第77話

 享楽の街アクアボルト。サリナたちはその街の中心部に程近い場所で、シモンから紹介された“夜光の歓喜亭”という宿を取った。広く壮麗な建物で、エントランスロビーには煌びやかな絨毯が敷き詰められ、フロントカウンターにはきちんとした身なりの若者が数人並ぶ。ここならば不審な輩は入ってはこれまいと思わせる、格式ある宿だ。
「“騎士の剣亭”より高そうだな……」
「うん、私、緊張しちゃう」
 クロイスとサリナは、セリオルの陰に隠れてこそこそとそんなやり取りをした。セリオルはそれを背中に感じながら、苦笑しつつフロントで部屋を取るための手続きを行った。
「こんなとこ泊まる金があるんだったら、カジノ行かせてくれりゃいいのに……」
 ぶつぶつと文句を言う兄の隣で、フェリオは思い返した。そういえば、自分たちはかなりの大金を持っている。リプトバーグでの収穫祭の賞金、竜王褒章の賞金、アーネスの資金に、シスララの資金。それらを合計すると、これまでの様々な支出を差し引いても、相当な金額が残っているはずだった。
 路銀の管理はセリオルが行っている。ほとんどをデブチョコボに預けているらしい。補佐的にアーネスも把握しているようだ。しかしそれ以外の5人は、現在の懐事情がどうなっているのかを知らない。それでも問題無かった。セリオルは必要なものには支出を惜しまないし、逆に不要なものには金を出さない。彼が何も言わない限り、路銀の心配は不要だった。
「そんなことしてる時間無いだろ、俺たちには」
「ちぇー」
 弟の言葉に唇を尖らせて、カインはロビーを見渡した。金を持っていそうな服装の者たちが、自分たちに訝しげな視線を投げかけている。彼らから見たら、自分たちはぶらりと旅をしている変わり者なのだろう。そんな者たちがこの宿に泊まることが出来るのかと、そういう目をしていた。
 カインはそんな人々の視線を受け流した。不愉快ではあるが、仕方が無い。自分たちはそう見られる服装をしているのだから。
「怒鳴ったりしないでよ」
 アーネスの小さな声に、カインは鼻を鳴らす。
「そこまでガキじゃねえよ」
「ほんとかしら」
「うっさいうっさい。ほんとだっつの」
「ふふ。カインさんとアーネスさんは、仲がよろしいですね」
 突然わきから聞こえたその声に、ふたりはびくりとして振り返った。声の主はシスララだった。ソレイユがその肩であくびをして寛いでいる。シスララは嬉しそうに微笑み、カインとアーネスを見つめていた。
「な、なな何言ってんだよシスララ、やめてくれよっ」
「そうよ、じょ、冗談じゃないわよっ」
 ぷいと顔を背け合ったふたりに、シスララが微笑む。ソレイユが首を傾げて小さく啼いた。

 翌朝。サリナは早起きをして、宿のテラスに出ていた。高級宿に相応しい、広いテラスだ。人目も無く、観光地での宿泊を快適に楽しめるように配慮されていた。
 武道着に着替えたサリナは両目を閉じて大きく深呼吸をし、脚を肩幅に開いて精神を集中させた。
 もう一度、アクアボルトの大気が大きく吸われる。
「輝け、私のアシミレイト!」
 真紅の光が膨れ上がる。リストレインがサリナを守る鎧に変化する。サラマンダーとの融合を終え、サリナは目を開いた。
 真紅の具足の下に、光の円陣が現われる。立ち昇るマナの粒。サリナが自らのマナを解放させた。
 世界が小さく感じられる。全身が熱い。いつもよりも、血の流れが速い。それが正確に感じられるほど、サリナの感覚は鋭敏になっている。
 サラマンダーのマナと自らのマナを纏って、サリナは型の鍛錬を行った。師、ローガンの教えを思い返しながら。何度も何度も、繰り返し自分に言い聞かせてきた言葉。彼女の敬愛する師は、いつもこう言った。
「いいかサリナ。敵は魔物ではない。常に自分の心にあると思え。自分の甘えや驕りが、油断を生む。それがお前の、命を奪うぞ」
 甘えと、驕り。サリナは改めて思う、恐ろしい言葉だと。
 彼女は強い。それは彼女自身も自覚している。世の中の多くの戦士は、彼女に太刀打ちできないだろう。アーネスは言った、彼女の実力は、恐らく王都でも並ぶ者が無いと。仲間たちは常に彼女の力を賞賛してくれる。事実、多くの敵を、彼女は撃破してきた。
 だが、それでも敵わぬ相手がいる。あの漆黒の鎧を思い出す度、サリナは心底震えるのだ。心に刻み付けられた恐怖。全ての力を振り絞っても、歯が立たない相手。それがこのエリュス・イリアに存在している。今は王都で鳴りを潜めているようだが、いつ動き出すかわからない。
