第81話

 テーラーブラシエールの店主、シモン・ブラシエールは、店内のカウンターで頭を抱えていた。彼の前には、彼と店のスタッフが総出で仕立て上げた上質な衣装を身に纏ったサリナたちがいた。今しがた、彼はサリナたちから、彼の弟に関する良くない話を聞いたばかりだった。
「あの馬鹿……」
 深い溜め息とともに、シモンはそうこぼした。
 店内には昼の光が差している。カウンターに置かれたカップから、紅茶の湯気が立ち昇る。ゆらゆらとたゆたい、湯気は空間に溶けていく。静かで暖かな店内のその平和な光景が、むしろシモンの苦悩を色濃く映し出しているように、サリナには思えた。
「シモンさん」
 呼びかけたのはセリオルだった。常に一行を代表して発言をするその青年を、シモンは見上げた。彼は仲間たちから信頼されているのだろう。その落ち着いた佇まいと真摯な瞳は、26歳という若さを微塵も感じさせはしなかった。
 あいつも、これぐらいしっかりしてればな――弟への思いを胸中で呟き、シモンはセリオルの言葉を待つ。
「レオンさんの行き先に、心当たりはありませんか?」
「……うん?」
 予想しなかった言葉に、シモンは首を傾げる。レオンの行き先。そんなことを知って、彼らはどうしようというのか。
「さあな……知ってどうするんだ?」
 シモンの声は、僅かに剣呑さを帯びた。セリオルは胸中で舌打ちをした。ストレートに行き過ぎた。
「申し訳ありません。カジノに突き出そうということではないんです」
 セリオルの弁明に、しかしシモンは表情を崩さない。さきほどよりも若干鋭くなった目が、黒髪の青年を捉えている。セリオルは逡巡した。警戒心を与えてしまった。シモンとの信頼関係は構築できたと思っていたが、さすがに身内のことである。そう簡単に、暴れた弟のことを話すはずは無かった。
 セリオルは迷った。どう話すべきだろうか。下手な釈明は、シモンの警戒心を増大させることになりかねない。アーネスやフェリオに目配せをするのもまずい。裏があると思わせてはいけない。彼は悩んだ。
 その時、彼の隣に歩み出た者があった。
「私たちは、“雷轟”について知りたいんです」
 薄桃色の可憐な服を着た少女は、決意を感じさせる真剣な表情で立っていた。
「サリナ……」
 傍らのセリオルに頷いて、サリナはシモンを見た。困惑と懐疑、そして若干の驚きが混じった顔。
 セリオルはサリナに任せることにした。シモンの視線もサリナに向いている。仲間たちを顧みて、セリオルはその判断が正しいと確信した。仲間たちの誰も、不安を感じてはいないようだった。
 使命を負ったサリナの言葉には、力がある。皆がそれを知っていた。
「“雷轟”だって?」
 考えもしなかった言葉をぶつけられて、シモンは戸惑っていた。“雷轟”。アイユーヴでしか聞かなかった言葉だ。旅人であるというサリナたちからその言葉を聞くとは思わなかった。
「それが、レオンのことと何か関係があるのか?」
 サリナたちが知らせてくれたところによると、レオンが騒ぎを起こしたのは昨夜だったらしい。確かに昨夜、街が騒がしかった。いつもの酔っ払いか何かの喧嘩だろうと思っていたが、その騒ぎの元は、彼の弟だった。
 カウンターの椅子に座るシモンの前で、サリナは彼を見つめている。シモンは、さきほどセリオルに対して抱きかけた猜疑心を無くしかけていた。じっと彼を見つめる少女の目に、嘘は無いように思えた。
「シモンさんとレオンさんは、アイユーヴ本島のご出身なんですよね」
「ああ、そうだ」
 時間を置いて、サリナは質問を質問で返してきた。しかしそれ自体よりも、シモンは彼女の真意が気にかかった。一体、どんな話をしようとしているのだろう。
「私たち、“雷轟”のことが知りたくて、アイユーヴの方を探してたんです。まさかシモンさんがそうだとは思わなくて……街の方から、最近カジノにアイユーヴから来た方が入ったって聞いたんです」
「それがレオンだったってわけか」
 サリナは黙って頷いた。シモンが溜め息をつく。
「それで? 君たちはレオンに会って――いや、“雷轟”のことを知って、どうするつもりなんだ?」
 核心を突く質問が来た。サリナの後ろで、仲間たちが顔を見合わせる。シモンはその様子から確証を得る。この話題のために、彼らはレオンの行方を知りたがっているのだ。
 しばらく、沈黙が店内を支配した。サリナは両目を閉じて、彼に話すべき何かについて考えているようだ。
