手紙

 白い絨毯と白い壁で囲まれ、白い布で装飾された部屋の中央で、少年と少女が目を閉じて立っている。ふたりは脚を肩幅まで開いて直立している。ふたりから3メートルほど離れた位置で老人がひとり、じっと彼らを見据えて対峙していた。
 フェイロン村、白の修法塾。そう呼ばれる場所に彼らはいる。
 精神を集中させたふたりを淡い光が覆い、彼らの周りにいくつかの白い幾何学的な紋様が浮かび上がる。それらが回転して円形の陣となった。
 目を開き、ふたりが声を合わせて唱える。
「天空の守りの盾を授からん――プロテス!」
 陣が一瞬開いたかと思うと収束し、ふたりの身に溶け込んだ。その直後、ふたりの身体を白い光が覆った――かに思えたが、成功したのは少年のほうだけだった。
「あれ〜? なんで出来ないの?」
 少女が唇を尖らせて不満そうに言った。成功した少年のほうは、まだ幼く小さい少女に目線の高さを合わせるため、しゃがみ込んた。彼は少女の頭を撫でながら、教えてあげた。
「エルナ、ちゃんと呪文の意味を覚えないとだめだよ。難しい言葉でも、それをわかってないと、マナは魔法にならないんだよ。それに、マナももっと丁寧に練らないと……」
「だって難しいんだもん!」
 ふたりのそんなやりとりを見て、ダリウは微笑んだ。テオ・ラントとエルナ・ラント。このフェイロンに住む兄妹である。ふたりの年齢は、16歳と8歳。テオはすっかりむくれてしまった妹を前に、頭を掻いて困っている。
「よし、じゃあ今日はここまでじゃな!」
 声をかけ、ダリウは兄妹に近づいた。テオが立ち上がり、困ったような顔のままで彼に向かって頭を下げる。
「すみません、先生。エルナが上手く出来なくて」
「エルナは悪くないもん! 魔法が難しいのがいけないんだよ!」
 すっかりご機嫌ななめになってしまった妹を前に、テオは為す術が無いようだった。大きな声で叱って泣き出されても、先生に迷惑がかかってしまう。彼は頭を掻き、困った顔でダリウに向かって再び頭を下げた。
「はっはっは! 構わん構わん。そもそも8歳で白魔法を扱おうというのがなかなか難しい話なんじゃ。ゆっくりと進めていけばいいんじゃよ」
 愉快そうに笑うダリウに、テオは感謝の言葉を述べた。しかし同時に、彼の胸には小さなしこりのようなものが生まれる。
「でも、サリナは8歳の頃には防御の魔法を使えたんですよね?」
 それは言葉となってダリウに向けられた。エルナも興味深げな顔で彼を見ている。自分の孫娘を引き合いに出してきた少年に、ダリウは少し驚いたような顔をして、鼻の頭を人差し指の腹でこすった。
「うむ……まあのう。けどあの子は特別じゃよ。ひいきで言うわけじゃないが、あの子ほど白魔法の才能を持った子は見たことが無い。それにわしのそばでずっと育ったんじゃからな」
「そうですか……」
 テオはやや落胆した様子だった。ダリウの言葉を、自分たちにはそこまでの才能が無いという意味で受け取ったようだった。小さく息を吐いて、ダリウは言葉を続ける。
「でものう、テオ。才能は努力しなければ開花せんのじゃよ。サリナもなかなか真剣には取り組まなんだから、初級の修得には時間がかかった。あの子が真剣になったのは、役人登用試験を目指すと決めてからじゃよ。要は気持ちじゃよ、気持ち」
 ダリウの言葉に嘘は無かった。しかしそれでも、テオの顔は晴れない。知らないうちに、この少年はサリナに対して、嫉妬にも似た感情を抱いていたのだ。
 ダリウはテオとエルナが入門してきた日のことを思い返した。
 ちょうど1年前だ。修法塾の扉がノックされた。すぐに応対したのは、修行していたサリナだった。テオはサリナのことをよく知っていた。サリナは有名だった。
 フェイロン村には初等と中等の学校が存在する。サリナとテオは、当時中等学校の生徒だった。サリナは最高学年で、テオはその2学年下。サリナは普段はのんびりしているくせに、学科の試験や運動科目で図抜けた成績をたたき出していた。運動競技の大会でサリナの出番となると、生徒たちも保護者たちも盛り上がった。本人はそれを全く鼻にかけず、自分が注目されていることも自覚していなかったようだが、彼女は学校の多くの生徒の憧れだった。
 そのサリナが、修法塾のドアを開いていきなり現われた。テオは驚いた。彼はサリナの祖父が、修法塾の経営者だとは知らなかった。
 用件を尋ねられて、テオは妹と一緒に、白魔法を学びたいと伝えた。サリナは、それは嬉しそうに微笑み、すぐに奥へダリウを呼びに行った。何の屈託も無い、純粋な笑顔だった。ダリウの生徒が増えることを、彼女は心から喜んでいた。
