へ行く足を速めた。サリナがそれに続く。彼女はアルトの脇を通る時、小さな声でこう言った。
「アーネスさん優しいけど、怒ると怖いね。気をつけようね」
「あ、ああ……って、待ってくれよ! 俺が案内するんだろ!」
 少年は大きな声でそう言って走り、アーネスの前まで出て肩を怒らせた。そして女性ふたりに笑われ、更に憤慨するのだった。
 道中、魔物は何度も襲いかかってきた。これまで子どもたちがよく被害に遭わなかったものだと思わずにはいられなかった。アーネスは、チョコボでクロフィールに入った時にはこれほどの魔物の気配を感じはしなかったと言った。仮に魔物が頻繁に出没する森だったら、セリオルはサリナたちのための休息場所として、ここを選びはしなかっただろう。そう思えるほどの魔物の数だった。
 サリナとアーネスがことごとく撃退したが、アルトは初めて目にする魔物たちの姿にすっかり怯えていた。無理もないことだった。しかし彼は、勇気も失ってはいなかった。
「ティム、待ってろよ。すぐ助けてやるからな……」
 魔物の影に小さく悲鳴を上げながらも、アルトはティムの無事を祈り続けた。戦う力を持たない彼は、それが自分にしか出来ない仕事だと思っているようだった。魔物が現れたら、アーネスやサリナの後ろに隠れるようにと、アルトは指示されていた。
 しかし魔物に対する恐怖とティムを救うという使命感とが、彼の頭を混乱させていった。群れで襲来した魔物にサリナとアーネスが手を焼いている間、アルトはティムの名を呟きながら歩くのをやめなかった。
「あっ! ちょっと、アルト! だめだよ!」
 跳躍して襲いかかった人型のトカゲの魔物に回し蹴りを叩き込んで、サリナが叫んだ。アーネスも気づいた。しかしまとわりつく魔物が邪魔をする。もどかしさに、ふたりは苛立った。
「アルト! 下がりなさい!」
「危ないよ、アルトー!」
 ふたりの声はアルトには聞こえないようだった。彼はただひたすら、ティムの名を呼んでいる。
「危ない!」
 サリナとアーネスは魔物に渾身の一撃を見舞って弾き飛ばし、アルトの許へ走った。アルトよりも大きな鳥の魔物が、今にも襲いかかろうとしていた。間に合うかどうか、ぎりぎりだった。
 空を切り裂いて飛来した数本の矢が、魔物に突き刺さった。矢は命中した瞬間、ぼうと炎を上げて燃え盛り、魔物は弱々しい声を上げながら地に落ちた。その落下した音で、アルトはようやく我に返った。
「おいお前ら、こんなとこで何してんだよ」
 そう言いながら茂みの中から現れたのは、サリナたちのよく知った少年だった。大きな接ぎの入った帽子をかぶった少年は、その身体に何枚もの甲殻のようなものを縛り付けていた。
「クロイス!」
「あ?」
 サリナの声に顔を向けると、獣型の魔物がこちらへ飛びかかろうとしていた。クロイスは短剣を素早く抜き、両手に構えて迎え撃った。魔物は彼の俊敏な攻撃に、声も無く斃れた。
「なんだよ、なんでこんなに魔物が集まってんだ?」
 魔物の血を払って、クロイスは短剣を鞘に収めた。目の前では見知らぬ少年が腰を抜かしたように地面にへたり込んでいる。サリナとアーネスはやや疲れているように見えた。
「ああ、よかった! ありがとうクロイス!」
 サリナが駆け寄ってきた。彼女はそのまま、地面にぺたりと尻を下ろしたままの少年を看る。少年に怪我は無いようだった。アーネスが剣を鞘に収めて、具足で地面を踏んで歩いてきた。
「クロイス、ここで何を?」
「え? いや、この森珍しい魔物が多いからさ。合成の素材になりそうなやつ探して狩ってたんだけど」
