マナの踊り子

 ファーティマ大陸の南西部、世界に誇る果樹の楽園、エル・ラーダ自治区。その首都エル・ラーダは花天の街と呼ばれ、街の至るところに咲き誇る果樹の花の香りが、訪れる人々をここは桃源郷かと錯覚させる。
 華やかなその街を支えるのは、肌を浅黒く焼いた民たちである。彼らは果樹の栽培のため、温暖なこの街で肌を露出させて農作業を行う。そのため、エル・ラーダの民は女子どもも含め、そのほぼ全てがよく焼けた浅黒い肌を持つ。
 その日焼けした肌の民が暮らす街を、シスララは歩いていた。
 エル・ラーダの街には細い水路が縦横に走っている。水源から街中に水を届け、至るところに存在する果樹園にその恵みを与える。それはシスララの父、ラッセル・フォン・ブルムフローラ伯爵が完成させた、エル・ラーダを豊かに発展させるためのシステムのひとつだった。
 水路は果樹の栽培技術を格段に進歩させた。同時に、色とりどりの花々と豊かな水の流れる街の景観は、訪れる旅人たちを楽しませた。苦しい労働は何倍もの見返りを運んできた。エル・ラーダは豊かな自治区となり、民は喜んだ。
「それも、この街に暮らす皆様のお陰です……」
 上等な服を着て日傘を差し、シスララは沙羅の宮の侍女、リリヤ・クーセラと共に街を歩く。その独り言を、リリヤは聞き漏らさなかった。
「さようですね、シスララ様。エル・ラーダは果樹の街。果樹を育てる民の皆さんあってこそです」
「ええ……」
 リリヤは、シスララの表情が晴れないことに首を傾げた。まだ幼さの残るこの貴族の令嬢が、その美しい顔立ちに似合わぬ暗い表情をしている。リリヤは、シスララが沈んでいる理由がわからず、ただ黙って彼女の歩くのに従った。
 午後の遅い時間。街に暮らす人々は果樹栽培の仕事を終え、ひと時の休憩を楽しんでいる。

 聖獣の森。首都エル・ラーダの西に広がる神秘の森。聖のマナに祝福され、白き光と白き草木に彩られた、白き聖域。そこはエル・ラーダとブルムフローラ家にとって、とりわけ重要な意味を持つ場所だった。
 初めて訪れる旅人たちは、その暖かな森の、まるで雪化粧をしたような姿に戸惑う。目から入ってくる、まるで粉雪のような聖のマナの光が舞う銀世界と、肌で感じる暖かな空気の大きな隔たりが、訪問者の感覚を狂わせる。
 白き木々の合間に差し込む月明かりの中を、シスララは沙羅の宮に使える従者たちと共に歩く。白き土と白き草は、シスララの軽い体重を柔らかく受け止める。彼女は1歩ずつ足を進める。
「今年がユスティナ様の、最後の踊りになりますね」
「ええ。そうですね」
 傍らを歩くリリヤの言葉に、シスララは頷く。その時、リリヤの浅黒い肌が目に入った。幼い頃から果樹園を手伝った証。今日のエル・ラーダの礎となった、勤勉な労働の証だった。
 シスララは自分の足元に目を戻す。足を進めるたび、自分の白い肌が見える。労働を知らぬ肌。果樹を育て、果物を守り、収獲し、種を得て苗を作り、また果樹を植える。豊かで瑞々しい果物は世界中に出荷され、エル・ラーダの銘を入れて重宝される。得られた金は街を、自治区を潤す。そうして現在、エル・ラーダはイリアス本国に対しても大きな発言力を持つ、強い自治区となった。
 シスララは唇を噛む。悔しさと不甲斐無さが込み上げる。拳を握る。自分の周りを固める、浅黒い肌の従者たちに気取られぬように、ひっそりと。
 森を歩くと、純白の毛皮に包まれた多くの動物に遭遇する。動物たちは大人しく、シスララたちを襲うことは無かった。それはまるで、血の色によってこの純白の森が赤く染められることを避けようと、動物たちが分別を心得ているかのようだった。
