第80話

 レース場開催の祝賀会に、当然ながらクロイスは招かれた。しかしそこに顔を出せば、否が応にも長時間拘束されることになるだろう。彼は夜にはカジノに行かなければならない。引き止めようとする係員たちやランスロットに詫びながら、クロイスはレース場を後にした。
「しかしお前、一気に有名になっちまったなあ」
「うるせーなあ。なりたくてなったんじゃねーっての」
 帽子の上から頭をわしわしとやってくるカインの手を鬱陶しげに払い除け、クロイスは毒づいた。
 時刻はそろそろ日暮れを迎える。噂を聞きつけた街の住人たちは、遠目ながらクロイスを見て何事か囁きあったり、感嘆の声をあげたりしている。若い娘たちの黄色い声も聞こえてくる。
「クロイス、やったね。モテモテだね」
 そう言って肘で小突いてくるサリナをじろりと見て、クロイスは帽子を目深にかぶった。こういったことには慣れていない。
「しかし人目を引かないようにシモンズに服を仕立ててもらうのに、これじゃ意味無いな」
「はは。確かに」
 フェリオの言葉に笑ったセリオルは、そのこと自体をとりわけ嘆いているわけではなかった。昨日のように奇異の目ではなく、まるで英雄か何かを見るような目を向けられるのは、決して不愉快ではなかった。
「でも、こういう目立ち方も、これはこれで少し恥ずかしいですね」
「だめよ、シスララ。それ言うとクロイスが気にするから」
 少し意地の悪い笑みを浮かべながら発されたアーネスの言葉に、シスララは口元に手を当てる。
「あ、ごめんなさいクロイスさん。どうかお気になさらないでください」
「うっせーうっせー。どうせ俺のせいだよ。へん!」
 腕を組んですっかりむくれてしまったクロイスに、シスララは困ったような表情を浮かべる。しかしそれはアーネスによって否定された。
「いいのいいの。街のひとたちから注目されて照れてるだけなんだから」
「あら、そうなのですか?」
 アーネスの意地の悪い笑みとシスララの疑うことを知らぬ顔を向けられて、クロイスはますますへそを曲げる。
「うっせーって言ってんだろ! ったくよー!」
「あはは。可愛いとこあるじゃない、クロイスったら」
「あの、あれ? えっと……?」
 むくれたクロイスと愉快そうなアーネスの間で、シスララは困惑する。その様子にサリナは笑い、フェリオは溜め息をついた。
「さて、着きましたよ」
 セリオルが指差した先には、シモンズの店があった。テーラーブラシエールである。
「いずれにせよ、あまり目立ちすぎるのは良くありません。服を替えれば多少ましになるでしょう」
 店の戸を開くと、シモンに客の来店を知らせるベルが鳴る。カランコロンと、どこか懐かしい響きの音だ。
 店の中には独特の香りが充満している。それが何の香りなのか、サリナにはわからない。布を染める染料なのか、あるいは仕立ての道具に差す潤滑油なのか。それとも、シモンの心遣いによる香水なのか。何であるにせよ、その香りはサリナに安らぎを与えた。
 奥のカウンターに、シモンが座っていた。ひと休みしていたのだろう。新聞を読みながらお茶の入ったカップを傾けている。
「よお、いらっしゃい」
 その優雅な佇まいに反して、シモンの口調は決して丁寧ではない。初対面でそのイメージを崩してしまったからなのだろうと、サリナは推測する。きっと彼は、他の客の前では紳士然とした振る舞いをするはずだ。
「大活躍だったみたいだな」
 こちらが言葉を発する前に、シモンはにやりとしてそう言ってきた。クロイスがたじろぐ。
「やるもんだなあ。初参加でシルバーカップ優勝なんて、そうそう無いぜ」
「もーいいよその話は」
 ぷいと顔を背けたクロイスに、シモンは不思議そうな顔をする。セリオルが小さな声で事情を話し、シモンは苦笑した。
「ま、すごい才能が見つかったんだ。いいことじゃないか。またレースに参加してみたらどうだ?」
 その言葉に、クロイスは顔を背けながららも返事をした。顔がやや赤い。
「ま、まーな、また機会があったらな」
「あ、なんだお前、照れてやんの!」
 カインがクロイスを指差して笑う。クロイスはその顔を一気に真っ赤にした。頭から蒸気を噴き出して、クロイスは怒鳴る。
「うるせー! お前はいっつもいっつも、なんでそううるせーんだよ!」
