第62話

 ぶすっとした顔で頭に大きなたんこぶを作り、カインはアイゼンベルクの宴の場で木製の長椅子の上にあぐらを組んでいる。村は宵の闇に覆われ、焚かれた篝火の明かりが広場を照らしている。
 男は、カインの首根っこを掴んで戻って来た。カインは抵抗しようとしていたが、男の凄みの利いた睨みにびくりとして大人しくなった。
「いきなり驚かせっちまって悪かったなあ! がっはっは!」
 サリナたちと向かい合って長椅子に腰掛け、男は豪快に笑ってみせた。彼の右にカイン、左にはフェリオが座っている。
「ったく何年ぶりかに故郷に帰ってきたと思ったら、すーぐ逃げやがって。素直に謝りゃあ許してやるのによお、俺の肉食ったことぐらい」
「……おっさんが根に持ちすぎなんだよ」
「ああっ!?」
 耳声で発せられた大声に、カインは両手で耳をふさぎ、目をぎゅっと閉じた。
「みんな、紹介するよ」
 沈黙した兄には触れず、フェリオが男を腕で示して言った。
「俺たちの伯父。父さんの兄の、ジェフだ」
「ジェフ・オーバーヤードだ。よろしくなあ!」
 そう名乗って、ジェフは立ち上がってテーブル越しにサリナたちひとりひとりと握手を交わした。
「初めまして。サリナ・ハートメイヤーです」
 順番が回ってきたサリナが少々緊張しながら自己紹介をすると、ジェフはサリナの手を力強く握ってにやりとしてみせた。
「それで、お前さんたちはこいつらとどういう関係なんだ?」
 言葉はぶっきらぼうだが親しみの持てる口調で、ジェフはサリナたちに尋ねた。セリオルが一行の最年長と考えてか、彼の目をじっと見つめている。そうして彼は、村の女たちが運んできた麦酒が並々と注がれたジョッキをあおった。
「共に旅をする仲間です。ある目的のために」
 答えたセリオルの目の前に、ジェフのジョッキが音を立てて置かれた。さっと緊張感が走る。
 しかしセリオルは冷静に、スピンフォワード兄弟の伯父を見ていた。酒を喉に流し込んだジェフの目は、ただ静かな光を湛えている。
「ある目的だあ?」
 面白がるような声で、ジェフは繰り返した。サリナは安堵の息を吐いた。鉱夫の荒々しい外見に、あらぬ偏見を抱きかけたことを恥ずかしく思った。ジェフはただ言葉が乱暴なだけの、気の良い男なのだ。
「親父と、お袋だよ」
 ぼそりと答えたのはカインだった。さきほどまでとは違う甥の声に、ジェフがカインのほうを向く。その顔からは楽しげな表情は消えていた。
「ルーカスと、レナだと?」
「ああ」
 短く答えるカインに、ジェフは眉根を寄せた。数年ぶりに見る甥は、あまり目にしたことの無かった真剣な表情をしていた。
 ――いや。ジェフは胸中で訂正する。この馬鹿な甥っ子も、唯一真剣に話すことがあった。弟、フェリオの将来についてのことが話題に上がった時だ。
 ジェフは黙って、甥の言葉を待った。
「親父とお袋は、実験中の事故で死んだって聞いてた。おっさんもそうだろ?」
「あ? ……ああ、そうだ」
 漠然とした嫌な予感が胸の片隅に現れるのを、ジェフは感じた。弟夫婦の死。それについて、その長男が何らかの新たな事実を告げようとしている。それは良い内容ではあるまい。ジェフはカインの表情から、そう想像した。
 そしてそれは、悲しいまでに正解だった。
「ほんとは、親父とお袋は……殺されたらしいんだ。ゼノアっていう、幻獣研究所の同僚に」
 ジェフは言葉を失った。声を出そうとしても出なかった。全身の皮膚が粟立つ。不快な汗が背中を伝う。心臓が不規則に乱れ打つ。混乱と怒りと不明瞭な悲しみが彼の心を満たす。
「いきなりこんな話をしてごめん、伯父さん」
 テーブルの上に落ちてくる篝火のゆらめく光を見つめながら、フェリオが言った。周りの宴会が遠くに聞こえる気がして、サリナは自分の耳に触れた。
「……いいや。けどよ、本当なんだろうなそいつは」
 低い声でそう尋ねるジェフに、フェリオは黙って頷いた。それを見て、ジェフは左手で顔を覆った。深い溜め息を吐く。
