第52話

 朝。昨夜ぐっすりと眠ることの出来たサリナは、森林の街の爽やかな香気を吸い込みながら、木漏れ日の中を散歩している。
 ぐっと伸びをしてみる。街は活気づきつつある。点在するいくつもの店舗が開店し、女たちが買い物をし始めている。元気な子どもたちが駆け足でサリナとすれ違う。ある店の外で、男が木製の家具を作っていた。サリナは懐かしく思った。フェイロンでもよく見た光景だった。
 昨夜、彼女は故郷の祖父母へ向けて手紙を書いた。きっと心配しているに違いない。ダリウとエレノアは、ゼノアのことを知っていただろう。王都で起きた異変がサリナたちとゼノアに関わることであることは、もう恐らく推測しているに違いなかった。
 サリナは近況を丁寧に綴った。そういえば、とサリナは反省した。これまで駆け抜けるように戦ってきた。後ろを振り返る余裕も無く、彼女は祖父母に向けて手紙を書くことを発想しなかった。
 フェイロンを旅立ってからクロフィールまでの旅路を、サリナはひとつひとつ思い返しながら書いた。手紙は随分長いものになった。マナを引き出してから丸一日、ゆっくり休んでいなければ書き上げることは出来なかったかもしれない。
 手紙を書きながら、サリナは仲間たちに心の底から感謝した。セリオルとふたりきりだったら、ここまで来ることは出来なかっただろう。もしくはもっと時間がかかって、ゼノアの暴走がもう手を付けられないほどに進んでしまっていただろう。
 ともあれサリナは手紙を完成させた。仲間への思いと、祖父母への思いが詰まった手紙を。手紙の最後に、サリナは添えた。今日、マキナへと旅立つと。それを読むと、ダリウたちはまた心配するかもしれない。マキナは大枯渇を起こしてまだ半年だ。しかもセリオルによれば、それはゼノアの実験の影響だという。でも、とサリナは続けた。大丈夫、私には皆がいるから。
 歩きながら、もう一度伸びをする。この街に来て良かったと、サリナは思う。ブラッディローズとの激しい戦闘はあったものの、森の生命力とマナとに触れて、しっかり休むことが出来た。彼女はセリオルの慧眼に、やはり敬服した。黒騎士に敗れた時、セリオルは既に考えていたのだろう。サリナのマナを引き出すことと、この街でしっかり休ませることを。ケルベロスのリバレートを受けたサリナを見て、彼はそう判断したのだ。サリナのマナが鍵になる、と。
 チョコボで各地へ手紙を届ける郵便屋へ向かう途中、サリナはアクセサリー店“新緑の輝石”の前を通った。なんとなく足を止める。アーネスと買い物をした店。初めてアクセサリーを買った。その時の金のブレスレットは、今もサリナの右手首で輝いている。
 そっと、彼女はブレスレットに触れた。ひんやりとした感触。
 するとカランカランとベルを鳴らしながら、店の扉が開かれた。出て来たのは、意外なことにフェリオだった。
「あ、フェリオ」
「ん?」
 扉を後ろ手で閉じながら、フェリオは顔をこちらへ向けた。
「え、サリナ!」
「え?」
 なぜか慌てた様子で、フェリオは両手を後ろへ隠した。様子がおかしい。
「あれ、アクセサリー買ったの?」
 意外だった。フェリオはセリオルが合成した、甲羅の指輪と名づけられたアクセサリーを付けていた。集中力を高めるエンチャントで、銃の命中率が上がる効果が期待された。
 サリナから見て、それは名前に反して美しい指輪だった。クロイスが獲得したという大型の蠍の魔物の甲殻を、炎と雷のマナで変成させて仕上げたらしい。元は黒ずんだ色だったはずが、飴色の美しい色合いとなった。
 しかしフェリオはその指輪を渡されても、形や色などに言及することは無く、もっぱらそのエンチャントのみに興味を示していた。
 だからサリナには意外だった。フェリオがアクセサリー店から出て来たことと、どうやら何か買い物をしたらしいことが。
「い、いや、何でもないよ」
「え?」
 ところがフェリオは、その購入したらしきものを後ろに隠して出そうとしない。ごそごそとして、ポケットかどこかにしまってしまったようだ。
「何隠したの?」
「何でもない。ちょっと気が向いて入ってみたけど、特に買うべきものは無かった。しまったのは財布だよ」
 そう言って、フェリオはズボンのポケットから財布を取り出してみせた。確かにさきほどしまったところと同じ場所から出したように見えた。
 それにしても、明らかに狼狽している。何も買わなかったなら、何をそんなに慌てているのか?
