序章

 胸を焼くような焦燥感だけがあった。2羽のチョコボが牽く乗り合いの騎鳥車はお世辞にも乗り心地が良いとは言えなかった。少年は雨の中、小さな――と言っても16歳の自分の年齢の半分に届く少女を抱えて長距離を歩いたため、疲労困憊していた。ずぶ濡れで乗り込んできたこのふたりを、他の客たちは当然怪訝そうな目で見た。少年はそれに気付いていたが、気にしている余裕は彼には無かった。
 彼の師は言った。この子を連れてできる限り遠くへ逃げろと。少女の生まれた経緯を聞かされた少年は激しく動揺した。師と自分と少女に迫る危機を想像すると肌が粟立った。あの場に師をひとり残したことが心残りだった。ただ、彼は自分の決断を疑ってはいない。自分には不可能だと判断したから、師はふたりで逃げろと言ったのだ。彼は師の判断に絶対の信頼を寄せていた。
(それに、彼女もいることだしな――)
 少女は彼の腕の中でぐったりしている。冷静に考えて、状況は楽観できるものではない。熱もあるようだ。彼は持っていた袋から薬草を粉末にしたものと水筒を取り出し、少女に飲ませた。咳き込み、うまく飲み切ることはできなかったが、今よりはましになるだろう。
「大丈夫かい? 随分苦しそうだけど」
 突然掛けられた声に少年はぎくりとした。見上げると少女と同い年くらいの娘を連れた女が腰をかがめて、心配そうにこちらを見ていた。
「ありがとうございます。大丈夫です。薬を飲ませたので」
「何言ってんだい、そんなずぶ濡れじゃ効く薬も効かないよ」
 着替えさせてあげるから、と言って有無を言わさずその女は少女を抱えて幌の隅へ移動した。女の娘が布を広げて他の客からの視線を遮った。
 ドサッと音を立てて、何かが少年の元へ投げつけられた。薄汚れた衣類だった。
「お前も着替えな。ぶかぶかだろうけどな」
 そう言ったのは傭兵風の男だった。少年は礼を述べて、言葉に甘えさせてもらった。
 乾いた服に着替えてほっとしたためか、少々眠ったようだった。目を覚ますと幌の中は少年と少女のふたりだけになっていた。あの娘を連れた女と傭兵風の男にきちんと礼ができなかったのが後悔された。荷物は無事だ。しっかり抱えていたからだろう。
 外の雨も止んでいた。幌から見える風景は、荒野から草原に変っていた。やがて田園の広がる丘へと騎鳥車は進み、少年は目的地が近いことを知った。
 ほどなく騎鳥車が停止し、少年は料金を支払って下車した。
 少女はまだ目を覚まさない。急がなければ、と少年は駆け出した。荷物の袋が一瞬、ぼうっと仄赤く光ったような気がした。