第94話

 ダグ・ドルジというのが、野盗の頭領の名前だった。サリナたちは彼やマスターと、「なんでお前がここに!」「ここのマスターさんに誘われて」「マスターなにやってんだー!」「はっはっは。まあいいじゃねえか。なかなかいい仕事してるぜ」「いやそういうことじゃなくて!」というようなやりとりを散々やって周囲から笑われた――客たちはほとんどが、ダグが“海原の鯨亭”で働くことになった経緯を知っていた――後、どうやら真面目に働いているらしい彼をひとまず置いておいて、部屋を取って食事を楽しんだ。
 マスターが腕を振るう料理を食べる最中も、ダグの巨躯は嫌でも目に入った。以前の彼を知るサリナたちには、その姿は極めて奇異に映った。ダグはその巨体にも関わらず機敏に動き、自分には合わないサイズのテーブルの間を、客たちの邪魔にならないように器用に移動し、まめまめしく働いていた。
「おい、あいつ何か企んでんじゃねえ?」
 行儀悪くテーブルに両肘をついて、カインはダグを半眼で観察した。彼らに対しても柔らかい物腰で丁寧に接してくるダグに、カインは胡乱な目を向けた。しかしダグのほうはそんなことを気にもしない様子で、明るい声と笑顔で接客を続ける。
「どうだろうな」
 フェリオは油断無く、かつての野盗の頭領の様子を窺った。見る限りでは、彼は悪意を持っている、もしくはそれを隠しているようには思えなかった。元々、それほど頭の良い男だとは思っていない。フェリオには、ダグが好人物を演じることが出来る者だとは考えられなかった。
「いずれにしても、驚きましたね。まさか彼がこんな仕事をしているなんて」
 海の幸と香辛料をふんだんに使ったハイナン料理――小籠包や餃子などの飲茶と呼ばれる軽食や炒め物、米料理や麺料理など――を平らげ、食後のジャスミンの利いた茶を飲みながら、セリオルは感想を述べた。彼の声には、カインほどの警戒の色は無かった。
「私は、いいと思うなあ。真面目なお仕事して」
 サリナは杏仁豆腐を匙ですくって口に入れ、そう言った。
 彼女は杏仁豆腐が好きである。前にユンランに来た時にも食べていたのを、セリオルは思い出す。あれからしばらくの時が経ち、様々な戦いがあった。だが、サリナは変わっていない。素直で、明るく、真っ直ぐだ。
 自分はどうだろうか。セリオルは振り返る。自分は真っ直ぐでいられているだろうか。湯のみの中で、美しい色の茶が揺れる。誰に恥じることも無く、純粋な心で、戦うことが出来ているだろうか。
 彼はかぶりを振る。結った黒い髪が揺れる。茶の面に、ぼやけた自分の顔が映っている。
「おう、お前ら、元気でやってたか?」
 マスターの声に、セリオルは顔を上げた。いつの間にか、他の客たちの姿は消えていた。マスターはやはり杖をついている。それをセリオルたちの隣のテーブルに立てかけ、自分はその椅子に腰を下ろした。
「まあな。あれから色々あったけど、元気だぜ」
 背もたれに体重を預け、カインはにやりとしてみせる。彼は久方ぶりにマスターに会って嬉しそうだ。マスターはそれに頷き、サリナに顔を向けた。
「お嬢ちゃんは、相変わらず眠いのか」
「えっ」
 温かな湯のみを両手で包むようにしてほっこりしていたサリナは、慌ててその手を両頬に当てた。そんなに眠そうな顔をしていただろうか。まだそれほど遅い時刻ではないはずだ。戦闘をしたわけでもない。船に揺られ続けた疲れが出ていたのだろうか。
「からかわれただけよ」
「えっ?」
 苦笑とともにそう言ったアーネスに、サリナは驚く。マスターを見ると、吹き出すのを必死で堪えている。
「あまりいじめないでくださいよ、マスター」
 困ったように笑いながら、セリオルは茶をすする。そういう仕草があまりにもしっくりきていて、今度はクロイスが小さく笑い声を上げた。
「セリオル、じじくせえよ!」
「……ほっといてください」
「クロイスさん、だめですよ」
 むっとしたように視線を下に向けたセリオルとなぜか頬をやや膨らませるシスララに、スピンフォワード兄弟とクロイスがにやにや笑いを向ける。
「はっはっは。おい、ちょっと会わねえうちに随分大所帯になったじゃねえか。ずっとお前らふたりだけだったのになあ」
 どうやらマスターは、サリナたちと話をするために食堂を閉めたようだった。従業員たちが片付けをしているのが、サリナたちのテーブルからも見えた。その心遣いが嬉しく、また申し訳なくもあった。
