第190話
夢の中の景色を見ているようだった。 眼前の出来事は、まるで分厚い硝子か何かの壁で仕切られた向こうのことであるかのように、サリナには現実感が感じられなかった。 少女が燃えていた。鮮烈な炎のマナが、彼女の背中に1対の翼を形作っていた。炎は渦を巻き、墓地そのものを焼き尽くすのではと思われた。サリナは叫んだ。やめて、みんなを傷つけないで――! 杞憂だった。炎は仲間たちを攻撃すること無く、逆にその傷を癒した。癒しの力を持つ炎――その正体はわからないが、サリナにはそんなことに思考を傾ける余裕は無かった。ともかく、彼女は安堵した。もう駄目かと思った。理由はわからないが、なんとか助かったようだ。 ベヒーモスが燃えている。少女の炎は、サリナたちの敵だけを攻撃したらしい。ということは、この少女は味方なのか……そんなことを、サリナはぼんやりと考えていた。炎のマナに包まれ、真紅の鎧と薄桃色の衣のようなものを全身に纏った少女。そして炎のような、紅の髪。 現実感の乏しいその光景を見ながら、サリナの思考は停止していく。目に映っていることを認識できてはいるが、そのことに関する考えが消えていく。少女の炎はベヒーモスの命を奪う前に光の粒となり、仲間たちに降り注いで癒しの力となった。 ベヒーモスが立ち上がる。だがそのこと関する危機意識は、既にサリナの頭からは消えていた。 なんだか眠くなってきた。瞼が重くなることに、サリナは抗えなかった。 意識が消えそうになるのを自覚しながら、サリナは眠気に身を任せた。考える力は消え、ただこのまま眠ってしまいたいという欲求だけが残った。睡魔はサリナの意識を、闇の底へと連れ去る―― そこに、光が閃いた。 瞼の上からでも届く眩く力強い光に、サリナの意識が僅かに覚醒する。 その銀灰の光が、サリナを深海から引き揚げていった。混濁した意識の澱が身体からするりと滑り落ちていく。 銀灰が記憶の中から呼び覚ますその名を、サリナは叫んだ。 「――けて……たすけて……フェリオ!」 「ああ、大丈夫だ。ここにいる」 その声が、サリナの視界に光を取り戻した。 皇家の墓。破壊し尽くされた聖地は、抜けた天井から光が差していた。苔むした石の床や天井は無残な姿を晒し、へし折れた石柱が転がっている。この広い空間を支えていたものが破壊され、墓地はいつ崩壊してもおかしくない有様だ。 上のほうから声が聞こえる。フランツの声だ。内容はよく聞き取れない。だが状況から、地上に集まっているナッシュラーグ市民たちに、墓地へ開いた穴への立ち入りを禁ずる旨を告げているのだろうと推測できた。 「フェリオ……」 サリナは、フェリオに仰向けに抱きかかえられていた。だから天井に開いた穴が見えた。差しこむ光も見えた。そして、逆光ではあったが、自分を見つめるフェリオの目も、見えた。 「ふぇ……!?」 急速に状況を理解し、顔面がカッと熱くなる。慌てて起き上がろうとする。 「痛っ……」 「無理するな。まだ休んでるほうがいい」 「う、うん……」 全身が痛かった。記憶が曖昧だ。ベヒーモスはどうしたのか。仲間たちは……? フェリオの声が落ち着いていることに安心を感じながら、サリナは首を動かした。ともかく今、戦闘は終わったのだ。誰がどうやってベヒーモスを倒したのかがわからないが、それよりも気になるのは、セリオルたちのことだった。 動かしにくい首をなんとか伸ばして見ると、仲間たちは全員無事のようだった。傷つき、疲労の色が濃いが、おのおの崩れた石壁や石柱に腰を下ろしいる。セリオルの薬とアーネスの風水術で傷の治療が行われていた。 「フェリオ……」 安堵と混乱がないまぜになった声で、サリナは自分の頭をその腕で支え、身体を脚に載せてくれている少年の名を呼んだ。 「ん?」 「あ、あの……重くない?」 僅かな沈黙が落ちた。訊いてすぐ、サリナは後悔した。顔が再び熱くなる。 そんなサリナの顔を見て、フェリオはぷっと吹き出した。 「ひ、ひどい!」 「ははは。ごめんごめん。