ある兄の決意

 彼は暗闇の中に投げ込まれた。そこは寒く、孤独で、身を守る術も無く、彼は完全に独りだった。
 暗闇は突然襲ってきた。何の前触れも無く、彼はひと息に真っ暗な世界に飲み込まれた。暗闇がやって来た時、彼が認識出来たのはたったひとつの言葉だった。
「君たちのお父さんとお母さんが亡くなった」
 目の前が真っ暗になる、ということを彼は実感した。足元がガラガラと崩れるという表現は、あながち間違っていないのだと思った。その事実を知った日、彼はただ下を向いて床に座っているだけだった。
 しかし彼のすぐそばには、彼よりも弱く、彼以上に自分の身を守る術を持たない者がいた。その弱き者は何日も床を見つめるだけの彼の隣で、同じように床を見つめていた。ただ、その手はずっと彼の服の裾を握っていた。
「兄ちゃん、お腹すいた」
 じっと何も言わず彼の隣りに座っていた弟が、いよいよ耐えかねてそう言った。彼の暗闇の世界に、小さな波が起こった。少しずつ彼の世界は、色を取り戻していった。傷んだ木の床。古びてきしむベッド。色あせた絵が掛けられた木の壁。少ない衣類や日用品が収められた引き出し。部屋の中のそういった物が彼の視界に入ってきた。
「しみったれた部屋だ」
 ようやく絞り出された、それが彼の第一声だった。彼の声は隣りの弟を不安にさせた。弟は彼の服の裾を握ったまま、彼の顔を見上げた。
「兄ちゃん」
「ああ、悪い。飯行こうな」
 両親を亡くして、彼ら兄弟は母方の親戚に引き取られていた。もっとも彼にとっては、両親の死を告げられた直後からの記憶が曖昧なため、気がついたらこの家にいたという感覚だった。
 食事をしに階下へ下りると、親戚夫婦が食卓についていた。彼らには子どもが無かったため、兄弟を喜んで受け入れてくれた。しかし彼はそんな親戚夫婦が偽善者にしか見えなかった。親を亡くした彼らを憐れんでいるとしか思えなかった。それは彼が、最も向けられたくない感情だった。
 彼の弟は、そんな親戚夫婦とうまくやっているようだった。弟は夫婦の愛情を素直に受け止めていた。親戚夫婦は彼に対しても等しく愛情を向けてくれたが、それを受け取ることを拒む彼に、どう接していいか測りかねているようだった。
 彼の中に唯一確固として揺らがずにあったものは、弟への愛情だけだった。彼の弟は幼く、両親の死を認識はしていたが、彼ほど重く受け止めてはいなかった。それは両親の多忙が大きな要因だろうと、彼は考えていた。両親は王都の軍事研究施設で働いていた。彼ら兄弟は王都近くの村に残り、休日を両親と過ごすという生活を送っていた。それには彼が友人たちと離れたくないと強く希望したことが大きく影響していた。忙しい両親は弟の教育を見ることが難しく、それを任せられるのは既に生活のことは自分でできる年齢に達していた、彼だった。
 彼はほとんど、弟の親代わりだった。両親が亡くなった今、その思いは彼の中で否応なく増すばかりだった。弟のために親戚夫婦とも良い関係をと思うものの、感情にうまく踏ん切りをつけることが出来ない自分に苛立った。
 その苛立ちは、親戚夫婦に向けられた。表立って反抗するわけではなかったが、彼と夫婦との関係は冷え込んでいくばかりだった。それでも自分に愛情を向けてくれることに、彼は後ろめたさと自己嫌悪感を増していった。