「そう。収獲はどう?」
「まあまあだな。あとでセリオルに渡して武器とかの材料にしてもらおうと思ってる」
 クロイスは身体に縛りつけたいくつもの素材をアーネスに披露した。確かに十分な成果を上げたようだった。アーネスは賞賛の言葉をクロイスに送った。少年は鼻をこすった。照れていた。
「で、そっちは何してんだ?」
「アルト、気をしっかり持とう? ティムがさらわれたのは、アルトのせいじゃないよ。そんなに自分を責めなくていいよ」
「そうね。今はきちんと自分の安全を守って、私たちを目的地へ連れて行ってちょうだい。それがティムのために出来る最良だわ」
「うん……わかった。迷惑かけてごめん」
 少年はすっくと立ち上がった。両手でぱんぱんと顔を叩く。
「よし、行こう! もうちょいだ!」
 そしてアルト少年は、颯爽として先頭を歩き始めた。サリナとアーネスがそれに続く。
 クロイス少年は、所在無くぽつんと立ち尽くした。
「おいちょっと、俺ここにいるんだけど。俺さっき、そいつ助けたんだけど。なあちょっと、なんとなく状況はわかったけどさ、おーい」
 覇気の無い声で言うクロイスを、サリナが振り返った。
「クロイス、なにしてるの! 早く行こうよ!」
「……納得いかねー」
 ぶつぶつ言いながら、クロイスはサリナたちの後を追いかけた。
 道すがら、クロイスにサリナが状況を説明した。なぜか不機嫌なクロイスに首を傾げながら、さりとて特に気にはせずにサリナは話し終えた。
「んで、そのお化けの大木ってのがいるとこに向かってるんだな」
「うん。その魔物をやっつけて、ティムを助けてあげないと」
「じゃあ急がねーとな」
「うん」
 アルトはサリナたちから遅れまいと、ほとんど走って先頭を保っていた。それだけティムを助けたい気持ちが強いのだろうと、サリナたちは何も言わなかった。アルトは冷静さを取り戻していた。彼はなかなか頭のよく回る少年だった。お化けの大木に襲われて混乱した頭で、無我夢中で走ったはずの道程を、記憶の中の僅かな手がかりから懸命に思い起こして案内した。
 やはり何度か襲来した魔物の群れを、サリナたちは撃退した。クロイスも加わったことで、戦闘は格段に楽になった。手ごわい魔物はいなかったが、数が多い。一度に複数の魔物を攻撃出来るクロイスの矢は非常に有用だった。
 やがて、4人は森の中の開けた場所へ出た。いくつかの倒木が転がる広場のような場所で、不思議なことにそこだけは綺麗な円形を保っていた。植物は芝くらいの背の草花が生えているだけである。ぽっかりと開いた広い空間には、太陽の光が燦々と降り注いでいる。
 そしてその突き当たりに、1本の巨大な木が生えている。深い年輪を刻んでいるであろう、巨木だった。
「ここは……」
 その不思議な空間に、サリナが1歩踏み込もうとした時だった。森の木々がざわめいた。
「あ、あれだ! あの木だ!」
 アルトが叫んだ。少年は広場の突き当たりにある巨木を指差していた。サリナたちの視線がさっと巨木に集中する。サリナ、クロイス、アーネスはそれぞれ戦闘の構えを取った。
 森のざわめきが巨木に集中するように見えた。巨木がその身を捻るようにして動き出す。
 ぐるんとこちらを向いた巨木の幹に、恐ろしげな顔が現れていた。ふたつの黒い目と、深く裂けた黒い口だった。枝が腕のように動いてサリナたちを威嚇する。声は出ないようだった。代わりに枝葉のこすれる音がガサガサと鳴る。
「アルト、下がってて」