「証拠はあんのか?」
 伯父の言葉に、カインとフェリオはセリオルを見た。セリオルは頷き、口を開く。
「明確な証拠があるわけではありません。ただ、かつての幻獣研究所名誉教授であり、フェリオの蒸気機関の師でもあるシド・ユリシアス博士が、そう証言されました。私自身も、かつて幻獣研究所に身を置き、ゼノアやルーカスさん、レナさんとともに研究をしていましたので、ロックウェルでおふたりが亡くなったと伺った時、それを確信しました」
 ジェフは何も答えない。ぱちぱちと篝火の爆ぜる音と、他のテーブルで鉱夫たちが楽しげに笑う声が聞こえてくる。
「ジェフ、王都での異変については聞いているわよね?」
 沈黙するジェフにそう話しかけたのは、アーネスだった。彼女はテーブルに両肘をつき、組んだ手の上に顎を載せて彼を見つめていた。ジェフはアーネスの顔を見て、怪訝そうな顔をした。質問の意図が読めなかったようだった。
「あれはゼノアが起こしたことなの。彼らはゼノアを止めようと、彼の施設に接触したわ。でも機先を制されるかたちで、その戦いには敗れてしまった――その場には王国騎士団の金獅子隊もいたけれど、何の役にも立てなかった」
 アーネスのその口ぶりに、ジェフはいぶかしさを隠さずに尋ねた。
「アーネス、っていったか。お前さん、何もんだ?」
 服の下から、アーネスは騎士の紋章を取り出した。それを見て、ジェフは首を捻った。馬に乗り、剣を掲げた騎士を象ったペンダントだ。
「私は、王国騎士団金獅子隊の隊長、アーネス・フォン・グランドティア。ゼノアを止めよとの国王様の命で、一緒に旅をしているの」
 目に見えて驚いた様子で、ジェフは妙な声を出した。目の前に貴族と同等の身分である騎士、それも騎士団の隊長を名乗る者が現れれば、当然なのかもしれない。もはやすっかりアーネスを姉のように思っているサリナだが、改めて彼女の身分の高さを認識した。
 アーネスの言葉に、ジェフはカインとフェリオの顔を見た。フェリオが冷静な声で答える。
「本当だ」
「……なんてこった」
 呟いて、ジェフは空を仰いだ。漆黒の空は、満天の星空である。地上の人間たちの気など知らぬとでも言うかのように、その空は美しく、星の光は澄んでいる。
「クロイスも、両親をゼノアのせいで亡くしてる。サリナはゼノアに、お父さんを幽閉されてる。俺たちは、ゼノアを止めないといけないんだ」
「何言ってんだお前ら。正気か?」
 突如飛び込んだ声に全員が声の主を探した。それはテーブルの脇に立っている若者だった。彼も鉱夫なのだろう。作業着を身に付け、額には青いバンダナを巻いている。
「クライヴ!」
 カインとフェリオが立ち上がって、そう名を呼んだ。呼ばれたクライヴはそれには答えず、腕組みをして呆れたような声で続ける。
「さっきから聞いてりゃあわけわかんねえことを。騎士団が敵わねえ相手に、お前らが挑んで何になるってんだ? そんなもんは王国軍に任せときゃいいだろうが。王様も何考えてんだ、お前らに騎士隊長を同行させるなんてよ」
 綻ばしかけた顔を、カインはそのままで固まらせた。広げられた腕は、行き場を失って空中を撫で、そのまま下ろされた。サリナたちはクライヴが何者なのかわからず、そして突然投げ掛けられた冷淡な言葉に理解が及ばず、呆然とした。
 そんな一行の様子に鼻を鳴らして、クライヴは続ける。
「だいたい、そいつらの素性だって怪しいもんだ。あんた、ほんとに騎士隊長かよ。女がなれるもんなのか?」
 仲間たちの視線がアーネスに集中した。クロイスは顔が青ざめるのを自覚した。アーネスはこの手の謗りに怒るのではないかと思ったからだ。ただふたり、仲間の中で、アーネスではなくクライヴを睨み付けた者がいた。
 サリナと、カインだった。
「訂正してください!」
 椅子を蹴って立ち上がり、仲間たちが驚くほどの大きな声で、サリナは叫んだ。宴会の声まで静まる声だった。その瞳には、怒りの炎が燃えていた。