 森は静かだった。彼ら兄弟は薪を集めに来ていた。この森では味の良い果物やキノコ類も採れるので、彼らは今の家に移ってから、よく採集のためにここに来ていた。
「クルリンタケあるかな、クルリンタケ」
 拾った木の枝で落ち葉を払いながらそう言う弟は楽しそうだった。クルリンタケは傘の部分が軸を覆うように丸く成長するキノコの一種で、香りと歯ごたえが良く、弟の好物だった。故郷の村で暮らしていたころ、弟は彼の作るクルリンタケ入りのシチューをよくねだった。
「ああ、あるといいな」
「探そうよ」
 落ち葉を踏みしめて歩く。奥まで踏み込まなければ木漏れ日の多いこの森は、風もよく抜けて散策にもちょうど良い。村からは多少離れているので人影は稀だが、彼はこの場所が好きだった。自然が美しく、人もいない。
 それぞれの持って来た篭にいっぱいの薪と食材を集め、兄弟は森の中を流れる小川のほとりで休息をとった。採れたての果物を洗って食べる。瑞々しい甘みが口に広がる。
「兄ちゃん、これすっぱい」
「はは。熟れてなかったか」
 弟が口に放り込んだ木の実に顔をしかめた。吐き出さずになんとか飲み込んだが、舌を出して呻いている。
 川のせせらぎと小鳥の声。そよ風が揺らす木々の葉鳴り。動物の歩く音。見上げれば枝葉の間から漏れ落ちてくる柔らかな光。自然の中で両目を閉じ、彼は心が安らぐのを感じていた。
 不意に弟の悲鳴が聞こえた。驚いて瞼を上げる。
 小川の対岸に巨大な熊がいた。全身を赤褐色の毛が覆っている。ひと目見て、彼にはそれが普通の熊とは違っているのがわかった。身体が大きく、3メートルは超えているのではないかと思える。加えて牙、特に下顎から上に伸びるものが異常に長く、また額から太い角が生えている。両前足には不吉な太く長い爪が生えていた。
「魔物だ」
「兄ちゃん、どうしよう」
 立ち上がった彼は、弟を自分の後ろに庇った。弟が服の裾を掴んでくる。
「大丈夫だ、兄ちゃんが守ってやる」
 そう言ったものの、彼は心臓が張り裂けそうだった。自分の不安が弟に伝わらないようにと、呼吸が乱れそうになるのを懸命に自制した。早鐘のように打つ心臓の音が耳元で聞こえるようだった。
 護身用の刃物を抜く。魔物の前で、それはあまりにも頼りなく見えた。少しでも威嚇になるようにと、身体の真正面に構えて魔物に向けた。
 この森には何度も来ていた。これまでに危険は何も無かった。だから油断していた。
 彼は後悔と自責の念でいっぱいだった。そしてそれ以上に大きな恐怖があった。脚が震えるのを自覚した。膝が砕けそうになる。自分の恐怖が弟に伝播する。服の腰のあたりを握る弟の力が強くなった。
 魔物が恐ろしい咆哮と共に向かって来た。凄まじい瞬発力で迫って来る。彼は弟を突き飛ばし、自分は反対側に跳躍してその突進をかわした。勢い余った魔物は木にぶつかり、そのままへし折った。
 魔物が振り返った。恐怖に息が上がる。魔物が狙ったのは弟だった。迂闊だった。食材の篭を背負っていたのは、彼ではなく弟だった。
「篭を投げろ!」
 彼は叫んだが、弟は恐怖に震えて行動できなかった。魔物が弟に迫る。彼は勇気を振り絞って立ち上がり、魔物に攻撃すべく走った。弟に手を出すな。俺の弟に!