「はっはっは。よいではないかよいではないか。照れるでない」
「何を意味わかんねーこと言ってんだー!」
 またしても始まった大騒ぎに、サリナたちは苦笑したり頭を抱えたりである。シモンは愉快そうに笑っている。
「それで、本題のほうですが……」
 カインとクロイスのじゃれ合いを放置して、セリオルが切り出した。笑っていたシモンは、その名残を引きずった声で答えた。
「ああ、出来てるぜ。奥だ」
 サリナたちは店の奥へ通された。そこには数名の男女がいて、サリナたちを笑顔で迎えた。
「うちのスタッフだ。皆いい仕事するぜ」
 シモンによると、サリナたちの服も彼らの努力の成果だということだった。ハイナン服の研究が出来ることは、彼らにとっても大きな前進だったらしい。
 部屋にはその他に、新しい生地や型紙が載せられた作業台と、店内にもあった試着のための小部屋がいくつか備えられていた。
「ここで服を作るんですね」
 サリナは物珍しげな様子だ。それは他の仲間たちも同様だった。服を製作する場所など、誰も見たことが無かった。
「ああ。うちはほとんどがオーダーメイドだからな。注文を受けたらここで作る」
 他にも布を染めるための道具や、女性用の服の装飾に使われるレースやコサージュなどを作る道具、そしてそれらの材料となる染料や糸など、あらゆる服飾のためのものが用意されていた。従業員たちはそれらを使って、客の注文の品を仕上げるために精力を注いでいる。その真摯な様子に、サリナは胸を打たれた。
「さ、この向こうだ」
 作業部屋から更に奥のその部屋は、カーテンで入り口を仕切られていた。シモンがそれを開き、サリナたちを招き入れた。
「わあ!」
 披露された服に、サリナは歓声をあげた。
 男性陣の服は、セリオルがブラウン、カインが紺、フェリオが黒、クロイスがグレーを基調とした仕立てだった。それぞれに凝ったデザインで、きちんと貴金属製の装飾品もついている。カフスやポケットチーフなどの礼装用の小物もセットになっていて、ハンガーに吊るされた状態でも格好良く見えた。
 一方、女性陣の服はそれぞれに華やかだ。サリナは桃色、アーネスは緑、シスララは紫をそれぞれ薄くしたパステルカラーが基調とされ、レースやコサージュ、リボンなどで装飾されている。ドレスと呼ぶほど煌びやかなものではないが、アクアボルトや王都などの都会にあって、十分に通用する洒落たデザインである。
「凄いわね。これをたった1日で仕立ててくれたの?」
 アーネスが感嘆した声でそう言った。その言葉に、シモンが胸を張る。
「言ったろ、うちのスタッフはいい仕事するんだって」
「でも、本当に凄いです。こんな衣装、買おうと思ったらすごく高いですよ」
 自分用にと紹介された薄紫の服の生地を触って、シスララは楽しそうだった。やはり彼女も、洒落たデザインの服を着られるのは嬉しいのだろう。エル・ラーダ様式とは異なる系統だが、王都へよく出向く彼女には、憧れすら抱くデザインだった。
「王都でも着たけど、こういう服って動きにくいんだよなあ」
 一方、カインの反応はいまひとつだった。部屋着でも独特のこだわりを持つ彼は、いわゆる正装らしい服装にはあまり興味が無いようだった。
「そんなに動かないだろ」
 それに対して、フェリオはどこか嬉しそうだ。これまで研究に明け暮れ、生活にゆとりも無かった彼にとって、立派な服を纏って出歩くことは憧れの対象だった。
「俺、破いちまわないか不安だ……」
 クロイスは彼らしい思いを口にした。服を破くことなどそうそう無いはずだが、高級な品物に対して、彼はおっかなびっくり接する癖がある。
「ありがとうございました、シモンさん。大変助かりました」
 自分用のブラウンの服を腕に掛けて、セリオルはシモンに礼を述べた。シモンはそれに笑って答える。
「いいんだいいんだ。俺のほうも貴重なハイナン服を見させてもらって、随分勉強になったぜ。それにスタッフ全員の研修費が浮いたんだ。安いもんだぜ」
「そうですか、それは良かった」
「ああ。じゃ、そこで着替えてみてくれ。サイズはぴったりなはずだ」
 シモンはその部屋の試着室を示した。そこだけでは足りず、その分は作業室のものを使うことになった。