 マスターと初めて会った者たちが、それぞれに挨拶をした。サリナとセリオルの時もそうだったが、見事にばらばらな生い立ちの者たちが集まったことを、マスターは面白がった。
 従業員たちの耳には入らないように、サリナたちは声を落としてこれまでのことを話した。マスターはひとつひとつ、大きく頷きながら話を聞いてくれた。
「そうか……親父さんがな」
 サリナとセリオルは、以前の宿泊の時には詳しい事情を話していなかったことを思い出した。あの時は、自分たちふたり以外の誰にも話すことが出来なかった。そう回顧して、サリナは今に感謝する。頼れる仲間たち。全てを打ち明けても、なお共に戦ってくれる存在。そのありがたさが、改めて身に沁みる。
「それで、その蒼霜の洞窟ってとこに行く途中なのか」
「ああ」
 それまで相槌を打ちながらじっと話を聞いていたマスターが、表情を僅かに曇らせた。それを敏感に察知したのは、サリナだった。
「マスターさん、どうかしましたか?」
 やや下を向いたマスターの顔を覗きこむようにして、サリナは訊ねた。心にさざ波が立つ。
「ん? いやな……最近、妙な話を聞くんだ」
「妙な話、ですか?」
「ああ。まあ、大したことじゃないとは思うんだが……」
 歯切れの悪いマスターに、カインが問いかける。
「なんだよ、妙な話って。はっきり言えよ」
 その言葉に、マスターはゆっくりと顔を上げる。何か懸念がある。その顔にはそう書かれていた。
「……フェイロンが、近頃随分寒いらしい」
「……へ?」
 やや間の抜けた沈黙が流れる。カインとクロイスがぽかんとしている。サリナとシスララは顔を見合わせた。アーネス、フェリオ、そしてセリオルの3人は、それぞれに何か考え込んだようだった。
「何だよ寒いって。そんだけ?」
 笑いを含んだ声で言うカインに、表情の晴れないマスターは頷く。理解できない、という風にカインは、溜め息をつく。彼は茶をぐびりと飲んでこう言った。
「なあ、たまたまそういう年だってだけじゃねえの?」
「マスター、それは誰から聞かれた話ですか?」
 頭から取り合おうとしないカインの声が消えないうちに、セリオルが顔を上げて訊ねた。マスターは黙ったまま、厨房のほうを振り返った。サリナたちもそれに倣う。
 そこにじっと佇み、こちらの様子を窺っていたのは、ダグ・ドルジだった。

 チョコボに乗って、サリナたちはユンランを出発した。途中の昼食にと、”海原の鯨亭”のマスターが弁当を用意してくれた。カインが小躍りして喜び、仲間たちに笑われるという一幕があった。
「この道、なんだか懐かしいね」
 アイリーンを進めながら、その背の上でサリナは呟いた。セリオル、カイン、フェリオの3人が頷く。
 彼らはハイナンのふたつの村を繋ぐ街道を進んでいた。見渡す限りの草原。起伏の少ない緑の絨毯が広がっている。もう少し進めば、景色は草原から緩やかな丘へと変わり、田園が見えてくる。フェイロン村の人々が営む、大切な田園である。
「この道から、始まったんだね」
 あの時には、この街道をユンランからフェイロンへ向かって進む日のことなど、想像もしなかった。父エルンストを救うため、大きな決意を持って騎鳥車で進んだ道。そして初めての仲間である、カインとフェリオに出会った道。
「ええ。そしてこれから先の、遥か遠い目的地へ通じる道です」
 セリオルはじっとフェイロンの方角を見つめる。この光景を見るのは、二度目だ。一度目の時、彼はまだ少年だった。幼いサリナを抱え、焦燥感と共に騎鳥車に乗り込んだ。あれから10年。随分、待った。
「そうだな。そんでこいつらに襲われた道だ」
 そう言って、カインはルカの上から半眼で隣を見遣った。そこには2羽のチョコボに牽かせる専用の荷車にでんと鎮座する、ダグ・ドルジの巨体があった。
「はっはっは。カインさん、そいつは言わねえお約束ってもんですぜ」
 昨夜の“海原の鯨亭”での口調とはまるで違う。これが彼の地なのだろうと、サリナは思った。しかしそれでも、ダグから敵意めいたものは感じられない。あれからユンランの人々の間で暮らし、マスターの下で働くことで労働の喜び、ひとの役に立つことの楽しさを、彼は知ったのだという。
「しかしマスターも、よくお前を雇ったな」
 やや冷たさを帯びているのはエメリヒに騎乗するフェリオの声だ。彼は相変わらず、ダグに対する警戒心を完全に解いてはいなかった。その声は彼らしいとサリナは思うが、同時に、そろそろ同行する協力者として認めてやってもいいのではないかとも思う。
