第93話

 強い風の吹くその岸で、サリナは特別な思いを抱いた。海洋の船リンドブルムの甲板に出て、彼女は遥か遠くの地平を見つめる。
 セルジューク群島大陸スペリオル州。そこに存在する、王都イリアス。かつてサリナがその地を踏むことを強く望み、今は再び訪れることに恐れを感じる場所。リンドブルムは今、その南東に位置する海の沿岸に停泊していた。
 王都。あれから、しばらくの時間が流れた。今でも夢に見る、黒騎士との戦い。サリナたちが初めて、完全なる敗北を経験した戦い。その後、王都から落ち延びた時、セリオルは王都を覆う黒いドームを見たという。
「お父さん……カミーラ……」
 王都にいるはずの父と友の名が口を衝く。父は今も何事も無いだろうか。あの優しい少女は無事だろうか。エル・ラーダやアクアボルトでも、王都に異常があったという話は聞かなかった。まだゼノアはそれほど表立って活動してはいないのだろうか。あるいは、何か起こっていても徹底した情報規制が行われているのか……。
 ぽん、とサリナの肩に手が置かれた。その手の主を、彼女は見上げる。
「ゼノアは愚かではありません。大切な機能と財源である王都を、徒に滅ぼしはしませんよ」
 兄は、その長い黒髪が吹き付ける風に乱れることも気にせずに、じっと王都の方角を見つめている。ここから王都が見えるわけではないが、そこにいる人々と、忌むべき敵を意識せずにはいられなかった。
「……はい」
 ゼノアはこちらの動きを把握して行動しているのだろうか。それとも王都で、座して策を練っているのだろうか。敵の状況が見えないことが、サリナを不安にさせる。
「王都の状況、なんとかして知ることが出来ないかしら」
 風に揺れる髪を押さえるアーネスの表情は、やや曇っていた。サリナは、思い出してはっとした。アーネスの家族は王都にいるのだ。彼女は王都で生まれ育ち、騎士隊長として勤めていた。騎士団の仲間たちも王都にいる。
「アーネスさん……」
 掛けるべき言葉が見つからず、サリナはただ、アーネスの名を呼んだ。騎士隊長はこちらを見て、意外にも微笑んでみせた。
「大丈夫よ。私の周りには、そう簡単にやられてしまうようなひとはいなかったから」
 その瞳に不安は無かった。サリナは、その強さに憧れる。自分はこんなにも不安だ。
 だが一方で、ダリウやエレノアにもうすぐ会える。彼女は純粋に、それを喜んでいた。船旅の途中、仲間たちにそのことを話したこともあった。その軽率さを、彼女は後悔した。
「そろそろ行くか?」
 甲板の縁から離れて、そう言ったのはカインだった。彼は既に、王都の方角に背を向けていた。その姿は、前を向いて進もうと仲間たちに促しているかのようだった。
「そーだな。いつまでもここにいてもしょうがねーし」
 強い風に帽子が飛ばされないように注意しつつ、クロイスが続いた。いつもと変わらぬように振る舞っているが、サリナにはわかっていた。彼は、早く幻獣の許へ行きたがっている。
 セリオルがクリプトの書から紐解いた、新たな幻獣。その名はシヴァ。水の幻獣、瑪瑙の座。凍てつく吹雪を操るという、恐るべき力を秘めた幻獣だ。
 それを聞いたクロイスは、アクアボルトへ向かう時のカインにそっくりだった。新たな力への渇望が、彼にも見えた。
 もう一度、サリナは王都の方角に目を遣った。願わくば、以前と変わらぬ生活が送られていますように。カミーラが、フェルレル教室の皆が、国王様が、無事でいますように。両手を握り合わせ、サリナは祈る。
 陸から吹き付ける風は強く、それはまるで、抗うことの出来ない運命を予感させるかのようだった。

 リンドブルムは潮の流れに乗り、セルジューク群島大陸の南東を進んだ。その流れは速い。以前セリオルが話していたことを、サリナは思い出した。王都イリアスへは、陸路でしか行くことが出来ない。それはこの潮流の速さが理由だった。ユンランとロックウェルを結んでいた船では、その流れに逆らってスペリオル州へ上陸することは難しいだろう。
 蒸気機関の推進力と潮の流れとによって、リンドブルムは力強く進んだ。船はすぐに、あの懐かしい港町に到着した。
