騎士の血

 グランドティア家は、王都に冠たる由緒正しい騎士の家系である。歴代の当主たちはいずれも王国騎士団に入り、そこで隊長や団長などを務め、輝かしい功績を残した。
 騎士にもいくつかの階級がある。
 イリアス王国において、騎士とは貴族と並び、庶民よりもひとつ位の高い身分として位置づけられている。とはいえ教育や娯楽、日常生活においていくつかの特権を有するものの、基本的に庶民に対して高圧的な態度を取る者は少ない。
 ただ、騎士や貴族にはその身分に浴することと引き換えに、いくつかの義務も発生する。貴族は基本的に中央省庁や地方自治区の領事館などでの職務に就かなければならない。一方、騎士は騎士団に入って王都を守ることを求められる。向き不向きがあるので全てがそうというわけではないが、例外は少ない。
 王都イリアスに暮らす騎士たちは、一定の年齢に達すると国王に仕える王国騎士団、もしくは大神殿に仕える神殿騎士団のどちらかに入団する。騎士団においては知略を求められる仕事や精密な作業を要する仕事もあるため、よほどのことが無い限り、腕が立つわけでなくとも入団するのが普通である。
 その年齢とは、18歳である。騎士家の男子は18歳になると、どちらの騎士団を希望するかを上申し、それぞれの入団試験を受け、しかるのちに入団し、騎士となる。それぞれの騎士家は伝統的にどちらの騎士団に属するかを決めている。同じ騎士団ではあっても、王国騎士団と神殿騎士団は微妙にその使命が異なる。そのため所属する騎士たちの思想にも若干の違いが生じている。代々王国騎士団の騎士家が、ある代で神殿騎士団に入団するということは少ない。
 一方騎士家の女性たちはどうかというと、いわゆる良妻賢母であることを求められる。婚姻は基本的に騎士家の間でのみ行われる。もちろん例外はあるものの、そうでなければ騎士家独特のしきたりや伝統が守られないからである。庶民から見れば、半ば以上強制的に男性が兵役に出るというのは辟易する暮らしである。
 グランドティア家の屋敷には剣の腕を磨くための広い修練所がある。鎧を身に付けての稽古も可能なようになっている、荒削りの石張りの床。熱がこもらぬよう、壁には通気口が多数設けられている。
 その通気口から差し込む朝の陽を受けながら、アーネス・フォン・グランドティアは稽古用の剣と盾を構えていた。
「いきます」
 小さく呟いたアーネスに、対峙する男は静かに頷いた。男は盾は持たず、ただ剣のみをだらりと、構えもせずに握っているのみだ。
 アーネスが踏み込みと共に最上段から斬撃を繰り出した。鋭い攻撃。しかし男はすいと身をかわし、こともなげにその迅速の剣をやりすごした。
 振り下ろした剣を瞬時に翻して、アーネスは左後ろの男へ振り返りざまの攻撃を放った。左下から右上へ斬り上げる。だがそれは、男が差し出した剣によって、男の身体から逸れるように力をいなされてしまった。
 アーネスの腕が伸びきる。その腕が戻る前に、男は右手に握った剣を振り上げることもなく、無造作に差し出した。その切っ先は何の抵抗を受けることも無く、アーネスの鳩尾に差し込まれた。
「かはっ」
 呼吸が止まる。模擬剣とはいえ、その鋭さは本物に近い。アーネスは剣を取り落とした。盾もガランと音を立てて床に転がる。鳩尾を押さえて膝を着いた。
「まだまだ甘い」
 男は模擬剣を元の場所へ戻し、そのまま修練所を出ようとした。汗ひとつかいていない。表情も変わっていない。
 アーネスは苦しい呼吸の狭間で、なんとか声を絞り出した。
「あ……ありがとうございました、先生」
 男は足を止めた。顔だけを振り向け、彼は言った。
「なぜ腕が上がらないか、わかるか、アーネス」
 呼吸を整えつつ、アーネスは何も答えなかった。答えることが出来なかった。彼女は眉を歪め、ただ床の石を見つめている。それは鳩尾の痛みのためだけではなかった。
「迷いがあるからだ」
 そう言い置いて、男は修練所の扉をくぐった。簡易鎧の鳴る音が遠のいていく。
「ありがとうございました」
 床に膝をういたまま、アーネスは言った。その言葉が男に届いたかどうかは定かではなかった。修練所にはアーネスと、彼女の苦悩だけが残った。
 男の名はカーネル・アルムスター。グランドティア家の剣術指南役である。

