第89話

 フォグクラウドは騒然としていた。村に戻ったサリナたちは、村人たちが慌しく駆け回る様子に唖然とした。
「何があったんだ?」
 レオンが良くない予感に眉根を寄せる。自分たちが雷帝の館へ行っている間に、村に異変が起きた。それだけは間違い無かった。そしてそれは、良い類の異変ではない。村人たちの顔が、そう語っていた。
「とにかく、話を聞きましょう」
 セリオルが提案し、一行は村へ入った。
「シモン! レオン!」
 村の中からバタバタと慌てて走って来たのはアマリアだった。食事の支度の途中だったのか、前掛けをつけたままである。
「母さん、どうしたんだ? 何があった?」
 アマリアが切れる息を整えるのを、サリナたちは待った。ただ事ではない。村にとって重大な何かが起こったのだと、全員が感じた。
「た、大変なのよ、あんたたち……」
 そう前置きをしながら呼吸を戻し、アマリアは顔を上げた。
「あいつが来たのよ。アクアボルトから、サンクが! サンク・フォン・グラナドがさ!」
「なんだって!?」
 サンク・フォン・グラナド。アクアボルト領主で、ユーヴ族の本来の族長。その名を聞いて、サリナはセリノたちと戦った時のことを思い出した。民族の融合という言葉の形骸化を、セリノたちは唾棄すべきものであるかのように嫌っていた。
「サンクって、アクアボルトの領主ってやつだよな」
 頭の後ろで手を組んで、クロイスは誰にともなくそう確認した。頷いたのは、シスララだった。
「はい。私の父と同じように、自治区を治める貴族の方です。アクアボルトとアイユーヴの対立を解消しようと、努力されているんですが……」
 言外に、それは上手く進んではいないということを、シスララはほのめかした。
 それを聞いて、サリナは緊張した。フォグクラウドの人々は、さきほどのアマリアの口調にも表れているように、おそらくサンクを嫌っている。顔を見合わせたシモンたちの表情も、そう語っていた。
 まずいことにならないといい――そう願って、サリナはひとの集まっているらしいラモンの屋敷を見つめた。

 サンクの申し出に、ラモンは顔をしかめていた。ふたりは応接間の木製ソファに、向かい合って座っていた。それぞれ、傍らに従者を待機させている。
「考えては頂けませんか、長老」
 身を乗り出すようにして自分を見つめるサンクから、ラモンは目を逸らした。細く長く、息を吐き出す。
 ラモンと比べれば、サンクは随分若い。壮年と呼べる年齢で、自治区の政治を司る者としては脂の乗っている時期だろう。彼の目は力強く、彼の言葉が本心から出るものであることを語っていた。
 しかし――
「わしよりも、あやつがなんと言うかだ」
 彼はそれ以上の言葉を口にしなかった。サンクも、それに答える言葉を持たなかった。沈黙が流れる。
「長老様」
 応接間の扉がノックされた。待ちわびたセリノの声に、ラモンは顔を上げる。彼はその瞬間に理解した。来客、それもサンクが来ていることを知らされたはずのセリノが、それを押しても彼に報告しようとしていること。それが何なのか。
「入りなさい」
 ラモンの言葉に、サンクは顔をしかめた。自分は軽視されているのか。あるいはラモンに、自分の言葉を聴く意志が無いのか。いずれにしても、彼にとってラモンの言葉は、不愉快だった。
 扉を開いて、セリノが入ってきた。その戦士長に続いて、ぞろぞろと大人数が応接間に入った。サンクは不愉快な思いを隠さなかった。彼は立ち上がり、ラモンに怒声をぶつけようと口を開いた。
「長老! 一体あなたは――」
 しかし、入ってきた者たちの中のひとりに目が留まり、サンクはそこで言葉を切った。彼にとって重要な意味を持つ人物が、その一行の中にいた。彼が帰還を待ちわびた者が。
「――レオン君」
 アクアボルトのカジノでディーラーとして働いていた男。暴力沙汰を起こしてカジノを飛び出し、その後行方不明だった。彼が行方を求め、ようやくたどり着いたこの村の、彼は元戦士長だったという。
 レオンは身構えた。いや、サンクが来たと聞いた時から、彼はその意味を推測していた。
 彼は考えていた。サンクは、自分を捕らえに来たのだ。カジノの客を殴り、信用を失墜させた張本人として、彼を罰するために。
 しかし、レオンにその気はさらさら無い。彼は今でも、自分が悪いことをしたとは思っていなかった。ユーヴの誇りのためにとった行動だ。それを咎めようと言うのなら、サンクはやはり軽蔑すべき男だ。ユーヴ族の矜持を失い、金の亡者となった、無価値な男だ。