 ダリウの前に来たテオは、真剣な面持ちで彼に頼み込んだ。白魔法を教えてほしい。自分は幼くして父を亡くし、母に女手ひとつで育ててもらった。働けるようになったら恩返しがしたい。しかし自分も、父から受け継いだ性質なのか、身体があまり強くない。だから王都の役人登用試験を目指したい、と。
 それをダリウの隣で聞いていたサリナは、またしても嬉しそうな顔をして喜んだ。そして彼女は言った。自分も同じだ、役人登用試験を目指しているのだ、と。一緒に頑張ろうね、と。
 その日、ダリウはテオとエルナに、サリナの白魔法修行を見学させた。サリナは気恥ずかしそうにしながら、覚えたての守護の魔法と幻影の魔法を披露した。新しいふたりの生徒は歓声を上げた。エルナはその瞬間、サリナに憧れを抱いたようだった。
 しかしすぐに、テオは自分とサリナの違いを思い知ることになった。たった2歳しか違わないサリナがこともなげに披露した魔法を、テオはいまだに修得出来ていない。
 ダリウは、目の前で肩を落とすテオが、サリナに対してコンプレックスを抱いているのだと感じた。それが彼の、白魔法修得におけるもうひとつの動機になっているようだった。
「テオ」
 ダリウの声に、テオは顔を上げた。ダリウは優しい表情で、彼を見つめていた。
「サリナのようになりたいか?」
 テオはダリウから目を逸らした。サリナの姿が脳裏に浮かぶ。両手に少し力を込め、握る。僅かに伸びた爪の感触。その感触を味わいながら、テオは顔を上げた。
「いえ。僕は、サリナを超えたいんです」
 力強いその言葉に、ダリウは大きく頷いた。テオのかたわらで、エルナが兄の顔を見上げている。
「わかった。じゃあ努力しかないなあ、テオ」
 なぜだか愉快そうなダリウに、テオは戸惑いながらも首を縦に振った。それに再び頷き、ダリウは続ける。
「サリナはこの村を旅立って、きっとますます力を伸ばしとるぞ。それを超えるとなると、並大抵の努力じゃ難しかろうのう」
 そう言って顎を撫でるダリウを、テオは強い意志の篭った目で見つめる。それを視界の端で捉えつつ、ダリウはわざと気づかないふりをした。テオが息を吸い込むのがわかる。弟子がひとつの答えを出そうとしている。ダリウは、それを待った。そして――
「やります。先生、僕はサリナを超える白魔導師になりたいんです。一生懸命やりますから、教えてください!」
「教えてくださいっ」
 深く頭を下げた兄の真似を、エルナはしていた。そんなふたりを、ダリウは微笑んで見つめた。8歳離れた兄妹。まるで、昔のあのふたりを見ているようだ……。
「――わかった」
 師の声に、テオは顔を上げた。ダリウは腕を組み、嬉しそうな顔で彼を見ていた。
「じゃ、明日からスパルタでいくからそのつもりでおれよ!」
「はい!」
 快活な声で答えるテオに、ダリウは大きく頷いた。

 ダリウの修法塾は、村でも評判である。それはダリウの優れた技術と指導力もさることながら、指導後にダリウの妻、エレノアの手作りのお菓子とお茶を楽しめるのも大きな理由のひとつだった。
 テオとエルナは、ついさっきその楽しみを終えて帰宅した。エルナはいつも名残惜しそうに帰っていく。エレノアはそれを見ると、ついお菓子をもっとあげたくなってしまうが、度が過ぎた甘いものは身体に良くない。いつも彼女は、エルナの頭を撫でて見送ってやる。すると次に来た時、エルナは満面の笑みで彼女のお菓子を食べてくれるのだ。
「ほんと、昔のサリナとセリオルみたいね」
 夫の湯のみにお茶を注ぎ足しつつ、エレノアは嬉しそうに言った。ダリウが頷く。
「サリナはエルナほど活発ではなかったがのう」
「ええ。でも、よく似てるわ。元気で、素直で、まっすぐで」
「はっはっは。そうじゃな」
 お茶をすすって、ダリウは妻の顔を見た。
 近頃、エレノアは元気を失っている。理由は明白だった。サリナのことが心配なのだ。
 サリナがセリオルと共に旅立って、しばらく経つ。便りは無かった。毎日を必死で生きているのだろうから、無理は無い。便りの無いのは良い便りと言うが、エレノアはどうしても悪いほうに想像してしまうのだ。
 例えばサリナたちは、いつも街や村にいるわけではないだろう。時には草原を走り、また大河を渡ることもあろう。新たな幻獣の力を得るため、洞窟や岩山などに赴くこともあるかもしれない。