 グランドティア家の屋敷の離れで、カーネルは静かに瞑想していた。剣術指南役にあてがわれた十分な広さの居宅。彼は指南役としてグランドティア家に来て以来20年あまりを、妻と共にこの家で暮らしてきた。
 カーネルはさきほどのアーネスの様子を思い返していた。あの煩悶に満ちた顔を。
「何を悩んでるの?」
 妻が紅茶を淹れたカップを運んできた。ふたり分をテーブルに置いて、彼の妻も椅子に腰を下ろした。紅茶の湯気が静かに揺れる。
「リーゼロッテ」
 妻の名を呼んで、しかし彼は彼女の顔を見はしなかった。彼の視線は、ただ揺らめく紅茶の湯気にのみ注がれている。
 リーゼロッテは答える代わりに紅茶をひと口飲んだ。爽やかなミントの香りが広がる。カップを置いて、彼女は夫の言葉を待った。
「クラウス様は嘆かれるだろうか、アーネスのことをご報告差し上げたら」
 言葉を吐き出して、カーネルは奥歯を噛み締めた。嫌な感情が胸を占める。
「そうね……」
 努めて優しい調子になるように気を配って、リーゼロッテは言った。両手でカップを包む。紅茶の温度が手のひらに伝わる。
「アーネス様は使命感の強い方だから……。でも私もわかるわ、アーネス様の気持ち」
「騎士家の子とは言え……女だからな」
 カーネルはようやく紅茶をひと口飲んだ。ミントの香りが、心につかえたものを取り除いてくれるように思えた。
「ええ。騎士になるのって、大変だと思うもの。年頃の女の子が、進んでなりたいとは思わないわよ。お洒落だって恋だって、したいものよ」
「そうだな……」
 そこで会話は途切れた。ふたりが静かに紅茶を飲む音だけが部屋を占める。
 不意に、扉がノックされた。リーゼロッテが返事をして開けに行くと、外に立っていたのはグランドティア家の当主、クラウス・フォン・グランドティアだった。
「まあ、クラウス様! どうぞ、中へ」
「ああ、少し邪魔するぞ」
 そう断って家の中へ入って来たクラウスに、カーネルはさっと立ち上がって挨拶をした。
「クラウス様、いかがされました?」
 カーネルは嫌な予感が顔に表れていないことを願っていた。彼の主人は何も言わず、カーネルの向かいになる椅子に腰を下ろした。すぐにリーゼロッテが紅茶を用意した。それを飲んで、クラウスは話を切り出した。
「カーネル」
「はい」
 主人の声の調子で、カーネルは自分が予期していた、最も報告を避けたい話題がこれから提示されることを覚悟した。もっとも、今日のタイミングでそれ以外の話が主人から出ることはそもそも考え難かったのだが。
「どうだ、アーネスは」
 クラウスが口にしたのは、カーネルの考えていたとおりの名だった。アーネス・フォン・グランドティア。グランドティア家の息女にして――嫡子。短く息を吐き出して、カーネルは言った。
「やはり、迷いがあるようです」
「……そうか」
 クラウスの言葉は短く、簡潔だった。言うまでも無く、彼は落胆していた。
 昨晩の話を、カーネルはクラウスから聞いていた。18歳の誕生日を翌日に控えたアーネスは、泣きながら父であり当主であるクラウスに訴えたという。
 騎士になりたくない、と。
 騎士家の子にとって、18歳の誕生日は特別な意味を持つ。その歳を迎えた翌年が、王国騎士団もしくは神殿騎士団への入団の年となるからだ。多くの勇敢な男子はその年を迎えるのを心待ちにし、そうでない少数派の男子は大抵億劫がる。剣の得意でない者は後方支援部隊への配属希望が通ることも多いと聞いて歓喜する。そして女子たちは皆、騎士の良き妻となるため、専門の花嫁修業を積む学校へ入る。
 グランドティア家は永きに亘り、直系の男子を嫡男としてその家系を続けてきた一族である。当主の長男が騎士団に入り、功績を立てて次の当主となる。長男が相応しい資質を持たぬ場合は次男、その次は三男というように。
 しかしクラウスの代で、史上無かったことが起こった。直系の男子が誕生しなかったのである。
 そのため、彼の妻フィリーネはそのことを気に病むあまり、床に伏せることが多くなった。周囲で男子を産めなかったことを表立って批判する者は無かったものの、陰で何を言われているかといつもびくびくしていた。そのため他者からの目にひときわ過敏になってしまった。
