セリオル少年の闘い

 フェイロンでは週に一度、朝市が開かれる。田畑や山河から得られる新鮮な恵みが村人たちに供される。定例の朝市では日常的に売られている品だけでなく、肉屋、魚屋、八百屋などはそれぞれに独自の惣菜を並べ、衣類や日用品の店は新商品の発表を兼ねた即売を行う。
 そんな朝市の場に、セリオルの姿があった。目抜き通りから少し入った場所で薬品店を開業したばかりの彼は、まだ少ない蓄えを食料品に換えるべく、この賑やかな場所へと足を運んだのだった。
 朝市は店側にとっては掻き入れの場である。したがって、交渉次第で通常よりもかなり安く買い物をすることができる。セリオルは交渉術に自信は無かったが、まとめ買いをすることはできた。店を始めたため、一般的な買い物の時間にはあまり外出できない。そのため彼は、この機会に一週間分の日持ちのする食糧を買い込もうと、まとまった金額を財布に入れて来ていた。
 商売が軌道に乗ったら、自分もこの朝市に出店したい――そんなことを考えながら、目当ての肉屋へと足を向けていた。ターゲットは燻製や香辛料で味付けされた肉類だ。顔なじみとなった店主の姿が脳裏に浮かんだ。
 彼は初めて足を踏み入れた朝市に興奮気味だった。普段は静かな村の広場が、活気に溢れてさんざめいている。目指す肉屋のテントにも人だかりができていた。
 店主はいらっしゃいいらっしゃいと景気が良い。朝市の時間は長くはない。開始が午前7時、終了が午前8時半である。いつもより早起きをする店主たちは、その後は午後まで休憩に入る。そのため、どの店も少なくとも午前の分くらいは売り上げなければと必死である。
 さて、と気合を入れて、セリオルは肉屋の行列に突撃した。がやがやと大声で注文と商品の受け渡しが行われる。客は順番を守ってはいるが、陳列棚にどの種類の肉が残っているかを確かめたい客と注文のための列に並ぶ客とで、店先は混沌の様相を呈していた。百戦錬磨の主婦たちは、その中でも並ぶべき列と見極めるべき商品を瞬時に、そして的確に判断して迅速に行動していた。遠目にはそれほど過酷なものには見えなかったそこは、まさに戦場だった。
 戦場で一兵士として使命を果たすには、十分な準備と訓練が必要である。それが無ければ、与えられた銃を撃つこともなく敵兵に蹂躙されることとなろう。そしてセリオルは、戦場に赴くための訓練を何もできていなかった。
「すみません、燻製肉か香辛料漬の肉はありますか? 種類は何でもいいんですが」
「おうセリオル! わりい、今日はもう店じまいだ!」
 ようやく注文の機会を得、会心の口上を述べたセリオルは、茫然として陳列棚を眺めやることとなった。そこにはひとかけらの肉片すら残ってはいなかった。
 卒然として彼は気付いた。いつの間にやら肉屋の店先にいるのは自分ひとりになっていた。かくしてセリオル・ラックスターは朝市という名の戦場で、戦慄の洗礼を受けたのであった。

 一週間の訓練が始まった。肉屋に続き、魚屋や八百屋でも彼の戦果は惨憺たるものだった。獲得できたのは、僅かに人参が数本と葉物野菜が数玉、そして日持ちのしない生魚が3尾のみだった。生魚は自分で香辛料を調達して漬けておかなければなるまい。
「これじゃ、普通に買い物したのと変わらないなあ……」
 薬屋を兼ねた自宅に戻って、セリオルは肩を落とした。朝市というものを甘く見ていた。自分の狙う商品の売れていくスピード、それを扱う店舗の位置関係、競争相手である主婦たちの動向。それらをよく把握して、じっくりと練った計画を臨機応変に鋭角的に変更し、変更に変更を重ねて行動しなければならない。
 しかしそれがわかったところで、彼が目の前に暗幕が垂れこめたかのような重苦しい気分から解放されることはなかった。なぜなら次回の朝市は、大特大安仰天朝市である。
 大特大安仰天朝市。それは数か月に一度開催される、あらゆる商品が格安価格でたたき売られる祭りのような朝市である。セリオルも何度か足を運んだことがあった。大特大安仰天朝市には、普段の朝市よりもさらに多くの品が並ぶ。それらの中にはこの時にしか口にできない限定品の珍奇な食材や惣菜もあり、日常的にはお目にかかれないそれらの商品は、まさに飛ぶように売れる。遊びに出かけた気分で大特大安仰天朝市を訪れたセリオルは、それらの物珍しい食べ物を多少つまんだ程度で、現実的に必要な食料品等にはまったく関心が無かった。
 あの時に予行演習していれば――。過去を悔んでも現実が変わるわけではなく、彼は途方に暮れかかっていた。薬屋の稼ぎで食いつなぐには、朝市の安売りを狙うしかないのだ。
「セリオルさーん。飴くださーい」
 鬱々とした気分の彼の耳に届いたのは、サリナの声だった。彼が妹のように接しているサリナは、よく彼の店に買い物に来る。自分自身の用だったり同居する祖父母のお遣いだったりと様々だが、今日は彼女の祖父、ダリウが滋養強壮用に舐める飴を買いに来たのだった。店先に吊るしてあるトカゲやコウモリの干物が怖い彼女は、いつも店先でセリオルを呼ぶだけで中には入ってこない。
 飴を入れた巾着袋を手に店の前へ出て行った。この飴が蛇やら獣やらの骨髄から出来ていると知ったら、サリナはどう思うだろうと考えながら。
「ありがとうございます」
 サリナはぺこりと頭を下げた。まだ10歳の彼女は、長身のセリオルの胸より下くらいの背丈である。したがってセリオルの顔を見ようとすると、ほとんど真上を向くかのような姿勢になる。そのため、セリオルはいつもしゃがんでサリナを話をするのだった。
「こちらこそ、毎度ありがとう」
「セリオルさん、今度の仰天朝市、行く?」
 そういえば、と彼は思い出した。以前、仰天朝市にサリナの一家と共に行ったことがあった。確か、昔サリナの祖母――エレノアが常連だった、と言っていたような気がする。
「サリナ、エレノアさんは今日、いらっしゃいますか?」

