第67話

 ブルムフローラ伯爵の屋敷は“沙羅の宮”と呼ばれるのだと、露店で簡単な肉料理を売る女性が話してくれた。沙羅の花のような美しい白亜の壁が由来だという。女性は誇らしげに沙羅の宮を指差していた。
 しかしセリオルは、その女性の身なりが気にかかっていた。カインから渡された串焼きを咀嚼しながら、彼は顔をやや俯けて顎に手を当てる。
「セリオルさん、どうしたの?」
 自分の顔を覗き込んだのは、サリナだった。少女はやや緊張した面持ちの中にある種の期待感を秘めた表情で、焼いた果物を飲み込んだ。
「またひとりで考えごと?」
 アーネスは笑いながら言ったが、その声のどこか非難めいた響きにセリオルは苦笑する。
「いえ、そういうわけじゃないんですが」
 顔を上げ、彼は眼前に迫りつつある沙羅の宮を見る。夕刻の陽を受けて、白亜の宮殿は飴色に染まっている。
「たださきほどのお店の方の服装が気になりまして」
「おいサリナ、アーネス、気をつけろよ」
 セリオルの隣を歩きながら、カインが振り返ってそう言った。仲間たちは何のことかわからず、首を捻った。
「セリオル、むっつりだぞむっつり」
「なんでそうなるんですか」
 額に手を当てて、セリオルは溜め息をついた。カインは嬉しそうに笑い、サリナとアーネスは苦笑した。
「アホはほっといて、セリオル、どういう意味だ?」
「誰がアホだコラ」
「お前だよお前」
「はっはっは。クロイスくん、ちょっとこっちにおいで」
「やなこった」
「はっはっはっは」
 笑いながら握りこぶしを掲げかけたカインの脳天にアーネスの手刀が振り下ろされ、きゅうと鳴いてカインは大人しくなった。
「あまり豊かそうには見えなかったと思いませんか?」
 クロイスの質問に、セリオルはそう答えた。後ろで最初に同意したのは、フェリオだった。
「確かにな。伯爵のお陰で急成長した街っていう割には」
「え、どうして? そんな風に見えなかったけどなあ」
 サリナが疑問を呈した。彼女は肌を多く露出し、健康的に日焼けしていた女性から、貧しさなど感じなかった。彼女は活き活きと働き、伯爵やこの街のことを誇りに思っているうように見えた。
「服が擦り切れていました。同じものを繰り返し繰り返し、洗って使っている証拠です」
「買い物をしてるひとも少ないよな。夕食前の時間だっていうのに」
 確かに、とサリナは商店街を振り返った。リプトバーグや王都、クロフィールでは、夕食前には女たちが買い物に出かけているのを多く見かけた。しかしこの街は、花や果物の色彩のお陰で華やかに見えるが、人々の活気は、お世辞にも街を満たしているとは言えなかった。
「どうしてだろう……こんなに華やかな街なのに」
「ここ数年、不作が続いているらしいわ」
 ぽつりと出たサリナの言葉に答えたのは、アーネスだった。彼女は騎士の鎧に身を包み、すっと背筋を伸ばして前を向いている。
「アーネス、あなたは随分エル・ラーダに詳しいですね?」
 セリオルが顔だけで振り返って言った。アーネスは首を縦に振る。
「ええ。グランドティア家はブルムフローラ家と親交が深いのよ。当主同士の趣味が同じなのがきっかけで」
「なんだ、そうなのか。じゃあ簡単に協力してくれんじゃね?」
 アーネスの後ろでフェリオと並んで歩くクロイスが、そんなことを言った。しかし彼の前で、アーネスはかぶりを振った。美しい金髪がさらりと揺れる。
