ホット・スプリング・ファントム

 ハイナン島の漁村、ユンラン。潮の香りと魚介の恵みに祝福されるこの村の、“海原の鯨亭”は名物宿である。漁師たちが支えるこの村の、鯨亭マスターは顔役だった。彼の宿はいわゆる漁師料理を供することで有名で、中でも“漁師の腕っぷしスープ”や“海の恵みまるごと定食”などの風変わりなメニューが人気だった。
 また、“海原の鯨亭”はその入浴設備においても人気が高く、大陸からわざわざここの浴場で疲れを癒すために訪れる観光客もいるほどだった。
「ふわああああ……」
 サリナ・ハートメイヤーは露天風呂を使っていた。自警団が警戒していた野盗たちを制圧したばかりで、村人たちからの歓待を受けた後、早めの昼食を――野盗退治の褒美と、マスターが豪勢な料理をご馳走してくれた――サリナたちはとった。その時点で、サリナは疲労感が全身から溢れ出していた。待望の入浴時間だった。
 “海原の鯨亭”の浴場は2階に設けられていた。ただ、浴場は大量の水を溜めるため、客室と同じように2階の床を使って造ることは出来ない。それなのに2階に浴場があるのは、この宿の立地がそれを可能にしていたからだった。
 ユンランは海に面した漁村だが、村の中には小高い丘のような岩山があった。そこには海の神、幻獣リヴァイアサンを祀る社があり、漁師たちは漁において重要な時期には必ずそこを訪れて願を掛けるのだった。
 その丘からは、良質な白濁の温泉が湧き出していた。“海原の鯨亭”は岩山の麓、ちょうど社の裏手にあたる、崖下と呼んで差し支えないような場所にあった。それほど高い山ではなく、ほとんど一枚岩のようなつくりの巨大な岩石とも言える山であるため、落石等の心配は無かった。
 “海原の鯨亭”の2階からは、湧き出す温泉を引き、岩山を削って造られた屋内の浴場と、露天風呂とに出ることが出来た。男湯と女湯、いずれも石造りの広々とした浴槽に、満々と天然の湯が張られていた。
 燦々と降り注ぐ陽光の下、サリナは肩まで湯に浸かって幸福だった。温泉は乳白色だったが、両手で掬い取ってみたら透明に近いように見えた。サリナはその手を両頬にぺちぺちとくっつけた。温泉が肌に染み込んでいく気がした。
 顔から手を離して湯の中に入れる。腕を動かすと小さな波が立った。乳白の水面には薄紅色の花が浮かんでいる。温泉の周りに繁茂する植物の花だった。手のひらほどの大きさのその花はいくつも浮かんでいて、可愛らしくも美しい世界を作り出していた。サリナはこれがマスターの趣味だったらと想像して、少し笑った。
 サリナは湯船の縁に頭を載せて空を見上げた。青い空を雲が渡る。小さな鳥が飛んでいる。温泉の周囲には竹が茂っていた。岩山の側も掘削された上で土が入れられたようで、マスターの趣味なのだろう、竹薮のような景色がつくられていた。
「気持ちいいなあ」
 温かな湯に浸かっていると、身体の芯から温まるようだった。野盗との戦闘や徹夜の行軍の疲れがどっと出ている。しかしこうしていると、その疲れが乳白色の湯に溶け出していくように思えた。身体中から疲れという疲れが流れ出していく。
「ふう……」
 サリナは目を閉じた。温泉のぬくもりに反して、頭を載せた石から伝わるひんやりした感覚が心地良い。まるで空に浮かんでいるかのような錯覚に陥る。
 彼女は瞬間、眠りに落ちた。湯の中で揺れながら、ごく浅い眠りに。
 紫紺の鎧を纏った男が、雷の力を自在に操っている。彼が何事か叫ぶと、頭上で紫紺の光が膨れ上がり、男の鎧からクリスタルが分離して光の中に浮かんだ。クリスタルは次第に形を変え、落雷のように折れ曲がった角を持つ、神秘的な光を放つ馬のような生物となった。
 馬がひと声嘶いた。雷のような角から、恐るべき威力を感じさせる紫電が迸った。雷は次第に束となり、巨大な槌の形をとって大地に叩きつけられた。不思議と音は聞こえなかった。轟音が響き渡ったはずだと、サリナは思った。そう考えた瞬間、視界がホワイトアウトした。
 純白の光の中、小さな炎が生まれた。炎は揺らめきつつ大きくなっていった。やがてある一定の形に、炎はその姿を収斂していった。炎がとったのは、大型犬ほどの大きさのドラゴンの姿だった。
