第51話
胸の中心に、サリナは両手を当てた。トクン、トクン、トクン、と。彼女の心臓は規則正しく、しかしいつもよりも駆け足に、そしてやや強く打っている。サリナはそれを不思議に思った。クロフィールのあの美しい、清らかなマナの満ちた森。そしてすべてのマナの源、世界樹の子どもとでも言うべき第二の世界樹。そこでマナを感じた時も、彼女の心臓は高鳴っていた。 クロフィール長老、エーヴェルト・リンドホルム。第二の世界樹を見守ってきた、リンドホルム一族の長。サリナは第二の世界樹で感じた予感の正体がわかったような気がした。清浄で強力なマナに触れることで呼び覚まされる、自分の力。それが間もなく、現れようとしている。 サリナは円陣の中心に立っている。長老が部屋のランプの火を消した。ふっ、と部屋が暗くなる。小さな窓にもカーテンが引かれ、僅かな薄明かりが入り込むのみとなった。床を踏むエーヴェルトの足音だけが響く。サリナには自分の後ろに並ぶ仲間たちの息遣いさえ聞こえるようだった。 「さて」 サリナの正面に立ち、長老が口を開いた。彼は静かにサリナを見つめる。 「サリナ、おぬしはリバレーターじゃそうじゃな」 「え? あ、はい」 サリナはセリオルを振り返った。彼女の兄は黙って頷いた。長老には話してあります――その瞳はそう語っていた。 「後ろの皆さんも、リバレーターだと聞いておるが?」 「はい」 長老は大きく頷いた。若葉色の法衣がさらりと揺れる。 「再びリバレーターたちが集まった……。世界に危機が迫っておる、か」 長老は両目を閉じ、大きく息を吸った。何かを思案しているようだった。 「あの……」 おずおずと、サリナは切り出した。長老が目を開ける。 「長老様は、リバレーターのことをご存知なんですか?」 「エーヴェルトで構わんよ、サリナ」 「あ、はい、エーヴェルトさん」 長老は僅かに微笑んだ。ひとを安心させる、温和な表情だった。 「わしは第二の世界樹を守る者。モーグリたちとも親交がある。リバレーターや幻獣たちのことはよく知っておるよ。それに――」 一旦言葉を切って、エーヴェルトは窓のほうへ移動した。カーテンの隙間から、柔らかな光が漏れている。 「公表されてはおらんが、わしの祖先は、クラエス・フォン・リンドホルムなんじゃ」 「え!」 サリナだけでなく、仲間たちからも驚きの声が上がる。特にアーネスは威儀を正したほどだった。 「あの、6将軍のクラエス、ですか?」 「さよう」 「でも確か、6将軍たちは戦争後は、ラインハルト以外は身分を返上したって……」 振り返り、エーヴェルトは再びサリナの前に立った。法衣の袖が広がる。 「それは時の宰相、リヴがでっち上げた話じゃ」 「そんな!」 声を上げたのはアーネスだった。王国に仕え、働いてきた彼女が衝撃を受けるのも無理は無かった。 「実際はヴァルドーのような凶行に出る者たちが再び現れぬよう、統一戦争終結後、ウィルム王と共に戦った6将軍はそれぞれの使命を負ってその余生を送ったのじゃ。クラエスは第二の世界樹を擁するクロフィールを治めたのじゃよ」 「それがどうして、隠されたのです?」 アーネスの問いかけは早口だった。動揺していた。 「パスゲアのような恐ろしい思想を持つ者が現れた時に、世界の要所を簡単には攻めさせないためでしょう」 答えたのはセリオルだった。彼はじっと、長老とサリナを見つめている。 「でも、6将軍がいるってわかってるほうが攻めにくいんじゃねえか?」 カインは頭の後ろで手を組んだ姿勢で言った。セリオルは首を横に振る。 「6将軍を配置すれば、そこには何か重要なものがあると教えるようなものです。第二の世界樹にしても、普通は見つかることはないでしょう。注目させず、かつそこに強力な守護者を置く。それが最も効果的な防衛策だったんですよ」 「なるほどな。だとしたら今後、俺たちもその6将軍たちが守ったものを目にする可能性もあるってことか」 顎に手を当て、フェリオがそう言った。