 クラウスは男子が生まれなかったのなら、アーネスや次女のセシリアに婿養子を迎えれば良いと考えた。しかしその安直な考えは、フィリーネの気を軽くさせることは出来なかった。直系の騎士の血を守ってきた一族に、他の騎士の血が混じる。その想像が、フィリーネの心を蝕んだ。
 だからクラウスは、アーネスが騎士を目指すと申し出たことが嬉しかった。騎士憲章には、女子が騎士になることを禁じる文は無かった。実際、かつての統一戦争の時代にも、6将軍の部下として働いた女性騎士がいた。その時代はいかに腕が立とうと、女性が隊長以上の階級に就くことは無かった。だが今は、女性の社会進出も進んでいる。アーネスがその働き如何で、隊長以上を目指すことも不可能ではないはずだった。
 それから4年。アーネスは剣の腕を磨いた。クラウスに、カーネルは言った。アーネスは決して剣の天才ではない。だが少なくとも、それだけで騎士団でも優秀とされる一団に入ることが出来るだけの才能は持ち合わせている。随一とまではいかずとも、優れた剣士となることは可能だと。
 その言葉に抱いたクラウスの期待どおり、アーネスは成長した。彼女は使命感が強く、そして何より真面目だった。自分が決めた目標に対して、真っ直ぐに歩むことが出来た。努力を重ね、彼女は同年代の男子と比較しても優秀と言える腕を身に付けた。
 だが、そんなアーネスの姿とは裏腹に、クラウスは葛藤を抱いてもいた。アーネスの申し出は心から嬉しく感じた。しかしそのまま、娘を騎士にしてしまって良いものか。恐らくアーネスは、騎士団の入団試験に合格するだろう。それだけの腕はとうにある。
 ただ、アーネスは元来優しく、女の子らしい性格だった。その娘を男社会である騎士団に放り込んで良いものか。そこで生きることが、本当にアーネスにとっての幸せになるのか。
 フィリーネは自分を気遣って騎士を目指すと言ったアーネスを愛しく思いながらも、反対した。騎士家の女として、騎士の子を産むという幸せを手に入れて欲しいからだと、クラウスに向かって妻は言った。しかしアーネスの決意は変わらなかった。騎士となり、その上で子も産めば良いと彼女は言った。騎士になるからと言って、結婚出来ないわけではない。自分が騎士であれば、婿養子を貰うにしても騎士の直系が失われはしない。彼らの娘はそう言って、母を説得した。
 しかし昨夜、アーネスは大粒の涙を流してクラウスに詫びた。18歳の誕生日を前にして、決意が揺らいでしまった。やはり本心ではなかったのだ。いや、正確には騎士になりたい気持ちとなりたくない気持ちがせめぎあっているのだと、彼は泣きじゃくる娘を見て思った。家族のためを思って騎士となるか、自分の本来の望み通り普通の女性として生きるか。18歳という人生の岐路で、彼女はどちらの道を選べば良いのかわからなくなってしまったのだ。
 その晩、クラウスはただ娘を抱きしめ、優しく言葉をかけた。どちらでも良い。自分の進みたい道を進みなさいと。どちらを選んだとしても、彼も、フィリーネも、誰もアーネスを責めはしない。むしろそれほどまでに家族を、グランドティア家を思ってくれたことを感謝する、と。彼の娘は涙を拭き、ひとつ頷いて自室へ戻った。
「剣を振れば、考えもまとまるかと思ったが」
「そう簡単では、なかったようですな」
 同い年のクラウスとカーネルは、冷めていく紅茶を見つめて腕を組んだ。重苦しい空気だけが流れる。

 自室のベッドに寝転がっていると、入り口の扉がノックされた。返事をするよりも早く、扉は勢い良く開かれた。
「お誕生日おめでとう! お姉ちゃん!」
 恐るべき勢いと速度で突進してきたのは、彼女の妹だった。可愛らしいドレスに身を包み、しかし彼女はその愛らしい外見からは想像もつかぬ奔放さを撒き散らしながらベッドの上の姉に突撃した。
「おめでとうおめでとう! 18歳だね!」
「ちょ、ちょっとセシリア、どいて、苦しいって!」
 腹の上にアーネスの身体と直角に交わるようにしてうつ伏せ、セシリアは両腕両脚をばたばたと動かした。その振動がセシリアの体重をリズミカルにアーネスに伝え、結果として彼女は妹によって胃と肺を圧迫された。
「おめでとうおめでとう!」
「どきなさいっての!」