「ふうん……。あ、さては柄にも無くアクセサリー店に入ってたのを見られて、恥ずかしいんだ」
 サリナは口に手を当てて言った。フェリオは頭を掻き、小さく息を吐いた。
「ま、そんなとこだな」
「ふふふ。フェリオったら、恥ずかしがりやさんだなあ」
 隣に来たフェリオの腕をつんつんと突いて、サリナは笑いをこらえた。そんなことに照れるあたり、フェリオらしい。
「サリナこそ、何してるんだ?」
 話題を変えてきたフェリオに、サリナは3度目の伸びをしてから答える。
「お散歩。ほんと気持ちいいよね、この街」
「……ああ、そうだな」
 サリナと同じように森の街を見渡して、フェリオは言った。彼も腕を上げ、伸びをする。木々と緑の香りが肺を満たす。それは全身に広がり、心まで潤してくれるようだった。
「それ、出しに行くのか?」
 フェリオはサリナが手に持った手紙を指差して言った。サリナは手紙を両手で持ち直した。ハイナン島、フェイロン村の住所を書いた封筒。ダリウ・ハートメイヤー様、エレノア・ハートメイヤー様と連名で記した宛名。その小さな封筒に、サリナは愛しさを感じた。
「うん。昨日書いたんだ」
「喜ぶだろうな、おじいさんとおばあさん」
 サリナは自分よりも随分背の高いフェリオを見上げて、満面の笑みを作った。
「うん、そうだといいなあ」
「……じゃ、行こうか」
 財布を再びしまって、フェリオは歩き出した。サリナは慌てて後を追った。
「あ、付いて来てくれるの?」
「今日出発だろ? 迷子になられたら困るしな」
「えー。ひどいなあ」
 フェリオは思った。この街に来て、本当に良かった。傷ついたサリナの心と身体に、この街の森とマナが良き癒しをもたらした。王都での戦いの後、サリナより早く目覚めた彼は、眠り続けるサリナを心配した。本当に良かった、元気になって。

 クロフィールの街の入り口に、色とりどりの美しいチョコボたちが並ぶ。クロフィールの多くの住民たちが集まっていた。
 サリナたちの出発を、アルトとティムが散々引き止めた。スウィングライン、アップルトン両家の親たちが苦笑するほどだった。
「何だよ行くなよー!」
「もっと遊ぼうよ、サリナー!」
 ティムにぐいぐいと服を引っ張られて、サリナは嬉しいような困ったような顔だった。アルトはフェリオの服を引っ張って困らせていた。
「ごめんね。きっとまた来るから、そしたらまた遊ぼうね?」
「俺たちがいない間は、君たちが家族を守るんだぞ。いいな」
 ふたりの言葉に、少年たちはきっと真剣な顔をして、大きく頷いた。
「うん!」
 その一方で、自警団のビッグスとウェッジがまたしてもカイン、クロイスのふたりと喧嘩を始める。
「てやんでい俺たちとの勝負を預けて出て行くたあ何事でい!」
「ああ!? ハナから勝負になってねえだろがアホたれ!」
「ごわす! 負け惜しみはやめるでごわす! 遠吠えでごわすか!」
「だーれが負け惜しみしてんだバーカ! あーほ!」
 ぎゃいぎゃいとうるさい4人を完全に無視して、アーネスはガンツと固い握手を交わしていた。その腰には蒼雷鋼の盾――ガンツによって“ブルーティッシュボルト”と銘付けられた盾を、リストレインの鞘と組み合わせて佩いている。木漏れ日を受けて、その盾は誇らしげに輝いている。
「ありがとう、ガンツ。素晴らしい品を」
「おうよ! 俺の精魂が篭りに篭った盾だ。大事に使ってやってくれい!」
「あの、アーネスさん、やっぱりお代、頂き過ぎなんじゃ……」
 おずおずとイーグレットが発言した。鳳龍棍の修復とブルーティッシュボルトの購入のためにサリナたちが支払ったのは、ガンツの言い値の倍近い額だった。
「いいのよ、イーグレット。この街は物価があってないようなものだからわからないかもしれないけど、外ではこの盾とあの棍は、あれくらいの価値で取引される品だわ。あれでも少しご厚意に甘えさせてもらったくらいなんだから」
「そ、そう、ですか?」
 まだ納得し切れないらしいイーグレットの肩に、クリスティナが手を置いた。振り返ったイーグレットに、彼女は微笑んで見せた。
「イーグレット、せっかくのご厚意よ。ありがたく頂戴しましょう」
「う、うん……はい」
 ぺこりと頭を下げるイーグレットに、アーネスは微笑んだ。
「本当にお世話になったねえ。あんたたちがいなくなると思うと、寂しいよ」