 緊張が高まる。サリナたちはレオンを守ろうとするように、ふたりの間に入った。さすがに武器に手はかけないものの、警戒をあらわにする。
 レオンはそのサリナたちを手でやんわりと押して、道を開けさせた。
「いいのか?」
「ああ」
 小さく訊ねたカインに、レオンは唇をほとんど動かさずに答えた。そして彼は、サンクを無視してラモンに向けて報告した。
「長老様、ただいま戻りました」
「……ああ」
 レオンの意図を汲み取って、ラモンは立ち上がった。レオンと向き合う。断固として、レオンはサンクのほうへ目を向けようとはしない。
「ご苦労だった。御使いの皆さんも、無事でなによりだ」
 ラモンは振り返り、サリナたちを見た。全員、ひどい格好だ。多数の傷、汚れた衣服。疲労の色の濃い顔。一筋縄ではない戦いがあったのだと、彼らの様子が語っていた。
「御使い、だと……?」
 初めて、サンクはサリナたちについて言及した。御使いという言葉が、彼の意識をこちらへ向かせた。
「彼らは、幻獣の御使いだ。モハメの伝承にある敵と戦う、マナの戦士たちだ」
「馬鹿な……」
 サンクは言葉を失った。信じられないという目でこちらを見るその目に、サリナは居心地の悪さを感じる。
「では、現われたと言うのですか。エリュス・イリアを危機に陥れる、忌むべき者が」
「ああ」
 あっさり肯定するラモンに、サンクは溜め息をついてかぶりを振る。頭を抱えたい気分だった。
「だから、彼らは戦っている。幻獣と共にな」
 まだそれを信じられない様子のサンクから視線を外して、ラモンはレオンとサリナたちに向き直った。
「それで、雷帝の協力は得られたかね? 雷雲が晴れたようだが」
「ああ、ばっちりだ!」
 勢い良く、カインは答えた。彼は紫紺色のリストレインを掲げた。獣ノ鎖のグリップ。そこには、ふたつ目のクリスタルが嵌め込まれていた。
「そうか……おめでとう」
 ほっとした様子で、ラモンは胸を撫で下ろした。彼は正直なところ、心配していた。ラムウがもしも彼らに試練を課したとしたら、それを彼らが乗り越えられるのかと。しかしそれは、どうやら無用の心配だったようだ。
 ラモンはサリナたちを見て、そう思った。彼らの目には、希望の火が灯っている。
「ありがとうございました、ラモンさん」
 セリオルが長身を折って頭を下げた。サリナたちもそれに倣う。
「いやいや、わしは何もしとらんよ。それよりレオンにセリノ、それにシモン。お前たち、足を引っ張りはしなかったか?」
「正直、彼らの戦いにはついていくので必死でした。本当に強いですよ、彼らは」
 セリノは素直にそう言った。レオンはそれを認めたくはないようで、黙っていた。
「いや、3人には助けられたよ。あんたらがいなかったら、ラムウの試練は乗り越えられなかったかもしれねえ」
 そう言ったカインの脳裏には、ラムウとの激突の場面がよみがえっていた。“雷轟”の力に屈しそうになった彼の心を、3人の声が奮い立たせた。本当に強い力となって、彼らはカインを支えてくれた。
 シモンが1歩進み出た。彼はレオンとセリノの腰に提げられた、新たな武器を手に取った。抗議したそうなふたりを無視して、シモンはそれを長老の前に差し出した。
「道中でセリオルが造った剣だ。マギカ・シャムシール。マナストーンって石を使って、マナを纏わせた攻撃ができる」
「ほう……」
 ラモンはマギカ・シャムシールのひと振りを手に取った。驚くほど軽い刀身。柄の部分に、見慣れない機構が設けられている。ここにマナストーンを使うのだろう。どうやって造ったのかなど、疑問はいくつかあったが、ラモンはそれを口には出さなかった。幻獣の御使いがどんな技術を持っていても、不思議は無いと思ったからだ。
「戦士長たちに受け継がせるに、相応しい武器だと思う」
「いいだろう。セリノ、これはお前が使いなさい。そしてお前から、次の戦士長へ引き継ぐのだ」
 ラモンはそう言った。その言葉は断定的だった。まるで、レオンの抗議は受け付けないと宣言するかのように。
「長老様、どういうことですか?」
 やや剣呑さを帯びた声で、レオンが尋ねた。ラモンは、その目をじっと見つめる。思いがけず返ってきた強い目に、レオンはたじろいだ。
「レオン、お前は既に、戦士長の座を退いた身だ。当然だろう」
「しかし――」
「それに」