「うちもそうだけど、ブルムフローラ家でもリストレインは家宝のはずよ。それを簡単に貸してもらえるとは思えないわ。国王様の書状でもあれば別だったでしょうけど」
「なんだよ、ケチなやつだな。贅沢な暮らししてやがるくせに」
 裕福な貴族に対する反感を隠しもせず、クロイスは鼻を鳴らした。アーネスは何も言わなかった。ただ、彼女は静かに瞳を伏せた。
「では、交渉はアーネスに主なところを担当して頂きましょう。私たちは必要に応じてサポートに入ります」
「ええ。わかったわ」
 頷いたアーネスに、サリナが尋ねる。
「あの、アーネスさんのお父さんとブルムフローラ伯爵の趣味って何なんですか?」
「ん?」
 アーネスはサリナを見て、ひと房だけ垂らした長い髪をいじった。
「チェスよ。お父様によると、ふたりとも王国随一の実力者らしいわ。ほんとかどうか知らないけど」
 疑わしき点大いにあり、とでも言いたそうな口調だった。サリナはそれが可笑しくて小さく笑った。
「ちなみに、伯爵に会うと驚くわよ」
「えっ、どうしてですか?」
 どこか楽しそうなアーネスの声に、サリナはつられて少し楽しくなった。しかしそれは、次なるアーネスの言葉によって、驚きへ変わる。
「いつも小型の飛竜を従えてるの。ブルムフローラ家の伝統らしいわ。大昔の当主が飛竜に命を救われたとかで」

 ラッセル・フォン・ブルムフローラ伯爵は、グランドティア家の嫡子であるアーネスが頼みごとに来たと聞いて驚いた。1日の最後に、予想もしなかった来客である。執務を終えて食卓でお茶を飲んでいた彼は、急いで身支度を整え、客人が通されているはずの応接間へと赴いた。緑色の飛竜が慌てて留まり木から飛び立ち、彼の肩に留まった。
 沙羅の宮の応接間は、部屋と呼ぶにはいささか開放的だった。基本的に隠し事を嫌う伯爵の意向で、客人は常に、地下の石造りの池のそばに設置された籐編みのソファセットへ案内された。天井が高く、その分客たちは地下深くへの階段を下っていくことになる。
 水の圧力を上手く利用し、揚水と注水を繰り返す構造になっている池は、その中央に噴水も備えていた。水は池だけでなく、その空間中を流れる細い水路にも満ちていて、生活用水として使われるその豊かな水が奏でる心地良い水音が、客の耳を楽しませる。
 彼が石の階段を降りて部屋へ入ると、待っていた客たちは一斉に立ち上がって彼を迎えた。彼は目が点になった。
 確かにそこには、アーネス・フォン・グランドティアがいた。美しく成長した、グランドティア家の嫡子。女性でありながら、史上初の騎士隊長を務める者。その剣の腕は騎士団でも格別と評され、しかしそれでも飽き足らず、稀に見る風水術の技能まで修めたという女傑。騎士の誇りに輝く鎧に身を包み、彼女はそこに立っていた。
 しかし彼を驚かせたのは、アーネスと共にいる連中だった。どう見ても、ただの庶民である。年齢も服装も性別もばらばらで、どんな集団なのかと彼は訝しんだ。飛竜が警戒に啼く。
「お久しぶりです、ブルムフローラ伯」
「ああ、久しぶりだな、アーネス。それで――」
 伯爵はサリナたちに視線を走らせた。警戒の色を隠さないその仕草に、サリナは心臓が縮む思いだった。アーネス以外の身分が高い人物に対して、彼女は本能的な畏怖を覚える。
「突然大勢で押しかけて申し訳ありません。彼らは私の仲間です」
「仲間、かね?」
 ブルムフローラ伯爵はアーネスたちに座るよう手で促しながら、自らも籐編みのソファに腰掛けた。すぐに侍女が飲み物と簡単な料理を運んでくる。部屋に飾られた観葉植物に咲く鮮やかな色合いの大輪の花が香る。