 もしも今、あの黒き騎士が目の前に現われたら。もしかしたらサリナたちの旅は、ここで終わってしまうかもしれない。いや、恐らくそうなるだろう。
 そして聖獣の森で遭遇した、あの邪悪な魔導師。黒魔法奥義、破滅の魔法、アルテマ。シスララがいなかったら、彼女たちの命運はあそこで尽きていた。
 あの魔物も、ゼノアの手で生み出されたのだという。魔物のマナを異常なまでに増幅させ、強大な力を与えるという、ブラッド・レディバグ。父が生み出したというその技術が、あれだけの強力な魔物を生み出した。
 ゼノアはカーバンクルを手に入れたかったのだろうと、セリオルは語った。あらゆる魔法を跳ね返す力、ルビーの光。確かに、脅威であるに違いない。あるいは人工幻獣の研究のために、カーバンクルが必要だったのか。いずれにせよ、ゼノアが簡単に強大な力を持つ魔物を生み出すことが出来るということが、サリナには恐ろしかった。
 もしもあの魔導師のような力を持つ魔物が大量に生み出されたら。その魔物たちが、ゼノアを守るとしたら。自分たちに、その防御線は突破出来るのだろうか。
 様々な思いが脳裏を駆ける。サリナは型の演武を行いながら、それらの思いを消し去れずにいた。強くならなければならない。早くマナを自在に操れるようにならなければ。一発勝負の攻撃では、本当の危機は乗り越えられない。
「おはよう、サリナ」
 アーネスの声に振り返る。彼女は運動しやすそうな服に着替え、髪をまとめていた。
「あ、おはようございます」
「私も混ぜてもらえるかしら」
 アーネスは訓練用の剣と盾を携えていた。木製の武具である。
「はい、よろしくお願いします!」
 サリナはアシミレイトを解除してぺこりと頭を下げ、傍らに置いてあった、訓練用の棍を拾い上げて構えを取った。ファンロン流武闘術、天の型。サリナは微笑んだ。アーネスと訓練できるのが嬉しかった。
「よろしく。お手柔らかに」
 剣と盾を持ち、アーネスは半身に構えた。
 ふたりは同時に地を蹴り、一気に距離を詰めた。アーネスの鋭い斬撃を身を低くして回避したサリナが、神速の回転蹴りを逆袈裟に繰り出す。その攻撃は、アーネスの盾によって防がれた。やはりアーネスの守りは固い。
 ふたりは一進一退の攻防を続けた。擬似的な手合わせだが、どちらも手は抜かなかった。ある程度のところでふたりは距離をとり、お互いに武器を下ろした。
「やっぱり強いわね、サリナ」
「アーネスさんこそ、やっぱりすごいです」
 ふたりはお互いの力を讃え合った。汗を拭いて、ふたりは息を吐く。
 アーネスとの鍛錬が、サリナに安心感を与える。彼女の仲間は強い。アーネスだけではない。セリオルも、カインもフェリオも、クロイスも、そしてシスララも。皆卓越した力を持っている。それに幻獣たちもいる。力を付け、マナを操り、幻獣たちと力を合わせて、ゼノアを止める。目の前で汗を拭く美しき騎士の姿に、サリナはそうなる未来を確信する。
「あら、朝から精が出ますね」
 部屋から出てきたシスララが、ゆったりした寝巻姿で微笑んでいた。下ろされたシスララの黒髪は長く、まっすぐに伸びて美しい。栗色で癖毛のサリナは、アーネスとはまた違ったその美しさに、憧れを抱く。
「おはよう、シスララ。よく眠れた?」
「はい、おかげさまで」
 部屋の中で眠っていたソレイユがシスララに気付き、羽ばたいてその肩に留まる。その顎をシスララが撫でてやると、ソレイユは気持ち良さそうに小さく啼いた。
「シスララとソレイユって、仲いいよね」
 その様子を見たサリナがそう言うと、シスララは嬉しそうに微笑む。
「ええ、小さい頃から一緒に育ってきたから。よく私たちと飛竜は相棒同士って言われるけど、私にとってはソレイユは、兄弟みたいなものなの」
「え、ソレイユって何歳なの?」
 驚いたサリナが尋ねると、シスララはソレイユの額を撫でながら答える。
「19歳。私と同い年よ」
「え! そうなの! 私より年上だったんだ!」
「ふふ。そうよ。お兄さんなのよ」
「わああ。意外だなあ」
 サリナはソレイユの額を撫でた。ソレイユはそれが主人の仲間の手と認識しているのか、大人しく受け入れて目を閉じた。
「こんなに可愛いのに、お兄さんなんだね」
 ソレイユはその美しく黒い瞳で、サリナを見つめた。高い知能を感じさせる目だ。チョコボたちと同じく、ソレイユもひとの言葉を理解しているのかもしれない。ソレイユは親しみを感じさせる声で、小さく啼く。
