第5話
寝不足だったことや一昨日からの疲れもあって、サリナが目覚めたのは太陽がもうかなり高く上がったころだった。慌てて身支度をしてセリオルを訪ねると、彼は部屋の机に向かって書き物をしているところだった。傍らには彼がフェイロンの店で扱っていた薬品の小瓶がいくつか置かれている。扉の開いた音に、セリオルがこちらを振り向いた。 「ああ、サリナ。おはよう」 「おはよう。ちょっと寝すぎちゃった」 「疲れていたんですね。マスターが朝食を用意してくれていましたよ。行ってみたらどうです?」 「セリオルさんはもう食べたよね」 「ええ。お茶でも頂きに行きましょうか」 作業の手を止めて立ち上がり、セリオルは伸びをした。 “海原の鯨亭”のマスターは20年ほど前に引退した元漁師で、今でもユンランの漁師たちに顔の広い、浅黒い肌の逞しい初老の男である。左脚の怪我が引退の理由で、今は杖をついて生活をしている。昨日カインから聞いた話だ。 よく眠ったためか、サリナの気分は爽快だった。開いた窓から陽の光が差し込み、海鳥の声と潮の香りを乗せた風が心地よい。遠くからは漁から戻った男たちと彼らを迎える女たちの賑やかな声も聞こえてくる。 給仕の女性が運んできたのはスープとパンだった。サリナはかなりの空腹を感じていたが、昼食の時間もそう遠くないので、それだけにしておいたのだった。ただしマスターの作ったスープは“漁師の腕っぷしスープ”なる豪快な名前で、スタミナがつくと評判の、近海で獲れる魚のすり身と野菜がごろごろ入っている。 「サリナ、これからのことですが」 ことりと湯飲みを置きながら、セリオルが切り出した。サリナは口の中がパンでいっぱいで、ふがふがとだけ答えた。スープに浸したパンは美味だった。 「ここの港から船に乗ってセルジューク群島大陸に向かいます。王都は大陸の北東部、スペリオル州に位置しますが、そこへは陸路でしか行くことができません。まずは南西部のインフェリア州へ上陸することになります」 ふがふがと相槌を打つだけのサリナに、セリオルはゆったりと説明した。 入口の扉を押し開けて入って来る者がいた。カインとフェリオのスピンフォワード兄弟だった。サリナたちを見止めた彼らは軽く挨拶し、フェリオはマスターのところへ何事か話をしに行った。 「やっぱあの夫婦だったよ、自警団に通報したのは」 サリナたちと同じテーブルにつきながら、カインはそう報告した。彼は給仕の女性にコーヒーを注文し、ついでに軽いナンパの声を掛けたものの極めて簡単にいなされた。 あの老夫婦が自警団に行ったのだと知って、サリナは胸を痛めた。フェイロンの木彫りの人形を嬉しそうに眺めていたふたりの顔が脳裏をよぎった。 「でだ」 カインは周囲をはばかるように声をひそめ、こう続けた。 「昨日言ったとおり、俺たちは野盗のやつらをとっ捕まえに行く。フェリオの仕事の成果を早く発表したいからだ。自警団のやつらのちんたらした準備を待ってたらいつになるかわかんねえしな」 「たったふたりで、危険は無いんですか? 相手の人数はわかっているんですか?」 「問題ないね。下っ端があんなレベルなんだ。頭がどの程度かも想像つくさ」 その口ぶりから彼らはこれまでも同じようなトラブルに関わったことがあるのだろうと、セリオルは推測した。もっともセリオルにとっては、カインたちが野盗を退治してくれるのは好都合だった。確かに村の自警団が動くのを待っていては、大陸に渡ることができるのはいつになるかわからない。街道で野盗たちを退けたスピンフォワード兄弟の実力から言えば、心配も無いようにも思える。 しかし――とセリオルは胸中で呟いた。やはりたったふたりで行くのを黙って見送って良いものか。万一、野盗たちが何十人という大所帯だったら? いかに腕の立つ二人でも、集団で囲まれてしまっては危ないのではないか。右手の中指で眼鏡の位置を直しながら、セリオルは思案した。 「私も、一緒に行かせてもらえませんか?」 不意に耳に入ったサリナの声に、セリオルは仰天した。 「何を言ってるんですかサリナ。そんな危険なことは――」 「あのご夫婦の荷物が奪われたの、私のせいです。私が油断したから」 「あれは事故です。君に責任は無い」 「でも、私は……自分の手で荷物を取り戻して、返してあげたいの」 膝に手を載せ、俯いて決然と言い切ったサリナに、セリオルはかぶりを振った。サリナの責任感の強さはよく知っていた。以前、ファンロン流の弟弟子が森での稽古中に稀有な毒蛾の燐粉に中てられた時は、セリオルの教えた希少性の高い薬草を危険な夜の森で一晩かけて探し出してきた。彼は深い溜め息を吐き出しながら言った。 「わかりました。ただし、私も行きます。君をみすみす危険に晒しては、ダリウさんとエレノアさんに合わせる顔がない」 少し泣きそうだった顔を輝かせて何度も礼を言うサリナに、セリオルは困った顔で微笑んだ。そのふたりに、やり取りを見ていたカインが声を掛けた。 「まあ、あんたが来てくれるのは心強いが……大丈夫なのか?」 「どういう意味です?」 「足手まといになるんじゃないかって言ってるんだ」 そう言いながら会話に入ってきたのは、マスターのところから戻ってきたフェリオだった。彼は野盗に不意を突かれて気を失ったサリナのことを言っているのだった。セリオルは憮然としてフェリオを見上げた。サリナはまた俯いてしまった。 「おいフェリオ、言い方を考えろよ」 「兄さんも思ってることだろ? あの程度の奴らに気絶させられた奴がアジトに乗り込んで行って、役に立つのか?」 「心配は要りませんよ。騎鳥車の中でサリナが寝ている時にも言いましたが、サリナはファンロン流武闘術師範代の腕を持つ武闘家です。それに白魔法にも長けている」 「どうだかね」 どうやらフェリオは、サリナと同じことを考えていたのだとセリオルには思えた。フェリオは老夫婦の荷物を奪われたことに憤っていたが、それはサリナの力不足によるものだと、口には出さずともサリナを責めていたのだ。騎鳥車でサリナのことを話したのは迂闊だったと、セリオルは後悔した。サリナの肩書を知らなければ、フェリオも彼女を責めはしなかっただろう。 「もし、私が足を引っ張るようだったら、置いて行ってくれていいです。自分の力でついていきます」 力を込めた口調でそう言うサリナに、カインは口笛を吹き、フェリオは鼻を鳴らし、そしてセリオルは溜め息をついた。 カインとフェリオの部屋で、4人は作戦を練ることにした。サリナやセリオルの部屋とは違って、2人部屋のため4人が入っても手狭にはならなかった。この宿の部屋には窓が多く、いつでも潮の香りを乗せた風が入ってくる。 |