 アーネスが紹介し、サリナたちはそれぞれに名乗った。セリオルとフェリオの名を聞いた時のみ、伯爵は僅かながら反応を見せた。やはりふたりは有名人なのだと、サリナは感じた。
 サリナは伯爵をよく観察していた。豊かな黒い髪。街の人々と同じように、健康的に日焼けした肌。宮殿は外のように暑くはなく、伯爵は肌を出してはいない。しかしそれでもよくわかる、引き締まった筋肉質の肉体。街と自治区の発展のため、民と一緒になって肉体労働をしてきたのだろうと、サリナは想像した。
「おい、マジでワイバーンだぜ、あれ。ちっこいけど」
「いいから静かにしろよ」
 後ろでこそこそとするカインとフェリオの声が聞こえ、サリナは緊張した。伯爵に気づかれて、無礼だと怒られはしないかと。幸いそれは杞憂に終わったようだったが、カインは飛竜の姿に随分気持ちが高揚しているようだった。我慢しきれず、小声の独り言が漏れている。サリナは思った。絶対、あとでアーネスに叱られる。
「王都の異変については、伯爵も既にお聞き及びのことと存じますが――」
 アーネスの言葉に、伯爵は大きく頷き、そのことが聞きたかったのだとばかりに身を乗り出した。
「闇の半球体が王都を覆い、その後一切の連絡が途絶えたと聞いている。王都で何があったのだ? 君のご家族や国王は無事なのか?」
 敬称をつけずに国王を呼ぶ伯爵に、自治区の長としての矜持を感じつつも、恭順を示さないことへの歯がゆい思いも同時に抱きながら、しかしアーネスはそれをおくびにも出さなかった。彼女は淡々とした口調で、王都のことをブルムフローラ伯に報告した。
 ひと通りの話を飛竜を撫でながら聞いて、伯爵は大きく唸った。俄かには信じがたい内容だった。しかし彼には、アーネスがそんな戯言を語るために、わざわざこんな遠くまで足を運ぶとも考え難かった。だとすれば、なんらかの陰謀の類が張り巡らされているのか? 王国への協力はしても恭順を示さない自分を取り込むための、なんらかの策が?
 しかし彼には、それがどんなものなのか、何の想像も出来なかった。そもそもそんなことを騎士隊長であるアーネスが任されるとは思えない。そういったことは貴族連中の仕事だ。
「真実なのかね?」
「誓って真実です、伯爵」
 アーネスは真摯な瞳で伯爵を見つめた。ラッセルはアーネスの灰色の瞳をじっと覗き込んだ。その奥の光を見極めようとでもするかのように。
 しばらくそうして、ラッセルは背中をソファに預けた。大きく息を吐き出す。さきほど侍女の運んできた果物を飛竜に与える。飛竜は嬉しそうな声を出し、喉を鳴らして果物を食べた。
「それで、私に頼みとは何かね?」
「はい」
 僅かに言葉を切り、アーネスは深呼吸をした。その様子に、ラッセルは彼女の頼みが、相当に重大なことなのだろうと予測した。さきほどの王都の話とも無関係ではあるまい。どんな驚くべき内容なのか。彼は腹を据わらせるため、気取られぬよう静かに息を吸い込んだ。
「ブルムフローラ家が所有されているとお聞きします、聖のリストレインをお借りしたいのです」
「……なぜかね?」
 努めて平静な声で、ラッセルは問い返した。内心、彼は混乱していた。全く予想しなかった内容だったからだ。彼が考えていたのは、王都をゼノアという男から奪還するための兵力集めやそれに類することだった。なぜここで、聖のリストレインが出てくる?
