第73話

 花天の街エル・ラーダの沙羅の宮で、サリナたちは聖獣の森での疲れを癒していた。激しい戦闘があったことを、戻って来た彼女らを見てセリオルは悟った。彼はことの経緯を話したがって興奮した様子のサリナを宥め、ひとまず湯を使ってきなさいと勧めた。
 サリナはアーネスやシスララとともに、沙羅の宮の広い風呂にゆったりと浸かった。屋内の風呂だが、非常に広くて防水のほどこされた照明も焚かれており、明るくて心地良かった。
 湯上り、サリナとアーネスはシスララに誘われて、沙羅の宮専属の“ヴァレーズ”と呼ばれる心身の疲労を癒す施術を受けた。それは“アーユル・パドマ”という技術で、花天の街に咲く様々な花のエキスを配合した芳香油を使った癒しの術である。背中や脚などにその芳香油を塗り、花の香りに包まれながら受けるマッサージを受け、サリナはひと時の夢を見た。
「わあ、アーネスさん、つやつやですね!」
 それぞれに個室で受ける施術が終わり、サリナはアーネスの姿を見て声を弾ませた。アーネスはサリナと同じ柔らかな絹製の、ゆったりとしたローブのような服を纏って休憩用の長椅子に腰掛けていた。
「あら、サリナこそ。やっぱり若さってすごいわねえ」
 アーネスは優しく微笑みながら、サリナを羨むように言った。確かに、サリナの肌はあれだけの激しい戦いを演じたのと同じ日とは思えないほど、ヴァレーズ施設内の暗い照明の中でも光を反射するほどの潤いを見せていた。
「えへへ。そうですか? 気持ちよかったですね、お風呂もアユール・パドマも」
 後頭部に手を当てて照れながら、サリナは嬉しそうだった。アーネスは王都でも、種類は異なるが同じように入浴とマッサージを組み合わせたサロンのようなところへ行ったことがあった。しかしサリナは初めての経験だったので、すっかりその気持ち良さの虜になっていた。
「サリナは何の香りにしたの? 柑橘系みたいだけど」
「あ、ベルガモットっていう香りです。元気が出る香りです」
 自分のローブの襟元をぱたぱたとしてみせるサリナに、アーネスは微笑む。サリナはそのアーネスが使った芳香油を当てようと、鼻をひくひくさせた。
「……アーネスさんは、ラベンダーですか?」
「あたり」
「やった! いいですね、ラベンダー。いい香り」
 言いながら、サリナはアーネスの隣に腰を下ろした。
「そうね。心の疲れを癒してくれるらしいわ」
 そう言うアーネスは、少し顔を俯かせた。その様子に、サリナは心配そうな顔をした。アーネスの気持ちが伝わってきた。やや迷ってから、サリナは口を開いた。
「アーネスさん、あんまり気を、張らないでください」
 その言葉に、アーネスはどきりとして顔を上げた。図星だった。
「いつも私たちを守ってくれて、ありがとうございます。でも、私もアーネスさんを守りたいです。みんなで頑張りましょう、ね?」
 アーネスはあの蜥蜴の魔導師との戦いで、もしも破滅の魔法を本当に受けてしまっていたらと考えていた。騎士として、自分は仲間たちをあの恐ろしい魔法から守ることが出来ただろうか。
 答えは、不可能だった。
 彼女はいつの間にか、王国の盾として仲間たちを、この重大な使命を帯びた仲間たちを守ることを自分に課していた。敵の攻撃から、騎士の力を使って守ることを。もしも次に、また破滅の魔法を使う敵が現われたらどうするか。その時に都合良くシスララが幻獣の力を使えるとは限らないのだ。そういう思いが、彼女の心をじわじわと追い詰めていた。
 それに、サリナは気づいていた。
「ありがとう、サリナ」
 アーネスはサリナの頭を撫でた。栗色の柔らかい髪は、まだ風呂の湿気が残ってしっとりと潤んでいた。
「お気に召しましたか?」
 自分用の純白のローブを身に付けたシスララが最後に出てきた。彼女はサリナの前に立ってゆったりと微笑んだ。サリナはシスララの顔を見上げ、頭を勢い良く縦に振った。
「すっっっごく! 気持ちよかったああ」
 サリナはシ立ち上がってスララの手を取り、ぶんぶんと上下に振った。シスララはそれに微笑んで頷く。
「では、そろそろ参りましょう。食事の支度が整っているはずです」
「悪いわね、何から何まで」
 そう言うアーネスに、シスララは軽くかぶりを振る。