 レオンの言葉を遮って、ラモンは言った。その言葉が、どれだけ重要な意味を持つかを、わからせるために。
「お前には、別の役割を担ってもらいたい」

 フォグクラウドの宿、“雲霞の鳴神亭”に、サリナたちは戻った。
 激しい戦いの後、サリナはゆっくりと湯に浸かるのが好きだった。疲れた筋肉がほぐれる。張り詰めていた心が和らぐ。宿の広い露天浴場の湯に入って頭をその縁に預け、サリナは目を閉じていた。こうしていると、マナが回復していくように思えた。
「隣、いいかしら?」
 アーネスの声が聞こえて、サリナは目を開いた。彼女と違って髪の長いアーネスとシスララが、屋内浴場のほうで身体まで洗い終えたようだった。
「はい、もちろんです」
 にこりと微笑んで、アーネスとシスララも湯に入った。3人で輪を作るようにして座り、彼女らはゆったりと疲れを癒す。ソレイユは足のつかない湯船で、上手く泳いでいる。
 上を向くと、綺麗な青空が見える。美しい藍色の空。
 ラモンの屋敷から出ると、村人たちも随分落ち着いていた。彼らから、サリナたちは感謝の言葉を向けられた。彼らはなぜか、雷雲が晴れたのがサリナたちの起こした奇跡だと思っていた。村人たちは雷雲の空を嫌っていたわけではなかったが、青い空の美しさに胸を打たれていたのだ。
 時刻のほどは、間もなく夕刻を迎える。夕焼けに、村人たちはもう一度感動することだろう。それを想像して、サリナは微笑む。
「それにしても、大事になりましたね」
 長い髪を器用にまとめたシスララが呟いた。不安そうだった。
「そうね……こんなことになるなんてね」
「うん……そうですね」
 湯の中で、サリナは脚を膝で折って抱えた。その上に顎を載せると、口が湯の中に隠れた。
 ラモンがレオンに頼んだのは、意外なことだった。それは、サンクを除いたあの場の全員を驚かせた。特にレオン本人は、強い反発を見せた。無理もないと、サリナもその時は思った。
「出来るんでしょうか……ユーヴ族の融合は」
 ラモンはレオンに、カジノでの事件のことをアクアボルトの民に謝罪することを頼んだ。それを言われたレオンは怒り、サンクに対して罵声を浴びせた。貴様はユーヴ族の誇りを忘れたのか。金と権力の亡者め――
 しかしそれを否定したのは、サンクではなく、ラモンだった。
 ラモンは言った。サンクは、分裂してしまったユーヴ族を再びひとつにまとめるため、レオンに協力してほしいと頼むために、わざわざアクアボルトから出向いたのだと。手がかりのほとんど無い中、サンクは八方手を尽くしてレオンの居場所を、彼がいるだろうと思われる場所を突き止めた。
 そして、彼は来た。ごく少数の従者だけを連れて、フォグクラウドの村へ。既にラムウが雷帝の館を離れ、雷光の森のまやかしを解除していたのが幸いだった。そうでなければ、彼らはあの迷いの森で力尽きていただろう。
 そしてサンクは、ラモンに頼み込んだ。レオンに謝罪させてほしいと。アクアボルトの領主自らがその行動を取ることで民にアイユーヴの誇りを思い出させ、観光客にそれを知らしめたいと。
 しかしラモンは、それ自体は拒否した。なぜならその行動は単に、アクアボルトの民や観光客たちが、アイユーヴの民への反感を増すことを助長するに過ぎないからだ。更に悪いことに、サンクに対しての信頼も失うことになるだろう。
 だから、とラモンは続けた。相互に謝罪をし、それぞれを尊重する意志を示してはどうかと。
 アクアボルトの民たちも、元はアイユーヴの民と同じユーヴ族だ。彼らの奥底には、今も幻獣たちへの強い信仰が根付いているはずなのだ。我々は互いを理解できるはずだ。そうしたいと思っているのに、誇りと見栄がそれを許さないだけなのだ。ラモンはそう言った。そして、それに誰も反論出来なかった。
 事実、シモンもレオンも、アクアボルトで働いていた。それは彼らの中に、そしてユーヴ族の中に、アクアボルトとの融和を目指したいという思いがあったからだ。特にレオンは、村の代表としてアクアボルトに潜入したのだ。民族が再びひとつになるチャンスがあるのかどうかを、確かめるために。
「だが奴等は、やっぱりユーヴを蔑んでいた。確かに、俺が見たのは観光客だったかもしれん。でもあんなクズのような男の金をもらって喜んでいるのなら、アクアボルト全員が同罪だ!」
 レオンはそう言い放った。彼の言葉は怒りに満ちていた。そしてそれは抱くことを避けがたい感情だっただろうと、サリナは思った。