「ああ?」
 じろりとサリナを睨み返すクライヴだが、小柄な少女の、真正面から射抜くように突き刺さる力強い視線に彼はたじろいだ。サリナはそれきり言葉を続けはしなかった。ただ彼女は、仲間を傷つける言葉を放った若者から、決して目を逸らそうとはしなかった。
 そのクライヴの胸倉を掴んだのは、カインの手だった。彼はクライヴの顔を、無理やり自分へ向けさせた。
「身内じゃなかったらぶっ飛ばしてるとこだぞ、クライヴ」
 その言葉に一瞬は息を止めたクライヴだったが、彼はすぐに冷静さを取り戻した。元の冷たい目で、彼はカインを見た。
「放せよ、カイン。お前には冷静に現実を見る目がねえのか」
「なんだと? てめえ、マジでぶっ飛ばすかコラ」
 怒りの声と共に更に詰め寄るカインに、クライヴは冷たい視線を投げかける。ジェフとフェリオが立ち上がり、仲裁に入った。
「おいやめねえかお前ら。クライヴ、お前が悪い。謝れ」
「兄さんも落ち着けよ。突然のことでクライヴもすぐには信じられないだけだろ」
 舌打ちとともに、カインはクライヴから手を放した。クライヴは謝罪の言葉は口にせず、伸びたシャツを直して続けた。
「昔っから夢みたいなことばっか言ってたもんな、お前らは。フェリオ、お前も竜王褒章取ったからっていい気になんなよ。そんなもんがあるだけじゃ、メシは食えねえんだ。現実を見ろ」
 そう言い残して、クライヴは宴の場から去って行った。篝火の明かりの届かない、夜の闇の中へその姿が消えていくのを、サリナたちは沈黙とともに見送った。
「すまねえ。俺のせがれが、とんでもねえことを」
 そう言って、ジェフはアーネスに向かって頭を下げた。
 アーネスは酒の入った素焼きのコップをゆらゆらとさせ、中身を飲み干した。それをテーブルに置き、彼女は静かな声で言った。
「彼、あなたの息子さんだったのね。てことは、カインとフェリオの従兄弟なんだ」
 その声に怒りの響きは無かった。ジェフが顔を上げる。アーネスは微笑んでいた。まるで面白い見世物を見た後のように。
「あんたたちの血縁は、みんな気が荒いのねえ」
 テーブルに頬杖をついて、アーネスは可笑しそうにそう言った。その彼女に対して、ジェフが再び頭を下げる。
「面目ねえ」
「いいわよ、ああいうことを言われるのは慣れてるもの。それより――」
 一旦言葉を切って、彼女はセリオルとサリナを見た。ふたりは困ったような表情を浮かべた。
「誤解が解けるといいんですが」
「うん……このままだと、悲しいですよね……」
 カイン、フェリオ、ジェフの3人が席に戻った。宴に賑やかさが戻る。
「なあ、なんで従兄弟同士であんな仲悪いんだ?」
 酒ではなく水の入ったコップを両手で持って、クロイスが尋ねた。彼の酒の限界は早かった。
「いや、仲が悪かったわけじゃないんだけど……どうしたんだ、クライヴのやつ。何かあったのか?」
 言いながら、フェリオはジェフのほうを向いた。ジェフはさきほどまでの豪快な笑いはどこへ行ったのか、すっかり消沈した様子でうなだれていた。ジョッキに残った酒をぐっと飲み干して、彼はこう言った。
「アイゼンベルクの鉱床が枯れそうなんだ。主力の、鉄と銅がな」
「え、マジ?」
 カインは驚いた様子だった。幼い頃から見てきた鉱山の黒い影を、彼は見上げた。巨大な岩山は、昔と変わらぬ形で村を見守っている。
「あいつはガキの頃から、俺と同じ鉱夫として働くのを楽しみにしてた。18になって鉱夫の仲間として迎えられた時は、そりゃあ嬉しそうだったもんよ」
「ところが鉱床の枯渇を知って、鉱夫として生きていく望みが断たれたということですか」
 セリオルの言葉に、ジェフは肯定とも否定とも取れる呻きを漏らした。彼は眉間にしわを寄せて続けた。
「あいつは早々に鉱夫の仕事に見切りをつけようとしてるんだ。仲間たちにも、最近やたらと現実を見ろってばっかり言ってやがる。それが一番辛いのは、自分なのによ」