「いいのです、お父様も、皆様への協力を約束したのですから。不作続きで民が貧しいので、大したおもてなしは出来ませんが……」
「ううん、そんなことないよ!」
 つやつやと光る頬に精一杯の真剣な表情を作って、サリナはシスララの伏せられた瞳を見つめる。
「エル・ラーダのひとたちのために、頑張ろうね!」
 ひとつ年下の小柄な少女の、まっすぐに届く言葉。彼女が心を動かされるその言葉に、シスララは微笑む。まだ知り合って丸1日経つか経たぬかというところだが、彼女は思った。出会えて良かった、運命に真正面から立ち向かおうとする、この勇敢な少女に。
「ええ、そうね。ありがとう、サリナ」
 シスララの嬉しそうな声に、サリナは顔一面に笑顔を作る。彼女らは食堂へ向かうための着替えをしに、浴場の脱衣室へ向かった。

「ふゃぁぁぁぁぁぁぁ」
 気の抜ける声を出して、カインは食事の円卓に突っ伏した。女性陣がアユール・パドマを受けている間、男性陣は“指圧”と呼ばれる、指で筋肉をほぐすマッサージのようなものを受けた。男性施術者の力強い指で肩や背中、腰、脚などを押され、時には痛さに叫びながらも、結果として全身の血流が良くなり、ほかほかと温まって心地良さに包まれた。
「風呂のあとの指圧ってのぁ、最強だなあ」
 テーブルの上で頭をごろごろとする兄の隣で、フェリオは頭を抱える。彼も船の改造で疲れた身体をほぐしてもらうため、帰還したカインたちと一緒に入浴し、指圧を受けた。彼はとりわけ肩と頭を重点的にほぐしてもらった。
「兄さん、行儀良くしろよ。仮にも貴族の屋敷なんだぞ」
 そう諌める弟に、カインは片手を上げてぷらぷらと振ってみせる。
「うっさいうっさい、貴族でも仲間の家だ。おカタくすんじゃねーよ」
「やれやれ……」
 楽な部屋着ですっかり気を緩めている兄に、フェリオは溜め息をついた。
「はっはっは。まあいいじゃないか。聖獣の森で大変な戦いがあったんだろう? 疲れていても無理は無い。ここではそんなに気を遣わんで構わんよ」
 そう言ってカインの右隣で愉快そうに笑うラッセルに、セリオルは小さく頭を下げる。彼はラッセルの右側に席をひとつ空けて座っている。空けてあるのはもちろん、シスララの席である。
「ありがとうございます、伯爵。カインとこのクロイスは、礼儀正しい振る舞いが苦手なもので。助かります」
 セリオルは右隣にいるクロイスの頭に手を載せ、ぐっと押して下げさせた。風呂に入ったため帽子はかぶっていないが、髪をくちゃっとされてクロイスはむっとした。
「あんだようっせーな! やめろよ!」
 セリオルの手を払い除けて腕を組むクロイスに、ラッセルが笑う。その背中を、カインがばしばしと叩いた。
「はっはっは。なんだおっさん、話がわかるじゃねえの!」
 その叩く強さに咳き込みながら、ラッセルはそれでも愉快そうだった。彼は嬉しかった。聖獣の森から帰ったシスララが、心から楽しそうに、サリナたちと話していたことが。伯爵の娘である彼女には、これまで心を許して何でも話せる友人というものがいなかった。ラッセルは初めて、娘の友だちをもてなすことが出来た。
「ちょっとカイン、またあんたはそうやって、失礼なことしてるの?」
 怒気を含んだ声にびくりとして、カインはゆっくりと振り返った。そこには部屋着に着替えたアーネスがいた。彼女は腰に手を当て、下ろした長い髪をもう一方の手で触っている。
「い、いやいやいや何言ってんだよ。俺ぁなんもしてねえっての。なあおっさん」
「おっさんじゃないでしょ!」
「ゲフンッ!?」
 鋭い手刀を脳天に受け、カインは変な声を出して小さくなった。痛撃を受けた箇所を手で押さえる。
「申し訳ありません、伯爵。うちのアホが失礼なことを」
 頭を下げるアーネスに、ラッセルは少し怖いものを感じながらも笑って答えた。
「いや構わんよ。たった今もそういうのは気にしないでくれと話していたところだ」
「いいえ。大体このひとはいつもこうなんです。一度ちゃんとわからせたほうがいいんです」
「うう……なんだよ、そんなに何回も偉いやつと話してなんかねえのに」
「国王様の前でもクロフィールの長老の前でもそうだったでしょ!」
