第88話

 その瞬間、カインは両腕を大きく天へ向けて広げた。彼の腕から大量の紫電が放たれる。雷は円形の盾となり、それはアーネスの掲げた光の盾と一体化し、仲間たちを守る天蓋のように、彼らを覆った。
「カイン! アーネス!」
 仲間たちは彼らの名を呼んだ。凄まじい力を秘めた神の雷が、間もなく天より落ちる。その暴虐の力に抗しようとする紫紺と琥珀の戦士の周りを、5色の戦士たちが固める。
 サリナたちはカインとアーネスにマナを送った。ふたりの力だけでは、あの雷を耐え抜くことは難しいと判断したからだ。
「まだここでリバレートを使うわけにはいけません! 皆、全力で耐えてください!」
 セリオルが檄を飛ばす。サリナたちは持てる力の全てを守りに使おうと、カインとアーネスの盾にマナを注いだ。
「ねえ、大丈夫? お兄さん」
 アーネスのその声が聞こえたのは、カインだけだった。彼女の声は、揺れなかった。そこには恐れも不安も無かった。カインは彼女の目を見て、口元をにやりとしてみせた。
「ったりめーだろ。誰だと思ってんだよ、隊長さん」
 軽口にふっと小さく息を吐き出して、アーネスは天を仰いだ。
「アーサー、力を貸して!」
「根性見せろよ、イクシオン!」
 ふたりの呼びかけに応じて、イクシオンとアーサーの幻が現われる。2柱の幻獣は、凄まじい咆哮をあげた。紫紺と琥珀のマナが溢れる。雷の盾と地の盾が、迫り来る破壊の力を待ち受ける。
「来たれ……“雷轟”」
 凄まじい轟音とともに、館の屋根を突き抜けた雷があった。館の入り口前にも落ちた、巨大な雷。古の書物に記され、アイユーヴの民たちが信仰の対象としてきた、神聖なる雷。神の力。雷帝の怒り。それはリバレーターたちへの越えられぬ試練となって、彼らの上に落ちた。
 かつてない威力の雷撃に、カインは全身の力を振り絞った。仲間たちのマナが、彼を支える。傍らのアーネスも同様だ。ふたりは持てる力の全てで、雷帝の怒りを受け止める。
 落とされた“雷轟”の力は破滅的だった。7色の力がそれに耐えようと踏ん張るが、中心にいるカインとアーネスの脚が、徐々に床へめり込んでいく。その圧倒的な力の前に、レオンは身をすくませていた。
「無理だ……勝てるわけがない」
 無意識のうちに、彼はそう呟いていた。彼の意志とは無関係に、頭がかぶりを振る。
「やっぱり、ラムウに戦いを挑むなんて無謀だったんだ」
 セリノは床に膝をついていた。足腰に力が入らない。圧倒的な神の力。それを目の当たりにして、彼の心はふたつの言葉に支配された。
 ひとつは畏怖。そしてもうひとつは……絶望。
「馬鹿なこと言うんじゃない!」
 ふたりを叱咤したのは、戦う力を持たぬ、レオンの兄だった。卒然として、ふたりはシモンを見た。
 シモンは拳を握り締め、歯を食いしばって光を見つめていた。雷帝の落とした巨大な雷と、それに耐えようと立ち向かうカインたちを。
「あいつらは諦めてない。あれだけの力を見せつけられても、まだ諦めてないんだ。俺たちにラムウと戦うことは出来なくても……応援してやらなくて、どうするんだ」
 歯の隙間から声を絞り出すようにして、シモンはそう言った。彼の顔は紫電の光に照らされ、その表情は厳しい。しかし彼の目は、まっすぐに“雷轟”に耐えるカインたちを見つめていた。
「兄貴……」
 兄に呼びかけるレオンの声には、まだ力が篭らない。その弟を、シモンはきっと睨んだ。
「お前はそれでも、ユーヴの戦士か!」
 腹の底から吐き出されたシモンの怒声が、レオンとセリノの脳を突き刺した。ラムウの圧倒的な力の前に己を忘れかけていたふたりの双眸に、光が戻る。
「ここに来るまで、お前たちはあいつらの何を見てたんだ! ただあいつらの、戦う力だけを見てたのか!」
 その言葉は、ユーヴ族随一の戦士であるふたりの心を、強く揺さぶった。ユーヴの戦士は強くあれ。戦士として生きることを決めた時、彼らはその言葉を贈られる。それは、単に戦闘能力を磨けということではなかった。
