その夢のために

 王都イリアス。世界の中心にして、イリアス王国の中枢。エリュス・イリアの政治と経済を司るすべての機関が集まる、まさしく世界の心臓。人口は100万を誇り、特権階級の貴族家や騎士家の多くがこの街に暮らす。
 栄華をきわめるこの地を踏むことを、フェリオは待望していた。
 ルーカス・オーバーヤードとレナ・オーバーヤード。分野は違えど、研究者として格別の地位にあった両親を、フェリオは誇りに思っていた。そしてその両親が師と仰いだ、シド・ユリシアス。彼のもとで蒸気機関の勉強が出来ることも。
 フェリオの胸には、ひとつの決意があった。それは自分の我がままのために、兄が己の全てを賭して協力すると言ってくれた時に生まれた、静かに、しかし力強く輝く光だった。
 竜王褒章。それがフェリオの、ひとまずの目標だった。科学研究者として最高の栄誉と呼ばれる褒章。シドは言った。俺の弟子ならそれくらいは取らねえとな。どこまで本気の言葉かはわからないとフェリオは思ったが、彼は決めたのだ。その言葉を、素直にそのまま受け取ることを。
 兄は、シドに師事することになった自分に向けて言った。俺がお前を支えてやる。だからこのおっさんに一人前と認められる蒸気機関技師になれ。そのためなら、俺は何でもしてやる。ふたりで死ぬ気で頑張って、親父とお袋と、おじさんとおばさんを喜ばせてやろう。
 フェリオは決意した。シドのもとで努力し、竜王褒章を取る。その受章の時まで、どれだけ優れた文献がそこにあろうと、どれだけ優れた研究者がそこにいようと、王都の地は踏むまいと。両親、おじ夫婦、シド、そして兄。自分を助けてくれるこのひとたちのところで、受章を目指すと。
 そして彼は今、王都イリアスにいる。
 王都の朝の空は高く、澄み切っていた。彼は静かに空を見上げ、胸に込み上げる万感の思いをかみ締める。青く高く、美しき空。太陽が祝福の光を照らし、雲が歌うように流れる。
 省庁街区と呼ばれる地区。広大な王都イリアスにあって、王城の周りを囲むように、帯状に広がる街区。国の機能を司る各省庁が集まる場所。そこに今、フェリオは立っていた。
 彼は足を踏み出した。竜王褒章受章の手続きのためである。
 受章式の手続きを行うのは、国政を司る国王府である。伝統的な石造りの重厚で美しい内観を誇るのが、国王府の建物だった。1歩足を進めるたびに、磨き込まれた石の床が硬質な音を立てる。制服に身を包んだ職員たちが、きびきびと忙しそうに立ち回っている。中は、どこかにボイラー室でもあるのだろう、蒸気機関を動力とした明かりが灯され、十分に明るい。
 向かうべき窓口はどこかと見回していると、職員の女性に声を掛けられた。
「こんにちは。ご用向きはどういった件ですか?」
 予期せぬ声に、フェリオはどきまぎした。彼は女性が少し苦手だった。
「あ、いや、あの」
「はい?」
 やや口ごもり、フェリオは下を向いた。斜め下へ視線を逸らす。ひとつ咳払いをして、彼は顔を上げた。親切そうな女性の顔があった。
「……竜王褒章受章式の手続きに来たんですが」
「えっ!?」
 女性職員は驚きの声を上げた。彼女は開いた口に手を当てたまま、きっかり5秒間、固まった。
「あの、どこへ行けば?」
 フェリオの声に、はっとして女性は動きを取り戻した。彼女は手を口に当てたままで、目を白黒させた。
「はい、あ、では、3階の政務官室へお越しください。こちらです」
「はい」
 フェリオの言葉は周囲にいた多くの職員たちの耳に止まり、ざわめきが起こった。彼の存在は国王府で噂になっていたらしい。弱冠18歳の若者が、科学者として最高の栄誉を獲得したと。報せが来てから、国王府ではその噂でもちきりだった。その当の本人が控えめな登場ながら現れたのだから、職員たちが仕事から手を離すのも無理からぬ話だった。
 女性職員について、フェリオは歩いた。彼は普段どおりに歩いているだけだったが、まわりでは職員から職員へどんどん話が伝わって、彼はさながら花道を歩くがごとき扱いを受けた。フェリオは顔を上げず、足元を見て歩いた。とてもまっすぐ前を向ける状況ではなかった。
 前を歩く女性職員は、なぜか誇らしげだった。自分がフェリオに声を掛けたことが自慢なのか、知り合いの職員とすれ違うたびに話し掛けてさりげなく自分の後ろにフェリオがいることを主張していた。フェリオはそんな女性の様子に、ますます前を向くことが出来なくなっていた。
