第90話

 カインはリンドブルムの甲板の縁でうなだれていた。海を覗き込むようにして上半身をもたれかけている。その口からは、小さな声でぶつぶつと不満が、呪詛のように垂れ流されていた。
「なんでおめーは学習しねーんだ」
 その後ろで、クロイスが頭の後ろで手を組み、呆れたように言う。甲板に出たイロが、同調して溜め息をつく。
「ちくしょう……俺だってやめようとしたのによお……皆が飲ませたんじゃねえかよお……」
 しくしくと静かに流れる涙が海風に乾いていく。船酔いではなく、カインはエメリドリンクの破壊力によって撃滅されていた。傍らで、アーネスがうんざりした顔で細長い木の枝のようなものを持ち、カインの頭をつついている。
「いい天気! 気持ちいいねー!」
 大きく伸びをして、サリナは全身で太陽を浴びる。アイリーンも同じように空を見上げ、高く嘶く。
 サリナたちはフォグクラウドを出発し、享楽の街アクアボルトへ向かっていた。海陽の船リンドブルムは、その純白の船体を紺碧の海に浮かべ、波を掻き分けて力強く進む。追従する海鳥たちの声の下、サリナは爽快な海の空気を胸に吸い込む。
「アイユーヴはずっと雷だったからな」
 フェリオは甲板の縁に座り、エメリヒの羽毛を撫でながら呟いた。チョコボたちも久しぶりの青空に羽根を伸ばしている。
「クポ〜。待つクポ〜。返すクポ〜」
 そのフェリオの前をモグがふわふわと飛ぶ。彼はどうやら、ソレイユを追いかけていた。ソレイユはその口に、モグのポシェットをぶら下げている。ソレイユはその気になれば高速で飛行することが出来るはずだが、ゆっくりしか飛べないモグに合わせて飛んでいる。明らかに追いかけっこを楽しんでいた。
「ソレイユ、あまり意地悪をしてはだめよ?」
 その光景を微笑みながら見つめるシスララはそう言ったが、積極的に止める気は無いようだった。
「にしても、思わぬ事態になったな」
 リンドブルムの操縦はラモンの従者に任せ、セリオルとシモンも甲板に出ていた。並んで潮風を受けながら、シモンはセリオルに向けてそう言った。
「ええ。うまくいくといいですが」
「そうだな……ふふふ。たまげるぜ、アクアボルトの皆も。さすがに幻獣の御使いとあっちゃなあ」
「ですから、我々は御使いなどと呼ばれる者ではないですよ」
 大仰なその呼び名がしっくりこないセリオルは否定したが、アクアボルト自治区の人々にとっては、幻獣とともに旅をする彼らこそ“御使い”なのだ。セリオルを見るシモンの目がそう語っていて、長身の魔導師は小さく溜め息をつく。
 一行は3隻の船に分かれてアクアボルトへ向かっている。サリナたちとシモン。ラモンと従者たち、そしてレオン、セリノ。サンクと従者たち。それぞれの船は、それぞれの思惑を乗せて海を進む。
 今日、サンクがアクアボルトの行政府で、重要な発表の予告をする。発表が行われるのは昼。そこでレオンとサンクが和解し、カジノでの騒動を清算すると同時に、アイユーヴとアクアボルト、それぞれの代表としてふたりが握手を交わす。
 そのシナリオの最後に、サリナたちの出番が来る。幻獣の御使いとして、彼らは神の言葉を伝える。そして雷帝ラムウが召喚される。古来よりユーヴ族が信仰してきた神が降臨することで、アクアボルトの民に信仰心を復活させる。
 サリナは顔を下ろした。昨夜の打ち合わせ。確かに、幻獣の力を借りるのは良い手だと彼女も思う。しかし、彼女はそこに、どうしても拭い去れない違和感があった。
 果たして、それは本当に正しい手段なのだろうか?