 宵闇の中に歩みを進め、森の奥へ入るにつれて、人々のさんざめく声が聞こえ始めた。やがて、シスララたちは人々の集う社へと到着した。白き森の中の小さな広場。そこにエル・ラーダの民が集い、その時を待っている。
「おお、シスララ様だ! シスララ様が来られた!」
 シスララの姿を見留めた村人がそう声をあげると、多くの民がシスララに笑顔と挨拶の言葉を向けた。シスララはそれらににこりと微笑んで答えながら、社の前へと歩みを進める。
「来たか、シスララ」
「はい、お父様」
 人々の先頭で社と向き合っていたのは、父でありエル・ラーダ自治区を治める領主、ラッセル・フォン・ブルムフローラだ。彼はシスララに自分の隣を腕で示した。リリヤを含む従者たちが、さっと脇に控える。
「こっちに来なさい」
「はい」
 浅く頷いて、シスララはラッセルの隣りに立った。目の前に、白く厳かに装飾され、篝火に彩られた舞台が現われる。白き森に燃える炎の色が美しい。森の樹木を組んで作られたその舞台は、ラーダ族に伝わるマナの舞を修めた、領主一族の女たちのために存在する。より正確に言うなら、領主一族の女が、幻獣カーバンクルに舞を奉納するために。
 エル・ラーダに伝わる、マナの舞。それは魔法の扇を使った舞によってマナを操る、聖なる舞踏。ラーダ一族の長、すなわちブルムフローラ伯爵家によって代々守られてきた伝統的な舞である。ブルムフローラ家に生まれた女たちはその舞を14歳で継ぐ。そして自分の娘、あるいは息子の妻へと継承していくのだ。
 物心のついた時から、シスララは毎年ここで母の舞を見てきた。普段の稽古を、母は彼女に決して見せようとはしなかった。それが伝統であり、しきたりだった。
 伝統と、しきたり。
「それを守っていくことだけが、私の役割なのでしょうか……」
 傍らの父にも聞こえぬように、ごく小さな声でシスララは呟く。周囲ではエル・ラーダの民たちが、ユスティナの――彼女の母の現われるのを、今か今かと待ちわびている。その静かな興奮の波を感じ、シスララはきつく瞳を閉じる。
「皆、今宵はよく集まってくれた」
 いつの間にか舞台の前に、エル・ラーダの民と向かい合って立ったラッセルの声が聞こえた。目を開いて、シスララは父の姿を見る。
「今年、我が娘、シスララが14の誕生日を迎える。シスララがマナの舞を継ぐ時が来た」
 人々の歓声が上がる。実りを約束する奉納の舞。それを継ぐ新たな踊り子の誕生が近いことに、彼らは歓喜を隠さない。エル・ラーダの繁栄を。更なる豊穣を。そう願う人々の思いが、彼らの声に投影される。
「今宵はユスティナが幻獣様に舞を捧げる、最後の夜になる。皆、その瞳によく焼き付けてくれ。我が妻の、晴れの終舞台を」
 舞台の前で、人々の声が更に高まる。だが舞台の袖に控えた楽隊が音色をひとつ鳴らすと、まるでそれが火消しの雨ででもあったかのように、人々の声は僅かな尾を引いて鎮まった。楽隊の美しい音色が流れる。
 その音色と共に、どこに隠れていたのか、舞台の向こうに現われた姿があった。
 美しい舞衣を纏った女性。長い黒髪に整った眉、白磁のように美しい肌。白き森の篝火の光に浮かぶその姿は、ひと目でエル・ラーダの人々の心を奪う。誰もが息をすることすら忘れ、その踊り子にその目を釘付けにされる。
 白き木の舞台に上がり、踊り子は舞う。美しい魔法の扇を操り、マナの光を集めながら。それは宵闇と月明かり、そして揺らめく炎との間で、夢と現の境界を渾然とさせるがごとき幻想的な美しさで、エル・ラーダの民を陶酔へと導く。
 誰もが声を失ったかのようだった。ただひとり、シスララを除いては。
「まるで……」
 楽隊の奏でる旋律に紛れ、彼女の声は広がらない。典雅なる音色が、彼女の苦悩の声を消す。
「まるで、飾りのお人形ではありませんか……」