 一撃で、彼は吹き飛ばされた。魔物の膂力は凄まじく、彼の身体は簡単に宙を舞った。地面に叩きつけられ、息が止まる。霞む視界には、弟に迫る魔物の姿があった。鋭い爪を持つ前足が上がる。
「やめろおおおおおおお!」
 己の無力さを呪う叫び。世界でただひとつ、彼が守ると誓った弟。それが呆気無く、こんなにも簡単に命を奪われる。涙で視界が歪む。だというのに身体に力が入らない。彼は叫んだ。
 魔物の前足に紐が結びついた。魔物が体勢を崩す。紐は解け、大きくしなって魔物を数度、打ち付けた。赤毛の熊が悲鳴を上げる。分厚い毛皮が切り裂かれ、鮮血が吹き出した。魔物は逃げ出した。小川を越えて森の奥へと。
「おいおい、大丈夫か?」
 腰に鞭を携えた男が立っていた。男は弟を抱き起こし、続いて彼に手を貸した。
「こっぴどくやられたなあ」
 彼は立ち上がれず、仰向けに寝転んだ。激痛で息をするのが難しい。
「ありがとう、助かった」
「ああ、気を付けろよ。せめてもうちょいでかい刃物持っとくほうがいいぜ」
「兄ちゃん、大丈夫?」
 彼の顔を覗き込んだ弟は、無傷に見えた。彼は安心したが、同時に何も出来なかった自分を責める思いが強まった。
「大丈夫だ。かっこ悪いな、俺」
「ううん、兄ちゃんかっこ良かった。ありがとう」
「はっはっは。いい弟じゃねえの」
 男は愉快そうにからからと笑った。落ち葉の上に腰を下ろし、男は彼の傷の応急処置をした。
「こんなとこで何してたんだ?」
「薪拾いと食材集め。いっぱい採れたよ」
「そういうあんたこそ、何を?」
「俺か。俺はな、まあなんだ、迷子だ。」
 そう言うと、男は短い黒髪を掻きあげて呵々と笑った。弟がつられて笑う。彼も笑ったが、痛みでうまくいかなかった。
 彼の痛みがひいて立ち上がれるようになるまで、3人は身の上話などをして過ごした。男は彼らの状況を聞いても、同情の言葉は口にしなかった。
「頑張れ。歯ぁ食いしばってな。兄貴なんだろ」
 ただそれだけを言った。これまで同情されるばかりだった彼には、男の言葉が嬉しかった。このひとになら、自分の悩みを打ち明けられるかもしれないと思った。
 彼は自分たちを養ってくれている親戚夫婦のことを話した。自分たちを大切にしてくれていること。しかしそれが、彼には憐憫と同情に思えてならないということ。さすがに弟の前で、偽善者という言葉は使わなかった。実際、彼にも親戚夫婦が偽善などで彼らと暮らしているという思いは無くなっていた。
「なんだそりゃ」
 ひと通り聞いて、男は呆れたようにそう言った。
「お前、それさあ、すげえかっこわりいぜ。逃げてるだけじゃねえか」
 男の言葉には、少なからず怒りが含まれていた。彼ははっとして、男の顔を見た。男の顔は真剣だった。
「自分は大変なんだ、悲劇に見舞われたんだって思ってんだろ」
「……そんなこと思ってねえよ」
「思ってんじゃねえかガキが」
「なんだと!」
 怒りに任せて、彼は男に掴みかかった。痛みに顔が歪むが、構わなかった。
 しかし掴みかかられた男は、冷静そのものだった。
「思ってんだよお前は。だから自分に向けられる愛情を拒むふりをしてるんだ。起こっちまった現実に正面から向き合わずに、目を背けて逃げてるだけなんだよ。通りすがりの俺が言った義理じゃねえけどな、お前が今やらなきゃいけねえことを考えろよ。親戚夫婦に反発して、でも飯だけは食わせてもらって、ぬくぬくしてることかよ?」
 彼には返す言葉が無かった。見透かされた気がした。自覚もしていなかった自分の奥深くにあった感情を、この男は見抜いていた。
 力無く手を離した彼を見下ろす形で、男は立ち上がった。じゃあなと吐き捨てるように言って、男は立ち去ろうとした。弟がおろおろしている。
「待ってくれ」
