第78話

 美しい青空の下、割れんばかりの大歓声の只中で、クロイスは茫然として口を開けていた。彼のチョコボ、紺碧のイロも同じようだった。握る手綱から、イロの感情が伝わってくる。
「なんで俺、こんなとこにいるんだ……」
「ク、クエ……」
 彼らの両脇では、興奮した様子の他のチョコボたちが鼻息を荒げている。騎手たちはその背で、愛騎鳥の興奮を適切な状態にコントロールしている。
 その様子にげんなりしながら、クロイスは正面を見た。
 青々とした健康的な芝生が広がっている。芝はクロイスの前に真っ直ぐ延び、曲がりくねって続いていく。遠くには起伏に富んだ丘や、蒸気機関の力を使った仕掛けなのか、上昇と下降を繰り返す足場が見える。その他にも多くのギミックが用意されていると、説明員が自信満々の様子で語っていた。
 そう、ここはチョコボレース場のコース。イロは急遽欠場となったチョコボの代わりを務めるべく、そのスタートラインに立っていた。

「来たぜ来たぜ、我が心のふるさと、チョコボレース場!」
 聳え立つ巨大な建造物の前で、カインが万歳のポーズでそう叫ぶ。その脇を着飾った女性たちが、くすくすと笑いながら通り過ぎる。カインは、なぜかその女性たちに親指を立ててみせ、片目をつぶる。女性たちは何がそんなに愉快なのか、けらけらと笑いながらチョコボレース場に入って行った。
「なあにやってんのよ!」
 いつになく怒気を孕んだ声を連れて、アーネスの手刀が飛んできた。カインはそれをわき腹に受けた。
「ゲフン」
 身を折って悶絶する兄に、フェリオは頭を抱える。
「なにやってんだよ、ほんとに」
「まあ、あれが彼のいいところですよ」
 苦笑いを浮かべながら、セリオルは仲間たちの先頭に立ってチョコボレース場へと入った。
 レース場の中は石材が敷き詰められた荘厳なつくりで、いたるところに歴代の偉大なチャンピオンチョコボと、それを操った騎手たちの像や肖像画が飾られている。大勢の人々の活気で溢れ、今日行われるレースの案内などの掲示された大きな案内板や、賭けるチョコボを選んだ人々がその券を求めるカウンターなどは、大混雑を来たしていた。
「すごい熱気ですねえ。こんなところ、私初めて来ました」
 きょろきょろと場内を見回しながら、シスララはゆっくりと進んだ。様々な年代の人々が同じ場所に集い、熱心に今日走る予定のチョコボたちについて話し合っている。場内には情報交換のための場所も用意されていて、そこは初対面の者同士でも気軽にそれぞれの贔屓にしているチョコボについて、意見を交換し合えるようになっているようだった。エル・ラーダや王都しか知らなかったシスララの目に、こういったことに情熱を傾ける人々の様子は、とても興味深く映った。
「ここの連中、全員カインと同じようなバカばっかなのか」
 頭の後ろで手を組んで、クロイスは呆れた口調だ。彼には、金をただ捨てるだけになるかもしれないようなことに熱中する者の気持ちが、全く理解出来なかった。
「まあまあ、舞台を観るようなものだと思えばいいんじゃない?」
 サリナは困った顔でそう言ったが、クロイスはそれに、鼻から息を吐き出すことで答えるのみだった。
 そのクロイスから視線を外して、サリナは場内を見回しながら歩く。彼女は、せっかく訪れたアクアボルトで、記念にレースを観るのも悪くないと思っていた。
 レース場に着くまでに街の案内板などで確認したところによると、チョコボレースとは様々な仕掛けや障害が仕掛けられているかなり大掛かりなコースを、10羽のチョコボが走って争うものらしい。単なる脚力や体力だけでなく、多種の蒸気機関によって毎回変化する仕掛けに、臨機応変に対応する反射神経や瞬発力、そして知恵も試される。
 レースはあと1時間ほどで開催される。がやがやと様々な声が飛び交うレース場は、高まる熱気によってその温度を上昇させている。サリナは期待に胸を膨らませて券売カウンターに並ぶ。
 そこへ、慌てた様子の係員が走って来た。人々の注目を集めた彼は、呼吸を整えて大音声を張り上げた。
「ご来場の皆様、緊急のお知らせがございます!」
 何事かと、場内がざわめく。サリナたちも係員に視線を集めた。係員は静かに聞いてくださいと注意を促すが、これだけの人数に口を閉じさせるのは至難の業だった。結局彼は、静まり返るのを待たずに再び口を開く。