 ドラゴンは真紅の身体にエメラルドの瞳を持っていた。その美しい瞳が、まっすぐにサリナを見つめている。ドラゴンの口が開いた。サリナに何か語りかけているようだったが、彼女にはその声は聞こえなかった。
 やがて、ドラゴンは彼女に背を向けた。その姿はどことなく寂しげに見えた。ドラゴンが光の中を歩いて行く。彼女から少しずつ離れていく。その姿は、突如ひとりの女性に変じた。
 サリナから見えたのは、美しい栗色の長い髪だった。その女性は顔の半分でこちらを振り返ったが、表情までを窺い知ることは出来なかった。サリナは無意識に手を伸ばしていた。女性が涙を流したように見えたからだった。しかしいくら手を伸ばし、女性に近づこうとしても、その距離は全く縮まらなかった。むしろ遠ざかっていくようにさえ思えた。
 そうして女性の姿は小さくなり、ほとんど消えかけた。だが彼女は、元の炎に戻っただけだった。小さな炎はまたしても姿を変えた。現れたのは、巨大な炎の鳥だった。真紅の翼、曲線を描く優美な嘴、七色の尾羽。神々しき光を放つ、艶やかな巨鳥。
 ばさりと羽ばたき、炎の鳥は飛び立った。高く飛翔し、鳥は歌うように啼く。そしてその鳥は、サリナに向かって急降下を始めた。ぶつかる――そう思った瞬間、サリナは目を覚ました。
「ふあ」
 しばらく、彼女は空を見上げていた。相変わらず空は青く、雲は白い。世界は先ほどから何も変わっていなかった。温泉はほっこりと穏やかで、薄紅の花は可憐だった。鳥の声が聞こえる。

 すっかりのぼせてしまったサリナは、部屋でマスターお手製の冷たい飲み物を堪能した。浴場のすぐそばにあるカウンターで購入出来た。とはいっても料金は宿泊料と同時清算である。財布を部屋に置いていたサリナは、そう聞いて安心した。ミルクとコーヒーと砂糖と蜂蜜を絶妙に配合したその飲み物は、飲むのを我慢せずにはいられない代物だった。
 彼女は自分の部屋に戻った。不思議と、セリオルやカインたちにも、宿の従業員にも出会わなかった。
 壁際に設置されているマナドライヤーで髪を乾かした。マナドライヤーとは火と風のマナを宿した鉱石を使った道具で、小型でありながら強い温風を吹き出して髪を乾かすことができるものである。高級品のため、一般家庭にはあまり普及していない。マナを扱う技術は貴重なのだ。一般家庭で比較的普及しているのは、蒸気機関を使った大型のドライヤーである。蒸気機関は乱用できないマナと似た効果をもたらす技術として、人々から期待を集めていた。
「フェリオさん、すごいなあ」
 そんなことを考えながら、サリナは独り呟いた。湯上り、彼女の髪は想定不能な撥ね方をする。彼女はいつも、その撥ねを直すのに苦労した。
 髪が乾いて、彼女はベッドに腰掛けた。そのままぱたりと仰向けになる。温泉で流れ切らなかった疲れが、今度はベッドに流れ出していくようだった。
 その時、ぼう、と熱気が起こったのをサリナは感じた。重い身体をなんとか起こす。部屋の隅に置いた荷物から、赤い光が漏れ出している。
「あっ」
 ぱたぱたと足音を立てて、サリナは荷物を解いた。箱の蓋が開いていた。セリオルから受け取ったリストレインの箱である。その中には、父が研究していたという真紅の篭手が収められている。不思議な光沢を放つ紅の篭手は、燃え盛る炎のような熱気と光を発していた。
 サリナは誰も呼ばなかった。いつも異常なことが起こるとセリオルに頼る彼女だが、今はその時ではないと感じていた。これは危険な状況ではないと、直感が告げていた。
 赤い光の中に、小さなドラゴンの影があった。サリナはその前にしゃがみこんだ。ドラゴンの影はこちらを向いている。フェイロンを旅立つ前の日、同じことが起こった。あの時も彼女がひとりで部屋にいた。
 サリナはじっと、ドラゴンと向き合った。エメラルドの小さな瞳が光る。
 部屋は静かだった。サリナは無言でドラゴンと見つめ合った。ドラゴンは彼女に何か伝えたがっているように見えた。彼女はその声が聞こえるようにと、意識の全てをドラゴンに集めた。
 なに? なにを伝えたいの――?
