第163話

 ハロルド・バルテンは16歳の少年である。工業の街ロックウェルで生まれ育った。そしてこの街に暮らす男の子たちのほとんどがそうであるように、彼もまた蒸気機関技師に憧れ、機械工学を志した。
 彼は決して優秀ではなかった。そもそも、彼の才能は工学に向いてはいなかった。どちらかというと、書物を読んだり、芸術を愛でたりすることのほうが好きだった。
 それゆえ、ハロルドは同い年の少年たちの何倍も努力をした。せめて同じ場所に立つことが出来るようにと、共に技師への道を歩む友たちに遅れぬように、彼は努力をした。
 その結果、彼はロックウェルで――いや、エリュス・イリアで最も優れた技師である、シド・ユリシアスに師事することになった。
 周囲は喝采と羨望を同時に向けた。家族や親族は彼を誇り、友人たちは彼を祝福した。ハロルド自身の素直さと謙虚さとが、彼の栄誉に対して向けられると思われた妬みの言葉を退けた。
 かくしてハロルドは、シドの家――蒸気機関搭載住宅と呼ばれる、わけのわからぬ機械で埋め尽くされた、しかし世界最高峰の知識と技術が詰まった研究所兼住宅へとやって来た。
 そしてそこで、彼は出会った。
 それは彼と同じか、それ以上の努力を重ねた男だった。彼は生来の才能や思考の癖も蒸気機関技師に向いたものだった。彼自身は気にもしないようだったが、周囲は彼を“努力する天才”と評していた。実際、そう呼ばれるに値するだけの実績を、彼は極めて短期のうちに挙げていた。
 ハロルドは、その男に憧れた。男と言っても、まだ大人と呼べる年齢ではない。ハロルドよりもたった2歳年上であるだけのその先輩に、ハロルドは強烈な憧れを抱いた。
 ハロルドが先輩の背中を追いかけるようになるのに、時間はかからなかった。自分を慕うハロルドを、先輩はかわいがった。ただ彼自身も、シドの弟子の中では若年にあたる。それこそ、ハロルドが来る前は、彼が最年少だった。初めてできた後輩の面倒を、彼はあれこれと見てくれた。
 彼の名は、フェリオ・スピンフォワード。僅か18歳にして竜王褒章を受章した、シド博士の秘蔵っ子である。
 そのフェリオが、塞ぎ込んでいる。リンドブルムの船内、食事に使う部屋の椅子に座って、フェリオはじっと何かの本を読んでいた。
 昨日の朝、フェリオたちは船に戻って来た。チョコボたちの足音が聞こえた時、ハロルドは慌てて甲板へ出た。
 出迎えたハロルドに、しかしフェリオたちは明るい声を向けはしなかった。全員が疲れきっていて、その声には力が無かった。
 話すのも辛そうなその様子に、ハロルドは詳しいことを訊くことを控えた。まずは疲れを癒してもらおう。彼はすぐに船内にある浴室の準備をした。入浴の施設は元々あったが、早掻の海を渡るための改造の際、その給湯設備にも手を加えた。海水を真水に変換して煮沸消毒し、入浴用の湯として使えるようにする装置を追加してある。
 湯を使ったフェリオたちは、食事を採ることも無くそれぞれの部屋に戻った。その後しばらく、誰も部屋から出てこなかった。そしてひと晩が経過した。
 波は穏やかで、空は快晴だった。絶好の航海日和だ。
 だが、出航の指示はまだ無かった。
 ファーティマ大陸沖に停泊させたリンドブルムの甲板。黙して本を読むフェリオに温かいコーヒーを出したハロルドは、魚でも釣ろうと、そこへやって来た。
「……あれ」
 先客がいた。動きやすそうな軽装に、赤い髪。甲板のへりにもたれかかって座り、カインは青い空を見ていた。
「お?」
 こちらに気づいたカインは、軽く手を挙げた。
「よお、ハロルド」
「おはようございます、カインさん」
「おう、おはよう」
 カインは唇の端をニッと上げた。いつものいたずらっぽい笑み。明るい空の下、カインの笑顔はハロルドの心を軽くさせた。
「隣、いいですか?」
「おう」
 魚釣りの道具を置いて、ハロルドはカインの隣に腰を下ろした。同じようにへりにもたれ、脚を投げ出す。空は高く青く、どこまでも澄んでいる。
 しばらく、波の音を聞いていた。