 サンクはその怒りを、黙って受け入れた。ラモンは、静かにレオンを諭した。
「広い視界を持て、レオン。世界には腐った者がいる、それは事実だ。しかしそのごく少数にばかり目を向けたがために、アクアボルトを訪れるひとを厳しく選別することはしてはいかん」
「なぜです、長老! ユーヴを理解しない者を、なぜユーヴがもてなさねばならないのです!」
 レオンは必死だった。このままこの話が通ってしまえば、ユーヴを尊重しない者たちによって、アクアボルト自治区は堕落してしまう。享楽の街アクアボルトは、ますます欲望の坩堝と化す。そしてアイユーヴは衰退する……。そんな危機感が、彼の心を満たした。
「時代は動いてるんだ、レオン。経済活動も、文明を受け入れることも、これからのユーヴには必要なんだ」
 レオンの肩に手を置き、そう言ったのはシモンだった。彼はわかっていた。彼の弟は、そんなことは理解している。だからこそ、アクアボルトに入ったのだから。しかし彼の思いは、心無い言葉でひどく踏みにじられた。それが、彼の心を頑なにしていた。
「とはいえ――」
 そう言って、ラモンはサリナたちに目を向けた。その目には、ある種の意図が読み取れた。
 ラモンは言った。サンクとレオンが互いに謝罪をしたとして、それだけでアクアボルトの民や観光客たちが、ユーヴ族を尊重しなければと考えるとは思えない、と。だから、と彼は続けた。
「御使いたちよ。君たちにも、どうか協力を願えないだろうか」
 レオンとサンクは、驚いたようにサリナたちを見た。その手があったか――ふたりの表情は、そう語っていた。
「ああ、いいぜ!」
 安請け合いしたのは、カインだった。それは実に彼らしい声で、行動だった。サリナたちは誰も彼を止めようと思いもせず、逆に笑っていた。カインの言葉は、あまりにも彼らの予想どおりだったからだ。
 簡単に引き受けたカインと、それを制止しようともしないサリナたちに、ユーヴ族の男たちは驚いたようだった。本当にいいのかと、ラモンもサンクも、シモンも訊ねてきた。しかしそれら全てを、カインは笑って受け止めた。
「だってあんたら、元々は家族だったんだろ? 家族は仲良くねえとな!」
 カインの言葉はシンプルだった。シンプルであるだけに、ユーヴの男たちの心に真っ直ぐに届いた。レオンも、カインの言葉で心を決めたようだった。
「カインさん、すごいですね」
 湯から口を出して、サリナはそう言った。
「レオンさんの毒気も、簡単に抜いてしまったものね」
 サンクに、アクアボルトに対してあれだけ意固地になっていたレオンも、カインに言われて笑顔を取り戻した。シスララはその瞬間を思い返して、笑った。心の奥にあった、民族融合への思い。レオンもサンクも、それは同じだった。ただ立場の違いが、言葉や行動をすれ違わせた。カインの率直な言葉は、いとも容易くその垣根を壊してみせた。
「ほんと、ちゃんと考えてるんだか、何も考えてないんだか」
 呆れたような面白がっているような口調のアーネスに、サリナは吹き出してしまった。本当にそうだと、彼女は思った。
「でも、きっと理屈で考えてはいらっしゃらないですよね」
 シスララも楽しそうだった。彼女は、カインやサリナ、アーネスたちとの旅を楽しんでいた。毎日発見する仲間たちの新たな一面が、彼女の心を弾ませた。
「うんうん。きっと、考えてるんじゃなくて、感じてるんだよ」
「本能しかないものねえ、あの男には」
「あはは。アーネスさん、ひどいー」
 入浴時間をそうして楽しく過ごしながら、サリナは頭のどこかで、ラモンに頼まれたことを考えていた。少し不安だった。
 ラモンは、サリナたちに頼んだ。幻獣たちを連れて、アクアボルトで話してほしいと。幻獣とその御使い。そして、ユーヴ族が信仰する雷の神、雷帝ラムウ。その言葉で、アクアボルトの民たちに信仰心を、ユーヴ族の姿を思い出させよう。そして観光客たちに、正しき分別を植え付けようと。
 それが出来れば、きっとアクアボルト自治区はもっと良くなる。それを思って、サリナは笑顔になる。そしてすぐにその重責を思い出し、彼女は湯の中の膝に顎を載せる。湯の中で、口から息を吐き出す。ぶくぶくと泡が出来て、アーネスとシスララがそれを笑う。
「さ、そろそろ行きましょ。宴があるんでしょ?」
「はい!」
 ラモンはサンクの来訪と御使いたちの帰還を祝して、村を上げての宴を開くと言ってくれたのだ。カインが飲みすぎるのを止めなければと決意を固め、サリナは湯から上がった。