 まるで、幻獣の力で無理矢理民族を融合させるようだと、サリナには思えてならない。作られた和解。人工的な会談。そして演出された、幻獣たちの言葉。それは本当に、人々の心を芯の部分から変えられるものなのだろうか。
 徐々に近づいてくるアクアボルト島の姿を見つめ、サリナは自問する。アイユーヴとアクアボルトの軋轢は、人々が本心から互いを理解したいと思わない限り解消されない。幻獣の姿と言葉で、それを実現できるのだろうか。
 左手首のリストレインを、サリナは撫でる。サラマンダーのクリスタルが、その上で冷えた光を投げかけている。

「俺はここで待ってるよ」
 そう言って、シモンはアクアボルトの広場でサリナたちと別れた。彼はユーヴ族の族長でも戦士長でもなく、ただの服職人だ。これからサリナたちが行うことに参加する理由は無かった。彼は一度店に戻り、従業員たちの様子や、不在だった間の経営状況を確認することにした。サリナたちはサンクとともに、そのまま行政府へ向かった。
「ただいま」
 カランとベルの鳴る扉を開いて、シモンは店に入った。たった数日のことだったが、随分久しぶりに戻って来たような気がした。染料と生地の懐かしい匂い。
「店長! おかえりなさい」
 彼の帰りに気づいたスタッフが、総出で迎えてくれた。店には特に変わった様子は無いようだった。
「みんな、悪かったな。何も無かったか?」
 念のために訊ねた彼に、スタッフたちは僅かに顔を曇らせる。
「どうした?」
 不安が声に出ないように努めて、シモンは重ねて訊いた。スタッフたちは少しだけ言い淀む気配を見せた。だがすぐに、最も長く働いてくれているスタッフが口を開いた。
「店には特に何も無かったんですけど……」
「けど?」
「店長が出発してから、グラナド家のひとたちが来たんです。その……弟さんのことで」
 その言いにくそうな口調に、シモンは安堵の息を吐いた。その反応に、スタッフたちは不思議そうな顔をした。
「店長?」
「ああ、いや、そうか。なるほどな、レオンのことでか」
「はい……」
 こちらを気遣っている様子のスタッフたちを安心させようと、シモンは笑顔を作ってみせた。
「それについちゃ大丈夫だ」
「え?」
 やはり不思議そうなスタッフたちに、シモンは事情を説明した。
「向こうでサンクに会ってな。何があったかはわかってる」
「そういうことだったんですか」
 ほっとした様子のスタッフたちに感謝の言葉を述べてから、シモンは不在だった間の店の状況、主に数字の面の確認をした。取り立てて上昇も下降も無く、これまでどおりの経営だったようだ。
「レオンのことは、噂にはならなかったのか?」
 彼がそう質問すると、スタッフたちは顔を見合わせた。
「まあ、噂になってました。でも、お客さんの数には影響無かったみたいですね」
「そうか……」
 シモンは考えた。街の人々は、カジノで騒動を起こした男が、テーラーブラシエールの店主の弟だと知ったはずだ。カジノ側の聞き込みもあっただろう。それでも、来店する客の数は変わらなかった。売り上げも落ちていない。
 もしかしたら、アクアボルトの人々も民族融合を願っているのかもしれない。表面には現われないのだとしても、心の奥にはその気持ちがあるのかもしれない。でなければ、カジノで暴れた凶暴な男、それもアイユーヴの男の兄の店になど来ないだろう。
 サンクの言葉は、嘘でないのだろう。彼がこれまで、アイユーヴとの和解を求めて取ってきた行動は、ゆっくりではあるが結実に向かっているのかもしれない。
「よし。みんな、仕事がひと段落したら広場へ行くぞ」
 スタッフたちに向けてそう言ったシモンの表情は晴れやかだった。スタッフたちは揃って首を傾げる。
「え? 店はどうするんです?」
「今日は休業だ。サンクから大事な話があるからな」
 スタッフたちは、もう一度顔を見合わせた。故郷でサンクと会って、何かあったらしい。それはシモンにとって、歓迎すべきことだったのだろう。ともかく、シモンを慕う彼らは、その言葉に逆らいはしなかった。

 グラナド家の自宅も兼ねる建物、アクアボルト自治区行政府。領主サンク・フォン・グラナドに先導されてその中を歩くサリナたちに、職員たちが奇異なものを見る目を向ける。その居心地の悪さに縮こまりながら、サリナは仲間たちと共に歩く。
「こちらで待っていてくれたまえ。ゆっくり寛いでくれて構わない」
 サンクはサリナたちを、広々とした部屋へ案内した。中には柔らかそうな絨毯が敷き詰められ、豪華なソファセットが設置されている。大きなテーブルには、先に連絡が入っていたのか、軽食と飲み物が用意されていた。サリナたちを緊張させないようにという、サンク側の配慮だろう。
