第162話
「サリナ」 名を呼ばれて、サリナは身を硬くした。ゼノアの声には、興奮や高揚は現れていなかった。ただ落ち着いた声音。それには、まるで子を慈しむ親のような、優しさにも似た響きが含まれていた。 サリナは耳を塞いでいた。彼女は叫んだ。叫んだと思った。 だが実際には、彼女の口と喉は乾き、声の欠片すら漏れてはこなかった。 「僕には君が必要なんだ、サリナ」 白衣のポケットに両手を突っ込み、何らの警戒も見せずに、ゼノアはふらふらと歩きながらそう言った。こちらからの攻撃は無いと高を括っているのか。あるいは、攻撃されても問題無いと踏んでいるのか。 「サリナ、僕は君を愛している」 ――これほど空虚な“愛”を、サリナは聞いたことが無かった。 銃声が響いた。 フェリオのマナ弾は、ゼノアの頭部を正確に狙って飛んだ。 だがゼノアは、それをかわした。 フェリオは目を疑った。仲間たちからも、僅かに驚きの声が漏れる。 必殺のタイミングだった。サリナに対してふざけたことを口にしたゼノアの頭を、フェリオは吹き飛ばしてやるつもりでトリガーを引いた。外してやる気など一切無かった。そして、完全な不意打ちだったはずだ。ゼノアは、こちらを見てもいなかった。 しかしマナ弾はゼノアには命中しなかった。 ほんの一瞬、ゼノアの姿がブレたように、フェリオには見えた。マナ弾は研究室の壁に命中し、破壊した。ゼノアには動揺は見られなかった。ただその不気味な視線をフェリオに移し、彼は冷ややかな笑みを浮かべていた。 「おやおや、物騒だねえ。争うつもりは無いって言っただろう?」 嘲るような笑みを口の端に漂わせ、ゼノアは楽しんでいるような声音でそう言った。神経を逆撫でする声に、フェリオは頭が白熱しそうになるのをなんとか自制した。 何かある。彼の直感が、そう告げていた。ゼノアは、こちらの攻撃を回避するための手段を持っている。その正体は、残念ながら今はわからない。下手な手出しは、危険かもしれない。 「それとも、まさかとは思うけど――嫉妬かい?」 今度こそあからさまな嘲笑を、ゼノアは浮かべた。 その表情に、フェリオよりも先にカインが反応した。弟を侮辱する言葉に、彼は鞭を構え、雷を発現させた。バチバチと大気が爆ぜる音。 だが、彼を制止したのは、他ならぬフェリオだった。 「やめろ、兄さん」 「……ちっ」 舌打ちをして、カインは腕を下げた。雷の起こす静電気に逆立つ赤毛が、彼の怒りを象徴しているようだった。 「なかなか冷静だね」 小馬鹿にしたような笑いを貼り付かせたゼノアは、フェリオから目を離さない。カインが攻撃の姿勢を見せても、ゼノアはそちらを見なかった。瑪瑙の座の力を持つリバレーターすら、彼は警戒していない。 「茶番はそのくらいにしておきなさい、ゼノア」 セリオルの声からは、普段の優しさも柔らかさも失われていた。ゼノアの視線が、フェリオからセリオルへ移る。 「ああ、そうだね、セリオル」 面白がるような目で、ゼノアはセリオルを見た。対するセリオルは、鋭い視線をゼノアへ投げかける。 かつて幻獣研究所で、若きふたりの天才として名を馳せた、セリオルとゼノア。セリオルは周囲からの評価を得た。ゼノアはその栄光の影で、密かに恐るべき研究を進めた。希代の天才、その光がセリオルであり、闇がゼノアだった。 「サリナ、僕は君を迎えに来たんだよ」 再び、ゼノアの赤い瞳がサリナを捉える。 サリナの耳は、もはやその声を受け取らなかった。ゼノアに対する怒りや嫌悪。それにこの施設へ来てからの不安や不信、そしてセリオルに対する疑念などが合わさって、彼女の心は乱れていた。冷静になって状況を理解しろというほうが無理だ。 動けないサリナの代わりに、仲間たちが動いた。 セリオル、カイン、フェリオ、クロイス、アーネス、シスララ。6色の光の戦士たちが、サリナをゼノアの目から隠すように、その前へ出た。アイリーンは、その豊かな羽毛で守ろうとするように、サリナの身体を翼で包んだ。チョコボの小さな翼でも、サリナを隠すには十分だった。 「お前にサリナは渡さない」 「おやおや」 武器を構えて警戒するフェリオに、ゼノアは変わらず面白がるような目を向ける。 「サリナをどうするつもりだ、てめえ」 犬歯を剥き出しにしたカインが、激しい怒りを孕んだ声で詰問する。