 全身の力を駆使して身体を起こし、アーネスは妹を床に転がした。彼女の破天荒な妹は、きゅうと声を出して転がった。
「まったく何なのあんたは。なんでそう騒々しいの」
「だって!」
 床からぴょんと飛び起きてドレスの裾をはたき、セシリアは胸を張った。
「大好きなお姉ちゃんの誕生日だから! おめでとう!」
「そうでなくてもいっつもそうでしょ、あんたは……」
「えへへへへ」
 ベッドの縁に座って、アーネスは溜め息とともに妹を見遣った。彼女より3歳年下の妹、セシリア。彼女と同じ色だが、彼女よりも随分短い髪。可愛らしいものが好きで、それ以上に姉のことが好きな妹。幼い頃からアーネスの真似ばかりをしてきたセシリアは、しかし姉を遥かに凌ぐ剣の才能を秘めていた。
 それを発見したのは、師であるカーネルだった。アーネスが騎士を目指そうと修練を始めた少し後、姉の真似をしようと、セシリアが修練所に来た。うるさい妹を黙らせるため、アーネスはセシリアに模造剣を持たせた。
 それを振り回すセシリアの太刀筋に、カーネルは驚愕した。誰から教わることも無く、初めてセシリアが振るったその剣は、既に完成形に近かった。僅かな修練で、セシリアは簡単に年上の男子を打ち負かした。その腕は、騎士団の騎士たちもあわやと思わせるものだった。
 アーネスは複雑な思いで、自分に向かって無邪気に笑っている妹を見つめた。努力を重ね、騎士になるための力をつけてきた自分。大した努力をせずとも、自分よりも騎士としての高い力を持った妹。騎士を目指すことを躊躇っている自分と、最初から騎士になる気などさらさら無い妹。セシリアはただ姉の真似をして成長し、いつか白馬の王子様が自分を迎えに来てくれることを夢見ている。剣の腕は、セシリアにとってはアーネスの後ろで遊んでいるうちにたまたま発見したおもちゃのようなものだ。あっても無くても、彼女の人生には大して影響しない。
「ねえ、セシリア」
「ん? あ、誕生日プレゼント? もちろんもう用意してるよ! ちょっと待ってて――」
「ううん、そうじゃなくて」
「え? じゃあなに?」
 立ち上がって部屋を出ようとし、振り返って固まった忙しい妹に、アーネスは部屋の椅子に座るよう促した。一度聞いておきたいことがあった。
「ねえ、セシリアには将来の夢ってあるの?」
「夢?」
 顎に人差し指を当てて、ほんの一瞬セシリアは空中に目を泳がせた。しかし悩むことも無く、彼女はアーネスの目を見て答えた。
「ハイナン島で染物を勉強して、商業街区で服のお店を開きたいな!」
 アーネスは目を瞬かせた。次いで、腹の底から笑いが込み上げてきた。声を上げて笑う姉に、セシリアは頬を膨らませた。
「なによー」
 目尻を押さえて、アーネスは息を整える。ごめんごめんと詫びながら、彼女は妹のあまりに突飛な考えを指摘した。
「だってセシリア、あんた騎士家の娘なのよ? いずれどこかの騎士家に嫁がないといけないのに、服屋だなんて」
「そんなの関係無いもーん」
「関係無いってあんたねえ――」
 更に言い募ろうとする姉に向かって、セシリアは立ち上がって右手のひらを突きつけた。アーネスの言葉が止まる。
「私の人生は、私が決めます! 騎士だとかなんだとか、私には関係無いんです!」
 呆然として、アーネスは妹を見つめた。その確固たる意志を感じさせる、華奢なくせに力強い手のひらを。目を逸らして、彼女はふっと短く息を吐き出した。どうしようもない虚無感が胸を占める。
「でも、まあひとつあるとしたら」
 再び目を遣ると、妹は唇の端に人差し指を当てて空中を見上げていた。アーネスはセシリアの言葉の続きを待った。
「お母様のことかな。私たちが女だったせいで、病気になっちゃったし。お母様が元気になるなら私、騎士家の人間として生きてもいいけど。でもたぶん、それやるのって私じゃなくてお姉ちゃんな気がするから。お姉ちゃんがするほうが、お母様きっと、喜ぶし」
 妹の素直な発言に、アーネスは動揺した。セシリアは真っ直ぐだ。自分の真似をするばかりで強い自己が見えないことが多いが、本来的に彼女は自分の思うがままをそのまま、何の装飾も婉曲も無しに実行する性質なのだ。
「私がやってもほら、え〜お前かよ〜って感じじゃない?」
「……うん、そうね」