 ふと、シモンは店の入り口の扉を見遣った。今、表には閉店の看板がぶら下がっている。客は入っては来ないだろう。店の奥では、ただ事ではない何かを敏感に感じ取った従業員たちが、大人しく作業をしている。彼らの動かす鋏などの道具の音だけが聞こえる。
「――シモンさん、驚かずに聞いてくれますか?」
 聞こえた声に、シモンは視線をサリナに戻した。彼は沈黙とともに首を縦に振った。サリナはそれを確認し、大きく息を吸って、口を開いた。
「瑪瑙の座の幻獣に会うのが、私たちの目的です」
「……なんだって?」
 我が耳を疑って、シモンは尋ね返した。幻獣に会う。サリナはそう言った。聞き間違いかとも思ったが、他に間違えそうな言葉は見当たらなかった。
「驚くのも無理は無い。サリナ、順を追って話そう」
 その言葉はフェリオのものだった。それまでサリナの後ろで黙っていた仲間たちが、シモンの信用を得るために口を開いた。皆、その顔に嘘は無かった。
 シモンは彼らの話を、黙って聞いた。彼らの、使命と戦いの話を。

 船は間もなく、アイユーヴ本島へと到着する。アイユーヴには、大型の船を迎えることのできる港は存在しない。そのため、リンドブルムは入り江の中に停留することになる。
 アイユーヴの空は暗い。その不気味な空を、サリナは甲板で見つめている。
「“雷轟”……」
 ぽつりと、その言葉が口からこぼれる。瑪瑙の座の幻獣、最初の手がかり。これから巡らねばならない、5つの神晶碑。恐らくこれから向かう場所には、雷の神晶碑と、それを守る幻獣がいるのだろう。戦いになるかもしれない。そう考えて、サリナは身をこわばらせる。
「あまり風に当たってると、風邪ひくぞ」
 聞こえた声に振り返る。そこにはフェリオがいた。彼は両手にひとつずつ、湯気を立てるカップを持っている。
「ほら」
「ありがとう」
 カップを受け取って、サリナは両手で包むようにして持つ。紅茶やコーヒーのカップよりも大きく、分厚いマグカップだ。揺れる船の中では、割れにくいこのマグカップが役に立った。
 湯気に顔を近づける。ほんのりと甘い香りがする。
「ローズヒップ?」
「ああ。シスララが淹れてくれた」
 彼女らしい選択だと、サリナは思う。甘い香りが心を癒していく。緊張がほぐれる。ひと口すすると、鼻腔から淡い香りが抜けていく。それは潮風に混じって、空へと舞っていった。
「よかったな、シモンが信じてくれて」
 サリナの隣で空を見つめながら、フェリオはそう言った。彼の目にも、黒雲の垂れ込める不気味な空が映っているはずだ。しかしその声に、不安は見えない。
「うん……」
 小さく答えて、しかしサリナはまだ不安を拭えずにいた。シモンが語ったことが、ひっかかっていた。
「大丈夫さ。レオンは見つかるよ。ちゃんと話せば、信じてくれる」
「うん……そうだといいなあ」
 シモンは語った。サリナたちの心からの言葉を受け入れ、僅かに笑いながら。それは全ての覚悟をさらけ出したサリナたちに対する、賞賛と尊敬の笑みだった。
 彼は言った。“雷轟”の発生源は、“雷帝の館”と呼ばれる、古の遺跡だと。
 はるか昔、アイユーヴの民は“雷轟”を見ては、雷帝の館の主に供え物をした。“雷轟”が神の怒りだと考え、それを鎮めるためのことだった。
 アイユーヴの民が恐れた“雷轟”とは、巨大な落雷のことだった。アイユーヴの空は、その時間の多くを雷雲や雨雲に支配されている。そしてごくまれに、突如天を割るかの如き極太の雷撃が、大地を穿つことがあった。それが“雷轟”。神なる幻獣の怒りとして、アイユーヴの民が恐れる雷だ。
 発生源である雷帝の館は、巨大な洋館のような建造物だという。いつの時代から存在しているのかは、もはや誰も知らない。クリプトの書にも、それに関する記述は無かった。ただ、その場所については、アイユーヴの民であれば誰でも知っているとのことだった。
 だが、とシモンは付け足した。アイユーヴの民、ユーヴ族は閉鎖的だ。神として崇める幻獣の住処を、よそ者に教えるとは考えにくい。だから早くレオンを見つけろ。そう彼は言った。
「まあ、あいつ自身もカインにぶっ飛ばされて、あんたらのことは嫌ってるかもだけどな」
 その可能性大いにあり、と言外にほのめかしながら、シモンは笑った。確かにそのとおりだ。レオンはシモンの弟だとは言え、彼からすればサリナたちは、カジノで激昂した自分を取り押さえた者だ。見つけられたからと言って、味方をしてくれるとは思えなかった。
「よう、おふたりさん」