 数歩歩いた男の背中に向けて、彼は顔を上げずに声を掛けた。落ち葉を踏む音が止まる。
「通りすがりのあんたに頼めた義理じゃないが、俺に戦い方を教えてくれないか。強くなりたいんだ、こいつを守れるように」
 言い終えた彼の耳に、落ち葉の上に何かが落ちる音が数回入って来た。顔を上げる。そこには革製の鞭がひとつに、金属製らしいつくりに棘がいくつもついた風変わりな鞭、それに装飾の施された筒のようなものが3つあった。
「やるよ。獣使いの道具だ。使い方は自分で学べ。教えてくれなんて、人に頼るな。自分の道は、自分で切り拓け。いいなガキんちょ」
 そう言い残して、男は笑いながら去って行った。

 家に帰った彼らを、親戚夫婦はたいそう心配した。妻がすぐに彼の傷を診て手当をしてくれた。夫のほうからは強い叱責を受けた。彼はそれを黙って受け入れた。弟は泣きながら謝っていた。
 食事はいつもの通り、静かに行われた。ただクルリンタケのシチューに弟が大喜びし、夫婦は嬉しそうに微笑んでいた。彼は早々に食べ終え、皆の食事が終わるのを待った。
 やがて食事が終わり、妻が4人分のお茶を運んで来た。普段、彼は食事を終えるとすぐに部屋に戻ってしまうため、夫婦は意外そうな顔だった。お茶をひと口飲んで、彼は話し始めた。
「知っていると思いますが、弟の夢は、蒸気機関技師になることです」
「なんだい、いきなり」
 突然話し始めた彼に、親戚夫婦は驚いたようだった。弟も彼の方を見て、何が始まるのかと固唾を飲んでいる。
「俺の夢は、弟が一人前の蒸気機関技師になることです」
 夫婦が弟を見た後、顔を見合わせた。弟は状況が飲み込めず、目をぱちくりさせている。
「いきなりでごめんなさい。俺たち、ロックウェルに行こうと思います」
「まあ……」
「どうしたんだ、そんな急に。ここはあまり好きじゃないかもしれないけど、ふたりで知らない街に行ってどうしようって言うんだ」
 驚いてそう言う夫婦に、彼はまっすぐ見つめ返した。
「俺、これまでのこと、ふたりにすごく感謝してます。自分で勝手に悲観的になって反発してた俺を、それでも優しく見守ってくたこと。素直になれなくてごめんなさい」
 親戚夫婦は黙って彼を見つめている。彼は唾を飲み込んで続けた。
「親父とお袋が亡くなって、俺、こいつを守れるようにならなきゃって思ったんです。前よりもずっと。でも今日、森で魔物に襲われて、何もできなくて。俺、守れなかったんです。ひとりじゃ何も出来なかった……。これからは、何でもひとりでできるようになりたいんです。俺の手でこいつを守れるように。俺が、こいつの夢を叶えてやりたいんです。だからロックウェルに行って、俺が働いてこいつが勉強する金を稼いで、生活していきたいんです。守ってくれる人がいると、強くなれないと思うから」
 沈黙が流れた。夫婦は俯いて考え込んでいるようだった。弟は彼と夫婦の顔を順番に見つめている。
 しばらくして、夫が口を開いた。
「ロックウェルには、お前の伯父さんの家があったな」
 夫は妻にそう言って、彼を見つめた。妻が顔を上げ、夫と同じく彼を見つめて答える。
「ええ。空き家になってたはずだから、連絡して貸してもらいましょう」
「私たちは君たちの親代わりだ。住む家くらいは手伝わせてくれ」
 そう言って優しく微笑む夫婦に、彼は涙を隠せなかった。これまでの申し訳なさと後悔、自責の念、そして感謝がいっときに押し寄せ、彼の涙を止まらなくした。
「ありがとう、おじさん、おばさん」
 涙を拭うこともできずにそう言う彼を、ふたりが抱き締めた。弟も夫の腕に巻かれていた。
「頑張って来なさい、カイン」
「世界で一番の技師になるのよ、フェリオ」
 暖かな食卓に、いつまでもカインの嗚咽と感謝の言葉があった。