 夜に包まれ、月影の下に舞う妖しいほどの美しさに、シスララは胸の前で拳を握る。父もリリヤも、ユスティナの舞を見つめる誰も、シスララのそんな様子には気づかなかった。
 だが唯一、それを見止めた一対の瞳があった。
 やがて舞が終わりを迎える。楽隊の奏でる旋律が止む。その身に纏う薄布をふわりと舞台に落とし、ユスティナはその場にかしずいた。
「聖なる光を纏う、神聖なる神の獣。純白の恵みをもたらす、聖の幻獣カーバンクルよ」
 歌うようなユスティナの声に、篝火の爆ぜる音が混じる。他には何の音も無い。ただ銀色の月光の中、まるで淡い輝きを放つかのような美しき踊り子の、その密やかな息遣いが、エル・ラーダの民には聞こえるようだった。
「今年も我らが地に、清らかな実りを。果樹の子らの健やかな育ちを。どうか与え、見守りたまえ――」 祈りの言葉が終わる。それと同時に、社から強く柔らかな純白の光が溢れた。ゆっくりと社の扉が開く。眩い光に、人々の目が眩む。
「やあ、みんな。こんばんは」
 そこから現われたのは、エメラルド色の長く美しい毛並みを持つ、大きめの兎だった。額に真っ赤な巨大ルビーを輝かせ、たゆたう純白の光を放つ、神なる獣。聖の幻獣、碧玉の座。長き尾を持つ愛らしき守護神、カーバンクル。
「幻獣様!」
「我らに恵みを! 幻獣様!」
「エル・ラーダに豊穣を!」
 ラッセルが、リリヤが、エル・ラーダの人々が、その小さな神を呼ぶ。カーバンクルはぴょんぴょんと跳ねるように地を蹴り、ユスティナの待つ舞台へと上がった。
「ユスティナ」
「はい、幻獣様」
 ユスティナは、低く垂れていた頭を上げた。目の前に、美しい純白の光を放つ幻獣がいる。その幻のようにつややかなエメラルドの毛並みが、ユスティナの瞳を奪う。
「素敵な踊りをありがとう。今年もみんなで頑張ろうね」
「……はい、ありがとうございます」
 にこりと微笑んで、ユスティナはそう答えた。カーバンクルは嬉しそうに笑い、その場で宙返りをした。純白のマナの粒がきらきらと舞う。差し込む月明かりすら照らすことを躊躇うほど、それは神聖で美しい光だった。
「じゃあ、またね、みんな。エル・ラーダに大いなる恵みがありますように」
 響き渡る聖歌のように美しい声でそう言うと、カーバンクルからひと際眩い、しかし優しく柔らかな光が溢れ出た。光はその大きさを増し、聖なる獣を覆い隠す衣のように包んでいく。光は白き聖獣の森の夜空に舞い、やがて風に舞う花弁のように散り散りになって、遥かな空へ吸い込まれていった。

 艇は王都イリアスへ向かっている。航行は順調である。艇は揺れること無く進み、数時間後にシスララはイリアスの地に到着する。
 その艇の窓から、彼女は外を見る。美しい自然。マナの恵みに育まれ、伸び伸びと息づく無数の命。彼女の故郷、エル・ラーダもまた、自然の豊かな美しい地だ。果実が実り、花天の街が最も華やかな顔を見せる季節が到来した。
 街の人々は言う。ユスティナ様の舞のお陰だと。幻獣カーバンクルに捧げる舞がエル・ラーダに力を与えてくれる。その力で果樹は育ち、果実が実る。
「本当に、そうなのでしょうか……」
 独りごちるシスララの表情は晴れない。自分にあてがわれた部屋で、彼女は浅く長い息を吐く。
 その時、コンコンと扉がノックされた。
「はい」
 扉が開かれ、入って来たのは彼女の母だった。両手で盆を持ち、それにふたり分のカップを載せている。
「お母様……」
「あら、シスララ。暗い顔ね?」
 そう言いながら、ユスティナはカップを載せた盆を部屋のテーブルに置き、娘に向けてにこりと微笑んだ。それはまるで、花天の街の果樹の、淡く美しい花が咲いたような笑顔だった。誰からも愛され、誰をも癒す、そんな微笑だった。