 セリオルの手を握って、コンスタンスはそう言った。今朝、宿を出る時に彼女は、宿代は不要だと言い張った。ティムの命の恩人だからだと。しかしセリオルは、その礼ならあの夜の宴で十分に尽くしてもらったと言ってコンスタンスを説得し、きっちり宿代を支払った。コンスタンスはそのサリナたちの姿勢に感涙していた。
「こちらこそ、お世話になりました。コンスタンスさんとマシューさんの料理、美味しかったです」
「ええ、ええ。ありがとうね、ほんとにありがとう」
 もはや涙に濡れてどうしようもないコンスタンスに苦笑しつつ、マシューがセリオルと握手を交わした。細身に似合わぬ力強い握手に、セリオルはこの、普段はコンスタンスを支える役に徹している夫の、隠した強さを感じた。
「またいつでも来てくれ。君たちには最大限のもてなしをさせてもらうよ」
「ええ、是非」
 サリナたちはそれぞれのチョコボの背に上がった。琥珀、紺碧、銀灰、紫紺、翠緑、そして陽光色。6色のチョコボたちは厩舎で快適に暮らしたらしく、溢れんばかりの元気さだった。預けられている間運動不足にならぬよう、チョコボたちは厩舎に併設された運動場や森の中で訓練をしていたらしい。森を気に入ったのだろう、チョコボたちはこれから走る森の中に、大いに期待しているように興奮していた。
「サリナ、マナの扱いにはくれぐれも気を付けるのじゃぞ。身体が慣れるには時間がかかる。無理はするでないぞ」
 若葉色の法衣を身に付けたエーヴェルトが歩み出て、サリナに忠告した。傍らにはチョコボに乗った従者がいる。東の小さな港に泊まっているエーヴェルトの船をサリナたちに使わせるために、同行するのだ。彼はベルント・クルマンと名乗った。宴の時にカインと意気投合したらしく、既に親しげだ。
「はい、ありがとうございます、長老様」
「エーヴェルトで良いと言ったじゃろう?」
 長老は悪戯っぽく片目を閉じてみせた。サリナは笑顔を返す。
「はい、エーヴェルトさん!」
 サリナたちはチョコボを回頭させた。騎鳥の甲高く楽しげな声が響く。
「絶対また来いよ! 約束だぞ!」
「てやんでいてやんでい! 勝負はまだついてねえ! 決着つけるぞ!」
「また武具が傷ついたら戻って来い! いつでも直してやるからな!」
「またクロフィールに来てね、サリナちゃん、皆さん!」
 賑やかな声に送られて、サリナたちはチョコボの手綱を操る。宴で時間を共に過ごした街の人々も、それぞれに見送りの言葉をかけてくれている。サリナはイーグレットの言葉を思い出した。この街のひとは、皆親切よ……。
 チョコボの上で身体を捻って、サリナは大声で叫んだ。心と身体を癒してくれた、森林の街。そこに暮らす、愛すべき人々に向けて。
「ありがとうございました! 行ってきまーす!」
 サリナは大きく手を振った。クロフィールの人々も、いつまでも手を振っていた。

 クロフィールへ来た時に眠っていたことを、サリナは後悔した。広大な森は美しかった。チョコボの風のような速さで駆けていると、マナの光が舞っているようにも見えた。実際にはそれほどまでにはマナの濃度が高いわけではないのだが、太陽の光が森の緑に反射して輝いているためだ。
 サリナは少し前を走るセリオルの背中を見つめた。背の高いセリオルの背中は、サリナから見るとかなり広い。その背中に、サリナは安心感を覚える。
 だが、王都から逃走してこの森に入った時、セリオルの背中はこんなに広かっただろうか。サリナは想像して胸を痛める。サリナが、スピンフォワード兄弟が傷付き、黒騎士の圧倒的な力の前に、セリオルたちは逃げを選んだ。その道中、セリオルはどんな思いだっただろう。
 サリナを旅に誘ったのは、セリオルだ。ゼノアの凶行を止め、エルンストを助け出すために。サリナは考える。この旅は彼女の父を解放するのを目的としているが、それをサリナに求めたのはセリオルだった。自分の読みの甘さ、作戦の浅さのためにゼノアに先手を打たれ、仲間たちが傷付き、倒れた。もし自分だったら、どうだっただろう。恐らくその時、サリナは自分を責めて責めて、立ち直るのに時間を要しただろう。
 サリナが寝泊りしていたあの部屋、“大樹の木漏れ日亭”の部屋で、セリオルは皆に向かって自らの失敗を詫びた。仲間たちは誰もそれを責めはしなかった。セリオルを信頼しているからだろう。セリオルが見抜けなかったのなら、誰にもそれは不可能だったからだ。