ゼノアは、今度はカインに目を向けた。 「僕に渡す気が無いのなら、それを聞いても意味が無いだろう?」 「屁理屈こねてんじゃねえ!」 ばしん、と雷の鞭が床を打つ。硬質な床が焼け焦げる。 「ふふ。まあいいさ。別に今でなくても構わない」 こちらの感情の動きとは対照的に、ゼノアの言葉は静かだ。自分たちばかりが怒り、焦り、恐れている。それがどうにも不愉快で、カインの怒りを加速させる。 「抑えてください、カイン」 「どうやって抑えろってんだよ!」 頭に血が逆流してくる感覚に抗うのは、至難の業だった。両親の仇が目の前にいる。状況は理解出来ず、敵の企みも、こちらの内にある疑問にも、答えを見出すことが出来ない。怒りと苛立ちばかりが募り、打破出来ない現状に焦燥する。 「だいたいセリオル、あんたがちゃんと説明しないからだろうが!」 吐き出された怒りに、セリオルは沈黙した。魔導師は目を閉じた。再び開かれた時、その目はカインを見てはいなかった。対峙する男、ゼノアに向けられていた。 「今セリオルを責めるのはお門違いよ、カイン」 「ああっ!?」 苛立ちの目を向けられ、しかしアーネスは冷静に答えた。 「今は、あの男をどうするのかを考える時。それ以外のことは、頭から締め出して。私たちが混乱したら、あいつの思う壺でしょ」 憮然として、カインは黙った。気まずい沈黙が落ちる。その場で、ゼノアだけが薄らと笑みを浮かべている。 「君たちも大変そうだね、セリオル。僕からサリナを守るのに、そんな連中で大丈夫なのかい?」 それこそお門違いの言葉に、セリオルは眉根を寄せた。じわりとした怒りが湧いてくる。 「心配無用。それより、自分の身を守ることを考えたほうがいい。私はお前をこの場から逃がすつもりは無い」 「はは。なかなか気の利いたジョークだね」 瞬間、セリオルの杖が閃いた。 ガルーダの風が、刃となって飛ぶ。手に入れたばかりの瑪瑙の座の力を、セリオルは遺憾なく発揮した。ヴァルファーレのものよりもなお鋭く、迅速に飛ぶ風の刃。 だがまたしても、ゼノアはほんの僅かに立ち位置をずらし、その攻撃をかわした。 セリオルは沈黙した。正体不明の、ゼノアの力。セリオルが知る限り、ゼノアにそれほど素早い身のこなしが出来るはずは無かった。何をしているのかわからず、それが不気味だった。 「いずれにせよ、サリナ。君は僕のところへ戻ってくる――そういう運命なんだ」 セリオルからの攻撃など意にも介さぬ様子で、ゼノアはサリナに語りかけた。サリナがびくりと身体を震わせる。王都で対峙した時の燃えるような怒りは、影を潜めていた。 「どうせここには、もう用は無い。サリナの顔も見られたことだし、今日はこれで退散するよ」 「逃がすつもりは無いと言っただろう」 「やれやれ。強がるのはやめにしたらどうだい、セリオル。それにそんな怒った顔、君には似合わないよ」 困ったものだ、とでも言いたげな表情を、ゼノアは作ってみせた。こちらの力など知れている――暗にそう言われたことが、セリオルたちの怒りを煽る。 「ナメんじゃねーぞ、てめえ!」 爆発したのはクロイスだった。アーネスの制止も間に合わず、少年は飛び出した。シヴァのマナが力を与える。持ち前の素早さを更に加速させ、両手の1本ずつの短剣を構えたクロイスは、ゼノアに肉迫した。既にデジョンの装置へ向かおうとしていたゼノアは、半身だけ振り返った。薄気味の悪い笑みが近づく。 クロイスの攻撃は完璧だった。瞬きひとつの間にゼノアに迫った短剣の、冷徹な光が閃いた。 極光一閃。氷妃シヴァに祝福された氷の刃が、凍てつく紺碧のマナを纏ってゼノアを切り裂いた。攻撃は命中した――こともなげに。 だが、クロイスはすぐにその場を離れた。強烈な違和感があった。 彼が切り裂いたゼノアの姿は、目の前にある。不気味な笑みを浮かべ、彼を見ている。 全身から冷たい汗が噴き出すのを、クロイスは感じた。恐ろしく不気味だった。 「手ごたえが……ねえ」 彼の短剣は、確かにゼノアを捉えた。しかしその手には、何の手ごたえも伝わってこなかった。あって然るべき、人間の身体を斬った感覚が、無かった。ゼノアを捉えたはずの攻撃は、まるで空を切ったかのように虚ろだった。 「後ろだ!」 カインの鋭い声。驚愕して、クロイスは振り返った。 ゼノアが、いた。 総毛立つ思いで、クロイスは床を蹴った。 