第75話

 エル・ラーダ港。世界地図の北西、ファーティマ大陸の小さな港である。自治区首都エル・ラーダにほど近く、温暖な気候で、日焼けした陽気な船乗りたちが闊歩する。
「伯爵の船が来たぞー!」
 ラッセルから連絡を受けていた船乗りが、港中に届くようにと喉を震わせる。それぞれの仕事をしていた船乗りたちは手を止め、港の入り口へ我先にと駆けつける。
 港に大型の船が運ばれてきた。蒸気機関を搭載した専用の巨大な荷車で、エル・ラーダの男たちや漁師たちによって。機械の力は強く、ひとの手では到底運ぶことなど出来ぬように思える船が、ひとが歩くくらいの速さで進んでいく。
 サリナは胸が高鳴るのを感じた。アイリーンに乗って、船よりも先に彼女らは港に来ていた。港には旅に必要なものが売られている店がたくさんあったので、そこで物資を購入した。彼らはそれぞれのチョコボの手綱を引き、船が近づくのを待った。
「すげえええ! セリオル、フェリオ、あれ造ったのか!?」
 興奮した様子のカインに、呼ばれたふたりは苦笑した。主人と一緒に、ルカは興奮した様子で、ブリジットとエメリヒはやや呆れたようだった。
「私たちは大型の蒸気機関を搭載するために改造しただけですよ。元々伯爵の許にあった船です」
「あんなのを1日で造れるわけないだろ」
「いやいや、うちのツインブレインズの実力はそんじょそこらじゃねーからな。はっはっは」
「はいはい、ありがとうございます」
 そう言って肩をぽんぽんとしたセリオルに、カインは右の親指を突き立てて見せる。セリオルは苦笑しながらも、嬉しそうだった。
「でも、ほんとにすごいですね。あんな船、使っていいのかな……」
 握った左手を胸に当てながら、高鳴る鼓動とともに、サリナはエル・ラーダで別れたラッセルのことを思った。
 彼は伯爵の位を国王から賜った貴族でありながら、彼女に頭を下げた。娘とエル・ラーダの未来を頼むと、腹の底からの言葉を添えて。サリナはその姿に感動し、そして誓った。必ず、ゼノアを止めると。
 男たちの掛け声と蒸気機関の音が響き、大きな船が動く。ブルムフローラ家にとって重要な資産であるはずの船と、それよりはるかに大切な存在であるシスララを自分たちに預けてくれたラッセルのことを思って、サリナは左拳を握る力を強めた。多くの人々の思いが、自分たちには懸かっている。それを胸に、彼女は深く刻み込む。
 そして大きな水音と水しぶきを上げて、船が港に進水する。偉大な伯爵の船が海に入ったことに、港の人々が歓声を上げる。
「慕われてるのね、伯爵は」
 アーネスは感心したようにそう言った。海風に、彼女の髪が揺れる。シスララはその言葉に、嬉しそうに微笑んだ。オラツィオとイルマも頷き合ったようだった。
 船はブルムフローラ家の操舵士が桟橋に接岸させた。その巨躯が静かに止まる。港の海面から波紋が消える。船は陽の光を浴び、誇らしげにその身を海に浮かべる。
「きれいな船だな」
 桟橋を歩き、クロイスがそう感想を口にした。イロが楽しげに啼く。
 サリナは船を見上げた。エル・ラーダの船らしく、大きな外輪を持つ船体は純白である。そこに朱色で、優美な蔦模様が描かれている。蔦は集まったり解れたりしつつ船尾から船首へ向かい、舳先で集まって威容ある太陽を形づくっている。船首には航海の無事を祈る意味だろう、幻獣リヴァイアサンを象った像が据えられ、遥か水平線を見つめている。
「外輪蒸気船リンドブルム――この船の名です」
 潮風になびく髪を押さえ、シスララが仲間たちに紹介する。彼らはそれぞれに万感の思いで船と相対する。いよいよ、彼らは世界の幻獣たちの許を巡る旅へと出発するのだ。
「さあシスララさん、乗ってくれ! 俺たちが精魂込めて造り上げた船だ! 動力はそこのあんちゃんふたりに改造してもらったけどよ、この船のほとんどは俺たちが造った! リンドブルムは俺たちの誇りだ!」
 エル・ラーダから船を運んでくれた船乗りたちのひとりが、代表するかたちで歩み出た。彼らの顔には、自信と誇りが満ちている。