「さきほどお話しした、ゼノア・ジークムンドによる反乱。その端緒となった幻獣研究所での戦いは、私たちが仕掛けたものでした」
「なに?」
 上手い、とセリオルは思った。アーネスの話の持っていき方は絶妙だった。簡単には信じられないであろう内容を、少しずつ種明かしをしていった。そうすることでブルムフローラ伯爵の興味を引き、信じさせようとする運び方だった。
「ゼノアは闇の幻獣と結託し、世界のマナを占有しようとしています。幻獣の力を操るゼノアに対抗出来るのは、同じく幻獣の力を借りることの出来る、私たちだけでした。私の金獅子隊も戦闘には参加させましたが、通常の魔物の相手で精一杯でした」
「いや、ちょっと待ちたまえ」
 理解の追いつかない話に、ラッセルは額に手を当てた。
「世界のマナを、占有? 一体どういうことかね?」
 アーネスはその質問への答えに、少し間を置いた。水音だけが聞こえる。じっと自分を見つめるラッセルの目を見つめ返し、アーネスは口を開いた。
「彼の真の狙いは、私たちもまだ掴んではいません。ただ、はっきりしていることがいくつかあります。例えば――」
 アーネスは語った。ラッセル・フォン・ブルムフローラ伯爵は、驚愕を隠さなかった。
 およそ半年前のマキナ島での大枯渇。クロフィールの森でのブラッディローズの発生。神晶碑の存在と、それが破壊されたこと。人工幻獣の影。アイゼンベルクでの天狼玉の魔物化。その他様々な、マナバランスの崩壊による異常事態。そして――
「おそらく、王国軍が束になっても、あの黒騎士を止めるのは難しいと思います」
 伯爵は沈黙した。顎を撫でる。額に脂汗が浮かんでいる。
 彼は信じたくなかった。目の前で、古くから親交の深い騎士の名門、グランドティア家の嫡子が語ったことを。王国騎士団、金獅子隊の隊長の言葉を。しかしいくら裏を読もうとしても、何も見えなかった。
 仮に王都が沈黙したのがアーネスたちのせいだと仮定し、今の話が全て、ブルムフローラ家、もしくはその他の自治区も含んだ世界を裏切る行為だとしても、いくつもの矛盾が彼の脳裏を駆け巡った。そもそも幻獣たちの力を扱えるなら、彼に頼みごとをする必要は無いのだ。圧倒的な力でもって、彼を脅迫すればそれで済むのだから。
「……何か、証拠になるものは無いかね」
 長い沈黙の後、彼は搾り出すようにして言った。その言葉に、あからさまな溜め息をした者がいた。それも、ふたり。
「だあああああ! おっさん、いい加減信じたらどうだ!」
「そうだそうだ! こんな話、わざわざ作って話しに来るわけねーだろ!」
 カイン・スピンフォワードと、クロイス・クルート。さきほど彼らが述べた名を、ラッセルは正確に記憶していた。
「おい兄さん! 失礼だろ!」
「そうだよ、クロイスも、だめだよ!」
「やれやれ。申し訳ありません、伯爵」
「なんだってあんたたちはこう……辛抱ないのよ」
 ふたりの言葉をきっかけにして、緊張の糸が切れたかのように彼らは騒がしくなった。やいやいと騒ぎ立てるふたりを、サリナ・ハートメイヤーとフェリオ・スピンフォワードが諌め、セリオル・ラックスターが彼に詫びの言葉を述べ、アーネスは頭を抱えている。
 おそらく、とラッセルは推測した。アーネスがこの交渉の役を任されたのだろう。彼と面識があったのは彼女だけなのだから、それが自然な流れだ。
 ただ、彼は今のアーネスの様子を見て感じた。彼女と、仲間と紹介したこの愉快な連中との間の信頼関係を。
「サラマンダー?」
 気づけば、サリナ・ハートメイヤーが左腕を掲げていた。その手首には、真紅に煌く不思議な金属製の篭手が装着されている。ラッセルは目を細めた。あれは――
 真紅の光が膨れ上がり、少女の篭手から真紅の透明な球体が分離するのを彼は見た。驚きの声を上げる間に球体はその形を変え、やがて大型犬ほどの大きさの、赤き竜となって彼の前に現われた。驚いた飛竜が声を上げる。