 コツコツと革靴の足音が近づいてくる。サリナとフェリオは振り返った。
 そこには、マグカップを持ったシモン・ブラシエールがいた。
「シモンさん」
「やあ、お嬢さん。間もなく到着のようですよ」
 冗談めかした口調のシモンに、サリナが笑う。彼女はシモンが同行を申し出てくれたことに感謝していた。彼女たちだけでは、レオンをはじめとするユーヴ族に、雷帝の館までの案内を頼むことは難しかっただろう。
「シモン、本当に良かったのか?」
「ん? 何がだ?」
 フェリオの問いかけに、シモンは首をかしげた。言わなくてもわかってるだと、という言葉を飲み込んで、フェリオは言葉を重ねる。
「俺たちと一緒に来てくれたことさ。俺たちとしてはありがたいけど……店は大丈夫なのか?」
「ああ、そんなことか。大丈夫さ、うちには頼れるスタッフたちがいる。彼らに任せておけば、数日くらい問題無いさ」
 シモンは笑ってそう答えた。しかしそこには、ある種の嘘があった。サリナはそれを感じていた。
 だが、サリナはそれを指摘しはしなかった。シモンの気持ちが嬉しかったからだ。1周年を迎えたばかりの店を置いてでも、彼はサリナたちへの協力を申し出てくれた。それは、サリナたちの真剣な言葉が胸に響いたからだろう。
 世界を救いたいなんて、馬鹿げている。自分が当事者でなければ、サリナ自身もそう思うかもしれない。そんな話を大真面目にする自分たちを、シモンは信じてくれた。サリナたちが幻獣を呼んだわけではなかった。幻獣の姿は無くとも、シモンは彼女らの言葉を信じてくれた。
 その気持ちに応えたい。サリナは強くそう思った。瑪瑙の座の幻獣に会って、神晶碑に結界を張り、ゼノアに対する守りとする。迅速に、それを行おう。
 リンドブルムが停まる。船は入り江の中に停泊した。クロイスが呼びに来て、彼らは船を下りた。
 海岸から見える森は広く、鬱蒼としていて見通しが利かない。だが、この森の向こうに希望がある。
「まずは俺の故郷へ行こう」
 海岸に立って、シモンがそう提案した。しかしその言葉に、アーネスが異議を申し立てる。
「どうして? あなたも雷帝の館を知ってるんでしょう?」
 わざわざ村に寄らなくてもいいのでは、というアーネスのその指摘に、しかしシモンは首を横に振った。
「知ってるには知ってるんだが、案内ができない」
「どういうこと?」
 頭を掻きながら、シモンは森を指差した。サリナたちの視線が森に向く。
「この森は、雷光の森って呼ばれてる。いっつも雷が落ちてるからな。で、その雷のせいなのか何なのかわからないんだが、しょっちゅう姿を変えるんだ」
「生態系の発達が速いんですか?」
 セリオルはそう質問したが、シモンはまたしても首を横に振る。
「そういうことじゃない。どうもな、何かの魔力が働いてるようなんだ」
「なんだよ回りくどいな。どういうことかはっきり言ってくれよ」
 頭の後ろで手を組み、口を尖らせたのはクロイスだった。彼は端的な結論を求めていた。
「つまり、入るたびに道が変わるんだよ。俺は故郷の村までの道順なら、どれだけ森が変わっても大丈夫だが……他はさっぱりだ」
「旅人を迷わせる、魔法の森ですか……」
 肩の上のソレイユを撫でながら、シスララは厳しい表情だった。確かにそれでは、雷帝の館へ至る術が無い。
「なんだよ。じゃあどうやって行くんだよ?」
 砂浜にしゃがみこんで、カインが不機嫌そうな声で言った。切り込み隊長を自負する彼としては、出鼻をくじかれたのが気に食わなかった。
「だから俺の故郷へ行くのさ。レオンが戻ってれば、あいつが案内できる。あいつは村の戦士頭だったからな。森のことはよく知ってるんだ」
「そういうことか。あんたはどうだったんだ、シモン?」
 フェリオのその問いかけに、シモンは頭を掻いた。彼は言いにくそうにしながらも、きちんと説明した。
「俺はほら、服とかが好きだったからさ。その、戦いってやつはどうもな」
「なんだ。軟弱者か」
「カインくん、君ね、俺、仮にも年長者だよ。セリオルよりもだいぶ年上だよ?」
「はっはっは。知らね」
「はっはっは。もう君には服を作ってやんない」
「ええええええ! なんだよそんなこと言うなよ、ケチ!」
「だったら年長者を敬いたまえ、年長者を!」
 カインとそんなやりとりを始めたシモンに、サリナたちはある種の匂いを感じ取った。すなわち、騒がし枠に分類されるひとの匂いだ。意外にも、シモンはそうなのかもしれなかった。