「いいところですね」
 夕刻を迎えたユンランの港に入り、気持ち良さそうに無くソレイユの顎を撫でながら、シスララは甲板の上で微笑んだ。港の男たちの声で賑やかである。彼らは忙しそうに動き回り、重そうな物を運び、明日の航海のために船をメンテナンスしている。
「ああ。何度来てもいいよ、ここは」
 その絶えない声が心地良いのか、フェリオは上機嫌だった。あるいは蒼霜の洞窟へ向かうのが嬉しいのかもしれない。はたまたあの宿の料理を楽しみにしているのか。その全てかもしれないと、少年の後ろ姿を見ながらサリナは想像する。
「おや……?」
 どやどやと賑やかに、港の男たちがリンドブルムの入った埠頭に集まってくるのを、セリオルは不思議に思った。しかしすぐにその理由が明らかになる。
「まあ、そうよね。珍しいわよね、こんなに大型の外輪蒸気船なんて」
「普通漁村にゃこねえよな、こんな船」
 愉快そうにからからと笑うカインは、港の男たちが突如来訪した外輪蒸気船に戸惑うのを面白がっているようだった。
「なんか、悪いことしちゃった気持ちになりますね」
 そんなことを感じる必要は無いと知りつつも、サリナはそう言った。なんだか申し訳ない気がした。
「はあ? なんでだよ?」
 心底理解出来ないという口調のクロイスに頬を膨らませて、サリナは船を降りた。
 漁師たちはサリナたちを快く迎えてくれた。以前村の小さな漁船で旅立った4人が、更に人数を増し、チョコボたちまで連れて、しかも大きな蒸気船で戻って来たことに、彼らは驚いていた。
「あれからどんなことあがあったんだ? 聞かせろよ!」
「よおカイン、紹介しろよ! えれえべっぴんさん何人も連れて来てよお!」
「フェリオ、ハイナンでまた何かの調査か? 手伝い要るか?」
 騎鳥車用のチョコボを飼育している厩舎にアイリーンたちを預けようと、チョコボを連れてぞろぞろと歩くサリナたちに、漁師たちはくっついて離れようとしない。野盗から村を救った英雄としてサリナたちが認知されたこともあるが、それ以上に彼らは、スピンフォワード兄弟と仲が良いようだった。
「うっせえなあ。忙しいんだよ、またにしろよ!」
 カインは乱暴な言葉で邪険に答えるが、港の男たちは全く本気にせず、笑いながら絡んでくる。カインのほうもそれが面白いらしく、口では嫌がりながらも顔は笑っていた。
「ああ、ちょっとね。でも今回はいいよ、フェイロンで準備出来るから」
 フェリオと男たちのやり取りから、セリオルは推測した。以前、カインナイトを見つけるためにフェリオは、何度もハイナンを訪れたと話していた。道具やら何やらの準備を手伝ってもらっていたのだろう。
 ユンランの漁師たちはサリナたちが広い港から出るまで、愉快な調子で話しかけてきた。特に彼らは女性陣に興味津々のようで、サリナたち3人はなかなか放してもらえなかった。
「なあ、宿はやっぱり“海原の鯨亭”にすんのか?」
 港を出る直前、漁師のひとりがそう訊ねてきた。カインがそれに答えると、漁師は面白がるような声でこう言った。
「そうかそうか。びびるぜ、きっと。ひひひ」
「あんだよ、何があんだよ」
「いいからいいから。行きゃあわかるよ。ひっひっひ」
 なおも問い詰めようとするカインに、しかし漁師たちは何も答えようとしなかった。行って確かめろの一点張りである。
「ったく、何だってんだよあいつら」
 肩をいからせてぶつくさ言うカインを、フェリオが宥める。
「まあいいじゃないか。行けばわかるんだろ」
「ちぇっちぇ。ぺっぺ」
「てめー子どもか」
「んだとクロイスコラ、誰が子どもだお子ちゃまが」
「お前だお前。ちっちぇーことでうだうだ言ってんじゃねーよ」
「だあれがちっちぇーだコラてめえチビっこ」
「だー! さっきからお子ちゃまとかチビっことか、なんだてめー!」
「クックック。真実を告げたまでだよ、クロイスくん!」
「黙れ! もー殺す! 殺すっつったら殺す!」
「へへーん! やってみやがれー!」