「セリオル、こっちへ来てもらえるか?」
 ラモンから声を掛けられて、セリオルは振り返った。サンクとラモン、レオンがこちらを見ている。打ち合わせのためだろう。
「ちょっと行ってきます」
 仲間たちにそう言葉をかけて、セリオルは部屋を出た。扉が閉められる。
 なんとなく雰囲気が重い。どう振る舞えばいいかわからず、サリナは手持ち無沙汰に部屋を見回した。ソファに座ろうという気にならない。
「落ち着け」
 フェリオの声。言われて、サリナは自分の手が勝手にわさわさと動いていたことに気づいた。慌てて手を後ろに隠す。
「ご、ごめん」
「いや、謝ることはないけどさ」
 落ち着かないのはサリナだけではないようだった。クロイスも、フェリオの声で動きを止めた。彼はつま先と踵を交互に上げたり下げたりしていた。ぴたりと止まって素知らぬ顔をしている。
「お、これ美味いぜ」
「あんたは緊張感無いわねえ」
 カインが軽食をつまみ、アーネスが呆れ顔を作る。そんないつものやりとりが、サリナの緊張を少しほぐしてくれる。
「国王様への直談判に比べたら大したことないだろ」
「う、うん……そうだね」
 とはいえ、今度はアクアボルトの民と観光客たちの前である。国王の時とは質は違うが、自分たちに向けられる視線の数も違う。元々、サリナは注目されることが苦手である。
「なるようにしかならないし、俺たちに出来ることをやるだけだ。いつだってそうだろ?」
「うん……」
 フェリオの声は揺れない。同い年の少年の落ち着きように、サリナは憧れる。どうして自分はいつも、こんなに緊張してしまうのだろう。フェリオはなぜ、緊張しないのだろう。自分と彼とで、一体何が違うんだろう。そう考えるものの答えは出ず、心臓の鼓動はやはり落ち着かない。
「みんな、緊張してるんだ。兄さんだってそうさ」
 はっとして、サリナは顔を上げた。フェリオが、カインが、緊張している?
「意外、って顔だな」
 言われて、サリナはこくんと頷いた。この兄弟が緊張するなんていうことがあるのだろうか。
「当たり前だろ。この自治区の今後に関わる重大な仕事なんだ。緊張しないやつなんていないさ。ただ――」
 フェリオの視線は、兄に向けられている。その兄は、アーネスにぶつぶつ言われながらふたりで軽食をつまんでいる。その振る舞いにも表情にも、緊張感は見てとれない。
「兄さんは、自分の行動がみんなに影響することを知ってるんだ。だからあえて、ああやってふらふらしてる。ああいうところは、ほんとに敵わないよ」
 そう言ったフェリオは誇らしげだった。普段はカインの行動に頭を抱えてばかりの彼だが、やはり兄を慕っているのだろう。それがサリナにはわかった。自然と頬が緩む。
「そうだ、サリナ、そうやって笑っててくれ。君が笑ってれば……俺たちは大丈夫だから」
「えっ……」
 フェリオの言葉に驚いて、サリナは彼を見上げた。美しい灰色の瞳が待っていた。さきほどまでとは違う種類の動悸が起きる。
「フェリオさんって……すごいですね」
 顔を赤くしたシスララが、クロイスとこそこそ話している。クロイスは頭の後ろで手を組み、あまり興味なさそうだった。
「あーいうことを恥ずかしげもなく言える神経が、俺にゃわかんね」
「でも、言われてみたいですね……」
 両手で頬を押さえ、赤らんだ熱を取ろうとするかのような仕草のシスララに、クロイスは胡乱げな目を向ける。
「……ええ?」
 目を閉じ、シスララは悩ましげな溜め息をつく。一体誰に向けられた溜め息なのか――
「やれやれ。最近どいつもこいつも頭ん中がピンク色してやがる」
 クロイスがうんざりと頭を掻いた時、ソファに座るカインが、その背もたれ越しに皆に声を掛けた。
「よお、みんなも食っとけよ。せっかく用意してくれたんだ。もったいないぜ」
 彼は燻製の肉をかじりながら話して、アーネスに叱られてしまった。騎士の手刀が鋭く唸る。
「行儀の悪いことをするんじゃないわよ」
「いでっ! ……なんだよもう、かーちゃんかよあんたは!」
 頭を押さえて涙目で抗議するカインに、仲間たちが笑う。
「いっつもアーネスに怒られんなあ。だっせー」
「あんだとう!? てめえクロイス、そこに直れ!」
「へっへーん。誰が直ってやるかってんだ! バーカバーカ」
「誰がバカだコラてめえ。バカって言うほうがバカなんだぞ!」
「うっせーバーカアーホ。悔しかったら怒られなくなれ!」
「ええい黙れ! 俺だってなあ、好きで怒られてるんじゃねーんだよ! このヒステリー隊長がだな――」
「誰がヒステリー隊長ですって?」