 響き渡るアーネスの声に、カインは耳に指を突っ込んで耐え切った。彼はアーネスに向かって舌を出した。それに憤慨したアーネスは今一度手刀を見舞おうとしたが、カインもただ座してそれを待ちはせず、彼は素早く円卓の下に逃げ込んだ。
「へへーん! ここでまでおいでー!」
「ちょっと何してるの! 出て来なさい!」
「やーなこった!」
 フェリオが頭を抱え、セリオルは苦笑し、クロイスはにやにやしていたが下からカインに足を引っ張られて引き摺り下ろされ、怒鳴り声を上げた。アーネスと一緒に入ってきたサリナないきなりの展開におろおろし、シスララは楽しそうに笑っている。
「はっはっは! 全く愉快な連中だな、シスララ」
「はい、お父様」
 父にそう言って微笑み、シスララは隣に腰を下ろした。アーネスは結局我慢出来ずにちらと頭を出したカインの脳天に痛烈な一撃を与え、さっさとクロイスの隣に座った。サリナは慌てながら残る最後の椅子、アーネスとフェリオの間に腰を下ろした。
「うう。痛いよう」
 頭を押さえてしくしくと泣くカインをよそに、侍女たちが食事を運び始めた。
 食事は昨夜と同じように野菜や果物に肉類、魚類を添えたものが多く、独特の香辛料や香草が使われていて、サリナは新鮮な驚きとともに口に運んだ。マキナの料理に少し似ている。多種の香辛料を使う点では、ハイナンの料理とも共通点があった。
 驚いたのは、甘い果物を煮込んだり炒めたりして作られる料理の数々だった。香辛料を使って刺激を出しているが、果物本来の甘みがあるのでそれほど辛すぎず、不思議な味だった。フェリオとクロイスはその辛みが苦手らしく、赤い色のついた料理には手を出さなかった。対してセリオルは、真っ赤に染められた見るからに辛そうな煮込み料理を、汗ひとつかかず涼しい顔で堪能していた。
「こんなところでも、恐ろしいやつ……」
 その地獄のような色の料理が空っぽになったのをぞっとする思いで見つめ、クロイスは呟いた。
「何か言いましたか?」
 眼鏡をきらりと光らせ、セリオルがこちらを向いた。慌てて、クロイスは顔を逸らす。
「な、なんでもねーよっ」
「そうですか。なんだか失敬な言葉が聞こえた気がしたんですが」
「きき気のせいだよ。うん。気のせいだ」
「クロイス、どうしたの?」
「うっせうっせ。お前はその団子食ってろよ。なんでもねーっての」
「なによーひとがせっかく心配してるのに」
「はっはっは。いかんよクロイスくん、サリナちゃんに心配かけちゃ」
「だあああああうっせえなあもう!」
 そう怒鳴って、クロイスはやけになったように、目の前の米料理の大皿を持ち上げ、立ち上がって一気にかきこんだ。
「なんでそうなるんだ……」
「仕方ないわ。バカなんだもの」
 フェリオが頭痛がするかのようにこめかみを押さえ、アーネスは涼しい顔で状況を受け流している。クロイスはぼろぼろとこぼしながらも米料理を平らげ、げっぷと共に席に腰を下ろした。
「クロイスさん、そんな食べ方したらおなか、壊してしまいますよ?」
 セリオルを挟んで覗き込んでくるシスララから、クロイスはぷいと顔を逸らした。何をそんなに意地になっているのかとセリオルが観察していると、円卓の下から腕が2本、にょきっと出てクロイスの腹部に襲いかかった。
「だひゃひゃひゃひゃひゃ! てめーコラなにすんだーひゃひゃひゃひゃ!」
「うりうりうりうり! 難しい顔してんじゃねえよ!」
 いつの間にか酒で顔を赤くしたカインが円卓の下から、テーブルクロスを掻き分けて現れた。彼はクロイスの腹を散々にくすぐり、最終的にはその脚による痛烈な蹴りを鳩尾に受けて悶絶した。クロイスは椅子とともに仰向けに倒れ、大きな音をたてる。
「うわわ! クロイス、カインさん、大丈夫!?」
「……やれやれだ」
 サリナが席を立って目を回すふたりを介抱し、フェリオは頭を抱え、セリオルとアーネスがラッセルに詫びた。伯爵は大いに愉快そうで、上機嫌に酒を呷った。その隣で、シスララがセリオルににこりと微笑みを向ける。セリオルはそれにたじろいだように目を逸らし、その瞬間を見ていたアーネスがにやにや笑いを始める。
「……ごほん」
 咳払いをして、セリオルが食器を置いた。カインとクロイスが復活して小突き合いを始め、サリナも席に戻った。
「それでは、聖獣の森であったことを聞かせてもらえますか?」