 答えずに目を伏せる14歳の娘に、ユスティナは茶を勧める。シスララは黙ったまま、カップを手に取った。オレンジピールの甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。エル・ラーダに伝わる、香りによる治療。シスララはそれをよく知っていた。心の澱が解きほぐされるようにとの、母の思いを感じる。
「最近、悩んでいるようね」
 ユスティナの声は優しい。エル・ラーダの民から愛される踊り子にして、領主ラッセルの妻。そうでありながら、彼女はシスララの前では、いつもひとりの母であろうとしてくれる。しかし今は、それがシスララには辛かった。
「話したくなったら、話しなさい」
 一度言葉を切って、ユスティナはオレンジピールの茶を口に含んだ。エル・ラーダで収獲されたオレンジから作られた、香り豊かなハーブティー。シスララが幼いころから好きな、この茶がユスティナも好きだった。
「お茶が冷めるわよ」
 母の声はあくまでも優しい。目の前では、彼女の愛する故郷の香りが、柔らかな湯気となって広がっている。それがどうしても悲しく、シスララはまばたきと共に、涙を落とした。
「お母様……」
 震える娘の声に、ユスティナは暖かな声で答える。
「うん、なあに?」
 両目から涙の粒が次々に溢れ出すのを、シスララは止められなかった。その抑え切れない嗚咽の波が和らぎ、娘が自分から話し始めるのを、ユスティナは待った。
 柔らかいハンカチで涙を拭き、呼吸を整え、シスララは口を開いた。
「私は、何をしているのでしょう……」
 その言葉で、ユスティナは娘の胸に広がる苦しい靄の正体が、おおよそわかったような気がした。かつて、自分も味わった悩みだ。だが彼女の場合は、ブルムフローラ家に嫁いでからだった。まだ大人とはとても呼べないシスララがそれを抱えたことに、ユスティナは嬉しさを感じる。
「何って、どういうこと?」
 答えを与えないように、ユスティナは娘に訊ねる。シスララが自分の言葉で話すことを、ユスティナは望んだ。
「私は……私は、エル・ラーダが好きです」
 シスララはしゃっくり混じりに言葉を搾り出した。気持ちが乱れないように、必死に自制しながら。口にすれば、また涙が溢れそうになる。だからゆっくりと、彼女は懸命に耐えながら話した。
「エル・ラーダの皆さんが、大好きなのです。小さい頃から私を、可愛がってくださる皆さんが、本当に好きなのです」
 領主の娘に生まれ、その美しい容姿もあってか、シスララは自治区の民から愛された。強い自治区になるようにと導いてくれたラッセルへの感謝を、エル・ラーダの民はシスララにも向けた。愛する領主の娘を愛する。それは民にとってごく自然な感情だった。
 その大きな愛を受けて、シスララは育った。街に出れば誰もがシスララに屈託の無い笑顔を向ける。挨拶の言葉、笑い声と親愛の表情。沙羅の宮では世話係や執事、侍女たちが彼女を丁重に扱い、時に優しく、時に厳しく接した。深い愛が、彼らのシスララに対する言動に表れた。彼らはシスララにとって、かけがえのない友であり、家族だった。
「なのに、私は……!」
 そうしてシスララは14歳になった。伝統的に、マナの舞を引き継ぐ年齢に。彼女はその継承の儀式を受け、正式にマナの踊り子の名をユスティナから譲り受けた。民は歓喜し、ラッセルとユスティナ、そしてシスララを祝福した。
 娘の感情が昂ぶるのを、ユスティナは黙って見ていた。生まれて、もう14年も経った。その歴史は短いようだが、シスララにとっては多くのことを学び、そして成長してきた時間だっただろう。子どもから大人の世界へ足を踏み入れようとする娘の、その胸に生まれた葛藤を、ユスティナは受け入れようと思った。