ゼノアは何もしなかった。ただそこに立ち、クロイスが退避するのを見ていた。 早鐘のように打つ心臓が落ち着くのを、クロイスは待てなかった。何が起きたのか、まるでわからなかった。ついさっきまで見えていた、彼が切り裂いたはずのゼノアの姿は、当然のように消えていた。代わりに、仲間たちに背を向け、自分のほうを向いて立っているゼノアがいる。白衣のポケットに手を突っ込んで、にやにやと笑っている。 「さて、じゃあ僕は帰るよ」 遊びに来た友人の家を辞去する時のような気軽さで、ゼノアはサリナたちを振り返った。戦意を喪失したクロイスを、もはや彼の瞳が映すことは無かった。 自分の前を悠然と横切るゼノアを、クロイスは荒い息を隠すことも出来ずに見つめていた。その間、ゼノアはただの一度も、クロイスを見なかった。 「ああ、そうだ」 デジョンの装置に足を掛けた時、そう言ってゼノアは再び振り返った。サリナたちに緊張が走る。 「そういえばどうだった? カスバロの研究の成果は」 どくん、と心臓が跳ねるのを、サリナは感じた。カスバロとの戦闘が脳裏に蘇る。 「まあ大したことは無かっただろうね。君たち全員が無事のようだし、彼の姿は見えないし。マナを使い果たしたか、あるいはセリオル、君が従えたその幻獣に吸われたか。どっちかというところかな」 ゼノアは、心の底からどうでもいいという声で一方的に話した。自分のためにとその身を魔物に変じて戦った部下のことを慮るという感情が、彼には無いようだった。また、苦労して手に入れたはずのガルーダがセリオルの手に渡ったことについても、それほど興味が無いようだった。 「彼は本当に本当に、無能だったねえ」 やれやれ、というように手を上げ、深い溜め息を吐く。ゼノアが何を言っているのか、サリナにはわからなかった。あの薬は、脅威だった。塵魔はまだまだいるはずだ。ゼノアの部下の中には、カスバロのように命を投げ打つほどの忠誠心を持つ者も、まだいるかもしれない。 「塵魔なんて失敗作に入れ上げて、オルガマージだか何だか騒いでたみたいだけど……あんなもの、幻魔も黒騎士もいるっていうのに、何の為に研究したんだか。理解に苦しむよ」 セリオルが息を呑むのに、フェリオは気づいた。恐らく、自分と同じことに気づいたのだろう。 じっと、フェリオはゼノアを見ていた。仇敵は続ける。 「まあ、サリナ、君の共鳴度を上げる役には立ったかな?」 「あなたが、あの方をここへ遣わしたのではないのですか?」 シスララの声だった。震えていた。怒りを、その声は纏っていた。 「うん、そうだよ」 「……なんて非道な」 シスララは怒っていた。それを感じて、ソレイユも怒りの声を上げる。 だが同時に、シスララは遣る瀬無い思いも感じていた。 カスバロは、塵魔アトモスを道具として扱った。彼女はそれを見た時、今と同じ怒りを感じた。命あるものを単なる道具としてしか見ない者を、彼女は許せなかった。 カスバロは、塵魔を道具として扱った。そしてゼノアは、カスバロを道具として扱った。ふたりはいみじくも、同じ性質を持っていた。生命の尊厳をないがしろにする、人間にあるまじき性質だった。 だがカスバロも、考えはしなかっただろう。 まさか、ゼノアが自分を買ってなどいなかったなんて。 「……ゼノア」 その声は、サリナの口から漏れた。 仲間たちは、そのことを理解するのに数秒を要した。 アイリーンの翼から出て、サリナは歩み出た。ゼノアのおしゃべりが、サリナに落ち着きを取り戻すだけの時間を生んだ。 「サリナ、大丈夫か?」 フェリオの声に、サリナは短く頷いた。 ゼノアは面白がるような目で、サリナを見ている。 「教えて、ゼノア」 胸に手を当て、真紅の光を纏う少女は詰問する。ゼノアは片方の眉を上げて、それに応えた。 「あの、光纏う者たち……あれは、何?」 その問いかけは、痛いほどの沈黙を生んだ。 カインも、フェリオも、クロイスも、アーネスも、シスララも、じっと息を殺した。 セリオルは、瞳を閉じていた。 そして、サリナは見た。 大きな笑みが、ゼノアの顔に広がるのを。 「ふふふ……セリオルは、何て言ったんだい?」 質問を質問で返すゼノアに、しかしサリナは兄の顔を見ることしか出来なかった。セリオルは、じっと目を閉じて沈黙している。 