 しばらく歩いて、フェリオはある部屋に到着した。女性職員はそこで立ち止まり、中へ入るよう促した。
「ここですか?」
「はい。こちらが政務官室になります。中で政務官の皆様が業務をしていらっしゃいますので、お声掛けください」
「わかりました」
 では私はこれで、と言い置いて女性職員は去っていった。どことなく名残惜しそうだった。そもそも何階のどこへ行けばいいのかだけを教えてくれればそれで良かったのだが、とフェリオは思っていた。なにしろ国王府内には丁寧でわかりやすい道案内の看板がいくつも出ている。
 扉をノックする。中からどうぞと声が返ってきた。
「失礼します」
 声を掛けて、フェリオは扉を押し開いた。
 中は厚い絨毯の敷き詰められた広い部屋だった。窓は小さく、明かりが煌々と灯されている。絨毯の上には6組の机と椅子が、規則正しく並べられていた。ひとつひとつがかなり幅と奥行きの大きな机で、それぞれに専用の燭台が置かれて手元が明るくなるようになっている。
 机のそれぞれにひとりずつ、合計6人の政務官が就いていた。皆、色は様々だが他の職員たちよりも豪華な、金糸銀糸の刺繍を施された制服の上に、こちらも高級そうなガウンを羽織っている。ここに来るまでに出会った職員たちは皆通常の革製らしき靴を履いていたが、政務官たちはブーツだった。
 服装に違いがあるのは当たり前か、とフェリオは思う。政務官とは国王に代わってこまごまとした政務上の事務処理を行う、貴族だからである。
 フェリオが扉を開くと、政務官たちは一斉に机から顔を上げてこちらを向いた。年齢は様々だが、皆端整な顔立ちをしている。
「やあ、君がフェリオか! 待っていたよ!」
 そう声を掛けながら机から離れ、近づいてきたのは若い政務官だった。6人の政務官の中で最も若く、フェリオとも年齢はさほど離れてはいないように見える。彼に続いて、何人かの政務官もこちらに近づいてきた。残る政務官たちは椅子に座ったままだが、仕事の手を止めて興味深げにこちらを眺めている。フェリオは居心地の悪さを感じた。
「はい、フェリオ・スピンフォワードです。竜王褒章受章式の手続きに来ました」
「ああ、今日来るって聞いてたから楽しみにしてたんだ。いやあ、本当に若いんだな! まだ18歳だって、本当かい?」
 若い政務官はそう言いながら、フェリオを自分の席へを促した。フェリオは政務官からの質問に短く答えながら、この気さくな雰囲気の貴族に親しみを抱き始めていた。
 エリュス・イリアにおいて、貴族は特別な立場にある。一般人とは生まれながらにして、その人生において担う役割が異なる。多くの貴族や騎士たちは、王国とその自治区の政治と経済、治安を司る何らかの職に就き、王国のために働くことになる。女性は結婚すると家庭に入ることが多いが、最近は仕事を続ける者も増えてきている。
 そのため、彼らの意識には王国民を大切にしなければという考え方が根付いている。貴族や騎士と言っても、一般庶民を見下した態度を取る者は少なかった。
 そのためか、フェリオは政務官たちの質問攻めに遭った。竜王褒章を受章するほどに蒸気機関の研究に打ち込んだ理由やこれまでの生い立ち、これから目指す目標など、多くはフェリオ個人に対しての興味から来る質問だった。
 最初に声を掛けてきた政務官はユーグ・フォン・ファビウスと名乗った。元々そういう性格なのだろう、ユーグはフェリオに馴れ馴れしく話したが、それは不快なものではなく、むしろ社交的で友好的な印象をフェリオに与えた。緊張もほぐれ、フェリオは向けられる質問に素直に答えた。
「君のお兄さんは立派なひとだなあ! 亡くなった両親の代わりに、弟をねえ……。うちの兄に見習わせたいもんだ」
「いえ、そんないいものじゃありませんよ。特に今はもう、なんと言うか」
 そうフェリオは言ったが、内心では兄を賞賛されたことへの嬉しさでいっぱいだった。それが顔に出ていたのか、
「そんなことを言って、顔が緩んでるぞ、フェリオ!」
 ユーグにそう指摘され、政務官たちに笑いが起きた。今や6人全員がフェリオの周りに集まっていた。誰もがフェリオを、そしてカインを讃えてくれた。まだ受章前だというのに、フェリオはこれだけひとから認められるのならば、褒章自体は受けなくてもいいとも思えるほどだった。
 受章式の手続きそのものは、簡潔な書類に目を通すことと署名捺印をすることだけで済んだ。ロックウェルから持参した身分証明書と、鉱物学学会長バーナード・アダムソンの署名入り竜王褒章受章者証明書を提出し、手続きは終了となった。