 着替えを終えたサリナたちを見て、今度はテーラーブラシエールのスタッフたちが歓声をあげた。全員、サイズがぴったりで、色合いとデザインも各自にとても良く似合っていた。女性のスタッフ数名がサリナたちを囲んで、賞賛の言葉を口にする。
「えへへ……なんだか照れますね」
「あら、とっても可愛いわよ、サリナ」
「ほんとですね。良く似合ってるわ」
「そんな……! アーネスさんとシスララこそ、とっても綺麗です!」
「ふふ。ありがとう」
 そうやってきゃいきゃいとはしゃぐサリナたちの前で、男性陣はぽかんとしている――いや、正確には、ぼうっとしている。とりわけセリオル、カイン、フェリオの3人が。
「おい」
 唯一、クロイスはまともな精神状態を保っていた。彼はグレーの衣装の袖から出た手を3人の前で振ってみせる。
「おいって」
 しかし3人は反応しない。着飾ったサリナたちのほうを見て、固まっている。
「……だめだこりゃ」
 溜め息をついて、クロイスはサリナたちを見た。確かに、普段の服と比べて格段に美しい。馬子にも衣装ってやつだな、とクロイスは胸中でひとりごちる。決して口には出さないが。
「ははは。なんだ、見惚れてるのか?」
 シモンがクロイスに話しかけてきた。クロイスは頭の後ろで手を組み、意外に動かしやすい肩に少し驚きながら返事をする。
「ああ、そうみたいだ。バカだな」
「そう言うなよ。見惚れてもらえるだけのものを作った自負はあるんだ」
 満足げな様子のシモンに、クロイスは溜め息で答える。もう陽は暮れた。早くカジノへ行かなければならないというのに。
「おーい、カジノ行かねーのかー」
 呆れた口調のクロイスの声に、カインが反応した。彼の意識は急速に覚醒した。
「カジノ! そうだカジノだ! セリオル、フェリオ、カジノだ!」
「……はっ」
「……え?」
 カインに肩を揺さぶられ、セリオルとフェリオも意識を取り戻した。そして今の今まで自分たちがどうしていたかを自覚し、彼らはひどく赤面して頭を抱えた。

「……結局目立ってないか、これ」
 カジノは蒸気機関と雷のマナストーンによる、光に溢れた華美な装飾と、うっとりさせるような香りで満たされていた。いたるところで光が舞い、奥のステージでは楽器が演奏され、雰囲気のある音楽が奏でられている。
 サリナたちはカジノへ入った途端、注目を浴びた。いや、カジノへ向かう道すがらもそうだった。着替える前と後とで視線の種類は違ったようだが、結局彼らは人々の視線を集めていた。フェリオの言葉ももっともだった。
「まあ、これ以上は仕方ないでしょう。それよりラウルさんを捜しましょう」
 セリオルはカジノを見渡した。多くのひとがさんざめき、時に歓声が、時に悲鳴が聞こえてくる。人々の悲喜こもごもが、この場所に溢れていた。
「よーし! やるぜやるぜー!」
 カインは目を輝かせている。彼はセリオルから、一定額内であればカジノゲームに参加しても良いと許可を貰っていた。フェリオやクロイスは抗議したが、それは却下された。カジノでの目的が人捜しであるにせよ、赴いてゲームに参加しないのはマナー違反だと言われたのだ。
「食事をする店で料理を注文しないようなものですよ」
 というセリオルの言葉に、ふたりはそれ以上何も反論出来なかった。
 かくしてカインは、ルーレットの卓に突撃した。他の仲間たちも、それぞれにある程度の金を持ってゲームの卓につく。そうすることで、他の客やディーラーたちに話しかけることが出来た。サリナはハイアンドロー、セリオルはブラックジャック、フェリオはポーカー、クロイスはバカラ、アーネスはクラップス、シスララはレッドドッグを選んだ。いずれもディーラーの存在するゲームである。
 露出度の高い衣装を纏った女性が飲み物を運んで来てくれた。小額のチップを渡し、サリナはそれを受け取った。カジノでは何かをしてもらったらチップを渡す、それがマナーだとセリオルが言っていた。
 ゲームが始まり、サリナは次第に勝ちを増やしていった。初めのうちは勝手のわからなかったサリナだが、何度か挑戦するうちにコツが掴めてきた。
「これ、ちょっと楽しいかも……」
 ハイとローを選ぶだけの単純な遊びだが、それだけにのめり込める魅力があった。ある程度遊んだら他の客やディーラーと話してみようと思っていたサリナは、その魅力に浸かりきらないように注意した。