 始まった恒例行事に、仲間たちは頭を抱える。サリナとシスララは笑っているが。
「まったく、どっちもどっちね」
「歳がだいぶ上な分、兄さんのほうが重症だ」
「確かに」
 アーネス、フェリオ、セリオルの3人はそう言って、走って行ったふたりの背中を半眼で眺めている。
 走って行ったふたりは、突然開かれた建物の扉に激突してカエルが潰れたような声を出した。扉を開いた主はその向こうに姿が隠れていたが、驚いたらしい声だけは聞こえた。
「あ、あなたは!」
 そこはユンラン村自警団の詰め所だった。そして扉を開いたのは、自警団の団長だった。扉を閉じて姿を現した彼は、地面に倒れて目を回しているカインに気づいて声を上げた。彼の姿に、サリナも見覚えがあった。野盗の砦を壊滅させて戻った時、深々と頭を下げられたのは、それほど遠い昔ではない。
「こんなところで、一体何を……?」
 唖然とした様子で倒れたふたりを助け起こすことも忘れた自警団団長に、セリオルとフェリオは苦笑いを向けた。

 自警団詰め所は、以前より増築されていた。仕事が増えたわけではない。人数が増えたのだと、団長は語った。
「人数が?」
 不思議そうに訊ねたフェリオに、団長はやや困ったような顔で頷いた。詰め所には、従前からいたはずの団員たちの姿が見えた。それぞれに書類の整理や武器の手入れなどを行っている。
「間もなく帰ってくると思います」
 フェリオはサリナと顔を見合わせた。どうやら、外に出ている者たちがいるらしい。それもひとりやふたりではないようだ。
 サリナたちは自警団の来客応対用の部屋に通されていた。特に用があったわけではないが、団長が思い出したように、カインとクロイスに詫びをしたいと申し出たのだ。案内されて茶を出され、近況などを差し障り無い範囲で話していた。チョコボたちを厩舎に預けるのは自警団の団員が引き受けてくれた。
 あまり細かいことを話して要らぬ追及を受けるのも困るので、竜王褒章を受けたフェリオの研究のために、王の信任を得て共に行動しているのだということにしておいた。その中でそれとなく王都の様子も訊ねたが、やはり情報は何も無かった。あれから、イリアスは完全に外の世界と隔絶されているらしい。
「どうしてしまったんでしょうね、王都は……」
 元来、エリュス・イリアに存在する村や街は、それぞれに独自の自治を敷いている。王都が隔絶されてしまっても、それぞれの運営にはそれほど大きな支障は発生していない。
 ただ、ユンランのようにごく最近、大きな事件のあった村や街では不安感が増大しているようだった。何かあった時には王国軍が助けてくれる。特にセルジューク群島大陸とその周辺に存在する街や村では、それが大きな安心感となっていたからだ。
「でも、そういう意味だと自警団の人数が増えたのは良かったですね」
 サリナが少し勢い込んでそう言ったが、団長はやはりどこか困ったように笑うのみだった。サリナは小首を傾げたが、その理由を、彼女はすぐに知ることになった。
 バタン、と大きな音を立てて、詰め所の扉が開かれた。そして騒がしい声とともに、何人分もの足音がどやどやと響いてくる。
「おーい団長さん! 帰ったぜー!」
「今日も疲れたなあー! がっはっは!」
「てめえは昼寝してただけじゃねえか! ちゃんと働けっての!」
 およそ自警団の団員らしからぬ調子の声に、サリナは驚いた。団長が立ち上がる。
「すみません、こちらにお願いできますか?」
 団長は僅かに顔をしかめ、サリナたちを促した。カインとクロイスが楽しそうな顔をする。
「なんだなんだ、面白そうだな」
「てめーまたやらかすなよ」
「うっさいし」
 そんなやりとりをするふたりも含めて、サリナたちは新加入した団員たちの顔を見に、詰め所の玄関に向かった。
 そこには、どことなく見覚えのある雰囲気の者たちがいた。顔を合わせるなり、サリナたちと新入りたちはお互いに動きをぴたりと止めた。
「……あーーーーーー!」