 そう、彼はフェイロンへ、そして蒼霜の洞窟へ向かうサリナたちに同行したいと申し出たのだ。サリナたちは驚いたが、マスターは落ち着いたものだった。彼がそう言うことを予期していたのかもしれなかった。
 ダグは“海原の鯨亭”での仕事の一環として、山の幸の買い付けをフェイロンまで出向いて行っていた。前回の買い付けの時に、フェイロンの村人たちから例の話を聞いたのだという。実際、自分自身もやや肌寒く感じたような気がすると、彼は言った。もっとも、彼の肌感覚は全くあてにはならなさそうだというのがサリナたちの見解だったが。
「俺も大して気にしちゃあいなかったんだけどな。お前らの話を聞いて……水の集局点、っつうんだろ? そいつのマナが荒れてる可能性があるかもと思ってな」
 マスターのその意見に、セリオルも賛同した。ただの考えすぎであれば、それでいい。ただ、今のエリュス・イリアではマナにまつわるどんなことが起きても不思議ではない。ゼノアはそれだけの力を手に入れている――そうセリオルが語った時、ダグが同行を申し出たのだった。
「あの方はすげえおひとだ。俺はこれまで、あんなすげえひとに会ったことがねえ」
 荷台の上で荷物のように揺られながら、ダグは空を見上げて言った。強面な外見はさほど変わっていない――とはいえ通常の旅支度の服装ではある――が、その目は以前とは違っていた。マスターによって汚れが洗い落とされたかのようだった。
「俺はあの方に、直々に仕込んでやると言って頂けた。光栄なことでさあ」
 フェリオの質問の答えにはなっていなかったが、それについてはサリナたちの想像でも問題無さそうだった。あのマスターのことだ。暴れたか不貞腐れたかしたダグを一喝して黙らせ、強制的に“海原の鯨亭”に連行したのだろう。
 あの男なら、それくらいはやりかねない。想像して、サリナたちは妙に納得した。
「いずれにせよ、あなたが悪事から足を洗ったというのは素晴らしいことですよ」
 翠緑のブリジットの背で、セリオルは既にダグの変わりようを受け入れていた。もっとも、彼には算段もあった。もしも偽りであったなら、力でねじ伏せることが出来る。あの頃と比べても、彼らは随分強くなっていた。
「俺は間違ってたんでさ。あいつらにも、もっといい道を歩かせてやれたろうに」
 俯いたダグが言った“あいつら”とは、今は自警団の一員として働く元野盗たちのことだ。とはいえ、彼らは彼らで今の暮らしと仕事を楽しんでいるようだったが。
「私には、ダグさんがそんなに悪い方だったなんて、信じられません」
「いや、この顔でか?」
 純白のチョコボ、イルマの手綱を握るシスララが発した言葉に、カイン、フェリオ、クロイスの3人が声を合わせて切り返した。アーネスが笑い、ダグは少し傷付いたようだった。
「はっはっは。ひでえですぜ。俺だって好きでこう生まれたわけじゃねえんです」
「いやいやいやいや、生まれつきなのか、おい」
 即座にカインがそう言ったが、ダグはからからと笑っている。どうやらそれは肯定に見えた。確かに、彼の尋常でない体躯と頑丈さは、後天的な鍛錬だけで培われたものではないだろう。
「なあ、あんた、生まれはどこだ?」
 話題を変えたのはクロイスだった。サリナは、彼がダグにそんな質問をしたのが意外だった。それは他の仲間たちも同じだったようで、クロイスが訊ねた直後、誰もが口をつぐんだ。
「ん? 俺ですかい」
 明らかに自分に対する質問だとわかっていて、ダグはそう訊き返した。クロイスはすぐに頷いた。
「そんなこと聞いて、どうするんです?」
 答えたくない。彼の言葉は、暗にそう語っていた。それを感じながら、クロイスは質問を取り下げなかった。
「どうもしねーよ。ちょっと興味があっただけで」
 ダグはしばらく沈黙した。考えているようだった。それほど時間はかけずに、彼は判断した。ここで自分の出身を明かしたところで、何の害も無い。
「……ドノ・フィウメでさあ」
「あれ。どこかで聞いたような」
 その地名に、サリナは聞き覚えがあった。最近どこかで聞いた気がした。
 そこまではダグも予想した。ドノ・フィウメはエル・ラーダなどが存在するファーティマ大陸の自治区のひとつである。一般的にはよく知られた地名だ。
 しかし彼の答えは、さらに彼の予想しなかった反応を生んだ。クロイスが大きく息を吐いたのだ。それは溜め息というよりは、別の意図を含んだ仕草だった。例えば、やっぱりそうか、というような。