「それでさっき、あんなに怒ってたんですね……」
 サリナの言葉に、しかしジェフは首を横に振った。サリナは首を傾げる。
「それとこれとは関係ねえ話だ。あいつはただ、自分の行き詰まり感をお前さんらに押し付けてるだけだ。ガキなんだよ」
 ジェフがそう話し終えると同時に、鉱夫仲間らしい男たちがテーブルに押しかけてきた。彼らは沈んだ様子のジェフの頭を小突く。
「なんだなんだあジェフ! てめえはなあにをしんみりしてやがる!」
「お? おうおうおうなんだおいジェフ! こんなべっぴんをふたりも侍らせやがって!」
「シンディにぶっ飛ばされるぞー! ぎゃはははは」
 一挙に賑やかになったテーブルに、男たちだけでなく女たちもやって来て、次々に料理が運ばれ始めた。ジェフは立ち上がり、男たちを追い払おうと怒鳴り声を上げるも、もはや酔っ払った鉱夫たちを止められはしなかった。結局彼も酒を飲まされ、次第に顔を赤くして騒ぎ始めた。
「おいカイン! お前久々の故郷なんだ、皆に挨拶して回れや!」
「いてえ! おっさんおい、いってえよおい! やめろってバカ!」
 カインがその赤毛を掴んで連れて行かれ、鉱夫たちが騒ぐ中に放り込まれた。フェリオが頭を抱える。明日の兄の様子が目に浮かんだのだ。やがてカインは酔っ払って上機嫌で戻ってきて、今度はクロイスを連れて行った。
「おい! おいちょっとカインてめえ、俺は酒よえーんだよ! ちょっとやめろっておい!」
「わはははは! 飲んでりゃ強くなんだよ酒なんて! 修行だ修行! わはははは!」
 サリナたちは苦笑してそれを見送った。クライヴの件が心に引っかかるものの、今はひとまず、この毎夜開かれるというアイゼンベルクの、男たちを労う宴を楽しもうと思った。
「おーいシンディ! 旦那が浮気してるぞー!」
「やめろバカ! お前俺が殺されるだろうが!」
「ぎゃはははは」
 鉱夫のひとりの言葉に、酔っ払いながらもジェフが慌てるのが見えて、サリナは笑った。その後、彼は猛烈な勢いで走ってきた女性によって投げ飛ばされ、目を回していた。

 翌朝。サリナはベッドの上で目覚めた。土造りの、飾り気の無い質素な部屋だ。
「あ……そっか。フェリオの家だっけ、ここ」
 隣のベッドに、既にアーネスの姿は無かった。彼女はいつも、自分よりも早く起きている。ぼうっとする目をこすって、彼女はベッドから這い出た。
 サリナたちはカインとフェリオの生家に泊まった。かつてルーカスとレナ、それにカインとフェリオが暮らした家だ。サリナが借りたのは、ルーカスとレナの寝室だった部屋だ。部屋の準備は、ジェフの妻のシンディが行ってくれた。宴でジェフを責め立てた後だったが、彼女はカインとフェリオ、そしてその仲間たちの帰還と知って、素早く準備をしてくれた。家自体の手入れも、彼女が定期的に行ってくれていたとのことだった。そのお陰で、家は荒れることなく、小奇麗に保たれていた。
「あらやだ、こんな若い子と騎士様には、さすがにあのバカも手は出さないわよねえ。ごめんなさいね」
 浮気浮気と騒がれた相手がサリナやアーネスと知って、シンディは笑いながらそう言った。サリナは若いという言葉の定義を問い質したくなったが、やめておいた。わざわざ自分から傷付きに行くことは無い。
 カーテンの隙間から朝陽の差し込む部屋で伸びをし、サリナは部屋着から武道着に着替えた。早朝の稽古をしようと思ったのだ。
 部屋を出て居間へ行く。そこで彼女は、少し違和感を覚えた。
「あれ? ……おはようございます」
 居間ではセリオル、フェリオ、アーネスの3人がお茶を飲んでいた。早起きして朝食、というわけではないようだ。3人とも、すっかり身支度が整っている。それに、3人はサリナを見て少し笑っている。
「サリナ、おはようって、もう昼だぞ」
「えっ!?」
 混乱して、サリナは両手で頭を押さえた。その様子に、仲間たちから笑いが漏れる。