 村が魔物の襲撃を受けた時。落雷による山火事が発生した時。心無い観光客が森を汚そうとした時。彼らは一族を守る剣となり、時には盾となった。幻獣を崇めるユーヴ族を守る、誇り高き戦士。その中で最高の力を認められた、戦士長。レオンもセリノも、その栄光の冠を継いだ者なのだ。
 ふたりは頭を振った。しかと開かれた両目の先には、雷帝の恐るべき力に立ち向かい、その試練を乗り越えようとする、信念の戦士たちがいる。
「あいつらを、応援しよう。ラムウを攻撃することは出来なくても、それくらいはいいだろ」
 シモンの言葉を受けて、ふたりは頷いた。これまでの戦いが、サリナたちの言葉が脳裏をよぎる。ゼノアという男を止めるための、命懸けの闘い。その只中にあって、彼らはよく笑った。互いを信じ、敬っているからこそ生まれたはずのその関係に、ふたりは自然と惹かれていた。
「あいつらは、俺たちの――友だちなんだからさ」
「……そうだな」
「そうですね……俺たちが応援してやらないと!」
 3人は脚に力を篭めて立ち、声の限りにサリナたちの名を呼んだ。頑張れ、負けるな、打ち勝てと、心の底から湧き上がってくる思いを乗せて。
 ラムウの放った雷に、カインは押しつぶされそうだった。“雷轟”の力は凄まじかった。見栄を切ってみせたものの、瑪瑙の座の力はやはり、碧玉の座を大きく超えていた。イクシオンの苦しげな声が頭の中に響く。
 アーネスもそれを感じていた。雷のマナは、地のマナには効果が薄いはずだった。だがそれを超えて、“雷轟”は彼女の琥珀のマナを押しつぶそうとしている。掲げた琥珀の盾が、その光を弱めつつあった。
 仲間たちも同様だった。あらん限りのマナをカインとアーネスに送るが、力が足りない。フェリオが力のマナでカインとアーネスの力を増幅させようと試みても、それに達するだけの余裕が無い。なんとか圧し切られないように耐えるのが精一杯だった。
「くそっ……あのじいさん、なんつー力だ!」
 巨大な雷撃の圧力に、カインの足の下の床が歪む。彼の心を、じわじわと黒い闇が蝕み始める。彼はそれを知っていた。これまで何度か出会ったことがある闇。両親が亡くなったと知らされた時。幻獣研究所でセリオルが黒騎士に倒された時。彼の心を支配した、忌むべき闇。
 闇は、その名を『絶望』といった。
「くそっ……ちくしょう! こんなとこで、終わりかよ!」
 全身の力が抜けそうになる。膝から下が砕けそうになる。その瞬間が来た時、雷帝の力は彼を、彼の仲間を飲み込むだろう。高圧の雷撃は彼らを貫き、そして消し去るだろう。その想像が、彼の視界を黒く染める。
「しっかり、しなさいよ!」
 その耳に、アーネスの声が飛び込んだ。いつもの凛とした強さは、その声には無かった。降りかかる“雷轟”に押しつぶされそうで、しかしそれでも、彼女の心は折れてはいなかった。
「あんた、切り込み隊長なんでしょう!?」
 額から汗を滴らせ、傷付いた肌を隠そうともせずに、王国騎士団金獅子隊の美しき女隊長は、カインを見つめていた。
「私たちの――私の前で“隊長”を名乗るんなら、それに相応しい力を見せてみなさい!」
 雷撃が大気を破裂させる轟音の中、アーネスの声は力強い響きとなってカインに届いた。そして絶望に支配されそうだったカインの口元に、いつもの不敵な笑いが蘇る。
「カイン! 頑張れ、負けるんじゃない!」
「お前はこの俺に勝ったんだ! こんなところで終わるなんて、許さんぞ!」
「まだやることがあるんだろ! ここで止まってる場合じゃないぞ!」
 巨雷の轟音の隙間から、シモンたちの声が聞こえた。ラムウを、“雷轟”を信仰しているはずの、ユーヴ族の3人。その彼らが、自分に応援の声を送ってくれていた。真っ直ぐに届くその言葉が、カインの心に再び光を灯す。
「カインさん……」
 苦しげなサリナの声がした。カインは彼女のほうを見た。真紅の鎧は、もはやその光を失いつつあった。しかしそれでも、サリナの目は光を失ってはいなかった。彼女は“雷轟”の暴威の中でマナを解放し、カインに向けて送っていた。