 ピシッ、と音を立てて、カインが固まった。クロイスがゲラゲラと笑う。サリナがあわわと焦る。シスララは楽しそうに微笑んでいる。フェリオは頭を抱える。ギギギ……と軋む音を立てて振り返ったカインの脳天と、笑うクロイスの脳天とに、アーネスの痛烈な手刀が振り下ろされる。
「……またやってるんですか」
 セリオルの呆れた声。動かなくなったカインとクロイスを見て、彼は眼鏡の位置を直しながら溜め息をつく。
「行きますよ。出番です」

 それはさながらデモンストレーションを待つ観衆だった。集まったアクアボルトの人々は、異様な熱気に包まれていた。
 その群集の中に紛れて、シモンは自分の行動が功を奏したことに満足していた。彼は吹聴して回ったのだ。カジノで暴れたレオンの兄として、彼は既に街の住人たちに認識されていた。その彼が、カジノでの一件が終結すると流布して回った。それだけではない。ようやくアイユーヴとアクアボルトの垣根が壊される。彼はその言葉も足して、アクアボルトの民たちに伝えたのだ。
 街の人々の反応は様々だった。それを歓迎する者もいれば、反対だと断言する者もいた。反対する者の多くは、アイユーヴを認めることが、文明の衰退を意味すると信じているようだった。かつての幻獣信仰と自然主義の暮らしに、彼らは戻りたくはないと主張した。
 いずれにせよ、シモンの目的は街の人々の多くを、ここへ集めることだった。行政府から重大な発表のある旨は伝えられていたが、それがいかなるものかを知らなければ、多くの民は集まらない。シモンはそう考え、店のスタッフたちと共に行動に出た。
 間もなく公表された時刻を迎える。民族融合に賛成する者、反対する者、自分には関係無いと物見気分の観光客たち。様々な思いの渦巻く広場が、行政府のバルコニーの開くのを待つ。

 サンクはその両開きの扉の前に立った。これを開けば、民衆の前に姿を現すことになる。彼の永年の夢、民族の融合。アクアボルトの民たちによる、アイユーヴの歓迎。それを形にすることが出来るかどうか、その第一歩が、ここからようやく始まる。
 ここへ至るまでの道は長かった。歴代の領主たちが築いてきた、経済的な豊かさを追い求める資本至上主義。豪商や貴族たちの良き遊び場としてのアクアボルト。享楽の街と呼ばれ、金を落としてくれる者たちをもてなすことで、世界へその存在意義を主張しようとした、彼の故郷。
 彼が変えたかったのは、その故郷の姿そのものだった。かつて存在したはずの、人々の心の豊かさ。幻獣と共にあり、信仰心の許に暮らしたはずの、アクアボルトの民。その自然の中にあった暮らしに戻ることは出来ずとも、今もそうして暮らすアイユーヴを理解することで、アクアボルトの姿は変わるはず。彼はそう信じた。
 彼は、嫌だった。他者に依存しなければ生きていけないアクアボルトが。彼の先祖であるディエゴ・フォン・グラナドは、こんなアクアボルトを目指しはしなかっただろう。誇り高く、確かな経済力と共に世界に対する発言力を持つ、強き自治区。彼が理想としたのは、そうしたアクアボルト自治区だったはずだ。
 アイユーヴの人々の、強き心。若き日にそれを知ったサンクは、領主を襲名した時、それを取り戻すことを誓った。アクアボルトの民の反発は強かった。アイユーヴは古き民。自然と暮らし、経済を知らない。この豊かな暮らしを、愚かな欲望と断じて取り合わない。そんな連中と、なぜ今さら共に暮らさなければならないのか。
 溝は埋まらなかった。サンクの粘り強い政策も、反対派が多く、なかなか実行に移せなかった。そこに、今回の騒動が起きた。アイユーヴの男が、カジノで暴れた。サンクは、それを好機と捉えた。彼がアイユーヴに謝罪し、真摯に相対することで、溝が少しでも埋められるかもしれないと考えた。
 幸運は彼に味方した。訪れたアイユーヴの村に、幻獣の御使いと呼ばれる者たちがいた。幻獣と共に旅をし、世界のために戦うと言い伝えられる者たち。その言葉を借りることが出来る。大義名分が彼の味方になった。彼は勇気付けられた。アクアボルトの人々の心に眠るはずの、幻獣への畏れ。それを呼び覚ますことが出来るかもしれない。
「……行くか」
 彼はそう言葉を掛けた。今や彼と志を共にし、民族を融合させるためのパートナーとなった男に。
「ああ」
 レオンは深く頷いた。そして彼は後ろを振り返る。そこには彼の村の長と、彼の弟分である現戦士長、そして彼がその強さを認める、マナの戦士たちがいる。これから始まる大仕事に向けて、全員が心をひとつにしていた。
 そして彼は、サンクと共にその1歩を踏み出した。アクアボルト自治区の今後を左右する、重大な決意の場へ続く1歩を。