「本日開催予定のシルバーカップに出場予定でした、スカイリー・アイシクルが急遽、体調不良のため欠場となりました! 繰り返します。本日開催予定のシルバーカップに――」
 怒号が飛んだ。観戦を予定していた客たちが、一斉に係員に詰め寄った。そこへ、大きな紙を持った他の係員が数名駆けつけた。係員たちはその大きな紙を、観客たちを掻き分けて案内板に掲示した。それにはこう書かれていた。
『スカイリー・アイシクルは体調不良のため欠場。代わりに出走できるチョコボを募集します。騎鳥券は買い戻しが可能です』
 係員に詰め寄っていた客たちは、その知らせを見て一斉に券売カウンターへと殺到した。その勢いと殺気に押される係員たちは、それでも渾身の大声で、騎鳥券の買い戻しは複数個所で対応すると知らせる。
「おいおい、なんか大変っぽいな」
 カインは騎鳥券を買う直前だった。しかし彼は、それほど大きなショックを受けてはいないようだった。
「兄さんはどうするんだ? 賭けるチョコボは決まったのか?」
 フェリオのその質問に、カインはにやりとして答える。
「正直言って、さっぱりわからん」
「なんだそれ」
 あれだけチョコボレースチョコボレースと言っていたくせに、カインは出走予定のチョコボたちや、チョコボレースの賭け方などを一切知らなかった。フェリオは呆れた顔で溜め息をついたが、彼の兄にそんなものは通用しなかった。
「いいんだよ、ノリだろノリ。楽しめりゃそれでいいんだ」
「……ま、熱中して無駄な金を使われるよりはずっといいよ」
「だろ? はっはっは。わかってるねフェリオくん」
「でも、どうするのでしょう。代わりのチョコボが見つからなかったら」
 顎に人差し指を当てて、シスララが呟いた。スピンフォワード兄弟は、それには小さく唸ることしか出来なかった。彼らだけでなく、セリオルやアーネスもチョコボレースのことはよくわからない。元々ほとんど観光で来た場所なので、事態がどう動くものか全く予想もつかなかったし、どう動いても彼らにとっては大きな問題ではなかった。
「レース中止とかになんのかなー。ちょっと残念だな」
 頭の後ろで手を組んだまま、クロイスがそう言った。それにセリオルが反応する。
「おや、賭け事は嫌いなんじゃありませんでしたか?」
「うっせーなあ。1回くらいは観てもいいかなって思ったんだよ」
「そんなこと言って、観てみたらクロイスが一番はまったりしてね」
 セリオルとアーネスのふたりにからかわれ、クロイスはぶすっとして腕組みをした。スピンフォワード兄弟がにやにやと笑い、クロイスがそれに吠える。
「でも、レース観られないとやっぱり残念ですね。せっかく来たのに」
「そうね。一度、観てみたかったわね」
 サリナとシスララの残念そうな顔に、カインが頭を掻く。彼自身ももちろんレースは観たい。しかしチョコボが10羽揃わないと、レースは開催出来ないようだ。さきほどから客と係員の押し問答を見ていると、そんなことを言っている。
「いきなり一般人にレースに出てくれって頼むほうがどうかしてるよな」
 フェリオの冷静な指摘に、サリナは頷いた。その通りだ。補欠出場のためのチョコボと騎手を用意していても良さそうなものだが。
「申し訳ありません! 開始1時間前になってこんなことになるとは思わず、補欠出場予定だったブラウニー・ブラウンは、既にブロンズカップへの出場登録をしておりまして――」
 そんな言い訳を係員たちがしている。客は納得しない。それはレース場側が、経費節減のために行ったことだからだ。補欠のチョコボを何羽も用意していては、余計な経費が多くかかるのだろう。そんなことを見抜けないほど、アクアボルトに集まる者たちの目は甘くはなかった。
「やれやれ。一般のひとがそうそうチョコボなんて持っていないでしょう。ここにはチョコボ屋もありませんし――帰りましょうか」
 セリオルがそう結論づけかけた、その時だった。手を挙げた者がいた。
 赤毛の青年、カイン・スピンフォワードである。
「代わりに出場するぜ!」
 彼の声はレース場に朗として響き渡った。瞬間、場内が静まる人々の視線が集中する。サリナは唖然としてカインを見た。セリオルもぽかんとしている。フェリオは頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。
「この、クロイス・クルートがな!」