 セリオルがそう言うと、その場の空気が一変した。セリオル、フェリオ、ラッセルを除く5人が、一様に表情を厳しくした。
「以前は平和だった森が、魔物の巣窟と化していました」
 口火を切ったのはシスララだった。彼女は森の様子を細かに話した。ラッセルが唸り声を上げた。彼にとって、聖獣の森は聖域だった。エル・ラーダの豊穣祈願を、はるか昔からブルムフローラ家が続けてきた森だからだ。
 シスララは語った。白き森に現われた、無数の手ごわい魔物たちのことを。そしてその最後に対峙した、あの恐るべき魔導師のことを。
「白魔法と黒魔法の両方、ですか……」
 セリオルは顎に手を当てて唸った。思いがけないことだった。サリナたちがよく無事で戻って来られたと、彼は大きく息を吐く。それにしても、恐ろしいことだ。あの破滅の魔法ですら使いこなす魔物が、こうもあっさりと目の前に現われるとは。
「不自然だな」
 響いたフェリオの声に、セリオルは顔を上げた。少年は腕を組み、目の前に灯された燭台の上の蝋燭を見つめている。彼は続けた。
「なぜこれまで魔物がいなかった森に、そんなに強力なやつが出るんだ?」
「これは推測だけど……」
 答えようと、アーネスが口を開いた。彼女は弱い酒の入ったグラスを持ち上げ、少し唇を濡らした。
「たぶん、裏にゼノアがいるわ」
「ゼノアが?」
 セリオルとフェリオが同時にその名を呼んだ。ふたりはアーネスを見つめた。他の仲間たちも、声を出さずに金髪の騎士に視線を注ぐ。
「さっきシスララが言ったろ、トカゲ野郎が次々に魔物を呼び出して、呼び出された魔物が黒に染まっていったって」
 しかし、そう答えたのはアーネスではなく、カインだった。皆は驚いた顔で彼を見遣った。カインは骨付きの肉を指で挟んで持ち、肘をついてぷらぷらさせていた。それをひと口かじって、彼は続ける。
「思い出してくれ。幻獣研究所でゼノアが呼び出した魔物を。あれもいきなりあの場に現われただろ?」
「私たちは、あれが闇のマナの力ではないかと考えたの」
 その言葉に、円卓が水を打ったように静まり返った。サリナは膝の上で手を強く握った。心臓の鼓動が速まる。これまで何度も彼女を襲った感覚。ゼノアに対する怒りが込み上げてくる。耳の後ろで血が騒いでいる。
「サリナ、大丈夫か?」
 フェリオの声が聞こえ、サリナは顔を上げた。まただ。フェリオの声で、サリナは自分からさきほどの妙な熱が引いていくのを感じた。知らぬ間に浮かんでいた額の汗が乾く。
「うん、大丈夫」
「そうか、よかった」
 そう言って、フェリオは正面に目を戻した。サリナも前を向く。
「……そうか」
 沈黙の後に発せられたセリオルの声は、彼が何かを思いついたことを表していた。セリオルは円卓を見回し、全員に向けてこう言った。
「おそらく、カインとアーネスの言うとおりでしょう。それはあの黒騎士を生み出すのに使われた技術の一片です。それをゼノアは、昔“インフリンジ理論”と呼んでいました」
「インフリンジ、ですか?」
 傍らのシスララに頷き、セリオルは続ける。
「黒騎士は、人工的にアシミレイトを施された存在です。それは闇のマナの特性、“侵食”を応用した技術なんです。マナ・シンセサイザーも各属性マナの炎の“変形”や風の“分解”などの特性を利用していますが、それをゼノアは極限まで高めたのでしょう」
「じゃあ、黒騎士もあの魔物たちも、闇のマナの力で操られてるんですか?」
 サリナの質問に、セリオルは頷いた。彼はこう言った。闇のマナによる侵食を受け、正気を失っているのだと。
「だったら、あの空間にいきなり魔物を呼び出すのは何なんだ?」
 マナの話が苦手なクロイスが、理解しようと頭を捻りながら質問した。セリオルはクロイスが的確な疑問を投げかけたことに、嬉しさを感じた。この少年も、確実に成長している。
「インフリンジの第2段階。支配した魔物に、今度は空間を侵食させているんです。もちろん、無限の距離を縮めることが出来るわけではないでしょう。ある程度の範囲に存在する魔物に、闇のマナによる指示を出して、空間を侵させていると考えられます」
「なんだよそりゃ。反則じゃねえか」
 椅子の背に大きくもたれ、カインは天を仰いだ。ゼノアの理解を超える技術に、腹が立った……いや、待てよ?