「私は……エル・ラーダのために、何も出来ないのです!」
 胸の奥底にしまわれていたシスララの思いが、解放された。これまで、シスララは感情的に声を荒げて何かを言うことが無かった。品行方正に育てられ、優しく暖かな娘になった。彼女はいつも微笑み、人々からも微笑みを受けていた。
 だが、ひとの成長には苦悩や葛藤が必要だ。自分自身もこれまでに幾度も味わったそういった感情が娘に生まれたことが、ユスティナには喜ばしかった。それは、シスララが成長した証だった。
「そんなこと無いのよ、シスララ」
 優しい声でそう言ったユスティナに、シスララの視線が向けられた。俯いていた顔を上げて、娘はやはり激昂しているようだった。
「どうして、そんなことが無いのです? 私は、エル・ラーダの人々のために、これまで何を出来てきたのです!? 何も、何も無いではありませんか!」
「いいえ、シスララ。あなたは多くのことをしてきたわ」
「一体何をしてきたのですか!? 私は、ただ皆さんから優しくされて、暖かで裕福な貴族の家庭で育ち、果樹を栽培する苦労も知らずに、その恵みの中でのうのうと暮らしてきただけです!」
 激しい口調だった。静かに扉が開かれるのを、ユスティナは察知した。部屋の外に、心配したリリヤが来ていた。ユスティナは素早く視線を飛ばして、リリヤに伝えた。今は入って来ないでちょうだい。リリヤはユスティナの考えを察知したか、シスララに気づかれないようにそっと扉を閉めた。
「この白い肌が、私は憎いのです!」
 そう言って、シスララは自分の腕を掴んだ。細く白い腕を。沙羅の宮のアーユル・パドマが手塩にかけて育てた、その白磁のように美しい肌を。内出血でも起こすのではと思えるほど、ぎゅっと握った。
「日に焼けて毎日を必死で生きている皆さんのように、私も働きたいのです! 皆さんの役に立ちたいのです! ただ領主の娘として、飾り物のお人形のように暮らしたくはないのです!」
 娘の、その心からの叫びを、内面の吐露を、ユスティナは受け入れた。自分に対してもそういう思いがあったのだろうと、ユスティナは考えた。
 飾りのお人形。領主の妻として、マナの踊り子として、白く美しい肌を守るように暮らす母のことを、シスララはそう見ていたのだろう。それはごく最近に限ってのことかもしれない。去年は、カーバンクルに捧げるマナの舞を終えた母に、シスララは憧れの目を向けていた。
 しかし今年は違った。シスララに付き添っていたリリヤも、それを感じたと言う。シスララは舞を終えた母に儀礼的に挨拶をして、すぐに沙羅の宮へ戻ってしまった。去年のような興奮は、どこにも見られなかった。
 かつて、自分も味わった苦悩。しかしその時、自分は既に大人だった。ある程度割り切った上で、領主の妻として、マナの踊り子としての務めを果たし、後から自分の存在意義を見つけることが出来た。しかし14歳でマナの舞を継承することになった娘は、まだ子どもだ。
「よく聞きなさい、シスララ」
 静かに、しかし強い声で、ユスティナは娘に向けて言った。シスララは涙に濡れる目で、真っ直ぐに見返してきた。苦悩、自己嫌悪、反感、そして愛。複雑な感情の入り混じった目だった。
「私たちが生きているのは、エル・ラーダの民のみんなのお陰。そうね?」
「はい」
 声が震えぬように、シスララは強く答えた。強い声だった。
「エル・ラーダのみんなは、毎日一生懸命に働いているわ。それはね、シスララ。この自治区をより豊かに、より強くするためよ」
「はい」
「みんなはそれぞれの場所で、一生懸命働いている。シスララ、よく考えて。私たちの場所はどこ? 私たちに出来ることは、何?」