 やがて、ハロルドは口を開いた。
「カインさん」
「ん?」
 カインの声はいつもと変わらなかった。フェリオの様子を見にやって来ては、シドと下らない喧嘩をしていた。頭を抱えるフェリオの隣で、カインはいつも楽しそうだった。
 ハロルドは、カインの横顔に問いかけた。
「訊いても、いいですか?」
「……ああ、いいぜ」
 答えたカインの様子は、やはりいつもと同じだった。心地良く肌を撫でる穏やかな海風に、目を閉じている。そのまま眠ってしまうのではと思えるくらい、リラックスした表情だった。ひなたで丸くなって昼寝をする猫を、ハロルドは連想した。
「何があったんです……その、研究施設で」
「……そうだな」
 ぐっと伸びをして、カインは身体を起こした。半分寝そべっていた上体をまっすぐにして、しかし彼は、やはり空を見ていた。
「お前も、俺たちの仲間だ。知っておく必要があるよな」

「ったくなんであんたはそうデリカシーが無いのよ!」
「はっはっは。まあそう言うなよ。ありゃ事故だ、事故」
「何が事故よ! 死んで反省しなさい!」
「ぶべらあっ!?」
 アーネスのコークスクリューパンチが、カインの顔面にクリーンヒットした。カインは錐揉み回転しながら、食堂の壁に叩きつけられた。ずるずると床に崩れ落ち、ぴくぴくしている。サリナは苦笑した。
 何の前触れも無くカインがアーネスの部屋の扉をいきなり開いたのは、ほんの少し前のことだ。
「メシだぞメシ! 早く来いよ!」
 朝の入浴を済ませ、アーネスはちょうど着替えをしているところだった。無防備に晒された肌に、カインの視線は吸い寄せられた。そして船体を揺らす凄まじい怒声が響き、最終的にカインはぴくぴくすることになった。
「女性の部屋にノックも無しに入ってくるなんて、一体何を考えてるのよ! 何も考えてないんでしょう、どうせ!」
「もう聞こえてねーって」
 顔を真っ赤にして怒鳴るアーネスにそう言いながら、クロイスは楽しそうに笑っている。
 ハイドライトから戻り、心身ともに疲れ果てたサリナたちは、泥のように眠った。夜を徹した激しい戦いであった上、精神的にも厳しい時間が多かった。途中で用を足したり、空腹に耐えかねて何か食べたような気もするが、サリナはそのほとんどを覚えていない。
 そして今朝、サリナはアーネスの嵐のような怒声で目を覚ましたのだった。
「教育がなってないわよ、フェリオ! どうなってるの!」
「アーネス、知らなかったかもしれないけど、俺、弟なんだよ。兄さんを教育する立場じゃないんだ」
「立場の問題じゃないでしょ!?」
「ええっ」
 無茶苦茶なことを言い始めたアーネスの前で困惑するフェリオを見て、サリナが笑う。
「ま、まあまあ、アーネス。カインも反省しているようですし、そのへんで……」
「さっきのどこが反省してるっていうの!?」
「はい、すみません」
 ぺこりと頭を下げて、セリオルはアーネスの前から退散した。怒り心頭に発したアーネスを止められる者は、この場にはいなかった。
 かくして朝食の場は、ぴりぴりした空気と笑いを堪える空気が複雑に絡み合い、なんとも言えぬ雰囲気でスタートした。
 顔面をぼろぼろにしたカインは、存外平気そうな表情で――顔そのものは決して平気そうではなかったが――ベーコンエッグを口に運んでいる。その隣で、アーネスは憤然たる面持ちでフォークを使っていた。
 ハロルドが淹れたコーヒーをひと口飲んで、カインは呟いた。
「いやーいいもの見た」
「死ね」
「ブフゥ」
 目と目の間の鼻梁に見事に炸裂した手刀によって、カインは自らの頭に綺麗な放物線を描かせて後ろへ倒れた。持っていたカップの中から、漆黒のコーヒーが流れ落ちる。それは重力に従って落下し、先に床に叩きつけられたカインの腹部に注がれた。
「だちゃちゃちゃああああああっ!?」
「うるさい!」
 アーネスに一喝されても熱いものが冷めるわけではなく、そのままカインは床を転がって悶絶した。フェリオが頭を抱えて嘆息する。サリナとシスララは可笑しそうに笑っている。セリオルは苦笑いを浮かべてコーヒーを飲み、クロイスは爆笑している。