 かくして大特大安仰天朝市は開催された。セリオルは必勝を胸に、戦場へと出陣した。彼の右腕には、エレノアから授かった究極の盾――すなわち巨大な“買い物かご”が装備されていた。また彼の左手にはエレノアからの教えのもと、彼自身が粉骨砕身の努力と精励恪勤の調査によって獲得した、究極の武器――すなわち“店舗スケジュールマップ”がしっかと携えられていた。
 フェイロン村、目抜き通りの終点。村の役場や各公共施設が集まる、通称“お役場サーカス”。本日のお役場サーカスは晴天である。そして賑やかであった。それはそれは、いつもの朝市の数倍の賑やかさであった。大特大安仰天朝市の会場である。
 会場入り口では押し合いへしあいの騒動が早くも始まっていた。普段は温厚なフェイロンの住民たちが、今はまるで獰猛な獣のようであった。彼ら――正しくは大多数が“彼女”だが――は歯をむき出しにして咆え猛る。まるで何日も餌を与えられなかった檻の中の猛獣が、眼前に山盛りの肉を差し出されたかのような有様である。猛々しい欲望に駆られたエネルギーが、ガシャンガシャンと檻を揺らす。
 事実はどうあれセリオルにはそう思えた。
 そしていよいよ大特大安仰天朝市の幕が上がる。
 解き放たれた獣たちは一直線に餌へと突撃した。何よりも肉である。肉屋の前は瞬時に満員御礼となった。その日一番の怒号が飛び交った、そこはまさに主戦場だった。
 しかしその場にセリオルの姿は無かった。彼は真っ先に根菜を目玉商品にしていた八百屋へと足を向けた。彼の目的は日持ちのする食材である。根菜が格安で買える店を見逃すわけにはいかなかった。それに肉屋の品揃えは事前の聞き込みで把握している。彼は明晰な頭脳で計算していた。肉屋の在庫vs餓えた猛獣たち。軍配は肉屋に上がる。しかもかなりの余裕を持って。したがって彼は肉を後回しにしたのだった。
 至極当然の流れとして、肉の次には魚が人気を博した。半数ほどの獣が肉屋での狩りを終え、魚屋へと突進していった。セリオルは買い物かごに根菜を始めとする、十分な量の野菜を獲得していた。彼は肉屋へも魚屋へも向かわず、果物屋へと歩みを進めた。常温保存のできる果物も多い。貴重な栄養源として、果物も欠かすことはできなかった。
 その後、セリオルは穀物店、乾物店と回り、最後に肉屋と魚屋を回った。彼の計算通り、肉屋も魚屋もまだまだ在庫は十分にあった。ただし、それは燻製や香辛料漬、そして日常的に購入できる惣菜に限ってのことである。いわゆる精肉や鮮魚の類は影も形も無かった。しかしセリオルにはそれで良かった。日持ちのする食品を大量に買い込むという彼の目的は、十分に達成された。
 彼は胸に溢れる大きな満足感を満喫した。食材だけでなく、惣菜の類もかなり買い込むことが出来た。彼はエレノアに感謝した。彼女によるアドバイスと、この巨大な買い物かごが無ければこの結果は得られなかっただろう。
「いやあ。これはこれは……良かった。素晴らしい結果だなあ」
 ドスンと音を立てて買い物かごを地面に置き、セリオルは額の汗をぬぐった。やや高くなった太陽の光に、玉のような汗の粒が爽やかに輝いた。そうして彼は、フェイロンの主婦たちを猛獣に例えたことを心の中で深く詫びたのだった。猛獣だなんてとんでもない。あなたたちは皆、大人しいウサギのようでしたよ。
 後に、セリオル・ラックスターの名は、フェイロンの村でこう語り継がれることになる。“仰天朝市の疾風王”と。

 ユンラン村の活気溢れる目抜き通りを前にして、疾風王は傍らの少女に告げた。
「サリナ――私たちは、これからあの戦場に赴かねばなりません」
 彼の目には、獲物を前にした猛獣のような、獰猛な光が宿っていた。