 しかしドラゴンは最後まで何も言わなかった。やがて諦めたように、ドラゴンは下を向いた。その次の瞬間、炎のような光は消え、ドラゴンの影も消え去った。
 サリナは思わず手を伸ばした。ドラゴンからのメッセージを受け取りたかった。それは父からの伝言のように思えたからだった。父の想いが、情熱が詰まったリストレインとクリスタル。その化身からの言葉を、彼女は期待した。
「あ……」
 少し落胆して、サリナは伸ばした手を引っ込めた。リストレインはひんやりした光を放っていた。
 サリナはベッドに戻った。仰向けに倒れる。ドラゴンの件は残念だったが、彼女は疲れが抜けていく幸福感に包まれた。まだ陽は高い。部屋も暖かだった。サリナは瞳を閉じた。やがて優しい眠りが訪れた。

 目が覚めると、既に陽は暮れていた。窓からは夜空が顔を覗かせていた。サリナはがばと飛び起きた。
「ね、寝すぎた!」
 寝癖も気にせず、サリナは素早く着替えて部屋を飛び出した。セリオルの部屋をノックする。しかし返事は無かった。カインとフェリオの部屋もノックしたが、同様だった。仕方なく、彼女は階下へ向かった。マスターなら皆の行方を知っているかもしれない。
 理由はわからないが、食堂ホールにも人の姿が無かった。マスターだけでなく、いつもは忙しく立ち回っている従業員たちの姿も無かった。
「あれ……」
 がらんとしたホールに、サリナの声は心細げに響いた。
 本当に誰もいない。こんなことがあるのかと、彼女は不安になった。彼女は“海原の鯨亭”内を隈なく捜した。しかし人影は無かった。心臓の打つ音が大きくなる。胸がざわつく。漠然とした不安がのしかかり、サリナは嫌な汗をかいた。
 軽いパニックが彼女を襲った。非現実感が現実の重みで存在していた。粟立つ肌をさすりながら、彼女は外に出ようと宿の出口へ向かった。ところが扉には鍵が掛かっているらしく、押しても引いても開かない。当然、引き戸ではない。
「なんで、なんでなの?」
 震える声の彼女に、答える者はいなかった。サリナは身を翻し、階段を駆け上がった。頭が混乱していた。
 階段を上り切った、その時だった。かすかにひとの声が聞こえた。声の聞こえる方へ、サリナは足を向けた。逸る気持ちに、足がもつれる。
 廊下を走ると、声は少しずつ大きくなっていった。そしてある場所に着いた時、彼女は卒然として立ち止まった。
 そこは温泉に続く廊下の入り口だった。

 信じがたいことに、露天の温泉で宴が開かれていた。女湯では身体にタオルを巻いた状態で、村の女性たちが飲めや歌えやの大宴会を催していた。隣から聞こえてくる声から察するに、男湯でもどんちゃん騒ぎが起こっているようだった。
「え……」
 温泉の戸を開いたまま、サリナは口を開いて固まった。俄かには信じられなかった。村中の女たちが集まっているのではないかと思える人数だった。
「あ、サリナちゃん!」
 村の女がサリナを見止め、名を呼んだ。女たちがサリナに注目した。野盗の一件で、彼女は村で有名になっていた。女たちはいずれもその手に湯のみを持ち、恐らく酒、子どもは果実のジュースでも入っているのだろう、それを軽く掲げてサリナを迎えた。男湯のほうでカインの声が聞こえた。
「1番、カイン・スピンフォワード、泳ぎます!」
 続いてどやどやと笑い声が起こった。それを聞いた女たちも笑った。サリナはびくりとして男湯のほうを見た。どうやっても口が閉じなかった。
「あの、これは……? 何かのお祝いですか?」
 石造りの湯船、乳白色の温泉、そこに浮かぶ可憐な花、竹薮、舞い落ちる葉。そこに集う女たち。彼女らはいずれも温泉と酒とでほんのりと肌に赤みを帯び、また楽しそうに微笑んでいた。その美しくも幻想的な光景に、サリナはまだ現実感を持てなかった。
「やだぁサリナちゃん、サリナちゃんたちが盗賊をやっつけてくれたお祝いでしょ?」