 カインは自信満々の様子で、クロイスにびしりと人差し指を向けた。向けられたクロイスは、何が起こっているのかわからず、目を点にした。静寂が満ちる。
 そして直後、大歓声が湧き起こった。

 イロの手綱を握り、クロイスはカインのあの顔を思い出す。あの憎々しいしたり顔を。
「あの野郎……マジでタダじゃおかねえ……」
 わけがわからないうちに、クロイスは出場騎手控え室へと案内された。そこでカインは言った。あの場でチョコボを持っているのは、恐らく自分たちだけだ。そしてその中で最もチョコボの騎乗が上手いのは、おそらくクロイスだと。
 クロイスは反論した。騎士の務めでずっとオラツィオに乗っていたアーネスのほうが上手いのではないのかと。しかしそれは、チョコボレースが多くのギミックをクリアしなければいけないものだという理由で、却下された。騎士のチョコボはあくまで移動手段である。平地を走ることに関しては鍛えられていても、このレースに対応するのは難しい。
 その点、イロはリプトバーグ近郊で、クロイスが狩りの手伝いをさせていたチョコボである。障害や起伏をクリアするのには、野生だったイロのほうが長けているはずだ。
 カインのその理屈を、誰も否定しなかった。その話の真偽はともかく、彼らは事態を楽しんでいたのだ。
 仲間たちの表情が脳裏をよぎる。クロイスが出場することになって、それを明らかに楽しんでいるあの表情を。特に意地悪だったのは、フェリオとアーネスだ。セリオルは、クロイスとイロなら大丈夫でしょうというひと言で全てを片付けた。サリナとシスララはやや心配していた。しかし彼女らにしても、仲間がレースに出場するということ自体は歓迎しているようだった。
「どいつもこいつも……負けて恥かくのは俺なんだぞ……」
 ぶつくさ言いながらも手綱を握る手の力を緩めない主人に、イロはその隠した闘志を感じ取り、コースを見つめる目を鋭くする。
 クロイスはこのレースの前に受けた説明を思い返した。
 レースはこのコース1周の勝負。途中の様々な障害を越えるにあたって、その手段は制限されない。ただし、アイテムの使用は禁止である。あくまでチョコボと騎手の力のみで越えることが求められる。
 このレースはシルバーカップと呼ばれる。日夜開催されるレースのうち、下から2番目のランクである。最も下のランクがブロンズカップ。その次にシルバーカップ、ゴールドカップと続き、ゴールドの上がプラチナ。最高ランクのレースはレジェンドカップと呼ばれる。開催される頻度は、ランクの高さに反比例する。
 つまりクロイスは、チョコボレースに初めて参加するにも関わらず、最下ランクではなく、そのひとつ上のランクに挑戦することになったのだ。
 でも、とクロイスは考える。そんなに難しそうなコースではない。遠くで動いているギミックも、イロの力なら簡単に越えられそうに思える。彼らがこれまでにこなしてきた数多くの狩りと比べれば、襲ってくる相手がいない分、楽なはずだ。
 クロイスの目が光る。彼とイロはこのレースにおいて、ある意味で注目されている。飛び入りの参加者だからだ。通常、そんなことは起こらない。異例中の異例で大変申し訳ないと、係員が言っていた。レース開催のための役を果たしてくれた礼は必ずする、と。
 言い換えれば、クロイスとイロにはレースで活躍することは期待されていない。彼らはレースの開催者、観客の両方にとって、単なる頭数合わせの要員に過ぎないのだ。
「目にモノ見せてやろうぜ、イロ」
 仲間たちは、当然クロイスの騎鳥券を購入した。彼らは簡単に言ってのけた。クロイスが負けるはずはないと。このレース場のどこかで、彼のレースを観戦しているはずだ。仲間たちに、無様な姿は見せられない。
「クエ!」
 イロは気合の声を上げる。天高く響いたその声を最後に、スターティングゲートが静まった。間もなく、レースがスタートする。チョコボと騎手たちは、精神を集中させている。
 このレースの本命は、アロンダイト・ニミュエという名の、紺碧のチョコボである。たくましいオスチョコボで、力強い脚力と跳躍力、それに底知れぬスタミナが強さの源だという。騎手はランスロット・レイク。騎手専門学校を優秀な成績で卒業した、エリートである。
 ちなみにチョコボたちはそれぞれにマスクや鞍などをつけられ、それぞれに名やオーナーの家紋などのデザインが施されているので、羽根の色が同じでも見分けはつくようになっていた。