いや、この状況で最初に訊くのがそれか、と思って」 「うう……」 「大丈夫、重くないよ。サリナ、小さいし」 「……なんかそれはそれでヤだなあ」 顔を赤くしながら、サリナはフェリオの笑いが収まるのを待った。フランツの声が、仲間たちが会話する声が聞こえる。どうやらサリナ以外は、既に状況を理解しているらしかった。 「フェリオ……あの、どうなったの? ベヒーモスは? オーディンは?」 「……やっぱり、覚えてないか」 「え?」 どこから話したものか――という風に、フェリオは視線を泳がせた。その表情に不穏なものを感じながら、サリナは待った。 「……おい」 その突然響いた声に仰天し、サリナは声の主を探した。身体がびくっとして痛みが走る。 聞いた瞬間に確信した。戦鼓のようなその豪壮な声。サリナたちの知る、あの特別な存在だけが発する特殊な響き。 今の今までその存在に自分が気付かなかったことに驚きながら、サリナは光の元を探した。 フェリオの背後、サリナのすぐ近くに、彼はいた。 マナの光は抑えられていた。普段であれば意識せずとも、その強烈なマナでサリナの感覚に突き刺さる存在。今はサリナの感覚も混乱しているのだろう。自分の腕の中で驚いているサリナの様子を見て、フェリオはそう判断した。 「私を完全に無視して話し込むとは……やれやれ」 身体が痛むが、サリナは急いで起き上がった。さすがに神と話すのに、寝そべっているのは無礼が過ぎる。回復の魔法を詠唱する。マナの力が、サリナの傷を癒す。立ち上がったサリナのそばに、仲間たちも集まってくる。 戦騎、オーディン。力の幻獣、瑪瑙の座。他のマナの力を増幅する能力を持つ、力のマナ。あらゆるマナの中でも特異な性質を持つそのマナを司り、戦う者に大いなる力を与える戦神。黒き甲冑にその身を包み、長大な神槍を携えし騎士。 「改めて、礼を言うぞ。我が友が選びし戦士たちよ」 セリオルがサリナのために簡単にした説明によると、オーディンはベヒーモスの亡骸から出てきたということだった。カーバンクルの時と同じように、オーディンもまた、ブラッド・レディバグの魔物によってマナの球体へと変換され、体内に取り込まれていたのだった。 「オーディン」 進み出たのはフェリオだった。黒き甲冑の騎士が、銀髪の少年と向かい合う。 「あなたの力を、俺に貸してもらいたい」 「うむ、もちろんだ」 オーディンの快い返答に、サリナはほっと胸を撫で下ろした。戦騎は銀灰の光を放ち、美しいクリスタルとなってフェリオのリストレインへと収まる。 「ふう。ようやくだな」 カインが、ぐっと背伸びをしながら呟いた。その言葉の意味するところを、サリナはすぐに察した。 瑪瑙の座。幻獣たちの位階の中で、第2位に位置する彼らの、闇属性を除いた全てが、サリナたちの許に集ったのだ。 サリナはモグチョコを取り出した。フェリオにはまだ、大切な仕事がある。 美しい音色と共に光が現れ、そこからモグが勢い良く飛び出してきた。 「ク~~~~~ポポ~~~~~~!!」 縦に回転しながら飛び回り、ぴしっと静止してポーズを決めるモグに、サリナたちから笑いが起きる。笑われた理由がわからないのか、モグは首を傾げてふよふよしている。 そのまま踊ろうとしたモグだったが、ここがどこなのかに気づいて固まった。 「ク、クポ……また怖いところにいるクポ~~~」 「怖いところ?」 飛びついてきたモグを胸に抱いて頭を撫でてやりながら、サリナが問い返す。胸の中で、モグはこっくりと頷いた。 「ここは、魔神のマナが濃いところクポ……」 「ま、まじん……?」 聞き慣れない言葉に、サリナは目をぱちくりさせる。モグは震えてこそいないものの、サリナにぎゅっとしがみついて離れようとしない。 皆がモグに注目する中、フェリオは別のところを見ていた。 先ほどから何かを考えているらしき様子の、セリオルだ。モグが“魔神”という言葉を口にした瞬間、その表情が変わった。ほんの僅かな変化だったが、フェリオはそれを見逃さなかった。とはいえ、ずっとセリオルを見ていたわけではない。