 その問いかけで、シスララはやや顔を下に向けた。自分の場所、自分の出来ること。それがわからなくて、彼女は葛藤の渦に落ちたのだ。答えが出るはずも無かった。
「よく考えて、シスララ。私たちは誰? あなたは、誰? あなたにしか出来ないことは、何?」
 エル・ラーダの民。ラッセルの指導の下、彼らは毎日を必死に生きている。少しでも豊かに、少しでも強く。かつての弱小自治区に戻らぬよう、王国への発言権を無くさぬよう、いやそれよりも、更なる大きな自治区となるよう。そう願って、花天の街を大きく育てるため、彼らは働いている。
「仮にあなたが果樹園に出て、民と共に働いたとして、あなたはみんなの役に立てるかしら?」
 母の言葉が、心の水に波紋を起こす。これまでばらばらに動いていた波が、その波紋によって徐々にひとつになっていくのを、シスララは感じた。自分にしか、出来ないこと。
「私たちには、私たちの役割があるわ。それはね、シスララ。エル・ラーダのみんなには出来ないこと。私たちにしか、出来ないことなのよ」
 だが、波紋はまだひとつにはならない。いくつもの新たな波紋が生まれ、ユスティナの起こした波紋を崩していく。シスララは衝き動かされるように、口を開いた。
「ですが、ですがお母様、マナの舞を舞ったところで、土が豊かになるわけではありません。果実の実りが多くなるわけでは、ないのではないですか!?」
 それはシスララの、これまで隠してきた本当の心の声だった。ブルムフローラ家の女として生まれた、彼女の宿命。それは伝統という名の責任となって、彼女にのしかかった。
 これまでずっと見てきた、母の舞。それに民は歓喜した。しかしシスララは、感じていた。マナの舞をカーバンクルに奉納し、民は年に一度、カーバンクルの姿を目にする。そして聖の幻獣は、民に言葉を与える。幻獣は光となって消え、あとには何も残らない。
 それが、エル・ラーダの実りを豊かにする祈り。儀式。そのために、自分は存在している。
 そのためにしか、自分は存在していない――?
「それは違うわ、シスララ」
 シスララのぼやけた世界を、母の凛とした声が晴らした。シスララは母を見た。これまで見たことが無い、厳しい顔だった。それは怒りのようにも、愛のようにも見えた。
「もちろん、マナの舞も私たちの大切な役割よ。あの舞によって幻獣様を呼び、エル・ラーダのみんなの心に火を灯すのだから。だけどね、シスララ。私たちの役割は、もっと大きなことなの」
「もっと、大きなこと……?」
 問い返す娘に、ユスティナは頷く。そして微笑み、彼女は答えた。
「私たちの民は、いつも不安と闘っているわ。不作が続けば、自治区の力は衰える。いずれ、かつての弱い自治区に戻ってしまうかもしれない。そうしないために、彼らは不安の中でいつも闘っているの。それはすごく辛いことよ。自分が失敗したら、自治区全体がダメージを受ける。そんな責任感を背負って、彼らは懸命に働いている」
「でしたら、私たちも共に働くべきなのではありませんか? 少しでも皆さんが、楽になるように――」
「いいえ、シスララ。私たちはそれをするべきではないわ」
「なぜです? 皆さんの力になることが、いけないことなのですか?」
「いいえ。でもね、私たちがそうしたところで、ほんの小さな力にしかなれない。私やあなたや、ラッセルが加わったところで、3人分の人手が増えるだけ。ラッセルは昔、みんなと一緒に果樹園をやっていたから、その力は少し大きいかもしれないけれど。でも、それよりももっともっと大きく、みんなのためになることが、私たちには出来るわ」
 シスララは首を傾げた。まだ見えなかった。母の言葉を、彼女は待った。ユスティナは窓の外へ目を向けた。美しい自然が広がる世界。その中のほんの一角が、彼らの地、エル・ラーダだ。だがそれは、何よりも大切な、彼女の、彼女の娘の、ふるさとだった。