「兄さん、やってやれよ」
 フェリオは銀灰のマナを奮い立たせ、カインとアーネスのマナの増幅に努めていた。彼の弟は、仲間の守りを支えるために全ての力を注いでいた。それは、彼に新たな力を付けさせるための守りだった。フェリオの美しい灰色の瞳は、まっすぐに彼を見つめていた。
 セリオル、クロイス、シスララの3人も、それぞれのマナを彼に送り続けていた。リストレインの鎧は、間もなく光を失うだろう。碧玉の座の幻獣たちは、限界を迎えつつある。瑪瑙の座に抗するのは難しい。碧玉の座が束になっても、雷帝の力には及ばないのか。
 いや。カインはかぶりを振る。彼の仲間たちは、誰ひとりそんなことを考えてはいない。仲間たちは、彼が勝利することを、ラムウの試練を乗り越えることを信じている。この苦しい状況下でも、彼が敗れ去ることを想像する者は、彼の仲間にはどうやらいないようだ。
「……はっはっは」
 乾いた声で、カインは笑った。腹の底から笑いが込み上げてくる。彼にとってそれは、御しがたい喜びの横溢だった。
「全く、愉快すぎるぐらい頼もしいぜ」
 カインは目を開いた。そして、“雷轟”の向こうで自分たちに手のひらを向けるラムウの姿を、その視界に捉えた。長い髪に長い髭。黒い法衣。立派な装飾の杖。人と変わらぬ外見の、しかし紫紺の光を纏う神なる獣。雷の幻獣、瑪瑙の座。雷を操りし、雷帝ラムウ。
「俺たちの――俺の力を、試すだと?」
 1歩、カインは足を踏み出した。押しつぶされそうな圧力の中、彼は紛れも無く1歩踏み出した。
「ほう……」
 ラムウの顔に、驚きの表情が浮かぶ。興味深いものを観察するような目で、雷帝は雷のリバレーターを見つめる。
「偉そうにしやがって」
 カインが掲げる雷の盾が、その大きさと厚みを増した。イクシオンの高い嘶きが響く。カインの心の力に、幻獣が応じる。
「雷帝だと? ちゃんちゃらおかしいぜ」
 カインは、頭上で両手を組んだ。雷の盾は、さらに大きさを増していく。雷帝の怒りと呼ばれる巨雷が、その巨大化した盾によって支えられる。
「俺の前で偉そうにするのはなあ……」
 暴れ狂おうとする“雷轟”を、カインは抑えつけようとした。まるで自分を飲み込もうする大蛇のように、天から落ちた雷撃は言うことを聞かない。
 だが、彼は獣使いだ。蛇の扱いには慣れている。
「イクシオンだけで十分なんだよ!」
 カインの纏う紫紺の光が、これまでで最大の輝きを放った。イクシオンのマナ、紫紺のリストレインが閃光を放つ。サリナたちですら目を開けていられないほどの、強烈な光。
 そしてその瞬間、“雷轟”はカインの意のままに動く、従順な僕と化した。
「リバレート・イクシオン! トール・ハンマー!」
 カインは持てる力の全てを、膨大な紫紺の光、雷のマナとして放出した。イクシオンが気高い嘶きと共に現われ、その鉤型の角に“雷轟”を宿す。
「……見事だ」
 ラムウはそう呟いた。彼の眼前には、心の力で幻獣との“共鳴”を高めた、素晴らしい力を持ったリバレーターがいた。彼はその力を讃え、最後の攻撃に出た。
「今こそわしを超えてみせろ――裁きの雷!」
 ラムウは杖を掲げた。再び膨大な量の稲妻が集った。“雷轟”とは異なる細い雷だが、その数が尋常ではなかった。雷帝の杖に宿りし脅威の雷撃は、恐るべき無尽の破壊となってカインに襲いかかった。
「しゃらくせえ! どきやがれ!」
 彼の後ろには、彼を信じる仲間たちがいる。彼を信じ、彼の勝利を信じる仲間たちが。仲間たちが自分の名を叫ぶ。彼らの温かなマナが送られてくる。
 サリナ、セリオル、フェリオ、クロイス、アーネス、シスララ。世界を救うなんてことは、彼にはよくわからない。ただ、彼は仲間たちを、そしてその家族が、大切なひとたちが生きるこのエリュス・イリアを、守りたいと願った。
「やってしまって、カイン!」
 アーネスの声が聞こえた。カインはそれに応え、全ての力を篭めた右手を、突き出した。
「これが俺の、俺たちの力だ!」