 これからサリナたちは、マキナ島へ向かう。セリオルはそれを、ゼノアの研究の痕跡を調査するためだと言う。おそらくそこに、黒騎士攻略の鍵が隠されているのだろう。サリナが目覚めた時から、セリオルは前を向いていた。次にすべきこと、打つべき手を考えていた。
「セリオルさん!」
 アイリーンの背の上から、サリナは呼びかけた。セリオルが振り返る。
「頑張りましょうね!」
 大きく手を振りながら叫ぶサリナに、セリオルは微笑んだ。あたたかな気持ちが胸に広がる。
「ええ、頑張りましょう」
 彼の声が聞こえたか聞こえぬか、サリナはにこりと笑って頷いた。
 やがて彼らは、森を抜けた。もう高くなった陽が燦々と光を大地へ注いでいる。起伏のなだらかな草原が広がっている。風が強い。髪が乱れるのを押さえて、サリナは太陽の方角を見た。地平線の向こうに、王都があるはずだ。あの闇の天蓋はもう消えただろうか。国王やカミーラはどうしているだろう。
 まだ、戻ることは出来ない。黒騎士を打ち破る力を身に付けなければ。
「なーにまた固くなってんだよ!」
 どんと強く、背中を叩かれた。驚いて振り返ると、カインだった。
「あ、カインさん」
「あ、カインさん、じゃねえよサリナ。また何か深刻に考えてたろ?」
 サリナの口真似をするカインに、周りで仲間たちが笑う。
「似てないわよ、カイン」
「修行不足だな、兄さん」
「うるせえし。黙れ黙れ」
 少しぽかんとしたサリナだったが、仲間たちの明るい様子につられて、彼女も笑った。ふっと心が軽くなる。
「あいつみたいにいつもいつもバカなことばっかりやれとは言わねーけどさ」
 紺碧の羽毛のイロを操って隣にきたクロイスが、カインのほうを見ながら言った。イロが主人に同調するように嘶く。
「出来ることからやっていこうぜ。そんであいつらが油断してる隙に力つけて、見返してやろう」
 サリナはクロイスの横顔を見つめた。彼も王都から逃げた時、腹の底から悔しさを味わったに違いなかった。
「……うん、そうだね」
 クロイスはこちらを向いてすぐにまたそっぽを向いた。そしてカインの傍に行き、そのわき腹をイロに嘴でつつかせた。
「いってえ! クロイスてめえコラ! チョコボは反則だろチョコボは!」
「わはははは。ルールなんてねーんだよ! 愚か者!」
「だあれが愚かだー!」
 クロイスはイロを東に向けて走らせた。ルカを操り、カインがその後を追う。サリナたちは顔を見合わせて笑った。
「やれやれ、まったくあのふたりは。仲がいいんだか悪いんだか」
 眼鏡の位置を直しながらセリオルが呟く。
「いいんでしょ、きっと」
 オラツィオの頭を東に向けて、アーネスも走り出した。
「ちょっとあんたたち、勝手に行くんじゃないわよ! 待ちなさい!」
 オラツィオは騎士家のチョコボらしく気高く勇ましい鳴き声を上げ、琥珀色の風となって駆ける。
「とか言って、アーネスも兄さんとクロイスによく構ってるよな」
「こないだちらっと言っていましたが、彼女の妹さんがあのふたりに似ているそうですよ。特にカインに」
「……同情するよ」
 カインからツインブレインズと命名されたふたりが、苦笑まじりにそんなことを言っている。
「宴の時もそうでしたけど、賑やかで楽しくて、いいじゃないですか」
 ベルントがそう言った。真面目そうに見える彼だが、宴の時の乱れようを思い出してフェリオは吹き出した。ベルントもそれに気づき、笑った。
「そうだな。この先も大変かもしれないけど、楽しくやっていければな」
「ええ、そうですね」
 頷き合って、フェリオとセリオルはサリナを振り返った。ふたりが彼女に向けて手を上げる。
「さあ、行きましょうか、サリナ」
「マキナへ向けて、元気良くな」
 ふたりに、サリナは微笑んだ。彼女は嬉しかった。あれだけの力の差を見せ付けられても、誰ひとり黒騎士との戦いに後ろ向きになっていない。もしかしたら、誰でもない彼女自身が最も肩を落としていたのかもしれない。サリナは仲間たちに感謝しつつ、頬を両手でぱんぱんと叩いた。
「はい!」
 サリナはアイリーンを走らせた。セリオルとフェリオの間を通る時、ふたりの手を勢い良く自分の両手で叩いた。小気味良い音が、青く澄み切った空に響いていった。