 世界を見つめ、ユスティナはゆっくりと言った。
「みんなの、心の支えになることよ」
「心の、支え……」
 大きな波紋が、シスララの心に起こった。それはいくつもの小さな波紋を鎮め、心の海に広がっていった。
「そう。みんなのために、その不安を和らげるために、私たちはいるの。幻獣様を呼ぶのもそのひとつ。神様の言葉をもらって、みんなはそれを勇気に換える。毎日を生きる力にするの。それがエル・ラーダの果樹を育て、自治区を豊かにする。そして私たちは、みんなの得た恵みを分けてもらって、機会がある時にはみんなの言葉を王国に運ぶ。少しでも、エル・ラーダの暮らしを良くするために。私たちが頑張って王国に意見を通せば、みんなはもっと頑張ろうとしてくれる。そうやって、エル・ラーダは回っているのよ」
 シスララは沈黙した。心の中の波紋が、徐々に収まっていく。
「あなたの言うとおり、幻獣様の言葉が土を豊かにするわけではないわ。でも、幻獣様のマナの力が、恵みとなってエル・ラーダを祝福してくれているのは事実よ。みんながその大恩ある幻獣様に会うことが出来る場を作る。それは、私やあなたにしか出来ないことなの」
 シスララは母の顔を見た。母は、窓から外を見ていた。遥か遠くなった、エル・ラーダの方角を。そして母は、微笑んでいた。
「だからシスララ、私たちは、みんなの象徴でなくてはならないの。みんながこうありたい、こうなりたいと思える象徴よ」
 シスララは目を閉じて考えた。エル・ラーダの人々が考える、理想の存在。それは何だろう。
 街を歩く時、シスララは人々から多くの声を掛けられる。こんにちは、シスララ様。今日もお美しいですね。シスララ様のようになりたいわ。いつも綺麗で、羨ましい。沙羅の宮での暮らしはどうです? またパーティーを開いてくださいよ。俺たちも宮殿のメシをまた食いてえです。シスララ様、いつも娘に優しくしてくださって、ありがとうございます。うちの腕白もシスララ様の前じゃあ、一丁前にかっこつけやがるんですよ、色気づきやがって。また遊びに来てくださいね、いつでもお待ちしています。シスララ様、シスララ様、シスララ様――
 人々の笑顔が瞼の裏に蘇る。彼らはいつも明るく、楽しそうに話す。沙羅の宮のような豊かな暮らし、ユスティナやシスララのような美しい容姿。それを自治区の全員が手に入れられるように、頑張って働こう。
 目を開いて、シスララは気づいた。知らぬ間に、涙が溢れていた。それはさきほどとは全く質の異なる涙だった。温かく、柔らかな涙だった。
「……お母様」
「なあに?」
 ゆっくりと自分を呼んだ娘に、ユスティナは目を戻した。そこにいるのは、葛藤に混乱して昂ぶったシスララではなかった。頬を涙に濡らしながらも優しく微笑む、エル・ラーダ領主の娘、シスララ・フォン・ブルムフローラだった。
「明日の王都での会議について、詳しく教えて頂けますか? 出来ることなら、私も参加させて頂きたく思います」
 王都で開かれる、世界会議。それは国王や王子をはじめとする王家の面々と、世界中の自治区の領主が一堂に会して開かれる、大きな会議である。ラッセルはその場で、いつもエル・ラーダにとって重要な主張を通してきた。明日はその会議が開かれる。
「ええ。もちろん、そのつもりよ」
 優しく微笑んで、ユスティナは答えた。そしてブルムフローラ家のふたりの女は、エル・ラーダのための大切な仕事の準備を始めた。
 リリヤは、扉の外で涙と共に微笑んだ。夕食までまだ時間がある。そうだ、お菓子をご用意しよう。エル・ラーダを、私たちを愛してくださる、大切なふたりのために。