 その時、部屋のドアがノックされた。
「おーい、起きてるかー? 飯いこうぜー」
 カインの声だ。サリナたちはそれぞれに返事をして、急いで着替え、髪をまとめて部屋を出た。
 その直前、アーネスがサリナに言った。
「サリナ、マナを解放する方法、今度教えてちょうだい」
「え?」
 少し驚いたサリナに微笑んで、アーネスは返事を聞かずにドアを開いた。

 午後のアクアボルトを、サリナたちは歩いている。
 午前中、シモンが“夜光の歓喜亭”を尋ねてきた。注文した服は、今日の日暮れごろには仕上がるとのことだった。急ピッチの仕事の代価は、セリオルとサリナのハイナン服だった。さすがに数少ない衣類を譲るわけにもいかないので、その染料と織り方の研究のためにと、それぞれの服を1着ずつ、一時的に貸したのだ。
 それだけでも、シモンにとっては感涙の域だった。このアクアボルトで、ハイナン服を研究出来る機会は限りなく皆無に近い。いずれはハイナンに出向いてと思っていたことが偶然にも実現したのだから、それも無理は無いのかもしれなかった。
 シモンはアクアボルトに相応しい、洒落たデザインの服を仕立てることを約束してくれた。ただ、それを宿でのんびりと待っているような時間は、サリナたちには無い。彼らは旅装束ではなく、比較的奇異に映らぬ部屋着で宿を出て、“雷轟”の手掛かりを探すことにした。
 昼のアクアボルトは、夜とはまた違った顔を見せていた。昨晩は、美しさの中にもどこか妖しさや危うさを感じさせる雰囲気が漂っていたが、今はそうではなかった。健全な観光都市。それが享楽の街の、昼の顔だった。
「なんだか、昨日と全然違うね」
 街の人々も、昨晩ほどサリナたちに、あからさまな視線を投げかけてはこない。隣りを歩くフェリオに言葉を投げかけながら、サリナは思った。もしかしたら、昼と夜で出歩いているひとが全く違うのかもしれない。
「俺は夜より昼のほうが好きだな」
「うん、私も」
 夜はネオンの影に隠れてしまうのだろう。アクアボルトは、背の低い石造りの建物も多かった。夜になると全く目立たないが、観光客ではないこの街の住人たちの生活基盤はここにあるようだ。
「昼間はあんま賑やかじゃねえんだなー」
 なぜか残念そうなカインに、シスララが笑う。
「うふふ。カインさんたら、やんちゃな男の子みたいですよ」
「はっはっは。俺ぁあれだぜ、いつまでも少年の心を忘れない、ピュアボーイなんだぜ」
「ガキなだけだろ」
「んだとクロイスコラ、もっぺん言ってみろ本物のガキコラ」
「誰がガキだてめー、ぶっとばすぞ!」
「ケケケ。やってみろガキんちょ! かかってこーい!」
「黙れおっさん! 待てコラー!」
「あーあ、また始まっちゃった」
 苦笑するサリナを置いて、カインとクロイスは走って行った。シスララは楽しそうに笑っている。セリオルはやれやれと呟いて、額に手を当てた。
「困ったものですね、いつものことながら」
「仕方ないわ、バカは死んでも治らないのよ」
 そんなやりとりをしながら街を歩くものの、“雷轟”に――瑪瑙の座の幻獣につながる手掛かりをどうやって探したものか、セリオルにも見当がつかないでいた。クリプトの書には、“雷轟”が諸島のどこで起こったのかに関する正確な記述は無かった。
 ただ、それがこのアクアボルト島ではないことは確かなように、セリオルには思えた。その見解は、アーネスとも一致した。なぜならこの島にアイユーヴの人々が移り住んだのは、自治区制が始まってからだ。クリプトの書は統一戦争時代から存在した書である。自治区制の始まりよりもはるか以前に、“雷轟”の記述がされているのだ。
「一番可能性が高いのは、やっぱりアイユーヴ本島よね」
「ええ。かつての集落も、最も多かったはずですからね」
「確率論でしかないけど、そこを当たるのが近道だろうな」
 セリオル、アーネス、フェリオの3人がそんな相談をした。
 アイユーヴ島はアクアボルト島を囲むように存在している、諸島最大の島である。
「アイユーヴ島って広いんですよね?」
 顎に指を当てて、シスララが尋ねた。船の中で見た世界地図のイメージが脳裏にあった。
「ええ。セルジューク群島大陸のセレスティア州と、エル・ラーダ自治区の中間ほどの面積があります」
「わ。そんな広いと、やみくもに探してたらいつになるかわかんないですね……」
 サリナの困った顔に、セリオルは頷いた。彼にもそれはわかっていた。だから手掛かりが欲しいのだ。