 イクシオンは角を振り下ろした。“雷轟”を宿した雷の力は、ラムウの雷撃と正面から激突した。館が震える。大地が鳴動する。空が割れる。耳をつんざく轟音とともに、紫紺の光と紫紺の光が、その全ての威力をぶつけ合う。館の天井が吹き飛び、マナの粒となって消える。
 カインは叫んだ。喉が裂けるかと思うほどに、彼は叫んだ。
 それは、名だった。彼が守りたいと願う、人々の名だった。ゼノアの手から守り、この先も幸福に暮らしてほしいと願う、彼の大切な人々の名だった。
 そして戦いは決着した。
 雷雲が晴れる。全てのマナを放出し尽くした雷帝の上に、青空から差し込んだ陽の光が落ちる。
 その光の下、雷帝ラムウは、倒れた。
「……よくやった、強きリバレーターたちよ」
 倒れた彼の前で、リバレーターたちも倒れていた。アシミレイトは解除されていた。碧玉の座の幻獣たちも、力を尽かせたのだろう。
 しかし、敗れたのは彼のほうだった。なぜならリバレーターたちは、彼の課した試練を越え、彼のぶつけた力に耐え抜いたのだから。
 ラムウはゆっくりと起き上がった。手から離れた杖を掴む。彼のマナは、そう時間をかけずとも回復する。しかし人間はそういかない。彼が与えたダメージは、彼らにとってはかなり重かったはずだ。
 ラムウは杖をさっと振った。マナの光がリバレーターたちを包む。
「みんな、大丈夫か!?」
 戦いから離れた場所にいた3人の男が走ってきた。彼らはユーヴ族の者だ。それはラムウも知っていた。そして彼らが、リバレーターたちの戦いを応援していたことも。ラムウは彼らの姿に、小さく微笑む。仲間を思う人間の気持ちは、良いものだ。
 彼らの助けを得て、リバレーターたちはひとり、またひとりと力を取り戻し、立ち上がった。
「よお、じいさん」
 その中で、彼にそんな軽い声を掛けてきたのは、赤毛の青年だった。さきほどまでイクシオンの鎧を纏っていた、雷のリバレーター。仲間を思う心の力で、彼の試練を乗り越えた男。彼は小さく笑った。
「じいさんちゃうわい」
 彼のその言葉に、リバレーターたちは口をぽかんと開けた。
「おぬしら、本気でかかってくるんじゃもん。わし、疲れた」
「……じゃもんだって」
 赤い武道着の少女が、隣の長身の男にそう言った。言われたほうの男は、困ったような顔だった。
 ラムウの目が、サリナに留まる。それを感じて、サリナは瞬時に緊張した。なんだかさきほどまでとは雰囲気が変わったが、あれだけの力を見せ付けられた幻獣である。緊張は避けられなかった。
「そうか、おぬしがな」
 一瞬、サリナはその言葉が自分に向けられたものなのか、ラムウの独り言なのかが判別できなかった。だが、ラムウの言った“おぬし”が自分のことであることは間違いないようだった。なぜなら雷帝は、こちらを見つめていたからだ。
「あんたが本気でかかってきたんだろ、あんたが!」
 しかしサリナの思考は、カインのわめき声で中断された。カインはフェリオに羽交い絞めにされながら、ラムウに対して文句を並べ立てていた。
「こっちゃ死ぬかと思って必死こいてたっつーのに、なんっだその軽い態度は!」
「知らん知らん。ちょっとかっこつけただけじゃし。これがわしの素じゃし」
「お前ほんとに瑪瑙の座の幻獣かあああああ!」
 いつもはクロイスやアーネスに怒られているカインが、ラムウに怒っていた。その光景が可笑しくて、サリナは笑った。
「なんだか楽しい幻獣様ですね」
「ええ。まあ、あの魔法文字を見た時から、そうなんだろうとは思っていましたが」
 口に手を当てて笑うシスララの隣で、セリオルは苦笑した。幻獣にも様々な性格の者がいるようだ。
「あのうるさいカインに、あれがつくのね……」
 腕組みをし、げんなりした口調のアーネスのそばでは、クロイスが力無くかぶりを振っている。
「お前、俺たちの緊張を返せよ! お前たちの力を見せてもらおうか――とか言っといてよ!」
 自分の口真似をするカインに、ラムウは手の甲を振ってみせる。