「皆様、行って参ります。旅の無事をお祈りください」
 シスララは船乗りたちに向かって、深々と頭を下げた。船乗りたちは豪快に笑う。シスララが顔を上げると、船乗りたちはその拳を天へ突き上げた。
「留守は任せてくれ! なに、俺たちもエル・ラーダの民も、そうヤワじゃねえ。心配はいらねえさ!」
「世界に妙なことをしでかそうとしてるそのなんとかってやつを、しっかりぶっ飛ばして来てくれよ、シスララさん! ラーダ族の誇りにかけて!」
「帰ってきたらパーっとやろうぜ、お仲間の皆さんも含めて、全員でよ!」
 船乗りたちの言葉に、シスララは微笑んだ。その後ろで、サリナたちの顔にも明るい表情が浮かぶ。
「いいひとばっかりだなあ、エル・ラーダは」
「ああ。あいつらと飲むのが楽しみだ! とっとと終わらせねえとなあ!」
 船乗りたちの陽気さに感化されたか、カインは楽しげである。彼は船乗りたちに向かって、大きく手を振る。サリナもそれに倣った。仲間たちも同様である。
「はい、行って参ります。皆様もお元気で!」
「おう、行ってらっしゃい!」
「ささっと終わらせて、また舞を見せてくれよー!」
「身体に気をつけてなー!」
 舷梯に足をかけ、サリナはアイリーンの手綱を牽くのとは別の手を、まだ続く船乗りたちの声に振る。行ってきます、という言葉が自然と口を衝く。アイリーンが高く嘶く。
 サリナたちはチョコボたちと共に甲板に立った。陽の光を受け、甲板は煌いている。空は高く、美しい藍色に染まっている。白い雲が流れ、海鳥が楽しげに歌う。陽光が空中の塵に反射して、きらきらと光の粒を生む。
 サリナはぐっと伸びをした。目の前に広がる海に、胸が高鳴る。空気を吸う。肺がマナに満ちていく気がした。歓喜と興奮の中で、サリナは水平線を見つめた。
「目指すは一路、アクアボルトね」
 甲板の縁に腰掛け、アーネスがそう言った。アクアボルト自治区。ファーティマ大陸の南、セルジューク群島大陸の西に位置する、アイユーヴ諸島をその領土とする自治区だ。“雷轟”という言葉に導かれ、彼らはそこを目指す。
「私、エル・ラーダと王都以外の場所は初めてです」
 やや緊張した面持ちのシスララに、サリナが親近感とともに笑いかける。
「私なんて、この間までフェイロンから出たこと無かったよ。なのに、これから世界を回るなんて……なんだか不思議な感じ」
「楽しみね、サリナ」
「うん」
 ふたりの少女は顔を見合わせ、笑顔を交わした。
「よおーし! 行くぜアクアボルト! 待ってろよカジノちゃん!」
「行かねーからな、カジノなんて。金を無駄にすんじゃねーよ」
「なにっ!? てめえコラ、クロイスてめえいつから行き先を決める立場になった!」
「うっせーなあ。お前だって一緒だろ!」
「はっはっは。馬鹿め。俺は常に自由! 自由人、カイン・スピンフォワードだ!」
「はいはい勝手に迷子になれバカ」
「なんだよそんなこと言うなよ」
 やいやいとじゃれ合うカインとクロイスに、フェリオが頭を抱える。
「兄さん、セリオルの薬飲んでおけよ」
「もう飲んだぜ! ぬかりないぜ!」
「やれやれ……ま、こからだからな。賑やかなほうがいいか」
「薬は適度なころに効果が切れるようになっていますから、大丈夫ですよ」
 フェリオの隣で、セリオルはそう言って眼鏡を光らせる。
「さすが、適切な処方だな」
「ふふふ。それほどでも」
 ツインブレインズの影の部分を見た気がして、サリナは少し怖くなった。
「それにしても外輪蒸気船って、なんだかごつい名前ね」
 腕組みをして、アーネスは首をかしげた。その言葉を聞いたカインが、舳先へ走る。彼はそこに片足を乗せ、そして叫んだ。
「この船は、“海陽の船”だ! “海陽の船リンドブルム”だー!」
 ルカが一緒になって啼く。やたらに元気なカインに、仲間たちが吹き出す。クロイスとフェリオは呆れ顔だったが。カインはくるりと上半身をこちらへ向け、にやりとしてポーズを決めてみせた。
「どうよ、いい名前じゃね?」