セリオルは大きく頷いた。 「少々話が逸れてしまったが、サリナ」 「はい」 長老の手が動く。彼は空中に魔法文字と、幾何学的な紋様を描いた。その指先にはマナの光が灯っている。セリオルが感嘆の声を漏らす。体系的に構築され、マナを一定の法則のもとで操る魔法とは異なり、マナそのものをこれほど自在に扱うのは極めて高度な技術である。 エーヴェルトが描いた文字は空中を移動し、サリナへと届いた。彼女の目の前で、魔法が発動する時のように文字と紋様が回転し、そしてそれらは足元の円陣へと吸い込まれていった。円陣が緑色の光を放つ。 心臓が高鳴る。サリナの意思とは関係の無いところで、彼女の精神と身体がマナを欲しているかのように思われた。サリナはその状態に戸惑った。 「心を集中させなさい、サリナ。アシミレイトをする時のように」 「は、はい」 光とともに風が起こる。マナの流れ。森の中にいる時のように、彼女の身体を神々しいほどに清らからで、力強いマナが包む。サリナは両目を閉じた。心を集める。自分の内側へ、精神と肉体の中心へ――。 漆黒の闇を彼女は進む。ロックウェルのスピンフォワード兄弟の家で初めてアシミレイトした時のように。今では意識することも無く出来るようになった、サラマンダーとの融合。その手順を改めて一から確認するかのように、彼女は進む。 泳ぐようにして進んだ暗闇の中に、炎の色が揺らめく。火炎竜、サラマンダー。大型犬ほどの大きさの、真紅のドラゴン。エメラルドの瞳。 サラマンダーは炎を揺らめかせながら、サリナをじっと見つめている。正面から向き合って、しかしサリナはサラマンダーに話しかけはしなかった。サラマンダーも無言だった。 気づくと、サラマンダーの後ろに大きな影がふたつ、浮かんでいた。靄のようではっきりとしないが、ひとつは人型、もうひとつは鳥のような形をしている。いずれも大きい。特に鳥型のほうは巨大だ。 サリナはそのふたつの大きな影も、サラマンダーと同じように彼女を見つめているように感じた。 彼女は既視感を覚えた。ぐん、と何かの力が彼女の身体に流れ込んでくる。以前にもこんなことがあった。ロックウェルのビッテンフェルトチョコボ店で、アイリーンと出会った時、そしてアーサーと戦った時だ。どこからか流れてくる、大きなマナ。ヴェルニッツ大河のように雄大な流れ。きらきらと煌く、光の粒。そしてサリナの意識は、覚醒へ向かう。 目を開いた。世界はマナに祝福されていた。 「すげえ……」 クロイスの声が聞こえた。その声には畏怖の念が込められていた。 風の音が大きい。サリナの足元の円陣から、ごうごうとマナがあふれ出している。サリナは奇妙な浮遊感を覚えていた。手足が軽い。目に映っているのは間違いなく現実だが、夢の中にいるような心地だった。身体が熱い。 「成功じゃな」 長老はサリナを見つめて呟いた。額に汗が浮かんでいる。サリナが自分の中に没入している間、マナを操っていたのだろう。 風が弱まった。マナの光もそれに伴って減少する。少しずつ勢いを無くして、やがて風は止まった。舞い踊っていた髪が、さらりと落ちてくる。 「長老、ありがとうございました」 セリオルの声が聞こえた。サリナは振り返った。 「サリナ、その目は!」 フェリオの驚いた声。サリナはそれを、意識の遠くで聞いた。視界に仲間たちが映っている。だが夢の世界から現実世界を見ているような感覚に、サリナは囚われたままだ。仲間たちが彼女を見て騒いでいる。 「どうしたんだ、その目」 「瞳が真っ赤だぞ!」 カインとクロイス。賑やかなふたりだ。しかし目の色が、一体なんだと言うのか? 「すぐに治まる。マナが解放されたことの影響じゃよ」 後ろからエーヴェルトの声。その言葉に安心したような、仲間たちの顔。 アーネス、クロイス、フェリオ、カイン、そしてセリオル。サリナは首を動かして、仲間たちの顔を順番に確認する。彼女の大切な仲間たち。大切な、仲間。 