「うるさいのう。わしだって初めはちょっと、ちゃんとしようと思ったんじゃよ」
「だったらそれを貫けよ! 箔ってもんがあるだろ、箔ってもんが!」
「やじゃ。疲れるもん」
 飄々としたラムウの態度にカインが苛立つのが、サリナには可笑しくて仕方が無かった。しばらく彼女を笑わせるやりとりをした後、ラムウは改めてサリナたちと向き合った。
「さて、そろそろおぬしらの名を聞こうかの」
 彼がそう言うと、リバレーターたちはひとりひとり、順番に名乗った。サリナ・ハートメイヤー。セリオル・ラックスター。フェリオ・スピンフォワード。クロイス・クルート。アーネス・フォン・グランドティア。シスララ・フォン・ブルムフローラ。そして――
「カイン・スピンフォワードだ。これからよろしくな、ラムウ!」
 にっと笑って、赤毛のリバレーター――カインは右手を差し出した。その行為に驚くユーヴ族の3人を尻目に、ラムウはその手を握った。カインの手は力強く、彼の手を握り返してきた。
「ゼノアとかいう人間と、ハデスたちを止めるんじゃな。及ばずながら、わしも力になろう」
 サリナたちは喝采した。ようやく、瑪瑙の座の幻獣を味方につけることが出来た。まだまだ先は長いが、これは大きな1歩だ。
「ではラムウ、神晶碑のところへ案内して頂けますか?」
 セリオルがそう願い出た。神晶碑のことをすっかり忘れていたサリナは、慌てて顔を笑顔からしっかりした顔に戻した。瞬時には戻りきらない頬を、ぱんぱんと叩く。
「何してんだお前」
「な、なんでもない」
 それを見ていたクロイスに突っ込まれ、サリナはぷいと顔を背けた。
「おお、神晶碑か。神晶碑はな……」
 思い出したというように手を打って、ラムウは空を指差した。雷雲が消え、晴れ渡った青藍の空を。
「あそこじゃ」
 サリナはその先を見つめた。太陽の眩しい光が目を刺す。しかしそこには、何も無いように見えた。
「何もねえじゃん」
「何もしなくて見えるわけないだろ」
 目の上に手のひらを翳して空を見つめる兄に、フェリオは溜め息と共に答える。サリナはカインの意見に賛同しようとしたが、フェリオがそう言ったので口をつぐんだ。
「サリナ、モグを呼んでください」
 背後からセリオルの声が聞こえて、サリナは卒然とした。そうだった。神晶碑はモーグリやエルフがないと、見えないのだ。
 サリナは懐からモグチョコを取り出し、吹き鳴らした。美しい音色が響き、光とともにモグがやってきた。
「クポ〜! またまたやってきたクポ……クポ!? ラムウクポ〜!」
 突然出会ったラムウに混乱して空中で踊り出すモグの頭を、サリナは優しく撫でてやった。
「モグ、大丈夫だよ。ラムウは私たちに協力してくれるって」
「クポ? ほんとクポ?」
「うん」
「それは良かったクポ〜!」
 喜びにまたしても踊り出すモグに笑いが起こる。
「でね、モグ、神晶碑があそこにあるらしいの。見えるようにしてくれる?」
「クポ?」
 サリナが指差す先を、モグは額の上に手を翳――そうとしても腕が短いのでそこまで足りず、顔の横あたりまで懸命に腕を伸ばして空を見上げた。
「クポクポ。任せるクポ!」
 そう言って空中で回転し、モグは浮かび上がっていった。
「いつ会っても可愛いですね、モグは」
「はは。そうですね」
 シスララに短くそう答えて、セリオルはモグをよく観察した。モーグリがいかにして神晶碑の封印を解くのかを見ておきたかった。やがて空中のある場所で、モグは停止した。固唾を呑んで、セリオルはモグを見つめる。
「クポ!」
 おもむろに、モグは腕を上げ、そして振り下ろした。
 ガシャン、とガラスが割れるような音を立てて、まるで空間が割れたような現象が起こった。ばらばらと空間の欠片が落ち、館に達する前にマナの粒と化して空中に消えた。
 がくりと、セリオルは肩を落とした。ショックだった。
「あんな……あんな簡単に封印を……」
 ガラス細工を叩き割るような感じで封印を解いたモグに、彼は形容しがたい思いだった。サリナはセリオルをなぐさめようとしたが、笑いが込み上げてきて大変だったので、その役はシスララに務めてもらった。