 ゆっくりと返した言葉に、セシリアは無邪気に笑う。そしてアーネスの心を見透かしてでもいるかのように、しかしそれは完全に偶然であることはアーネスにもわかっているのだが、セシリアはこう言った。
「やっぱり自分に素直じゃなきゃ! 誰に嘘つけても、自分には嘘ってつけないもんね。そんなことしたら絶対、もう絶対後悔しか残らないって!」」
 そんなことを何の躊躇も無く言ってのける妹に、アーネスは困惑する。セシリアはいつもそうだった。剣の腕にしても。姉が嫉妬を抱くほど飛びぬけていながら、それに一切の執着を持たない。今もアーネスの心を激しく揺さぶっておきながら、何も言わなかったのと変わらぬ態度で、プレゼントを取ってくると言って部屋を出て行った。
 心の中でセシリアに向けてごめんねと呟き、アーネスは立ち上がった。

 昨晩以来の対面に、クラウスは心ならずも緊張していた。目の前にはメイドが用意したオレンジピールのお茶が載った小さめのテーブルがある。その向こうに、彼の長女が座っている。彼の自室を訪れてそこに座ってからしばらく、アーネスは目を閉じたままだ。クラウスはお茶を飲み、娘が話を切り出すのを待った。
 しばし時が流れ、そしてアーネスは目を開いた。
「私、騎士になります」
 彼女の言葉は端的だった。クラウスが防御線を張るよりも遥かに速く、彼の娘は本陣に斬り込んできた。動揺を隠すことも無く、彼は娘に聞き返した。
「本当にそれで良いのか?」
 アーネスは大きく頷いた。父の目を見つめたままで。
「騎士家の女としての道を、捨てて良いのか?」
 今度は首を横に振るアーネスに、クラウスは怪訝な顔をした。
「ではどうするのだ。騎士となれば、普通の女性として生きていくことは出来ぬぞ」
「はい」
 背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。そしてアーネスは口を開く。
「剣の修練を始める前まで、私は大人になったら結婚して婿をもらい、この家を守っていくのだと考えていました。私は長女だし、セシリアはあんなだし。その思いが最近急にまた大きくなって、はち切れそうになって……騎士になることを躊躇いました。友だちみたいに花嫁修業をすることも出来ず、女らしく生きることが出来なくなる道を選ぶことに、どうしようもない抵抗感を覚えてしまいました」
 クラウスはじっと娘を見つめる。彼は膝の上で手を組み、アーネスの次の言葉を静かに待つ。
「でも、私はやっぱり騎士になりたい。お父様やお母様の思いを、騎士の純血を守るということを実現したい。だから――」
 言葉を切って、アーネスは父の首から下がるペンダントに目を遣った。国王から授かる騎士の証、“騎士の紋章”。顔を上げ、彼女は続きを口にした。
「だから、両方やることにしました」
「両方だと?」
 父のオウム返しに頷いて、アーネスは続ける。
「騎士になって、強い男を見つけます。私の背中を、グランドティア家を託すことの出来る男性を。そのひとと結婚して、家を守ります。その時に騎士を辞めるかどうかはわからないけど。そのほうが、女らしく生きることは出来なくても、私らしく生きることが出来ると思うんです」
 我が娘ながら、とクラウスは胸中で呟いた。良き決断をしたものだ。もはや娘の目に迷いは無く、澄んだ光を宿した力の篭った瞳で、彼を見つめている。
「良いだろう。思うままに生きなさい。ただ、グランドティアの全てを背負おうとまで思う必要は無い。それは私が考える問題だ。お前はお前の進みたい道を、真っ直ぐに歩きなさい」
 アーネスは、父のその言葉に立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございます」
 不意に、奥の部屋へと続く扉が開いた。ふたりがそちらを見ると、寝巻きから着替えたフィリーネが、扉に寄りかかるようにして立っていた。
「アーネス……」
「お母様!」
 アーネスが駆け寄って母を支える。フィリーネは微笑み、娘に支えられてテーブルまで移動した。椅子に座り、彼女はアーネスを抱きしめる。
「ありがとう、アーネス。この家の、私たちのことを考えてくれて。ありがとう」
「お母様……」