そう意識した瞬間、急激に現実感が現れた。彼女は夢から覚醒した。 「あ、あれ?」 頭を振る。瞬きを繰り返す。両手を確かめる。ここはクロフィール長老、エーヴェルト・リンドホルムの家だ。 「サリナ、大丈夫?」 「意識ははっきりしていますか?」 アーネスとセリオルが近くに来て、サリナの様子を確かめた。さきほどまでぼんやりした表情だったが、身体が慣れたのか、いつものサリナの顔に戻っていた。瞳の色も、真紅からもとの色に戻っていた。ふたりは安堵に溜め息をついた。 サリナは胸に手を当てた。鼓動が速い。全速力で走った後のようだ。しかし呼吸は乱れない。身体の芯が熱い。心臓が灼熱し、全身に熱を送っているようだ。奇妙な感覚だった。 「だ、だいじょぶ、です」 ゆっくりと、サリナは上体を起こした。ついさっきまでと世界の様子が違う。手を伸ばせば、視界に入る全てのものに触れることが出来そうだ。目を凝らせばどこまでも見通すことが出来る。1歩足を踏み出せば、行きたい場所へすぐに行くことが出来る。サリナにとって世界は今、それほど小さく感じられた。 「サリナ?」 セリオルが呼びかける。サリナは彼のほうを向いた。足を前に出す。 途端に彼女は膝から崩れ落ちた。身体中の力が足元から全て抜けた。 「サリナ!」 誰よりも速く飛び出してサリナを支えたのは、フェリオだった。サリナはフェリオの腕に倒れ込むかたちになった。足を出そうとしてセリオルとアーネスは、顔を見合わせた。その後ろではカインとクロイスがにやにやしている。 「大丈夫か? サリナ」 「う……うん」 フェリオはサリナの温度を感じていた。異常に熱い。まるで風邪で高熱を出しているかのようだった。彼はサリナの両肩に手を当てて、彼女の身体を支えた。少女は目を伏せている。睫毛の奥で、その瞳は不安げに揺れていた。 無理もない、とフェリオは胸中で呟いた。彼女は彼と同じ、まだ18歳なのだ。過酷な運命に立ち向かうには、あまりに幼い。自分だったらどうだろうと、フェリオは自問する。いまやサリナの戦いは、彼女の私闘ではなくなっていた。 国王の力添え。王国騎士団の協力。世界最大の秘密のひとつであるはずの、第二の世界樹の目撃。黒騎士やゼノアとの戦闘。長老は言った。世界に再び、危機が迫っている。サリナのマナを引き出したのは、その危機を脱するために他ならない。それはつまり、彼女が世界の命運を握っていると言っているようなものだった。それを敏感なサリナが感じ取っていないとは、考えにくかった。 まだ18歳の、小柄で華奢な少女。彼女は使命感も正義感も強い。そして誰に対しても優しい。だからいつも、彼女は自分を責める。窮地に陥るたび、自分の力不足を悔いている。フェリオはそんなサリナの苦しみを知っていた。 「サリナ」 気づいた時には、フェリオの口から言葉が飛び出していた。サリナは顔を上げた。汗で前髪が貼りついている。フェリオはその髪を上げてやった。涼しさに、サリナが小さく息を吐く。 「君は孤独じゃない。君の戦いは、俺たちの戦いだ。ゼノアが世界に仇を為すというなら、俺たちがそれを止めよう。ひとりで全てを背負うことはない。少なくとも、君には俺たちがいるんだから」 サリナはフェリオの顔を見つめた。ロックウェルや王都で見せた、あの真摯なまなざし。美しい灰色の、穏やかに凪いだ海のような、優しい瞳。彼女はその瞳が好きだった。 「フェリオ……」 知らぬうちに、両目から涙が流れた。堰を切ったように、とめどなくあふれ出してくる。やがてそれは嗚咽となり、長老の家の狭い部屋を満たした。 「あー。あー。えー、おほん。ふたりだけの世界なところ誠に恐縮だが――」 「泣ーかした泣ーかした! いかんよフェリオくん、弱いものいじめはいかんよ!」 「てめえコラ! せっかく俺が茶々入れようとしたのにコラてめえ、邪魔すんじゃねえよ!」 「バーカ早い者勝ちだっての! 悔しかったらもっと頭の回転良くするんだな!」 