「兄さんとクロイスは、案の定二日酔いだ」
「え。じゃあクロイス、あれ初体験かな?」
 居間のソファへ腰掛け、少し心配そうに言うサリナに、フェリオが意地の悪い顔をする。
「エメリドリンクな」
「私はもう、二度となりませんよ、二日酔いには……」
 自分を抱き締めるようにして震えるセリオルに、アーネスがフェリオに負けぬ意地悪顔で言葉を投げかける。
「一度見てみたいわね、セリオルがあれを飲むところを」
「その事態は私の名に懸けて回避してみせます」
「うふふふ……」
「アーネスさん、こわいです」
 そしてしばらくして、オーバーヤード家にカインとクロイスの悲鳴が轟いた。初めてエメリドリンクを経験したクロイスは、しばらく部屋の隅で震えていた。
 スピンフォワード兄弟の生家は、アイゼンベルク鉱山の入り口から少し離れた、村の広場よりも手前に位置していた。外見は村の他の住居と変わらない、質素で無骨な印象を受けるものだった。全体としても決して大きくはなく、家族4人が暮らすのにちょうど良いくらいの広さだった。寝室が3つに納戸、居間、食堂に居間。特別なものは何も無い、ごく普通の家だ。
 だが、カインとフェリオにとっては、特別な家だった。昨晩、寝る前にフェリオはサリナに語った。この家で暮らした時代は幼かったため、はっきりした記憶はほとんど無いのだと。ただ、父や母の優しい笑顔や、村で遊んだこと、毎夜開かれる宴のことはなんとなく覚えていると。彼の父は鉱夫ではなく、肉体労働とは無縁の学者だったが、ジェフと一緒にこの村で育ったことに変わりは無かった。村人たちはルーカスとレナの出世を喜んでいたように思うと、フェリオは話を締めくくった。幻獣研究所入所祝賀の宴が開かれた記憶があったからだ。
 だがそれが、両親の運命を決定した瞬間だったのだ。そう考え、サリナは夜の闇に覆われた部屋の天井を見つめながら、もどかしい思いに苛まれた。どんな思いだっただろう。幼いふたりの子どもを遺して、ルーカスとレナは同僚によって殺害された。その瞬間、彼らは何を思っただろう。
 明るい昼の光が、オーバーヤード家の表札を照らしている。そこには手書きのかすれた文字があった。“ルーカス・オーバーヤードと彼の家族の家”。その文字を見て、サリナは涙が込み上げるのを堪えることが出来なくなった。
「サリナ、どうしたんだ?」
 偶然外に出て来たフェリオが、静かに涙をこぼすサリナに声を掛けた。その声は、優しさと気遣いに溢れていた。この心の温かな青年の両親の、優しい笑顔がサリナにも見えた気がした。
「……泣いてくれてたのか、俺たちの親のことで」
 頷くことがなんとなく憚られ、サリナはやや俯いた。目尻を手で拭う。涙で少し、肌がひりひりした。
 その時だった。突然、村が騒がしくなった。家の前を、午後の仕事に向かうのか、村の男たちが鉱山へ向かって走って行く。
 いや。サリナとフェリオは、鉱夫たちのただならぬ様子に気がついた。何人もの鉱夫たちが慌てた様子で、それぞれに声を掛け合い、まだ家から出ていない他の鉱夫たちの名を呼んでいる。彼らは皆、一様に切迫した表情で、大声で何か話しながら走っている。
「おい、フェリオ!」
 声を掛けてきたのは、昨晩の宴でフェリオと親しげに話していた鉱夫だった。フェリオやカインを子どもの頃から知っているという、ルーカスやジェフの友人らしき男だ。
「マルコムさん、どうしたんですか? 何があったんです?」
 マルコムは答えるのももどかしい様子だったが、慌しい口調で教えてくれた。
「どうしたもこうしたもねえよ! 坑道で落盤があったんだ! クライヴが巻き込まれた! ジェフはもう行ってる。お前も手が空いてるなら手伝ってくれ!」
 ひと息にまくし立てて、マルコムは走って行った。サリナとフェリオは言葉を失った。マルコムの話したことの重大さが自分の心に大きな衝撃を与えるのを、ふたりは苛立たしいほどに遅く感じていた。