 当然のようにそう言って笑う女に、サリナはまたしてもぽかんとした。なぜなら、サリナはこの宴に誘われずに寝ていたからだ。
「ごめんなさいね、サリナちゃんがよく寝てるってセリオルさんたちが言うもんだから、皆で勝手に始めちゃって」
「あ、いえいえ、あのその」
 話についていけずにもごもごしている間に、サリナはタオル姿になっていた。髪もきっちりとタオルで纏められていた。気づいたら、彼女は温泉の湯船の中で酒を勧められていた。
「おーい! サリナちゃんが来たよー!」
 タオルを巻いた小さな女の子が、男湯のほうへ向けて叫んだ。男湯のどんちゃん騒ぎが瞬間的に静まり、次の瞬間サリナの名を呼ぶ大唱和が聞こえた。
「サリナー! 楽しんでるかー!」
 カインの声だった。サリナは湯船で大きく腕を振るカインを想像した。想像の中のカインは、頭に手ぬぐいを載せていた。
「は、はいー!」
 サリナは肩まで湯船に浸かった状態で答えた。その声に男たちのどやどやが更に盛り上がった。
「セリオルとフェリオがはっちゃけねえんだ! 何とか言ってやってくれー!」
「うっ……」
 難しいことを言う。サリナが困っているのを、村の女たちはにやにやしながら見ている。良い酒の肴のようだった。子どもたちがサリナに群がってくる。サリナちゃんサリナちゃんと可愛いが、サリナ本人はまだ収まらない混乱とカインからの難題で目が回りそうだった。
「せ、せ、セリオルさん、フェリオさん! 泳いでー!」
 必死で叫んだサリナの声に、男湯からは大笑いが生まれた。サリナは温泉のためでも酒のためでもない赤面を隠そうと、鼻まで湯の中に入ってぶくぶくとやった。
「あっははは! サリナちゃん可愛いねえ!」
 サリナと同い年くらいの少女がそう言って笑った。彼女は湯に沈みつつあるサリナに、水面に浮かべた飲茶を載せた盆を勧めた。口を湯の上に出して、サリナはひとつつまんだ。小さな桃のように可愛らしい飲茶は、中の餡が甘辛くてとても美味しかった。
 そうして露天風呂での宴の夜は更けていった。

 ふと、サリナは両目を開いた。部屋の窓から太陽の光が差し込んでいる。サリナは身体を起こし、光に手を翳して目を細めた。朝の、淡く美しい光――にしては、ちょっと強い。
「あ、れ……?」
 これは昼前の光である。それに気づき、サリナは慌てて飛び起きた。昨夜、ベッドに入った記憶が無い。最後の記憶は、盆の上の可愛らしい飲茶が盆ごとくるくると回るのを、湯船に浸かって間近で見つめている映像だった。それにしても現実感が無い。いつの間に私は寝て、いつの間に朝になったんだろう?
 もしかして夢だったのかと思案していると、あの露天温泉での宴だけでなく、その前のいつまでが現実でいつからが夢だったのかがわからなくなってくる。今、部屋の外からはがやがやと賑やかな声が漏れ伝わってきていた。いくらなんでも、昨夜のあの静けさは無かったのではないか。その前の入浴はどうだっただろう。あのドラゴンと髪の長い女性と巨大な鳥の夢は、あれは間違い無く夢だっただろう。しかしその夢から覚めてから再び眠りに落ちるまでのあの短い時間は? その後の宴は? いったい、野盗の砦から帰ってから、今はどれだけの時間が経った、今なんだろう。
 それとも、今もまだ夢の中なのか?
「サリナ、起きましたか?」
 記憶の靄の中をさまよい始めたサリナを、セリオルの声が引き戻した。優しく、凛として響くセリオルの声。そうだ、とサリナは思い直した。何にしても、セリオルさんに聞けば全部わかる。
「はい、起きてます!」
 元気良く答えたサリナの声に、セリオルが扉を開いて入って来た。背の高い、セリオルの姿。いつでも彼女を支え、守ってくれる、頼もしい存在。サリナは微笑んだ。
「セリオルさん、私、なんだか不思議な夢を見た気がするの」