「あっけねー」
「ほんとね」
 他の仲間たちも、そのあまりに簡単な封印解除に、落胆の色を隠さなかった。もう少し仰々しい解除を期待したからだ。
 いずれにせよ、神晶碑は姿を現した。先に下りてきた、役目を終えて満足そうなモグに続いて、神晶碑は空中をゆっくりと降下した。そして館の床につくぎりぎりのところで止まる。
「これは……」
 その神々しい輝きの紫紺のクリスタルに、シモンたちユーヴの3人は目を奪われた。幻獣の放つ光に似た、美しい光沢。気高く優しい雰囲気の、巨大なクリスタル。
「これは神晶碑。エリュス・イリアのマナバランスを司る、クリスタルです」
「ゼノアが風の神晶碑を破壊したせいで、マキナで大枯渇が起こったんだ」
 セリオルとフェリオの言葉に、3人は驚きの声をあげる。それと同時に、彼らは悟った。サリナたちがここへ来たのは、ラムウの力を得るためだけではなかったのだ。この神晶碑も、彼らの目的のひとつだったに違いない。
「ではカイン、結界を張るとするかの」
「おう。どうやるんだ」
「いいからアシミレイトせい」
 そう言うと、ラムウは強い光を放ってクリスタルとなった。ラムウのクリスタルはカインのリストレインに飛び、そこにすぽりと嵌った。
「わあ! カインさん、すごいすごい!」
「早くアシミレイトしてみて」
 サリナとアーネスの声に急かされるようにして、カインはラムウのクリスタルを手に入れたことを喜ぶ間も無く、リストレインを掲げる。
「奔れ、俺のアシミレイト!」
 紫紺の光が膨れ上がる。イクシオンよりも更に強い光。瑪瑙の座の幻獣の力が、リストレインを変形させる。ラムウの力を宿した鎧は、イクシオンの鎧よりもカインの身を守る箇所が増え、明らかにその力が増していることを物語っていた。
 光が収まる。ラムウの鎧を纏ったカインは、自らの身体を見下ろした。
「すげえ……」
 力があふれ出す。これが瑪瑙の座の力。“雷轟”を起こすほどの力を持つ、第二位の幻獣の力。これまで感じたことの無い、自分の中に収まりきらない膨大な力だ。
「すごい! すごいすごいすごい、カインさん!」
「ようやくこれで、進めますね」
「カインさん、すごいマナです……!
 喝采が上がる。初めて目にする瑪瑙の座の鎧に、サリナもセリオルも、フェリオ、クロイス、アーネス、シスララ、皆が喜んでいた。シモンたちも、よくはわからないままに喜んでくれている。
『ほれ、始めんかい』
 その喜びも束の間、どんどん急かされることに多少の文句をこぼしつつ、カインは神晶碑の前に立った。ラムウが頭の中で指示を出してくる。それに従って、彼は神晶碑に両手を翳す。
「迸る雷鳴のマナ宿らせし、エリュス・イリアの守り手たらん瑪瑙の座、雷帝ラムウの御名により、千古不易の神域たれ!」
 神晶碑が眩い光を放つ。それと同時に、カインの手からは無数の細い光線のようなものが生まれた。光線は次々に枝分かれしてその数を増やしながら細かく折れ曲がり、神晶碑を包むように広がっていった。神晶碑から生まれた光は光線によって形成された網にぶつかり、そこに硬質の面を形成した。
 結果として、神晶碑の周りに、さらに巨大なクリスタルがもうひとつ生まれたような格好になった。クリスタルの入れ子のような姿だ。
 カインのアシミレイトが解除された。ラムウが再び、クリスタルから姿を戻す。
「よくやった。これでこの神晶碑が破壊されることは無いじゃろ」
 雷帝の言葉に、サリナたちは胸を撫で下ろした。
「これで、ひと安心だな」
「うん、良かった……ほんとに」
 フェリオの言葉に頷いたサリナは、大きく息を吐き出した。その途端、サリナの膝が砕けた。
「あれ?」
 ぺたんと尻餅をついて、サリナは間の抜けた声を出した。
「なーにやってんのよ」
「おう、安心して気が抜けたか?」
 仲間たちが笑う。サリナも笑った。晴れ渡った青空の下、雷帝ラムウを味方につけたマナの戦士たちは、しばしの休息をとった。