 新入りの団員たちは、サリナたちの顔を見るなり揃って人差し指をこちらに向けてきた。同時に、サリナとカインも団員たちに人差し指を向けていた。その後ろで、セリオルとフェリオは頭を抱えた。クロイスとシスララはよくわからない状況に戸惑っている。アーネスは、なんとなく状況を察したようだった。
「お前ら! なんでここに!」
 新入りたちとカインがまったく同じ台詞を口にする。しかしその姿勢は真逆だった。新入り団員たちは後ずさりしながら、カインは前のめりになりながらだったのだ。
 そう、がやがやと騒がしく自警団詰め所に入ってきたのは、かつてこの村を襲撃する計画を立てていた、あの野盗の一味だった。
「最近お前たちが不真面目だという噂が立っているから、わざわざ大陸から視察に来てくださったのだ。ちゃんとご挨拶せんか!」
 何の打ち合わせも無く、団長がそんなことを言った。サリナたちは一瞬戸惑ったが、すぐに団長の意図を理解して厳しい表情を作った。後ろでセリオルとフェリオが、仲間たちに小声で素早く事情を説明するのが聞こえた。
「な、な、何言ってんだよ! 俺たちゃ真面目に働いてるじゃねえか!」
「そ、そうだぜ! 今日だって肉屋のおばちゃんに褒められたんだ!」
「さっき、昼寝してた奴がいると言っていたじゃないか!」
 弁明しようとする元野盗たちを、団長が一喝する。さきほどまであれだけ威勢の良かった連中が、サリナたちの姿が視界に入るものだから、急に縮こまってしまった。
「けけけ。よっぽどびびってんだなー」
「まあ、砦を壊滅させましたからね、文字通り」
「壊滅って、壊してしまったのですか?」
「ああ。兄さんがリバレートを使ってな。あばら家みたいなものだったから、それは綺麗に壊れたよ」
「まあ」
 背中で交わされるそんなやり取りが可笑しくて、サリナは笑ってしまいそうだった。しかも隣では、カインが調子に乗ってあれやこれやと元野盗の男たちをからかっている。
「おうおうおうおう、てめえら自警団になんて入りやがって! ちゃんと自警してんのかあ!」
「しし、してるって! お前ちゃんと見てから言えよ!」
「俺たちゃ毎日村のやつらの仕事を手伝ってんだよ!」
「そうそう、自警の仕事なんてほとんどねえんだ! 俺たちがいなくなったからな!」
「なあにを偉そうに言ってやがんでい! ちゃんと反省しやがれ!」
「なな、なんだよなんだよ! 反省したからこうして真面目に働いてんだろ!」
「そうだそうだ! 皆真面目に毎日仕事してんだよ!」
「さっき昼寝してばっかのやつがいるっつってたじゃねえか! またぶっとばされてえかあ!?」
「ひいいいいい! やめろよ! 暴力は良くねえって!」
 カインは実に楽しそうである。対して、元野盗の男たちは本気で恐れているようだった。それはそうだろう。あの頭領はともかく、それ以外の者たちはサリナたちに、全く歯が立たずに蹴散らされたのだ。その上自分たちのリーダーまで倒され、砦は粉々に破壊された。そんなことをやってのける者たちに、二度も制裁されたくはないだろう。
「まあまあ、カインさん、もういいじゃないですか」
「クックック。もっとびびらせてやるぞおお」
「ひいいいいい!」
 サリナが止めようとするが、カインは何かのスイッチでも入ってしまったのか、止まる様子が無い。両手をわきわきさせている。
「もうやめなさいっての」
 そこへ、後ろから鋭い手刀が振り下ろされた。カインスマッシャーの異名をとるその手刀は赤毛の脳天に綺麗に炸裂した。
「きゅう」
 かみ合わせれた歯の間からそんな音を出して、カインは静かになった。それを見て、新入り団員たちがますます恐れ戦く。
「ああああ、あの姉ちゃんやべえぞ」
「あ、ああ、あの野郎を一撃で黙らせちまった」
「き、綺麗な顔して、なんて女だ……」
 新入りたちの会話は隠そうとする気があるのか無いのか、全て丸聞こえである。
「なあんですってえ!?」
「ひいいいいいいいいいいい!」
 今度はアーネスが怒りの鉄拳制裁に出ようとしたのを、仲間たちが慌てて押さえ込む。それを見て、団長は元野盗の男たちをサリナたちに会わせたことを、少し後悔した。
「ま、まあともかく、お前たちが真面目にやらなければ、いつでも皆さんに来て頂くからな」