「幻魔の失敗作だろう、って」 サリナは本当のことを答えた。セリオルは何も言わない。 ゼノアは、満足そうに笑った。 「うん、そうだね。幻魔の研究の過程で生まれた失敗作――間違ってはいないな。流石はセリオル」 そう言って、ゼノアはセリオルを見た。 セリオルの瞼が上げられた。その目に、サリナはびくりとして固まった。 恐ろしいまでの怒りを宿した目だった。その意味するところはわからない。ただ、この瞬間にセリオルが、ゼノアと決定的に対立した――何かそんな雰囲気だけがあった。 「じゃあ、僕は帰るよ。元気でね、サリナ、セリオル」 セリオルの視線を軽くかわして、ゼノアは再びデジョン装置に向き直った。 その時、狂える天才の目が、ある1点に留まった。 「お前……」 そこにいたのは、チョコボだった。 サリナを守ろうと翼を動かしていた、アイリーン・ヒンメル。陽光色の美しい羽毛と、大枯渇によってマナを奪われ、真っ白に脱色してしまった尾羽を持つチョコボ。 王都での黒騎士との戦いの時、その圧倒的な闇のマナを押し返した、不思議なチョコボだ。 アイリーンは鳴かなかった。ただ、その賢そうな瞳で、ゼノアを見つめていた。 「まあいいさ。お前もいずれ、僕が研究してあげるよ」 そう言い残して、ゼノアはデジョン装置に入った。機械が唸る音。闇のマナが発生し、黒い光が溢れると同時に、ゼノアの姿は消えていた。 その途端、全員が床に座り込んだ。 緊張の糸が切れ、荒い呼吸の音だけが響く。しばらく、彼らはそうしていた。 「……何しに来やがったんだ、あの野郎」 不服そうなカインの声が漏れる。誰も答えなかった。だが、彼らは同じ考えを抱いていた。 ゼノアは、サリナを見に来たのだ。 サリナは、仲間たちの視線が自分に集まるのを感じた。だが、彼女は顔を上げなかった。 いくつもの疑問が頭を埋め尽くして、何から考えればいいのかわからなかった。 やがて、疑問はサリナの頭の中で、大きくふたつに大別されていった。結論を出せる疑問と、出せない疑問とだ。 ほとんどが、結論を出せない疑問にカテゴラズされた。そしてサリナは、それらについては一旦、考えるのをやめた。ここで考えても答えが出ない以上、考えるだけ無駄だ。そんなことをしても心が苦しいだけだ。 そして、彼女の思いはあるところへ帰結していった。 ゼノアの目的だ。 カスバロは、サリナの共鳴度を上げる役には立った――ゼノアはそう言った。つまり、ゼノアはサリナの共鳴度が上がることを歓迎している。 共鳴度とは、マナに関してどれだけ敏感であるかの度合いだ。共鳴度の高い者ほど、他者がマナや魔法を操ることなどに気づきやすく、またマナの発生を感知しやすい。アシミレイトにおいても、共鳴度が高い者ほど、例えば同じ幻獣をアシミレイトしても、強い力を引き出すことが出来る。 サリナがマナを感知する力に優れ、碧玉の座であるサラマンダーのマナを使ってもあれほど強力な攻撃が出来るのは、彼女の共鳴度が飛びぬけて高いためだ。 生来の素質に加えて、これまでの旅の中での数え切れないほどの戦闘で、サリナの共鳴度は更に高められていた。 それを、ゼノアが歓迎している。 自分が戦い、強くなること。特にマナに関しての力を身に付けること。それは、ゼノアの狙いでもあるのだろうか。だとしたらどうすればいいのだろう。戦わなければいいのか。そんなわけにはいかない。敵はどんどん強くなっている。ゼノアの手によるものたちも、この先増えていくだろう。 自分がマナの力を増すのは、まずいのではないだろうか―― そこまで考えた時、突然目の前に強い光が現れた気がして、サリナは顔を上げた。 それは光ではなく、言葉だった。さきほどセリオルが口にした、地名だった。 炎の幻獣、瑪瑙の座。激しき火炎のマナを司る、猛々しき神。その名も炎神イフリート。その御座があるという場所。 ファーティマ大陸の北端、峻険な峰々の中でも最も高き霊山、銀華山。そこは、サリナが学んだファンロン流武闘術の総本山である。マナとは関係の無い、武道の力。師ローガンから授けられた奥義書を、サリナは思い出した。 銀華山でなら、そこで身に付けられる力なら、ゼノアの思惑からは外れることが出来る。サリナは、顔を上げた。 そこには、セリオルの姿があった。立ち上がり、額に手を当てて、兄は呟いた。 「……幻魔は、完成しているのか」 |