「そのへんの民家、突撃してみるか?」
 フェリオの発言に、他の4人が固まった。
「ざ、斬新な発想ですね」
「フェリオ、勇気あるなあ」
「まあ、でも確かにそれくらいしか、手段も無いかもね……」
 仲間たちがそれぞれに戸惑いと困惑の言葉を口にする中、シスララだけは違っていた。
「恐れ入ります。私、エル・ラーダ自治区のシスララ・フォン・ブルムフローラと申します。お尋ねしたいことがございまして、お声掛けさせて頂いています」
 聞こえたその声に、サリナたちはまさかという思いで振り返った。
 そこには、石造りの民家の扉をノックするシスララの姿があった。
「シ、シスララ……!」
「な、なんという行動力……!」
「……シスララ、やっぱり新しい戦力だな」
「カインがいなくて良かった……変な盛り上げ方されなくて」
 民家の扉が開き、驚いた様子の若い女が顔を覗かせた。家事の途中だったのか、可愛らしいエプロンをつけている。
「き、貴族様ですか? どのような御用で……?」
 シスララの名からそれを感じ取ったのだろう。女は恐縮した様子だった。貴族と関わることなど無いのだろう。
「突然申し訳ありません。そんなに身構えないでください。お願い申しあげているのは、私のほうなのですから」
「は、はあ……あの、それで、御用というのは?」
 サリナたちは、ひとまずシスララに任せることにした。大勢で囲むようなことをしては、聞けることも聞けなくなってしまうだろう。サリナはなぜか緊張している自分に戸惑いながら、シスララを見守った。
「実は、アイユーヴ島出身の方を探しているのです。このあたりで、あちらから出て来られた方はいらっしゃいませんか?」
「はあ、アイユーヴからですか……」
 女は考え込むように眉間にしわを寄せて、しばらく沈黙した。そして小さく唸ったあと、思い出したようにこう言った。
「そういえば確か、最近カジノに入った新人のディーラーさんがそうだったと、うちの主人が言っていましたけれど。主人もカジノで働いているんです」
「まあ、本当ですか? ご主人様にお会いすることは出来ますか?」
 嬉しそうに両手を合わせて、シスララは声を弾ませた。サリナたちも小さく、歓喜の声をあげる。
「ごめんなさい、もうカジノの準備に出ているんです」
「あら、そうでしたか……」
 残念そうに眉を下げるシスララに、女は慌てたように続けた。
「でも夜になったらカジノが開きますから、行かれてみたらお会い頂けると思います」
「まあ、そうですか? 良かった。ご主人様のお名前を伺えますか?」
 女はシスララの丁寧で素直な様子に、警戒心を解いたようだった。笑顔を浮かべ、彼女は答えた。
「ラウルです。ラウル・シャリエです」
「まあ、ラウルさんですね。ありがとうございます。大変助かりました」
 深々と頭を下げるシスララに、女は困ったように笑う。そのまましばらく雑談をするシスララとシャリエ夫人を見守りながら、サリナたちは有力な手掛かりが思いがけず得られたことに沸いていた。
「シスララの勇気に感謝しないといけませんね」
「ほんとですね! すごいなあ。私だったら出来ないなあ」
「いや、あれは勇気なのか? なんか自然に見えたけど」
「シスララって、ああいう子なのよ。昔から」
 そんな会話をしていると、シャリエ夫人に挨拶を済ませたシスララが戻って来た。嬉しそうである。
「皆様、お待たせしました」
「ううん、ありがとうシスララ!」
「助かりました、見事でしたね」
「いえいえ、そんなことないです。あ、そうです、さきほどの方が、カジノが開店するまでの時間を楽しく過ごせるところを紹介して下さいましたよ」
「あら、どこなの?」
 シスララはアーネスに向かって、嬉しそうに微笑んだ。役に立てたことが嬉しいのだろう。
「カジノの隣りに、チョコボレース場というところがあるそうです。楽しいそうですよ」
「ふっふっふっふ。いいこと聞いたぞ!」
 他の誰よりも早く反応した声は、さきほど走って行った男だった。カイン・スピンフォワードである。
「カジノにチョコボレース。いいじゃねえの! 俺ぁいいと思うぜ、どっちもな!」
「おま……あんだけ走って、なんでそんな元気なんだよ……」
 後ろでぜえぜえと息を切らせるクロイスに、カインは高笑いを返す。
「はっはっは。カジノとチョコボレースが、俺に力をくれる!」
 上機嫌に笑い続けるカイン。サリナたちは、全員そろって頭を抱えた。