「やあ、サリナ」
「こんばんは、サラマンダー」
 人語を解する竜。神々しき真紅の光を放つ、不思議な獣。ラッセルは、驚愕とともに認めた。
「まさか……幻獣か」
「はい。私たちに力を貸してくれる、大切な存在です」
 立ち上がり、サリナはサラマンダーと並んで立った。彼女は感じた。幻獣の存在が切り札になる。国王ヴリトラの時とは違い、ラッセルは試練の迷宮など出してはこないだろう。彼はほとんどアーネスの話を信じていた。ただ、自分を納得させるための最後のひと押しが欲しかっただけだ。
 サリナに続いて、アーネスたちも立ち上がった。それぞれに色の異なる、しかし材質そのものは共通しているように見える金属製の装備を掲げる。
「ヴァルファーレ」
「イクシオン!」
「アシュラウル」
「オーロラ!」
「アーサー」
 翠緑、紫紺、銀灰、紺碧、琥珀。5色の光が出現し、その中からそれぞれの幻獣が姿を現す。天井の高い空間だが、幻獣たちの光で満たされるとそれほど広くないように錯覚してしまう。
 居並ぶ幻獣たちを代表して、真紅のドラゴンがラッセルの前へ歩み出た。火炎竜、サラマンダー。その名を彼は知っていた。有名な幻獣ではないが、確か統一戦争の時にも活躍したはずだ。
「君が、ラッセルかい?」
「……はい。ラッセル・フォン・ブルムフローラと申します」
 幻獣とは、神。アーネスたちは親しげに幻獣と話しているが、ラッセルにはそれが信じられなかった。エリュス・イリア全土に広まる幻獣信仰。地域によって信仰する幻獣は違えど、幻獣を神と祀ること自体は変わらない。ラッセルは恭しく頭を垂れた。
「そんなに堅苦しくしなくていいよ、ラッセル」
「はい」
 顔を上げ、ラッセルは幻獣たちと向き合った。
 真紅の竜、翠緑の鳥、紫紺の馬、銀灰の狼、紺碧のイルカ、琥珀の獅子。神々しき光を放つ、畏れ多き存在。ラッセルは畏怖の念に打たれ、茫然と硬直した。
「ラッセル、サリナたちに力を貸してあげてくれないかな? このままだと、ゼノアのせいでエリュス・イリアが壊れてしまう。彼を止められるのは、サリナたちだけなんだ」
 燃え盛る炎のように力強い声。少年のようにくるくると輝く、エメラルドの瞳。目の前で自分に語りかける幻獣を信じられない思いで見つめながら、ラッセルは葛藤した。
「伯爵、お願いです。私は、幽閉された父を助けたい。ですがそれよりも、今はもっと大きな目的が出来たんです。ゼノアを止めないと、世界が終わってしまいます。勝てるかどうかは、今はまだわかりません。でも、聖のリストレインが無いと絶対勝てません。お願いします、伯爵!」
 サリナは必死で懇願した。胸に手を当て、彼女は正直な気持ちをラッセルにぶつけた。ラッセルは大きく唸った。
 彼らの話は恐らく真実だろう。アーネスは本人に間違い無く、さきほど確認した騎士の紋章も偽物には見えなかった。その話自体も、俄かには信じられない内容ながら、すべて筋が通っている。嘘だろうと疑うことのほうが難しいほどだ。そもそも、嘘をついたとして、彼らには何のメリットも無い。
 だが、彼は葛藤した。協力を約束するか否か。
 彼の協力は、サリナたちにとって必要不可欠だろう。聖のリストレインを得て、闇の幻獣に最も対抗しうるはずの、聖の幻獣たちと共に戦うこと。それには、聖のリバレーターも必要だ。となると――
「お父様、お持ちしました」
 不意に飛び込んできた声に、ラッセルは素早く振り返った。今最も、彼が聞くことを望まない声だった。その声の主に、サリナたちや幻獣たちの視線も集中するのを、彼は感じた。
「ごめんなさい。盗み聞きのつもりではなかったのですけれど……」
 そこに立っていたのは、サリナとさほど変わらぬ年頃の娘だった。