「あはははは。いいです、カインさん、とっても! 海陽の船、リンドブルム!」
「海と陽の船、ですか。素敵ですね」
「へえ〜。カインのくせに、なかなかいいじゃない。太陽のマークにちなんだのね」
 女性陣にそう褒められ、カインは照れたように鼻をこすった。その様子に苦笑しつつ、セリオルが仲間たちを促す。
「では、出発しましょうか」
「おうおう、出航だ!」
「もうお前ちょっと、船酔いしてろよ」
「なにを!」
 騒々しいふたりは、セリオルから帆を張る作業を命じられ、がやがやしながら帆に上っていった。帆が張られ、風を受けて孕む。船室に入り、チョコボたちを専用の広い部屋に入れて、セリオルは操舵室で舵輪に手を載せる。フェリオはそのそばで、木造の船室の中にはやや不似合いな機械を操作した。それが蒸気機関の操作装置なのだろう。
「海陽の船リンドブルム、出航です!」
 フェリオ特製の蒸気機関が唸りを上げる。外輪に動力が伝わる。エル・ラーダ港の海をその力強い推進力が捉え、船は動き出した。船乗りたちの歓声があがる。港の女たち、子どもたちも総出で、領主の娘とその仲間の旅立ちを見送る。
 ラッセルは彼らに告げた。シスララが、皆の代表として旅立つと。果樹の不作を止め、エル・ラーダを救うための旅へ。彼らにその詳細は推測も出来なかったが、伯爵が言うのなら間違いはあるまい。なにせこれまで、エル・ラーダを良い方向へ導き続けてくれた方なのだ。
 彼らは見つめ続けた。リンドブルムが水平線の向こうへ消えるまで。

 リンドブルムは逞しい力で海を掴み、順調に進んだ。広い甲板ではチョコボたちが遊ぶ。アクアボルトまでは数日かかる。サリナは甲板で、チョコボたちやモグと遊ぶのが楽しみだった。雨は降らず、好天が続いた。
 操舵室には羅針盤も海図も備えられている。天文学にも明るいセリオルが、現在地は星の動きから把握した。彼によると、星の運びは黒魔法の効果に若干の影響を与えるとのことだった。そのため、彼は天空の学問にも精通していた。
 ちなみに、と彼はサリナに向かって付け加えた。それによると、白魔法は太陽の状態に影響を受けるらしい。サリナはそのこと自体は知っていたが、ほとんど意識したことは無かった。なぜなら太陽を見ると目が痛いからだ。それを伝えると、セリオルはこう言った。
「サリナ、世の中には遮光板というものがあるんですよ」
 船はエル・ラーダ港から南東に向かって進んだ。ファーティマ大陸全体から見ればアイユーヴ諸島は南に位置するが、エル・ラーダからは南東にあたるためだ。
 アイユーヴ諸島は大小様々な大きさの島々で形成されるが、その中でも特に重要なふたつの島が、アイユーヴ島とアクアボルト島である。
 アイユーヴ島は元々諸島の民が暮らしていた、諸島の中で最も大きな島である。半円型に近い島の東岸から中央にかけて、深い入り江が形成されている。その特徴的な島の各地に、かつてはいくつもの集落が存在していた。
 しかし200年前の内乱を機に、諸島の様相は大きく変わることとなる。自治区制を敷かれた諸島で、初めの領主となったディエゴ・フォン・グラナドによって、大移住計画が実行された。
 それは他の自治区やセルジューク群島大陸の街と比べて文明レベルが劣っていたアイユーヴ諸島を、一気に高度文明圏に押し上げるための施策だった。すなわち、アイユーヴ島の入り江の中に存在するもうひとつの島、アクアボルト島に一大歓楽施設を建造したのだ。
 それと同時に、自治区の首都をアクアボルトに設定。以降、アイユーヴ諸島はアクアボルト自治区として王国と関わっていくこととなり、首都アクアボルトは、享楽の街と呼ばれるようになった。
「それで、賭け事好きな貴族たちの要望でカジノが生まれたってわけ」
 アーネスの話を聞きながら、サリナはエル・ラーダで購入したお菓子を摘んでいた。果実を細かく刻んで乾燥させ、砂糖をまぶしたものである。濃縮された果物の味が舌の上に広がり、それをお茶で楽しむのをサリナは好んだ。