「これからも頑張りたまえ、フェリオ。世界を回って、より偉大な蒸気機関技師となれ!」
 ユーグたちはそう言って、フェリオを送り出した。フェリオは身体が熱くなるのを感じた。まっすぐな激励の言葉は、彼の心に火を灯した。彼は表情を変えず、声の抑揚も変えなかったが、頬が紅潮していることは分かった。確かに自分の中の情熱が燃え上がるのを感じた。
 手続きを終えて、フェリオは国王府を出た。政務官室まで案内をしてくれたあの女性職員をはじめとする職員たちが、出口のところでまた丁重に見送ってくれた。
 外に出ると、太陽は入る前よりも高い位置にあった。彼を祝福するかのごとき眩い光が目に飛び込んできて、フェリオは左手を翳して目を細めた。
 一瞬ホワイトアウトした視界が戻る。外に出た瞬間は無音に思えた王都は、やはり賑やかだった。省庁街区は仕事中の王都民や貴族、騎士たちが歩いていて、時折騎鳥車が行き交う。
 街には、まだ蒸気機関による設備が十分に広まってはいない。日々進化してはいるものの、蒸気機関そのものはまだまだ大きな機械であり、便利なその性能とは裏腹に、どこにでも設置して使えるようなものではなかった。
 フェリオは王都の光景を見て思う。今回彼が発見した新鉱石は、排熱装置の性能を飛躍的に向上させるだろう。そうなれば、蒸気機関を小型化する技術も進歩する。蒸気という動力をより人々の生活に活用し、いずれはその技術を応用して、長距離を簡単に移動出来る乗り物をつくる。蒸気機関技師なら誰でも夢見るそんな世界が、そう遠くない未来に実現するはずだ。今はまだ、飛空艇は王族や貴族たちが遠い大陸に移動する際に使うことが出来るだけのもので、庶民の生活に根ざしてはいない。だがそれも、その技術が生み出されればもっと人々の暮らしに浸透させることが出来る。
 彼の目には、いくつもの飛空艇が舞い踊る空が映っていた。
「……帰るか」
 呟いて、彼は“騎士の剣亭”へ向けて足を踏み出した。
 その足を数歩と進めないうちに、彼は気づいた。国王府を、入り口から少し離れた場所で、じっと見つめる者がいた。ハイナンの娘服を着た、サリナだった。
 サリナは国王府の建物を、少し顔を上へ向けて見つめていた。握った左手を胸に当てている。緊張しているような、張り詰めた表情。だがどこか、寂しそうでもあった。人々が行き交う雑踏の中、小柄な少女は頼りなげに見えた。
「サリナ」
 フェリオが声を掛けると、サリナは驚いたようだった。国王府を見ていたことを知られたくなかったのか、誤魔化すように左手をさっと下ろして後ろに隠した。そわそわしている。
「あ、あれ、フェリオ。どうしたのこんなとこで?」
「ん? いや、ちょっと手続きをさ。竜王褒章の」
 フェリオは彼女がここにいる理由を知っていた。以前、彼女は王都の役所で働くのが夢だと話していた。国王府などは、その中でも最も狭き門であり、王国の機関で働く公務員たちの中で最高の人材が集まる場所のひとつである。
 本来なら彼女は今頃、その夢に向かって試験のための勉強をしていたはずだった。セリオルからエルンストのことを告げられ、彼女の人生は一変した。夢を目指すための道は閉ざされ、彼女は過酷な試練の道を歩み始めた。
 フェリオは決めていた。彼の心は今、竜王褒章を受章することでの喜びでいっぱいだった。しかしその気持ちを、絶対に表には出すまい。彼は王都に入ってからも、それまでと変わらず淡々とした態度をとってきたつもりだった。国王府の中ではさすがに、感情のたがが外れかけた。だがこうしてサリナの前に立った今、彼は再び自分の感情をコントロールすることに努めた。 サリナがそんなことを責めないことはわかり切っていたが、彼は自分だけが浮かれることを良しとはしなかった。
「あ、そっかー!」
 サリナは驚いたように言った。彼女は目をぱちくりとさせてフェリオを見上げた。相変わらずまっすぐな光を宿した、澄んだ瞳だった。
「そっかあ、やっぱり手続きとかするんだねえ。どうだった? 緊張した?」
 なぜか興奮した様子のサリナに、フェリオは苦笑した。彼は自分より随分低いところにあるサリナの頭に、ぽんぽんと手を置いた。
「まあ、ただの手続きだよ。書類に名前を書いて、身分証明を出す。それだけさ」
 そう言って、彼はサリナを促すような仕草をしつつ歩き始めた。サリナは慌てて、くるりと身を翻してフェリオの隣に並んだ。ふたりは特に目的地を決めることなく歩き始めた。