 イロには、レース場が所有していたマスクと鞍、それに翼を装飾する飾りが貸与された。美しい銀色の用具で、紺碧のイロの身体によく映える。
 クロイスはランスロットとアロンダイトを意識した。彼はエリートという言葉が好きではない。どうせいけ好かない奴に決まっている。そんな奴に負けるのはごめんだ。どれだけ自分に分の悪い勝負でも、負けたくはなかった。
 重厚かつ壮麗なファンファーレが奏でられる。このファンファーレが終わり、スタートゲートが開いた瞬間にレースが始まる。
 ファンファーレは勝利を予感させる勇壮な旋律である。空に吸い込まれるようにしてその演奏が終わり、そしてゲートが一斉に開かれた。
「いけ!」
 声を掛け、クロイスはイロを走らせる。イロは初速からトップスピードに入った。まずは直線。スピードを緩める必要は無い。
 クロイスは考えていた。このレースは、スタミナの配分も重要になる。きっと後半のほうに、意地の悪い仕掛けが待っていたりするのだ。それを乗り越えるのに、スタミナを消費しすぎていると、手間取ることになる。飛ばすところと締めるところを、きちんを考えなければならない。
 とはいっても、彼は初参加である。
 コースの説明は、毎回変更になるという醍醐味を失くさないため、受けていない。それは他の騎手たちも同様だ。しかし、ギミックの種類が毎度新しくなるわけではない。多くのパターンの中からの組み合わせで決定されるのだ。それを少しでも知っているのといないのとで、大きな差が生まれることは容易に想像がついた。
 イロはトップスピードで走る。他のチョコボたちは、彼女の速度についてこれないようだった。
 歓声があがる。誰も期待していなかったイロが飛び出したからだ。
 しかし、観客の多くはこう予想する。最初に飛ばして、どうせ後でスタミナが切れるのだと。観客席に座る彼らには、コースの先が見えている。
 最初の直線は長い。ここで差をつけて、ギミックをクリアするための時間を稼ごうというのが、クロイスの作戦だった。どうせ手間取ることになるのだ。その時間で、イロのスタミナは回復するはずだ。
 だがそこに、イロに追随する影が現われた。イロと同じ紺碧のチョコボ、アロンダイトである。
 アロンダイトは鮮やかな金色の用具をつけていた。紺碧と黄金のコントラストが、太陽の光に輝く。
 また大きく歓声があがる。観客たちの多くが期待を寄せるアロンダイトが、その実力を発揮し始めたからだ。
 クロイスはちらりと、アロンダイトの騎手を確認した。ランスロット・レイク。身体は大きくはない。チョコボに負担がかかりすぎてはいけないので、騎手たちは総じて小柄だ。そういう意味では、クロイスにもマイナス点は無かった。
 併走する2羽の紺碧のチョコボ。ランスロットがこちらを見る。目が合う。端正な顔立ちの騎手は、クロイスに向けてにやりとしてみせた。余裕の笑みか、挑発の表情か。いずれにせよ、クロイスの闘志に火がつく。
「野郎!」
 アロンダイトがイロを振り切ろうと、速度を上げる。それに負けじと、クロイスもイロに速度を上げるよう足でイロの腹を押して命じた。
 しかしイロは速度を上げない。まだ限界速度ではないはずだ。
「なんだよイロ、どうした!」
 苛立って、クロイスは鐙に立つ足でイロの腹を押す。しかしやはり、彼のチョコボは速度を上げようとはしない。
「おい、イロ! 負けちまうだろ!」
 走りながら、クロイスは叫んだ。
「クエ!」
 しかしイロは、鋭い声でそれに答えた。何かを警告するような声だ。クロイスは驚き、そしてすぐに悟った。
 イロは言っているのだ。冷静になれ、挑発に乗るなと。このレースに勝つために、彼らは何よりも冷静でなければならない。初見のコースに仕掛け。頭に血が上っては、越えられるものも越えられなくなる。
「……そうか、わかったよイロ。冷静にいくか」
「クエ」
 イロの背で、クロイスは前を見つめる。アロンダイトが距離を開こうとしている。さきほどのランスロットの顔。あれはクロイスの判断力を奪うための作戦だったのか。そうだとすれば、敵はかなり手ごわい。
「けど、俺たちはいつでも強い魔物に勝ってきたんだ。今日も勝つよな、イロ」
「クエー!」
 気勢を上げて、イロは走る。紺碧の風となり、緑の芝生の上を。
 その彼らの前に、いよいよひとつ目の障害が立ちはだかる。