 ともあれ、サリナたちは歩き出した。当然、服はいつもの旅装束である。シモンが仕立てた服は、ひとまず船の中においてきた。
 空は暗い。雷雲がごろごろと唸っている。森は鬱蒼として、不気味な生き物の声が聞こえる。暗い中で、ぼんやりと様々な光を放つ球体が空中に浮いている。発光する羽虫である。
 湿気が多く、足元は塗れた下草に覆われて歩きにくい。肌に張り付く服の不快感に、サリナは辟易した。
「あー。俺こういうじめじめしたとこ苦手だー」
 カインが愚痴り始めた。それにサリナが同調する。
「うう。私もです……じめじめ嫌いです……」
 肩を落とすサリナの髪は、湿気で撥ね始めていた。それをクロイスに笑われ、彼女は大いに傷付いた。
 セリオルは森をよく観察していた。シモンの言葉が気になった。入るたびに姿を変える、魔法の森。本当にそうなのだとしたら、それは恐らく幻獣の仕業なのだろう。神晶碑を守るためなのかもしれない。
 彼はマキナのことを思い出していた。大枯渇以前、ゼフィール遺跡周辺は風があまりに強いため、容易に近づくことが出来なかった。ゼフィールの調査が進まなかったのは、そのためだった。もしかしたら、神晶碑を守る幻獣たちは、それぞれに接近を拒否する手段を講じているのかもしれない。
 その推測は、恐らく間違ってはいないだろう。しかし今は、この森を抜けることが最優先だ。頭を振って、セリオルは集中する。
 ユーヴ族の者たちなら、森のことがわかるという。とりわけ狩りを行う戦士たちは。だとしたら、どこかに森を把握する手段があるはずだ。セリオルはそれを求めて目を凝らす。
 森には、当然のように魔物が現われた。凶暴化した巨大植物、恐ろしい顎を持つワニ、サリナの嫌いな巨大ナメクジや、鋭利な刃物のように発達した翼を持つ鳥などだ。いずれも比較的強力な魔物で、サリナたちを手こずらせた。仕方がないこととは言え、シモンを守りながらの戦闘は負担が大きい。
 そして獣道を進み、ひとつの角を右に逸れた時だった。
「シモン、わかりましたよ」
 列の後方から、セリオルの声が飛んできた。シモンは振り返り、セリオルの満足げな表情と対面した。
「何がだ?」
「この森のからくりです。迷いの森で、迷わない方法を見つけました」
 シモンの足が止まった。彼はぽかんと口を開け、セリオルを見つめた。
「も、もうか? もうわかっちまったのか?」
 信じられない、という声で、シモンは確認した。セリオルは大きく頷いた。
「恐らく目的地ごとに若干の違いがあるのでしょうが、目印はあの発光する羽虫ですね」
 シモンは額に手を当てた。その仕草が、セリオルの推測を確信に変える。
「色と数とで、曲がる方角を示しているのでしょう。そして森は、その目的地に存在したものが放つマナを感知して、誘導先を決定している」
「……はー、やれやれ、正解だよ」
 そう言って、シモンは懐からアクセサリーをひとつ取り出した。獣の牙か何かで作られた首飾りだ。
「こいつは、俺の村で飼われてる動物の牙だ。それを呪術師――まあ、魔導師だな。そいつがマナを込めて加工したもんだ。森を抜けるのに使う」
 シモンが首飾りを掲げると、牙の部分がぼんやりと光を放った。すると、少し先で固まっていた羽虫たちが、それと同じ色の光を放ったのだ。
「あいつが目印だ。村に着けば、雷帝の館周辺から持ち帰られた石のアクセサリーがある。保管してるのは、戦士たちだけどな」
「どっちにしても、村の戦士に話はつけないといけないか」
 そう言ったフェリオに、シモンは頷いた。
「盗むわけにもいかねーもんな」
 弓を構えてあたりを油断無く見回しながら、クロイスがそう言った。一瞬心を動かされそうになったセリオルは、しかしすぐに首を横に振って否定した。シモンの気持ちを裏切るわけにはいかない。
「俺が説明してみるさ。なんとかなるだろ」
「ありがとうございます、シモンさ――!?」
 言い終える前に、サリナはシモンを突き飛ばした。驚いたシモンはそのまま尻餅をついた。
 だがそれで、彼は命を救われた。彼の頭があった場所を、複数本の矢が貫いていったのだ。
「なんだ!?」
 仲間たちに緊張が走る。武器を構え、彼らは周囲を見回した。シモンは、茫然として固まっている。彼は思っていた。最悪だ。思っていた以上に、カジノの連中はレオンを怒らせたらしい。
 草を踏み分ける音がして、彼らはサリナたちの前に姿を現した。それは戦いの装束に身を包んだ、ユーヴ族の若者たちだった。