 ラッセルと同じ、黒い髪。束ねられているが長く、腰のあたりまではありそうだ。そしてラッセルとは異なり、白い肌。エル・ラーダに入って初めて、サリナは自分たち以外で肌の白い人物を目にした。それも白磁のように滑らかな、肌理の細かそうな肌。くっきりと大きく、光をよく反射する、澄んだ黒瞳。そしてラッセルと同じように、その肩に小さな青い飛竜を乗せている。
「……シスララ」
「はい、お父様」
 彼の娘は、その両手に木製の盆を持っていた。そしてその上に、不思議な光沢を放つ純白の金属で出来た、髪留めらしきものがあった。
「シスララ!」
「こんばんは、アーネスさん。お久しぶりです」
 おっとりした口調で答えるシスララに、アーネスは近寄りかけて立ち止まった。シスララがその手に持っているものに目がいったからだ。
「それ、もしかして……」
「はい。聖のリストレインです」
 アーネスの後ろで、彼女の仲間たちにどよめきが走る。幻獣たちがクリスタルに戻り、リストレインへ収まった。ばたばたと、サリナたちは聖のリストレインへ駆け寄った。
「これが聖のリストレインですか」
「すごい、綺麗ですね……」
 セリオルとサリナが感嘆したような声で言った。無理も無いと、アーネスは思った。聖のリストレインは、清らかな純白。その美しさは、まさに高貴な芸術品のようだった。
「すげえ! サンキュー、姉ちゃん!」
 興奮した様子のカインに、シスララはにこりと微笑んでみせた。何の邪気も無い、屈託の無い笑顔だった。
「申し送れました。私、シスララ・フォン・ブルムフローラと申します。ラッセルの娘です」
 シスララの自己紹介に、サリナたちは慌ててリストレインから離れた。
「これは失礼しました。貴族のご息女を前にして、名も申し上げずに」
「いえいえ、お気になさらないでください」
 サリナたちは改めて自らの名を名乗った。その全てに、シスララはよろしくお願いしますと答えた。何をよろしくするのか誰もわからなかったが、シスララの柔らかな笑顔に、誰もそのことを問いかけはしなかった。
「シスララ、勝手なことをするんじゃない。なぜ持ってきたのだ」
 そこへラッセルの声が飛び込んだ。その声には、怒りと困惑、そして後悔の念が含まれているように、サリナには思えた。
「なぜって、お父様、皆様はこれが必要なのでしょう?」
「必要だと言うものを全て与えていたら、ブルムフローラ家は破産するぞ!」
 父の怒声に、しかしシスララは動じなかった。彼女は両目を閉じ、静かにかぶりを振った。
「そういうことではありません、お父様。お分かりのはずでしょう?」
 シスララは目を開いた。物腰の柔らかさとは違う、ある種の強さを感じさせる目だった。ラッセルは小さく呻き、娘の言葉を待った。
「最近の果物類の不作も、さきほどのゼノアという方の所業の影響に違いありません。他に原因が考えられませんもの。私たちにここで豊かな暮らしをさせてくださっている、エル・ラーダの民の皆様を、私たちが救わなくてどうするのです?」
 伯爵には返す言葉が無かった。まさしく娘の言うとおりだ。それはわかっている。リストレインは差し出すべきだろう。サリナたちがそれを持ち逃げするような者たちだとは、彼も考えてはいない。しかし――
「それに」
 言いながら、シスララは聖のリストレインをその手に取った。ラッセルが制止の言葉をかける間も無かった。
「聖のリバレーターも、いることですし。探す手間が省けて、良かったですね?」
 サリナたちは自分の目を疑った。アーネスも目をこすった。シスララとはそれなりに長い付き合いだが、全く知らなかった。カインとクロイスは歓声を上げた。セリオルとフェリオは、顔を見合わせてにやりと笑った。サリナは嬉しさに飛び跳ねそうになった。
 聖のリストレインが、シスララの手の中で純白の仄かな光を放っていた。