「それで、今は誰でも使えるようになったんですね」
 言いながら、サリナはお茶を飲んだ。ほのかな甘みが鼻から抜けていく。
「そ。まあそれ自体が良いことなのかどうかは、正直なんとも言えないけれど」
 アーネスの言葉の陰には、カジノで身を滅ぼす者の存在が漂っている。そういった人々のことを考えて、サリナは少し悲しくなった。
「カジノってのぁな、楽しみの範囲でやりゃいいんだ。身銭を削ってまでするもんじゃねえよ」
 船室には布のハンモックが架けられていて、カインはその上でのんびりした口調だった。セリオルの薬は相変わらずよく効くようで、まだカインは一度も船酔いを起こしていない。
「いや、兄さんカジノなんて行ったことないだろ」
 冷ややかな弟の声を、カインは鼻で笑う。
「ふふん。大体想像はつくってもんだ。あれだろ、な?」
「なんだよ、あれだろ、なって……」
「はっはっは。まだまだだな、フェリオくん」
「はいはい」
 フェリオが頭を抱えかけた、その時だった。
 どん、と大きな衝撃が船を揺らした。船室がぐらりと傾く。カインがハンモックから転げ落ちた。
「ななななんだっ」
「わわ、わわわわ」
 さすがにサリナはすぐに立ち上がり、慌てながらも船室から飛び出した。それにカインとフェリオが続く。
「セリオル、どうした!?」
 操舵室では、セリオルが操舵用の椅子に座って、かろうじて落下を免れていた。ずれた眼鏡を直し、彼は立ち上がった。
「わかりません。海面には何も無かったはずですが……」
 そこへ、ばたばたと大きな足音を響かせてクロイスとシスララが入ってきた。クロイスはマストの上で見張りをしていた。シスララは甲板でソレイユと遊んでいたのだった。
「みんな、出てくれ! 魔物だ!」
「なんですって!?」
 血相を変えて、セリオルが甲板へ飛び出した。サリナたちもそれに続く。
 甲板に、まさに魔物の群れが上がってこようとしていた。魔物は人型で、その全身を魚のような鱗に覆われている。顔は人間と魚類の間のようで、凶暴な形相である。背には大きな鰭があり、それは個体によって形状が異なるが、凶悪な棘のようなものであることは共通していた。鋭い牙を噛み鳴らし、不気味な声を上げる。
「げ。サハギンかよ」
 魔物に詳しいカインが嫌そうな声を出した。仲間たちの視線が集まる。
「人間に近い知能を持ってる魔物だ。普段は海の中の貝やら海老やらを食ってるんだが、人間の食料があるとそっちを狙ってくる。武器を扱うやつもいるし、中にはマナを扱えるやつも――ほら、そこ」
 カインの言葉どおり、サハギンたちはその身に鎧を纏い、武器を携えている。そしてカインが指差した先には、法衣のような襤褸を纏い、魔導師の杖めいたものを握る者がいた。
「油断してはまずい相手ですね」
 ウィザードロッドを構え、セリオルは魔物を観察した。不気味な声を上げながら、まるで包囲網でも築いたかのように、こちらへ近づいてくる。
 と、そこへひときわ大きな水しぶきが海面に上がった。そこから飛び出して来た者を見て、サリナたちは驚愕の声を上げた。
 それはカサゴのような顔を持つ、巨大なサハギンだった。他の者よりも格段に豪勢な装備を身につけ、その手に握るのも大振りの片刃の剣である。騎士を真似てでもいるつもりか、鉄板のようなものを加工したらしき盾も携えている。
「やれやれ……」
 フェリオは銃の狙いを定めた。カインが鞭をしならせる。アーネスは剣を抜いた。クロイスが弓に矢を番える。シスララは槍を構え、ソレイユが咆哮を上げる。
 そしてサリナは、鳳龍棍に腕を絡ませた。肩幅よりも広く、脚を広げる。ファンロン流武術、天の型。恐るべき速度と威力を誇る、サリナの攻撃。
「こんなところで、邪魔なんてさせない!」
 サリナが甲板を蹴った。船を傷付けさせるわけにはいかない。最初から全力で、しかし過度にはならないように注意が必要だ。真紅の風は、海上でサハギンの群れに突撃する。巨大なカサゴ頭が咆哮する。鬨の声が上がり、人間と半魚人の戦闘が始まった。