 厨房から出て、ハロルドはその光景を眺めていた。
 いつものみんなだ。これまでどおり、賑やかで楽しい一行。爽やかな朝陽の差し込む船内食堂で、彼らはいつもと同じように笑い、さんざめいている。
 だが。ハロルドは、違和感を覚えずにはいられなかった。
 その正体はわからなかった。ただ、食卓を囲む彼らの笑顔や声のどこかに、目に映らないほど幽かな違和感があった。
 昨日、カインから聞いた話が脳裏をよぎる。
 彼らは、互いを大切な仲間だと認識している。7人が7人を思い合い、普段は口汚く罵りあったり愚にもつかない謎の議論を戦わせたりしながらも、互いを守り合い、助け合っている。戦闘の場を見てはいなくとも、ハロルドにはそれが感じられた。
 かけがえの無い、仲間としての絆。それがこの7人を、強くしている。
 その絆に、綻びが生まれた。
 昨日、カインは語った。
「正直、俺もどうしていいのかわかんねえ」
 船に甲板に仰向けに寝そべって、カインは溜め息交じりにそう言った。青い空を映す彼の瞳は澄んでいた。明るい太陽の光を受けて、カインはその目を細めていた。ハロルドは知っていた。カインが目を細めるのは、眩しいことだけが理由ではなかった。
 幻獣研究所の秘匿研究施設、ハイドライト。そこで目にしたいくつもの事実と、いまだ目に出来ない隠された真実。その鍵を握っているのはゼノアであり、サリナであり、そしてセリオルだった。
「セリオルが俺たちを――サリナを裏切るとは思えねえ。でも、サリナに言えないことがあることも、もう隠しようがない。それにたぶんそれは、サリナが何よりも知りたがっていることに直結する何かなんだと思う」
 それ以上、カインは何も言わなかった。いや、言えなかったと言うべきか。彼も知っていることが少ないのだ。彼がハロルドに説明できることは、それほど多くはなかった。
 今、彼らは食卓を囲み、笑っている。だがその和やかな景色のどこかに、気配を消すことこの出来ない影が潜んでいる。
 ハロルドは懸念する。この違和感は、時の経過が消してくれる類のものか。あるいは――
 何か根本的なことが解決されない限り、居座り続けるものか。

 海陽の船リンドブルムは、その蒸気機関仕掛けの外輪を大きく駆動させて早掻の海を進む。針路は北東。ファーティマ大陸の南東側の岸に沿うようにして、リンドブルムの足は好調だった。
 早掻の海の波は荒い。時には大きくうねるようにして襲い来る波を、リンドブルムは豪快に掻き分けて進む。
「フェリオ……俺ぁもう、だめだ」
「うん、しょうがないな」
「んまっ、なんて冷たいんざましょ」
「そんだけ喋れるんなら大丈夫だろ」
「うう」
 ぎったんばっこんとシーソーのように揺れる甲板で、カインは倒れていた。フェリオはいつまで経っても治らない兄の船酔いに辟易し、芋虫のように甲板を這う情け無い姿には目を向けず、ぼんやりと青い空を見ていた。
 ハイドライトでの戦いから、数日が経過した。彼らは次なる目的地、銀華山を目指して船を進めている。
 幻獣研究所の研究資料の中から、瑪瑙の座の炎の幻獣イフリートの御座が、その銀華山であることがわかった。正確に言うと、その可能性が高いことが判明した。
 だが、彼らは皆、半信半疑だった。
 イフリートの御座があるということは、そこは炎の集局点であるはずだ。だが銀華山は、極北の雪山として知られる山である。その厳しい環境ゆえ、修験者や武術を志す者たちの修行の場として使われる。ファンロン流武闘術の総本山が腰を据えるのも、そういった理由からだろう。
 一切の甘えを許さない極寒の高山が心身を鍛えるのに適した場所であることは、想像に難くない。
 そんな場所が、本当に炎の集局点なのだろうか。むしろシヴァの御座であるほうがしっくりとくる。
 いずれにせよ、彼らは銀華山へ向かう。幻獣たちが示す大まかな場所と一致していることもあったが、それはサリナの意見によるところも大きかった。