 そこそこに勝って、サリナはディーラーにチップを渡した。それがマナーだとセリオルから聞かされていた。セリオルもカジノに来たこと自体は無いはずだったが、彼は本当に様々なことを知っている。ディーラーや恭しく礼を述べて、それを受け取った。
「あの、すみません」
 それを機会にして、サリナはディーラーに話しかけた。ちょうどゲームがひと段落ついたところだった。
「はい、なんでしょう」
 ぴしっとした白シャツに黒のベスト、それに蝶ネクタイといういでたちの若いディーラーは、丁寧な物腰でサリナに落ち着いた微笑みを返した。
「私、ひとを捜しているんですが……」
「おや、なんという方ですか?」
 そういう教育をされているからなのか、ディーラーはとても親切な口調だった。しかしその声に、サリナは隠された強さを感じた。こういう場所では客とのトラブルも多いだろう。そういうことにも動じないだけの強さが無ければ、務まらないのかもしれなかった。
「ラウル・シャリエさんというんですが……」
「ラウルさんですか! 私の仲の良い先輩ですよ」
 そう言って、ディーラーはにこりと微笑んでみせた。サリナの胸に期待が膨らむ。それが顔に現われたのか、ディーラーは彼女を見て少し可笑しそうに笑った。サリナは恥ずかしさに下を向く。
「いや、失礼しました。ラウルさんでしたら、あちらのトラント・エ・カラントの卓です」
 まだ笑いの残る顔で申し訳なさそうに言ったディーラーが示したのは、少し離れた場所の卓だった。サリナは礼を述べ、ハイアンドローの卓を離れた。
 カジノにはますます多くのひとが集まってきていた。飲み物を運ぶ女性たちが、通行に苦慮している。サリナは持ち金を盗まれないように身体の前にしっかり持って、ラウルのいる卓へと進んだ。その間にも、人々の様々な声が聞こえてくる。
 まるで現実感の無い世界だと、サリナは思う。それはこの欲望の渦巻く雰囲気のためか、あるいは嗅ぐと気持ちの弾んでくるこの香りのためか。いずれにせよ、陶然とした空気がこの場所には満ちている。
 人々の声に混じって、どこからか仲間たちの声も聞こえてくる。皆、それなりにゲームを楽しんでいるようだ。しかし誰ひとり、目的を忘れてはいないだろう。警備の厳しいこの場所に溶け込む必要があるのはわかっていた。
「突然すみません、ラウルさんでしょうか?」
 ちょうど客の離れたトラント・エ・カラントの卓について、サリナは開口一番にそのディーラーに尋ねた。さきほどのディーラーよりも少し年上に見えたが、それでも若い男だ。やや長い髪をオールバックに撫でつけ、切れ長の目が油断無くこちらを窺う。
「さようです」
 その返事に胸を躍らせ、更なる質問を重ねようとしたサリナだったが、彼女は出鼻を挫かれてしまった。
「お客様、ベットはいかがされますか?」
 間髪入れずに差し挟まれたその言葉に、サリナは勢いを殺がれてしまった。思わず手元のレート表に目を落としてしまう。そもそもこのゲームは、ルールがわからない。しかしこのままベットすらせずに、ラウルを会話をするのは難しそうだった。
 とりあえず、サリナはベットを決めてゲームを始めた。ラウルがカードをシャッフルし、サボと呼ばれる箱に入れる。カードがめくられ、サリナは次なるベットをする。
「アイユーヴから来たという方を捜してるんです」
 その合間に、サリナは言葉を差し挟んだ。ラウルの手が止まる。
「……なんですって?」
 ラウルの目に警戒の色が宿る。こんなことを尋ねてくる者は少ないだろうと、サリナは思った。もう少し遠回りな尋ね方をしたほうが良かっただろうか。セリオルやフェリオ、アーネスならもっと上手く聞き出せただろうか。後悔が、サリナの胸をよぎる。
 その時だった。
「ふざけんじゃねえ!」
 カジノ場に怒声が響き渡った。知らない男の声だ。サリナは驚いて声のした方を見た。ラウルも同様だったが、サリナと異なるのは、大きな舌打ちをしたことだった。
「あいつ! ……お客様、すみません。少々お待ちを」
「え? え?」
 状況がわからず、サリナは混乱する。ラウルは卓を離れ、声のほうへと向かおうとして、振り返った。
「彼がアイユーヴから来た男です、お客様」
「え!?」