「ねえねえ、良かったね、竜王褒章」
「うん?」
 なんとなく“騎士の剣亭”方面に向かう道中、サリナは何度もフェリオに話し掛けた。彼女はフェリオの受章を、自分のことのように喜んでいるようだった。
「夢だったんだよね、竜王褒章。すごいなあ」
「うん、まあ、そうだな」
 そっけない風を装って、フェリオは答えた。歯切れの悪い言葉に、サリナは不思議そうな顔をした。嬉しくないのかと誤解されないように、フェリオは言葉を足す。
「でも俺の目標は、先生に認めてもらうことだからな。まだまだ途中だよ」
「あ、そっか〜……。でもすごいね。シドさん、竜王褒章取ってもまだ認めてくれないんだ」
 フェリオはかぶりを振った。隣のサリナは首を傾げる。
「竜王褒章は、蒸気機関の技術開発で受章するんじゃない。蒸気機関の排熱技術に有用な鉱石を見つけただけだ。俺はまだ、蒸気機関の全体的な技術では未熟者なんだよ」
「そっか……。でも、それでもやっぱり、すごいよねえ竜王褒章」
 サリナは素直に賞賛してくれた。その屈託の無い笑顔に、フェリオはなぜか照れくささを感じた。思わず顔を背け、彼は話題を変えた。
「サリナ、君はどうして、王都で役人になりたいと思ったんだ?」
 言い終えた瞬間に、フェリオは後悔した。咄嗟に口から出てしまったが、この話はサリナにはするまいと彼は考えていたのだった。案の定、サリナは少し寂しそうな顔をした。謝ろうかと思ったフェリオだったが、謝られたところでサリナは困るだけだろうと思って、彼はサリナの言葉を待った。
 短い沈黙の後、サリナは口を開いた。
「――私ね、フェイロンでおじいちゃんとおばあちゃんに育ててもらったでしょ」
「ああ」
 サリナの口調は明るくはなかったが、決して暗くもなかった。思い出を語るかのような、穏やかで静かな声だった。
「おじいちゃんとおばあちゃんは、私を育てるためにたくさん働いてくれたんだ。ほんとは、もうお仕事やめて悠々自適に暮らせるのに」
「うん」
「だから私、恩返しがしたくて。フェイロンで働くより、王都で働いたほうがきっとたくさんお金、もらえるだろうなって思って。役人――公務員だったら、収入も安定すると思うし」
「――なるほど」
 どこまでも優しい娘だった。フェリオはサリナの、祖父と祖母、家族への愛を改めて知った。それだけに、祖父や祖母のためにと考えた王都での夢と、父を助け出すことが両立出来ないことを悔しく思っているだろうと、彼はサリナの苦しさをおもんばかった。
「私、何の取り得も才能も無いから。一生懸命勉強して、試験に合格出来れば何とかなるかなあって。勉強も大変だから、大変なんだけど」
 そう言って、サリナは少しだけ悲しそうに笑った。
 そんな話をしながら歩いているうちに、ふたりは王城から西に伸びる大通り、紅虎通りに出ていた。西の街門のほうから、野外訓練でも終えたのか、騎士団の1隊が王城に向けて歩いてくる。王国の剣、国民の盾。内乱が終わって以来大きな紛争は無く、騎士団が活躍する機会は減っているが、騎士たちは鍛錬を怠らない。王国を守護する気高く堅固な剣と盾が、ふたりとすれ違った。フェリオは立ち止まった。
「サリナ」
 彼は少女の名を呼んだ。サリナは数歩先へ歩いたところで、後ろから掛かった声に振り返った。服の裾がふわりと広がる。
「ん? なあに?」
 微笑む少女に、フェリオは長い瞬きをした。開いた両目に、力がこもる。
「ハイナンの野盗の砦で、俺は君に助けられた。君がいなかったら、俺はあの時、命を落としていたかもしれない。そうでなくても大怪我をしていたかもしれない。そうなってたら、今日こうして受章の手続きも出来なかった。いや、そもそも学会に出席出来ずに、受章自体が無かったかもしれない」
「え……?」
 サリナは目をぱちくりさせた。構わず、フェリオは続けた。
「だから今度は、俺が君を助けるよ。ゼノアを止めて、エルンスト教授を解放しよう。この闘いを早く終わらせよう。それで君は、登用試験を目指すんだ。1日でも早く、君の夢を叶えるために」
 束ねたフェリオの髪が、そよ風に揺れる。少年の瞳は、揺らぐことなく少女を見つめていた。心に届く、真摯な感情。サリナはロックウェルに到着した時のフェリオを想起した。あの時もフェリオは、彼女に静かで温かく、知性に満ちたその瞳を、まっすぐに向けていた。
 サリナは満面の笑みを浮かべた。嬉しそうに微笑む彼女の目尻に、涙の煌きがあった。フェリオはそれに大いに焦り、戸惑うのだった。