「ゼノアの反則は今に始まったことじゃないだろ。そんなことより、それに対抗する方法を考えないと――」
「いやいやいやフェリオくん、ちょっと待った」
 弟の言葉を遮ったカインに、皆の視線が集まる。カインは背もたれから離れ、テーブルに両肘を載せた。
「なんか皆、あの魔導師がゼノアのせいだっつってるけど、そもそもなんであんなとこにゼノアの手先がいるんだよ? おかしくね?」
「……確かに、おかしいですね」
 セリオルは再び考え込んだ。インフリンジに対抗する術よりも、聖獣の森にその化身がいた理由を解明するのが先決だ。それがわかれば、今後はゼノアの先手を打てるかもしれない。
「マナバランスの崩壊で、たまたま闇のマナの影響を強く受けた魔物が生まれたっていうことは?」
 アーネスが仮説を立てた。しかしそれに、フェリオがかぶりを振る。
「聖獣の森は聖の集局点なんだろ? そこに闇のマナの影響が出るとは考えにくいんじゃないか? 他の場所でその魔導師が生まれたなら、わざわざ聖獣の森には来ないだろうし」
「うーん、そうねえ」
 左手で右の肘を支え、支えられた右手でアーネスは長い髪をいじる。
「ゼノアは今、王都にいるのかね?」
 状況を静観していたラッセルが口を開いた。彼は度の強い酒を飲みながら、まったく酔った様子が無い。
「ええ、そのはずです」
 頷くセリオルに、今度はシスララが質問する。
「ということは、ゼノアは王都にいながらにして、聖獣の森でインフリンジを実行したのですか?」
 セリオルはそれに、顎に手を当てたまま、唸り声で答えた。彼にもまだ全貌が見えない。
「どうなんだろう……元々王都で生み出した魔導師を、聖獣の森に送り込んだっていうことは無いですか?」
 サリナが別の説を唱えた。それは一理あるかもしれないと皆の意を得たが、断定的なことは何も生まれなかった。
「シスララ、聖の幻獣を呼んでもらえますか?」
「え?」
 セリオルの突然の頼みに、シスララは反射的に彼のほうを向いた。セリオルは静かな瞳に、ゆらめく求道の炎がごとき光を宿していていた。シスララは動揺した。思わず下を向く。
「シスララ……?」
 驚いて、セリオルはシスララの顔を覗き込もうとした。更に顔を逸らし、シスララは慌てた様子で聖のリストレイン、純白の髪留めを円卓の上に置いた。よくわからないという顔のセリオルをよそに、円卓のその他の席に座った者たちは、顔をにやつかせた。ただひとり、眉間に深いしわを寄せるラッセル・フォン・ブルムフローラ伯爵を除いて。
「か、カーバンクル様、お願い致しますっ」
 らしからぬ早口で、シスララがそう言った。カーバンクル。それが聖の幻獣の名なのか。
 クリスタルが光を放ち、エメラルド色の毛並みの、大きな兎のような幻獣が現われた。額に大きなルビーを持ち、純白の光を纏う、神なる獣。
「こんばんは、みんな。僕はカーバンクル。聖の幻獣、碧玉の座。あらためて、よろしくね!」
 響く聖歌のような美しい声で、しかし少年のような口調のカーバンクルが、円卓の上の料理が置かれていない場所で見事な宙返りを披露した。
「か、か、かわいいいいいいいっ」
 サリナとアーネスが声を弾ませた。聖獣の森で見た時はカーバンクルが高いところにいたため、その姿をきちんと確認していなかった。カーバンクルのふさふさした毛並みとつぶらな瞳と、美しく高貴に輝く額のルビーとのギャップに、ふたりは一瞬で魅了された。席を立ち、ふたりはシスララの傍に来て、カーバンクルの毛並みに触れる。