 母を抱きしめ返して、アーネスは目頭が熱くなるのを感じた。自分たちのせいで病の床に伏せった母。永年、心の傷を癒すことの出来なかった母。その母は今、アーネスに向けて心からの安堵の言葉を口にしている。
「辛かったらいつでも戻って来なさい。あなたは女性なんだから。いいわね?」
「はい、お母様……」
「誕生日おめでとう、アーネス。立派な18歳になったわね」
「お母様っ……」
 カタンと小さな音が、部屋から廊下へ出る扉の向こうで聞こえた。母娘を微笑みつつ見つめていたクラウスが、さっと立ち上がって扉へ向かう。
 開かれた扉の向こうにいたのは、カーネルとリーゼロッテだった。その場から逃げだそうとしたらしき様子で、クラウスを見つめながら冷や汗を流している。
「何をしている、カーネル」
「い、いやその、いえ、決して立ち聞きをしようなどと思ったわけでは」
「おほほほ。そうですよクラウス様、たまたま前を通っただけで。おほほ」
 白を切ろうとするアルムスター夫妻に、クラウスは目を細めた。
「嘘をつくな、嘘を。ここは廊下の突き当たりではないか。たまたま通ることがあるものか」
「い、いやあ、はっはっは」
「お、おほ、おほほほほ」
 呆れたように溜め息をついて、クラウスはふたりを部屋へ招き入れた。
「しようのないやつらめ。もう良いから入れ。話は聞いておったのだろう。カーネル、お前からもアーネスに言葉をかけてやってはくれぬか」
 言葉とは裏腹に、クラウスの声は明るかった。アーネスのことをカーネルたちが気に掛けてくれているのが嬉しかった。
 そそくさと部屋へ入って、カーネルは母に寄り添うアーネスを見た。今朝の迷いに満ちた目ではなく、決然とした意志を感じさせる目だった。今の彼女なら、彼もより上級の指南を授けられるかもしれない。
「私は、アーネス、素直に嬉しく思う」
「先生……」
 フィリーネが促して、アーネスは立ち上がった。カーネルと正面から向き合う。
「私たちには子どもがいないからな……クラウス様とフィリーネ様にはご無礼を承知の上だが、アーネス、お前を本当の娘のように思っているんだ」
 アーネスが下唇を噛んで下を向いた。フィリーネが目尻を拭う。
「本当ですよ、アーネス様。いつも修練が終わった後、彼はアーネス様のことをそれは嬉しそうに私に話すんです。今日はこんな稽古をした、アーネス様はこんなことが出来るようになった、って」
「ありがとう、カーネル、リーゼロッテ」
 クラウスがふたりに言った。その声は震えていた。
「私が手塩に掛けて育てた愛娘、そして愛弟子だ。お前が再び騎士となる決意をしてくれたことを、私は心から嬉しく思う。存分に腕を揮ってきなさい。お前の真摯な努力は、お前を騎士の高みへ押し上げるだろう」
「……はい、先生」
 肩を震わせて涙をこぼすアーネスの頭を、カーネルはそっと撫でた。堰を切ったように、アーネスの両目から涙が溢れ出す。嗚咽が響く。
「あー! ちょっとお姉ちゃんこんなところに……ってちょっと先生! なにお姉ちゃん泣かしてるのよ!」
 突然扉の向こうにセシリアが現れ、甲高い声とともに部屋に入ってきてカーネルにびしりと人差し指を向けた。そうしつつ彼女はアーネスの肩を抱き、頭を撫でる。
「い、いやセシリア、誤解だ誤解」
「事と次第によっちゃあタダじゃ済まさないわよ、先生!」
「ちょ、ちょっとセシリア! 何してるの、放しなさいよ!」
「こらセシリア、失礼なことをするんじゃない!」
「だってお父様、先生が!」
「だから誤解だって言ってるだろう!」
「先生は黙ってて!」
「お前が黙りなさい、セシリア!」
 クラウスが怒鳴った。滅多に無いことで、セシリアはびくりとして固まった。
「……え? あ、もしかしてほんとに誤解?」
「だからそう言ってるじゃないか……」
 カーネルはげんなりして肩を落とした。セシリアは頭を掻いている。
「あ、あら。あらあら、もうこんな時間? あたくしそろそろ行かないと。それでは皆様、ごめんあそばせ」
「ごめんあそばすわけがなかろう! そこに座りなさい!」
「ひいいいいい」
 烈火の如く怒るクラウスとしょんぼりと縮こまるセシリアに、笑いが漏れる。アーネスは思っていた。この大切な家族を守るために生きよう。騎士としてでも女としてでも、どっちでも構わない。それを実現出来る生き方を、私はしよう――私の、騎士家の血にかけて。