 ゼノアが語った、サリナのマナ共鳴度の高さのこと。マナの存在を察知する感応力や、幻獣とのアシミレイト時の同調性の高さ。それらがマナ共鳴度の高さに比例することはわかっていた。
 だが、ゼノアがサリナの共鳴度が高まることを狙っていることは、あの暗い穴ぐらでの戦いで初めて知ったことだった。
 考えてみれば――とフェリオは回顧する。これまでに撃破してきた、強力な魔物たち。特に最近は、ゼノアの手の者が多かった。ゼノアがサリナの共鳴度を成長させるために、その材料として寄越した可能性も否定出来ない。配下の者の命をあれだけ軽んずる男だ。ありえない話ではなかった。
 仮にそうだとすると、更に恐ろしい仮説が成り立つ。
 ゼノアは、自分たちの行動を把握している。でなければ行く先々に的確に、強力な魔物――あるいはブラッド・レディバグ――や塵魔を遣わせることは出来ないだろう。
 フェリオは頭を振った。考えすぎかもしれない。いかにゼノアといえど、今やエリュス・イリアの海を渡る自分たちの行動を、全て監視することが出来るとは考えにくい。
 それにしても、ゼノアの目的は何なのだろう。
 ブラッド・レディバグ、塵魔、黒騎士。いずれも厄介な敵だ。幻魔にはまだお目にかかっていないが、あの強力な塵魔がその失敗作であるというのだから、よほど強力なものなのだろう。
 だが、それらの強大な力を持つものどもを生み出して、一体何がしたいのだろう。
 そして、何のためにサリナを必要としているのだろう。
 セリオルは、ゼノアが世界樹を、この世界のマナを占有しようとしていると言った。かつて世界に反旗を翻した、狂皇パスゲアのように。
 パスゲアは、ヴァルドー皇国の皇帝だった。巨大な野心を抱いたパスゲアが、このエリュス・イリア全土を我が物としようと画策したことは、理解は出来ないが想像は出来る。強い力を持った国の主なら、その権力を全世界に拡げたいと考えることもあるだろう。
 だがゼノアは、ただの研究者だ。今となっては国王すらその支配下に置いたかもしれないが、元は幻獣研究所の、一介の職員に過ぎなかった。そんな男がなぜ、幻魔や黒騎士といった危険極まりないものを生み出し、王国に背こうとするのか。
 フェリオは思考する。だがどれだけ考えても、ゼノアの頭の中を覗くことは出来なかった。
「……やっぱり、セリオルに聞くしかないか」
 ぽつりと、フェリオは呟いた。
「今はやめとけ」
 聞こえた声に驚いて、フェリオは顔を上げた。兄が、真っ青な顔でこっちを見ていた。
 甲板にうつ伏せになり、芋虫が這う時のように腰を浮かせた、間抜けな姿で。表情だけは真剣だ。
「兄さんは気にならないのか」
「気になるさ。すげえ気になる」
 青い顔のまま、カインは答える。声が震えている。
「でも今はだめだ」
「どうして?」
 疑問を口にする弟に、カインは静かな目を向ける。その瞳は、光を失いつつある。
「サリナがナイーブになってる。俺たちが引っ掻き回していいことじゃない。サリナとセリオル、あのふたりが、ふたりで解決するべきだと俺ぁ思うぜ」
「……そうだな」
 そう答えて、フェリオは兄から顔を背けた。
「今はまあ、銀華山へ行こうぜ。何があんのかわかんねえけど、とりあえず行こう。敵が出るんなら戦って、サリナは総本山で修行か何かする。んで奥義を身に付ける。がむしゃらに行くんだ。めんどくさいことをとりあえず置いといて、頭が空っぽになるまで動き回るのも悪くないさ」
「確かに、今はそういうことも必要かもね」
 いつの間にか、アーネスとクロイス、シスララの3人が甲板に来ていた。後ろにハロルドの姿もある。
「私も、セリオルに訊いてみようと思ったけど……訊きにくいわね、今は」
「ああ、そうだな」
 相槌を打ちながら、フェリオは立ち上がった。そしてやって来た4人に向かって、両手の平を向ける。
「なんだよ、そっち行っちゃまずいのか?」
「まずい」
 憮然とするクロイスに、フェリオは素早く首を振る。
「あらまあ……カインさん」
 口に手を当てて、シスララがぽかんとした声で言った。
「オロロロロロロロ」
 芋虫が吐いていた。