 両手を腰に当ててそう締めくくった団長に、新入りたちは恨めしげな目を向ける。
「わ、わかったよ! わかったからもう休ませてくれよお!」
「うう。ちくしょう。俺たちちゃんとやってんのによお」
「虐待だ。これが虐待ってやつだ」
「ええい、うるさい! お前たちの昔の行いがまだ信用を得ていないということだ! わかったらさっさと休め!」
「ひいいいいいいいいいいいいいいいい!」
 そうして今では自警団の一員――というよりは村の雑用係り、もしくは何でも屋のような存在になった元ならず者たちは、どたばたと詰め所の奥へ引っ込んで行った。

「ひゃひゃひゃひゃ。おもしろかったなあー」
 恐縮したような困ったような様子だった団長に見送られて詰め所を後にし、カインは愉快そうだった。
「あんたはやりすぎなのよ」
 そう言って隣で腕組みをするアーネスに、しかしカインは悪びれない。
「いいじゃねえの。俺ぁ嬉しかったぜ、あいつらが改心したみたいでよ」
「向こうにしてみたら、ただ脅されただけでしょ」
「まあいいじゃねえか、面白かったんだから! ひゃひゃひゃ」
 やれやれ、という風に横目でカインを見ながら、アーネスは溜め息をつく。
 陽はすっかり暮れてしまった。サリナたちはユンラン村の中心部の岩山を目指して歩いていた。“海原の鯨亭”は、その麓にある。
「でも、あのひとがいませんでしたね。あの頭領の」
 サリナはそう疑問を口にした。カインの笑いがぴたりと止まる。
「頭領さんですか?」
 シスララの声に合わせて、ソレイユが甲高い声を出す。答えたのはセリオルだった。
「ええ。彼ら野盗一味の頭領です。大変大柄な男で、戦いでは随分苦労したのですが……。そういえば姿が見えませんでしたね」
 しかしセリオルは、それをあまり気にはしていないようだった。あの元野盗たちの様子から考えて、頭領だけが反旗を翻しているということは考えにくいと、彼は判断していた。
「他のどこかでまだ働いてるんじゃないか? あいつ、体力は化け物並みだったし」
「ああ、きっとそうだな!」
 フェリオの意見に、カインはすぐ賛同した。彼にしても、それが大きな問題だとは思っていなかった。
「どんなお仕事してるのかなあ。ちょっと見てみたいな」
 サリナは想像した。あの大男が、花屋や菓子屋で働いていたらどうしよう。特注のハイナン服を着て、胡麻団子や杏仁豆腐などを運んでいたら。想像して、サリナは吹き出してしまった。
「な、なんだよ、気持ちわりいな」
「あはは。ごめんごめん、あのひとが働いてるところ、想像しちゃって」
 気味悪がるクロイスに謝って、サリナは目尻ににじんだ涙を拭いた。興味を示したカインたちに彼女の想像を話すと、あの頭領を知る3人も吹き出して大いに笑った。
 そうこうするうちに、彼らは“海原の鯨亭”に到着した。海の神リヴァイアサンを祀る村の社、それを頂く岩山の麓。懐かしい宿である。中からは賑やかな食事の声が聞こえてくる。前にここに泊まり、“漁師の腕っぷしスープ”などの料理を食べた。随分昔のことのような気がして、サリナはまたあのマスターの作ってくれるスープが飲みたくなった。
「入りましょうか」
 そう言って、セリオルが宿の赤い観音開きの扉を押し開いた。賑やかさが一層増す。
「いらっしゃい!」
 客の来訪にそう言いながらこちらを向いたのは、あのマスターだった。入ってきた客の顔の見える位置にある厨房から、大きな声である。入ってきたのがサリナたちだと知ると、彼はにやりと笑い、大きな身振りで手招きをした。
「マスター! 世話んなる……ぜ……」
 マスターに答えようと大きく手を振ったカインの声が、急速に勢いを失った。彼の目に、信じがたいものが飛び込んできたからだった。
「いらっしゃいませー!」
 宿を訪れた客に大きな声で威勢の良い挨拶をし、ピシッとしたハイナンの給仕服に身を包み、それに相応しい帽子をかぶり、天井の高い食堂で他の客の食事を運びながらこちらに頭を下げ、その瞬間に石にように固まったのは――
 あの野盗団の、頭領だった。