彼がそれに気づいたのは、偶然だった。 だがその変化は、フェリオの興味を刺激するには十分だった。 「なんだよモグ、ビビッてんの?」 クロイスがからかい半分にモグのぼんぼりをぽんぽんする。赤い玉がぷらぷら揺れる。 「び、ビビッてなんかいないクポ~」 「ほほーう」 クロイスはモグの頭を掴み、サリナから引き剥がそうとぐいぐい引っ張った。モグは抵抗する。 「ちょ、ちょっと、ちょっとクロイス! 破れる、破れるから!」 「あ、わりいわりい」 なんとなくモグがしがみついていたあたりが伸びたような気がして、サリナは憤慨した。ともかくモグはサリナから離れ、空中でふらふらしている。 「もうさっさと済ませちゃうクポ。神晶碑クポ? 早く済ませて帰るクポ~」 「相変わらず軽いわね……」 よくわからない理不尽さを感じて、アーネスは額に手を当てる。 「うふふ。可愛いですね、モグさん」 「モグにまでさんづけするのか……」 口に手を当てて微笑むシスララに向けて、呆れたような声でカインが言った。モグのお陰で、胸に立ち込めていた不気味な雲が薄らいだ気がする。聞きたいことや確かめたいことがたくさんあるが、今はともかく、この不吉な場所から離れてしまいたい。 そんなことを考えていると、モグが驚くほどの速さで空中を疾走し、一番奥のあたりで右腕を振り上げ、おもむろに振り下ろした。ほんの一瞬の出来事で、サリナたちはその光景をぽかんとして眺めていた。 ガラスの砕けるような音がし、銀灰の光が生まれた。眩さに目を細める。幸い、最奥に近い場所だったため、天井の崩落は免れていた。そのおかげで、地上の人々がこの光を目にすることは無いだろう。 それにしても、とフェリオは神晶碑に近づきながら考える。 集局点とは、自然界の中でマナが集まる場所だ。マナが集まり、その影響で自然が変化する。あるいは局所的な自然現象によって、マナが集められる。これまでに訪れてきた様々な集局点は、いずれも炎や水、雷といった属性マナの影響が多分に見られる場所だった。 でも、ここは―― 力のマナ。炎や水のようなわかりやすい自然現象は起きないにしても、例えばあのアイゼンベルクの鉱山のような場所なら納得できる。天狼石が多く採掘され、マナバランス崩壊の影響で魔物が多数出現したが、あそこには力のマナが充実していた。 どうしてここが、力の集局点なんだ……? 疑問が頭をよぎる。だが今は、神晶碑に結界を張ることが優先だ。疑問については、あとでセリオルとでも話してみよう。“魔神”のことも含めて。 「集え、俺のアシミレイト!」 フェリオはホルスター型のリストレインを掲げた。 銀灰の光が溢れ出す。リストレインが変形し、マナの鎧へとその姿を変えていく。フェリオの身体を包むオーディンの鎧は、アシュラウルのものよりもなお力強く、壮麗な美しさだった。鎧はやはり、フェリオの銃をも包んだ。銀灰の装飾が施されたアズールガン【精霊】は、まるで美しい槍のような姿になった。 瑪瑙の座の力。最初に手に入れた兄からは随分遅れたが、これでようやく自分も、みんなと同等の戦力になることが出来る。己に流れ込む膨大な量のマナを感じながら、フェリオはそれを実感していた。拳を握る。マナが満ちる。 両手を掲げ、彼は叫んだ。 「満ち亘る偉力のマナ宿らせし、エリュス・イリアの守り手たらん瑪瑙の座、戦騎オーディンの御名により、千古不易の神域たれ!」 フェリオの手から生まれた光線が神晶碑を包み、多面体を形成していく。クリスタルの入れ子のような形の結界が張られた。万物を拒絶し、世界の要たる神晶碑を守る結界だ。 「さて、ではとりあえず――」 フェリオがアシミレイトを解除したのを確認して、セリオルが口を開いた。 「戻りましょうか」 詰所に戻ると、フランツは目の回るような忙しさに襲われた。上司への報告、書類の作成、問い合わせに来る市民への対応など、しなければならない仕事が次から次へと舞い込んでくる。 ――そして夜は明け、運命の1日が始まる。 |