「やっぱりあんただったのか。名前聞いた時からもしかしてと思ってたけど」
 その言葉に、サリナたちは戸惑った。クロイスの言う意味が見えなかった。
 一方、ダグは痛恨の極みといった表情だった。クロイスの発した言葉だけで、ダグにはそれが意味するところが理解できた。
「ねえクロイス、どういうこと?」
 サリナの不思議そうな問いかけに、クロイスはやや大げさな仕草で答える。
「俺もドノ・フィウメの生まれなんだよ。前に言ったろ」
「あ、そうだそうだ」
 エル・ラーダに到着した時にクロイスが話したことを、サリナは思い出した。せっかく聞いた出身地のことを失念していたことをサリナは申し訳なく思ったが、クロイスは気にしていない様子だった。
「俺が生まれるより前のことだけどな。有名人がいたんだよ。“怪児”って呼ばれた子どもが」
「それがダグだったのね」
 アーネスの言葉に、クロイスは頷いた。ダグは沈黙している。
「“怪児”だなんて、なんてひどい」
 シスララが顔をしかめた。ダグの心を傷付けたであろうその呼び名に、彼女は嫌悪感を催した。
「ああ。街の大人たちは随分反省したらしい。ダグが10歳で失踪しちまったからな」
「ひどい……」
 サリナは悪寒を感じた。10歳の子どもが、生まれ育った街を独りで出ようと決心するだけのことを、ドノ・フィウメの人々は彼にしたのだ。それがどの程度のことだったのかはわからないが、少なくともサリナにとって、その事実は忌むべきものだった。
「もういいじゃねえですか、昔の話は」
 しかしダグの声は、暗くはなかった。彼は荷台の上で、前を見ていた。
「俺はその経験があって、闇の道に走っちまったんです。けど今は違いますぜ。それもこれも、マスターさんと皆さんのお陰でさあ」
 ダグがサリナたちへの協力を申し出たのは、その感謝があってのことだった。彼の野盗団を壊滅させたサリナたちに、彼は感謝していた。彼を含め、野盗団の構成員を誰ひとり殺めることなく、サリナたちは彼らを更生させた。いや、正確には更生するきっかけを与えた。
 そしてユンランの村人たちや“海原の鯨亭”のマスターらが、彼らを徹底的に鍛え直した。それは恐らく、大部分が精神面への働きかけだったのだろう。ダグがこれだけ変わるまでには、紆余曲折があったはずだ。
 だが結果として、彼らはユンランの人々に心から感謝している。それだけでいいと、サリナは思う。
「本当に心から、感謝してんです」
「わーったわーった。せいぜいきっちり働いてくれ」
 カインはそう冷たく言うが、彼の顔は笑っていた。ダグもそれに笑みを返した。かつては敵同士として戦い、カインはダグを叩きのめし、苦労して築いた砦を破壊した。それでもダグは、笑っている。それ以上に大切なものを手に入れたからだった。
「頑張りましょうね!」
 漠然とした言葉だが、サリナは心に湧き出た思いをそのまま口に出した。ダグはそれに、にこりと笑うことで答えた。強面の顔がくしゃりと歪むと、意外に愛嬌のある笑顔になった。
 ひゅう、と風が吹いた。景色は緩やかな丘陵地帯に差し掛かっていた。間もなく田園が見え始めるはずだ。フェイロンが近い。
「……確かに寒いな」
 フェイロンの方角から吹いた風は、フェリオの肌をさっと撫でていった。その感触は硬質で、歓迎されているようには思えないものだった。
「うん……」
 フェイロンはハイナン島の北東部に位置している。そちらの方角の空が、どこか暗いような気がする。サリナは良くない予感に、胸がざわつくのを感じる。
 本当に、マナの異変が起こっているのだろうか。蒼霜の洞窟。水の幻獣、瑪瑙の座であるシヴァの御座であるはずのその洞窟に、何が起こっているのか。
 サリナの心臓が、どきんと跳ねる。これまで、クロフィールでもアイゼンベルクでもエル・ラーダでも、マナの異変による魔物の出現を確認してきた。村は無事だろうか。ダグが異変を聞いたのは、いつだと言っただろう。それからどれくらい時間が経ったのだろう。
 嫌な言葉が脳裏に浮かぶ。“手遅れ”というその3文字を掻き消そうと、サリナは頭を振る。
「急ぎましょう」
 力強いセリオルの声が聞こえた。仲間たちが彼女を見ている。彼らが、サリナを安心させてくれる。その存在に感謝しつつ、サリナはアイリーンの手綱を握る手に力を篭めた。故郷フェイロンは、間もなくである。