 しかも、王都でなんらかの大きな異変があったとの知らせもある。詳しいことはわからなかったが、その知らせを聞いた時、彼女は心臓が止まる思いをした。
 王都の異変に、サリナとセリオルが関わっているのは間違い無いように、彼女には思えた。それについてはダリウも同感だった。エルンストは王都にいる。サリナとセリオルが旅立ってから、王都での異変までの期間も、ちょうどぴったりと合うように思われた。
 心配なのはダリウも同じだった。しかし彼は、妻ほど悲観的ではなかった。サリナを旅立たせた時、孫娘に大きな危険が降りかかるかもしれないことは覚悟していた。だからというわけではないが、彼はどこかでサリナが無事であると確信していた。王都の異変にサリナたちが関わっているのだとすれば、少なくともその時、サリナたちは無事だったのだ。
「そういえば、テオがな」
 妻を元気づけようと、ダリウは口を開いた。何の話かと、エレノアは顔を上げて夫を見た。夫はにやりとした笑い顔を作り、なんだか嬉しそうだ。
「サリナを超えたいんじゃと。白魔導師として、サリナを」
「あら、どうして?」
 驚いた様子の妻に、ダリウはお茶をひと口飲んで話を続ける。
「理由についてははっきりと聞いてはおらんが、たぶんありゃあ、サリナにコンプレックスを抱いとるな」
「コンプレックス?」
 不思議そうなエレノアに、ダリウはお茶をもうひと口飲んで頷く。エレノアが席を立ち、お茶のポットを持って戻って来た。妻が椅子に腰を下ろすのを待って、ダリウは続ける。
「前にテオから聞いたんじゃが、サリナは普段から学校で結構目立ってたんじゃそうじゃよ。わしは運動会の時しか知らんかったがのう」
「まあ、私もよ。サリナ、そんなに目立ってたの?」
 目を丸くするエレノアに、ダリウは悪戯っぽい表情で頷く。
「まあ目立っとったというより、あれじゃろうな。あの子は自分の優れたところを自慢せんから、周りが勝手にもてはやしたんじゃろ。すくなくともテオにとって、サリナは憧れの存在だったそうじゃ」
「そうだったの。あの子、そんなことちっとも言わなかったわね。それがサリナらしいけれど」
「まったくじゃな」
 呵々と笑って、ダリウは湯のみをテーブルに置いた。
「それで、テオはどうしてサリナにコンプレックスを?」
「うん。たぶん、憧れだったサリナが意外と近いとこにいるのを知って、身近な存在だと思ったんじゃろうな。ところが白魔法をいざ始めてみると、サリナが容易くこなしたことがなかなか出来ない。一旦近いと感じた距離がやっぱり遠かったことが、悔しいんじゃろ」
「なるほど……」
 言葉を切って、エレノアは口に手を当てた。声の調子とは裏腹に、その顔には微笑が浮かんでいる。それを見て、ダリウはにやりとしてこう続けた。
「わしはな、エレノア。嬉しく思う。手塩にかけて育てたサリナが、誰かの目標になっとることがのう」
 エレノアはダリウのほうを向いて、にこりと微笑んだ。心から嬉しそうな微笑だった。
「ええ、私もよ。あの子、すごいわね。さすがは私たちの孫っていうところかしら」
「はっはっは。そうじゃな」
 エレノアの表情が明るくなったのを、ダリウは嬉しく思った。エレノアは席を立ち、夕食の支度をすると言って、お菓子の皿と湯のみを片付けた。
 夕食はエレノアの得意料理だった。ユンランから仕入れられた新鮮な海老と、村の畑で採れた色鮮やかな野菜の炒め物。そして生姜を効かせた具材を詰めた蒸かし饅頭。薄い味付けのスープ。サリナも大好きだったメニューを、ふたりはその日のことを話しながらゆっくりと食べた。
 食事が終わりに差し掛かり、ゆっくりとお茶を飲んでいた、その時だった。玄関の扉がノックされた。エレノアが返事をするより早く、扉の向こうから声が聞こえた。
「ハートメイヤーさーん。お便りが来てますよー」

 その手紙には可愛い孫娘の字で、この村を旅立ってからのことがしたためられていた。エレノアは読み進める間、孫に危険が迫った箇所にくるたびに小さな悲鳴を上げた。しかしダリウ自身は、何も心配しなかった。こんな手紙を書けるのだから、今現在の孫娘が、大怪我等を負っていることは考えにくかった。
 いずれにせよ、ふたりは孫娘からの手紙を読み終えた。温かいハーブティを淹れた湯のみをテーブルに置く。小さな杏仁豆腐を口に放り込んで、ダリウは手紙を湯のみの隣に置いた。
「良かったわ、サリナが無事で」
 エレノアがほっと息をついて椅子の背に身体を預けるのを待って、ダリウは豆腐を飲み込んだ。エレノアお手製の杏仁豆腐はほのかに甘く、また爽やかなクコの実の香る、上品な味だった。