 サリナがアルトを後ろへやった。少年は自分の手で魔物を退治したいようだったが、それは現実的ではないということも彼は理解していた。アルトは大人しく安全な場所まで下がった。
 巨木は威嚇を続けている。サリナは接近すべく、両脚に力を込めた。
「待って」
 アーネスの声だった。驚いて、サリナとクロイスはアーネスを見遣った。騎士隊長は訝しげな目を巨木に向けている。
「ふたりとも、ちょっと待っててくれる?」
「え? え、アーネスさん?」
「おいちょっと、アーネス! 危ねーだろ!」
 ふたりの制止を聞かず、アーネスは歩き出した。無防備とも言えるほど、戦う意志の見えない無造作な動きだった。サリナとクロイスは顔を見合わせた。アーネスが考えなしな行動を取るはずは無かったが、理解出来なかった。
 アーネスはさくさくと草を踏んで歩いた。巨木に徐々に近づいていく。巨木は枝を振り上げて威嚇を続けている。しかし咆哮を上げるわけでもないので、太陽の光に照らされたその姿が、サリナには段々滑稽なものに見えてきた。隣を見ると、クロイスも同様であるらしかった。小さく吹き出している。
「な、なあ、アーネス大丈夫なのか?」
 アルトがたまりかねてそばに来た。サリナもよくわからなかったが、ひとまず彼女はしゃがんで彼に言った。
「大丈夫だよ。アーネスさん、すごいひとだから。ね、クロイス」
「あ? あ、ああ、そうだな、うん」
 クロイスは腕組みをしてこくこくと首を縦に何度も振った。あまり説得力は無かった。
 そうこうしているうちに、アーネスは巨木へどんどん近づいていく。しかし巨木のほうは枝を自由に動かせるにも関わらず、枝が届く範囲にアーネスが入っても全く攻撃を仕掛けてはこなかった。相変わらず枝を振り上げて威嚇をするばかりである。
 そしてとうとう、アーネスは巨木の根元へたどり着いた。幹を見上げると、やや高いところに黒い口が見える。巨木は幹を懸命に曲げてアーネスを見ようとしたが、うまくいかないようだった。
 とん、と幹を蹴って、アーネスは跳躍した。器用に幹のこぶに足を掛けて上っていき、巨木の顔のすぐ脇の太い枝に腰を下ろした。じっと巨木の顔を見つめる。巨木はほとんど固まってしまっていた。これから起こることを予感しているかのようだった。
 すっ、とアーネスが腕を伸ばして、巨木の目に触れた。巨木は動かない。穴が開いているように見えたそれは、完全に木の感触だった。幹の表面に、黒い絵を描いているだけだった。
 次に、アーネスは顔の背面に顔を向けた。そこには赤くて丸い、ぼんぼりのようなものがくっついていて揺ら揺らとしている。アーネスは確信して、枝から跳躍した。落下の勢いに任せて、赤いぼんぼりを掴む。
 巨木がのけぞった。少しだけ耐えたが、すぐに限界が来た。
「ク、ククク、クポ〜〜〜〜!」
 大きな声を上げて、巨木は倒れた――かに思えた。
 ぼわんと大きな煙が起こった。煙の中に、巨木の姿は消えた。
「あははははは! あっという間にばれたー!」
 煙がおさまって、そこには真っ白で丸い、ふわふわした毛皮を纏った身体の背に蝙蝠のような小さな翼を生やし、丸い頭にこぶし大の赤いふわふわの球体を1本の触覚のようなものでくっつけ、右肩から左わき腹へかけて小さなポシェットのようなものをかけた不思議な生物が何体か転がった。そしてそのほぼ中心に、アルトと変わらない歳の少年が横たわり、腹を抱えて足をばたばたさせ、大いに笑い転げていた。
 着地したアーネスは、小さく呟いた。うんざりした口調で。
「やっぱり、モーグリの悪戯だったのね」
 ティム少年の無邪気な笑い声が、空しく響く。

挿絵