「んだとてめえ! そこに直れ!」 「誰が直るかアーホボーケ」 「やめなさい」 カインとクロイス、それぞれの脳天にアーネスの強烈な手刀が叩き込まれた。ふたりは蛙が潰れたような声を出してうずくまった。泣いている。 「やれやれ。まったく、しょうがないですねえ」 セリオルがカインたちの様子に苦笑しながら、サリナとフェリオの隣にしゃがみこんだ。彼はふたりの肩に手を置いた。 「サリナ、フェリオの言うとおりです。ここに集まった皆は、心から君を支えたいと思っているからここにいる。王都で仕事を探すためと言っていたクロイスも、ここに来てくれている。それはね、サリナ。君を助けたいと思っているからです」 サリナはクロイスを見た。しゃがみこんで頭を押さえているが、目だけでこちらをちらちらと窺っている。サリナと目が合うと、ぷいとそっぽを向いてしまった。サリナは微笑んだ。クロイスはカインとともに、いつもその場を楽しくしてくれる。彼女はクロイスに感謝した。 「君には、その思いをきちんと受け取る義務があると、私は思います」 セリオルの優しい声。サリナは彼に向かって頷いた。自分の心を襲おうとした孤独感が、もう消えていた。自分にばかり重い運命がのしかかるのではない。その重さは、仲間たちが分担してくれる。サリナは立ち上がった。 「ありがとうございます。私、もう大丈夫です」 彼女は仲間たちの顔を見渡した。頼りになる、大切な仲間たちだ。 「元気にいこうぜ、サリナ。二度と負けやしねえよ、俺たちは」 「お前がキレてヘマさえしなきゃな」 「うっせえバカ」 「やめなさいって」 手刀が飛んでくる前に身をかわして、カインとクロイスは部屋の隅へ行った。溜め息をついて、アーネスがサリナに向き直る。 「初めてあなたに会った時、占いをして私はいくつかの未来を見たわ。そのうちの炎と闇の激突は、あなたと黒騎士の戦いのことだった。でも、まだわかっていないことがある……。これから先も、あなたには――いえ、私たちには過酷な未来が待っているかもしれない」 言葉を切って、アーネスは腰に佩いた剣に手を遣った。かちゃりと、鞘と剣が音を立てる。 「でもね、サリナ。私たちには味方が大勢いるわ。あなたがこれまで関わってきたひとたちもそう。王都の騎士たちや国王様もそう。モーグリたちだってそう。こんなにたくさんの仲間がいるんだから、きっと大丈夫よ。そうでしょ?」 サリナは静かに頷いた。彼女はこれまでに出会った多くの人々に思いを馳せた。協力してくれた彼らの幸福な暮らしを守るためにも、自分は戦わなければならない。再び身体が熱くなった。心臓に火が灯る。しかしそれは、引き出されたマナによる炎ではなかった。小さくも力強く燃える、心の炎だ。 「長老様、ありがとうございました。私、頑張ります」 ぺこりと頭を下げるサリナに、エーヴェルトは微笑んだ。じっとサリナを見つめ、彼は言った。 「良き仲間を持ったのう、サリナ。おぬしたちなら大丈夫じゃろう。わしに出来ることは少ないが、また何か助けが必要になったらいつでも来なさい。歓迎するぞ」 「はい、ありがとうございます!」 何度も頭を下げて、サリナたちは部屋を出て行った。エーヴェルトは静かになった部屋で、彼女たちのくぐった扉を見つめている。 彼は部屋のランプに火を入れた。ぱっと炎が灯り、部屋が明るくなる。窓のカーテンも開いた。木漏れ日が差し込む。美しきクロフィールの森。マナの祝福に満ちた、神聖な森。 エーヴェルトは顎に手を当て、ひとりごちる。 「サリナ・ハートメイヤー……運命の子、か。不憫なものよ。なんとかしてはやれぬものかのう……」 窓を開くと、鳥たちや小動物の鳴き声が聞こえる。エーヴェルトは大きく息を吐き、かぶりを振った。 スウィングライン武具店のカウンターで、ガンツ・スウィングラインは満面の笑みを浮かべている。彼の前には輝かんばかりの煌きを放つ蒼雷鋼の盾と、そして金龍鉄を用いて修復と強化を終えた黒鳳棍が並んでいる。 |