「そうじゃな。しかしセリオルがついとるから安心しとったが、敵はわしらの想像以上にヤバいやつのようじゃ」
「そうね……」
 再び、エレノアはサリナからの手紙を手に取った。決して上等な紙ではない。漉きの粗い、庶民用の紙だ。サリナがこの手紙を書いたのは、クロフィールという街だという。王都より遠くへは行ったことのないエレノアは、そこがどんな街なのか知らない。
 だが、手紙から伝わってくる街の情景は、それは美しく、マナの恵みと自然の活力に溢れたものだった。そこで起こった出来事、出会った人々がサリナにどのような影響を及ぼしたのか、それがサリナをいかに成長させたのかを、エレノアは想像した。
 手紙からは、サリナの活き活きした様子が伝わってきた。王都で大きな戦いがあった後、サリナは仲間たちに支えられ、ひとつ成長したようだった。
 しかし同時に、手紙には不安な思いも綴られていた。幻獣たちの力を全て使っても、手も足も出なかった相手。これからどうすればいいのか。マナを引き出して力を増したとはいえ、それだけで勝てるほど生易しい相手ではない。ゼノアを止められるのか。エルンストを救い出せるのか。自信が無いと。
「あの子、マキナに行くのね」
 両手で湯のみを包むように持って温めながら、エレノアがぽつりと言った。不安そうな響きがあった。
 これからサリナたちは、マキナ島へ向かうらしい。マキナと言えば、およそ半年前に大枯渇があった島だ。まだその爪痕は深く、復興を遂げたとはとても言えない状況のはずである。マナも不安定だろう。
「まあ、そう案ずることもなかろ」
 口元に少し笑みを作って、ダリウは答えた。それはサリナからの手紙に、こう添えられていたからだ。
『――でも、安心してね。私には、頼りになる仲間がいるから。みんなで強くなって、きっとゼノアを止めてみせる。そしたらフェイロンに帰るから、待っててね』
 ふたりは孫娘と、その周りにいる彼女の仲間たちのことを思った。会ってみたい。このカインという青年は、どんな人物なのだろう。手紙によると、いつも賑やかで楽しい男だが、ここぞという時にはきっちり決める青年のようだ。獣使いと青魔導師という2足のわらじも、ダリウの興味をそそった。
 クロイスという少年は、いつもカインと遊んでいるらしい。ふたりは本当の兄弟のように仲が良いという。しかしクロイスは、元はリプトバーグで荒んだ生活を送っていたと、手紙には書かれていた。そこから救ったのがカインだという。彼を慕うのも当然だろうと、ダリウは思った。
 ダリウもエレノアも、想像だにしなかった。まさか、王国騎士団の騎士隊長が仲間として、サリナたちに同行してくれているとは。身分も位も、サリナたちとは比べ物にならない人物だ。アーネスというらしいその女性は、しかしサリナに姉のように接してくれているという。その強さと優しさ、美しさに、サリナは憧れているらしかった。
 そして、ふたりが最も興味を持った人物がいた。
 フェリオ・スピンフォワード。カインの弟で、18歳にして竜王褒章を受章した少年である。きわめて優れた頭脳と、技師としての能力を最大限に活かせる銃を操って戦う力を併せ持つらしい。幼くして両親を亡くし、カインに大きな苦労をかけた。その恩返しとして、彼は竜王褒章受章の理由となった、熱を吸収する特性を持った鉱石に、兄の名を付けたという。
 気持ちの良い少年だ。ふたりはそう感じた。しかし何より、サリナの仲間紹介の中で、フェリオに関する部分が圧倒的に長かったのだ。おそらくサリナは自覚していないのだろう。そういうことにはめっぽう疎いのだ、彼らの孫娘は。
「うふふ。サリナ、一生懸命ね」
 嬉しそうなエレノアにつられて、ダリウも笑う。
「はっはっは。そうじゃなあ。あいつ、自分でわかっとるのかのう」
「わかってるわけないじゃない。ふふ。次の手紙が楽しみね」
 サリナの手紙には、これまで手紙を書かなかったこと詫びる文と、これからはまめに書くということが記されていた。エレノアは無理しなくていいのにと言ったが、嬉しそうだった。
「おいおい、本来の目的と違うところを楽しみにしとらんか?」
 ダリウの言葉に、エレノアは茶目っ気たっぷりに首を傾げてみせた。
「あら、いいじゃない。孫の成長を楽しみたいだけよ」
「……ま、そうじゃな」
 ふたりは肩を寄せ、サリナからの手紙に目を落とした。その紙を通して、可愛い孫娘の、元気な笑顔が見えるような気がした。