 驚くのと同時に、サリナは走り始めていた。ラウルの後について、声のしたほうへ向かう。
 そこではひとりの長身のディーラーが、客らしい男の胸倉を掴んでいた。警備の連中がディーラーを押さえ込もうとしているが、ディーラーの力は強いらしく、屈しない。
「もういっぺん言ってみやがれ、てめえ!」
 歯を剥いて、ディーラーは怒っていた。客の男は、その怒気に戦きながらも、精一杯の虚勢を張ってみせる。
「は、ははは。こんなことをして、許されると思っているのかね。え? アイユーヴの筋肉猿が」
「なんだとお!?」
 ディーラーがいよいよ男を殴りつけようと、拳を振りかざした。サリナは制止の言葉を叫んだ。しかし人垣に阻まれ、彼女の手はまだディーラーに届かない。仲間たちの声も聞こえるが、どこにいるのかわからない。
 そしてディーラーの拳が、振り下ろされる――かに思えた。
 ぐい、と胸倉を掴まれた男を引っ張った手があった。ディーラーの拳は空を切った。勢い余って、ディーラーはつんのめる。
「おいおい、こんな楽しいとこで喧嘩はやめとけよ。な?」
「カインさん!」
 サリナはその名を呼んだ。男を救ったのは、カインだった。彼は不敵な笑みを浮かべ、ディーラーを見つめていた。救われた男は尻餅をつき、その場から離れた。
「てめえ、邪魔しようってのか? 痛い目見てえのか、おい!」
 ディーラーは腕を振り、警備の者たちを振りほどいた。警備は屈強な男たちだったが、彼らには何も出来なかった。
「何をそんなに怒ってんだよ」
 しかしカインは冷静だ。彼はディーラーがいつ攻撃してきても良いように、その動きを油断無く見つめている。
「あいつは俺の故郷を、アイユーヴを馬鹿にしたんだ。アイユーヴの者は頭の悪い猿だってな! 許せるわけがねえ!」
 怒声をあげ、ディーラーはカインを睨みつける。カインは呆れたように溜め息をついた。
「なんだそりゃ。まあそりゃあさっきのやつが悪いが……言わせとけばいいだろ、そんな馬鹿」
「黙って見過ごせるか! てめえ、あいつの肩を持つのか!?」
「いや、誰が肩持ってんだよ」
「うるせえ! そこをどけ!」
 ディーラーはカインに殴りかかった。長身から振り下ろされるようにして繰り出された拳は、しかしカインには通用しない。カインはひらりとその身をかわした。
「なんだお前。俺にも喧嘩売ろうってのか」
 カインの声に獰猛さが宿る。サリナは心配になった。
「カインさん、だめですよ!」
「やめるんです、カイン!」
 サリナの声に続いて、どこからかセリオルの声も聞こえた。それに続いて、フェリオやアーネスの声も届く。カインはどこにいるのかと顔をめぐらせたが、結局長身のセリオルを除いて、仲間たちの姿は人垣に遮られて確認出来なかった。セリオルは緊迫した表情でこちらを見ていたが、カインにはわかっていた。彼が何を心配しているのかが。
 ディーラーが怒声を上げて再び踊りかかってきた。
「俺がそんなヘマするわけねえだろ」
 カインはその攻撃をかわし、踏み込みと共に拳を繰り出した。それはディーラーの鳩尾に見事に炸裂し、その長身を吹き飛ばした。ディーラーはカジノの卓に強かに背中を打ちつけ、呼吸を奪われた。
「急所はちゃんと、外すっての」
 カインのその言葉に、サリナは胸を撫で下ろした。彼女は心配していた。カインを敵に回してしまった、ディーラーの身を。
「ぐっ……がはっ」
 しかしそれでも、ティーラーは立ち上がった。脚をふらつかせているが、怒りに燃える瞳で。
「おーおー。頑丈な野郎だ」
 そう言って、カインは拳を構えた。今度は本気でやってやろうか。いやいや、サリナたちを心配させるのはいけねえな。
 彼がそう考えた時だった。
「てめえ、覚えてろよ!」
 ディーラーは逃げ出した。ひとを掻き分け、彼はカジノの窓を割って脱出した。警備の者たちが後を追う。しかしディーラーのほうがはるかに速いだろうと、サリナは思った。
「彼はレオン。レオン・ブラシエール。最近入った、有能なディーラーでした。すぐ熱くなるところはありましたが、これほどとは……」
 いつの間にか隣に来ていたラウルが、頭を抱えた。しかしそれより、サリナはディーラーの名に衝撃を受けていた。レオン・ブラシエール。彼は、服を仕立ててくれたシモンと同じ姓を持っていた。