「わあ、やわらかい! 気持ちいい〜」
「ほんと、ふさふさなのにつやつやなのね」
 そう言ってはしゃぐふたりにシスララは微笑み、ラッセルが頭を抱える。ブルムフローラ家の守り神なんだがなあ……。
「よう、カーバンクルってのか。俺はカイン。あんた、どうやってあの魔法を跳ね返したんだ?」
 カインが興味津々といった様子で身を乗り出して質問した。カーバンクルは、サリナとアーネスにもみくちゃにされながら、それを気にもしない様子で答える。
「あれが僕のリバレートなんだ。ルビーの光。あらゆる魔法を跳ね返す力さ。僕は自分で戦う力は無いけど、相手の魔法を跳ね返すことが出来るんだ」
「ほおおおおおお。そりゃすげえ! あのアルテマっての、物凄かったけどあれも魔法だもんなあ!」
「確かに……これは心強いな。これまでは無かった技だ」
 新たな幻獣の力に、フェリオも大きな興味を持っていた。一挙に注目を集めたカーバンクルは、皆から様々な質問を浴びせられた。それらがひと段落するのを待って、セリオルが口を開く。
「教えてください、カーバンクル。その蜥蜴の魔導師が現われるより前に、赤黒い天道虫のようなものが森に来ませんでしたか?」
「え? うーん……あ、うん、来たかも?」
 首を捻って答えるカーバンクルに、セリオルは深刻な表情を向ける。何か重大な事実が明るみに出た。サリナたちはセリオルに注目した。赤黒い天道虫?
「ブラッド・レディバグ……。エルンスト先生が提唱していた、マナに敏感な虫に、属性マナを帯びさせる理論です。おそらくゼノアは、幽閉した先生からその理論を盗み出したのでしょう。本来はマナストーンからマナを帯びさせ、それを増幅してマナ技術に活かす技術だったのですが」
 カインが鼻を鳴らす。フェリオは腕を組んで俯いた。クロイスが苛立たしげに貧乏揺すりをする。アーネスは眉間にしわを寄せた。シスララは睫毛を伏せる。そしてサリナは、じっとセリオルを見つめた。怒りと憎しみに支配されそうになる心を、懸命に抑えて。
 そして少女は、その口を開いた。
「急ぎましょう。お父さんのその技術が、もしかしたら世界中に闇のマナを撒き散らすかもしれないです。そんなの、私、許せない」
 震える声で、しかしサリナはまっすぐにセリオルを見た。セリオルはそれを、じっと黙って受け入れた。なんと罪深いことだ。かつての同胞ながら、どこまで人の道を外れたことをすれば気が済むのか。込み上げる怒りに、セリオルは目を閉じる。深呼吸をし、彼は立ち上がった。
「伯爵、ご馳走様でした。私たちは宿に戻って、今後の方針立てをします」
「そうか。今日は留まってはいかんのかね」
 伯爵の落ち着いた声が、セリオルたちの心に平静を与える。さすが、王国の一角を担うだけあって、人心を読むには長けた人物だ。
「ええ。さすがに連日空けてしまっては、“瑞花の果実亭”のご主人に申し訳ないですから。できればシスララにも来てほしいところですが……」
「……妙な考えは、無いだろうな?」
 小声でぼそりと呟かれたその言葉に、セリオルは我が耳を疑った。いや、気のせいだろう。さすがにそんな。
「セリオルくん、少し話があるのだが、宿に戻る前にちょっとだけ時間をもらえんか?」
「……はい?」
 訳が分からずに素っ頓狂な声を出すセリオルに、カインとクロイスが吹き出した。フェリオ、アーネスもそれに続く。サリナは困った顔を作り、シスララは狼狽した。張り詰めた緊張が解れたが、この後セリオルは、別の種類の緊張感を抱くことになった。