第21話

 陽があまり当たらないためか、小屋の中はひんやりとしていた。暖炉はあるが、久しく火がくべられていないように見えた。床板は部分的にはがれ、壁板は長年の経年劣化で歪んでいるようだった。家具はいくつかあるが、いずれもくたびれており、疲れた労働者を思わせた。
「つまり君は、まんまと引っかかったわけだが」
 箪笥からサリナの財布を取り出してクロイスの顔の前でぷらぷらと揺らしつつ、フェリオは冷淡に言い放った。それを見てクロイスはあんぐりと口を開くばかりだった。彼はロープで身体の自由を奪われていた。
「んな馬鹿な……」
「これは偽物だ。俺が作った」
 目をぱちくりさせているサリナの前で放物線を描き、どさりと音を立てて偽の財布がクロイスの目の前に投げ出された。解けた口からは砂が流れ出した。それを見たクロイスは、フェリオを見上げて悔しそうに歯を食いしばり、彼を睨み付けた。
「ちくしょう……はめやがったのか」
 取り返した財布を、フェリオは小屋に入って来たセリオルに手渡した。
「詰めが甘いな、セリオル。相手に言い逃れのチャンスを与えるなんて」
「いやはや、面目ない。助かりましたよ、フェリオ」
 そう礼を述べながら、セリオルは財布を懐にしまった。サリナに渡すとまた彼女に余計なプレッシャーを与えると考えたからだった。しかしサリナは、セリオルに自分が持っておくことを申し出た。彼女は彼女なりに責任を果たしたいと思っているようだった。
「はっはっは。見事だ弟よ。証拠を偽造して揺さぶるとは。いやいや」
 セリオルに続いて入って来たカインが、いつもの調子でそう言った。
「たまには方便も必要だってことさ。正攻法だけが道じゃないぜ、兄さん」
「その通り。俺は大いに賞賛するぞ」
 カインは弟の背中をばしばしと叩いてからからと笑った。
 そうして仲間たちが上機嫌に振る舞う中、サリナの心は晴れなかった。財布を取り返しても、彼女はすぐにクロイスを自警団に突き出す気にはなれなかった。それは彼女が先ほどからどうしても目を遣ってしまう、小屋の隅で縮こまっている彼らが理由だった。
「お兄ちゃん……」
 不安げな子どもの声だった。発したのはまだ幼い少女である。彼女のその声に、ぎくりと反応したのはクロイスだった。
「お兄ちゃん、どうしたの? このひとたち、誰?」
「な、なんでもねえよ。鬼ごっこで捕まっただけさ」
 クロイスは少女のほうを見ずにそう答えた。少女は何も言わなかった。事の不自然さを感じ取っているようだった。
「兄さん……」
 別の子どもの声が上がった。少年だった。彼はさきほどの少女を自分の後ろにかばうようにして、小屋の隅に立っていた。少女の更に後ろでは、末っ子らしい男の子が泣きべそをかいている。
「兄さん、もしかして――」
 言葉を切った弟に、クロイスは何も答えなかった。彼には答える手立てが無かった。
「なんだお前、弟と妹がいたのか」
 こつこつと足音を立てて幼い兄妹に近づいたのはカインだった。自由に立ち上がることの出来ないクロイスは、カインに罵声を浴びせることしか出来ない。
「よお少年」
 話しかけられた少年は、自分を見下ろす男を睨んだ。男は笑いもせずに立っていた。
「……あなたは?」
「俺はカイン・スピンフォワード。君は?」
「僕は、ニルス・クルート」
「そうか、ニルス。これから君の兄ちゃんのことを教えてやろう」
「言うんじゃねえ!」
 激しい剣幕でクロイスが割り込んだ。彼はカインを止めようと両手足をばたつかせたが、セリオルとフェリオのふたりに押さえ込まれてもがくばかりだった。頭を振り乱して自分を押さえつけるふたりに噛み付こうとするが、上手くいかなかった。暴れる兄に、少女も泣き始めた。ニルスは自分より小さな妹と弟を守ろうとするかのように、自分と兄の間に立大人たちからふたりを隠そうと、両腕を広げて立ちはだかった。
「みっともなく暴れんじゃねえよ、ガキんちょ」
「うるせえ!」
 クロイスは食いしばった歯の隙間から荒い息を吐き出していた。尋常ならざる兄のその様子に、ニルスは冷たい恐怖を感じていた。彼にはある予感があった。それは悪い予感だった。
「兄さん――」
「ニルス! こいつらの言うことに耳を貸すな!」
「だからみっともねえっつってんだろ」
 カインの声は冷たかった。そばで聞いたサリナが身を震わせるほどに。彼女はカインの声に、明らかな怒気を感じ取っていた。それは先ほど外で見せたような単純な怒りではなく、炎が凍てついたかのような冷たい憤怒だった。
「ニルス、よく聞け。君の兄ちゃんは、俺たちから金を盗んだ。それで捕まったんだ」
 沈黙が流れた。クロイスが床を叩く音と、幼い子どもたちのしゃくりあげる声だけが響いた。誰も言葉を発さなかった。サリナは胸が締め付けられる思いだった。彼女はカインからセリオルに視線を移した。彼はクロイスを押さえつけたままこちらを見ていた。サリナの視線に気づき、彼は首を横に振った。止めてはいけません――その瞳はそう語っていた。
「やっぱり、そうですか……」
 長く沈黙した後、ニルスはそう呟くように言った。それはカインにというよりは、クロイスに向けられた言葉のようだった。その響きは落胆と失望の色を宿していた。クロイスは額を床に当てて拳を握り締めている。
「少し前から、そんな気がしていました。でも、兄さんを責めないでもらえませんか……? 僕たちを食べさせるためにしたことだと思うんです。最近、魔物が増えたせいで狩猟の獲物が減ったみたいで、生活が苦しくて……」
 ニルスの口調は切実だった。確かに彼らの暮らしぶりには貧しさが現れていた。衣類にも、住居にも、そして痩せた体格にも。ニルスの言葉に嘘は無いだろうと、カインは考えていた。そしてそれゆえに、彼の怒りは烈しさを増した。
 ニルスには何も答えずにその頭を撫でて、カインは振り返った。そこには無様に床に這いつくばる、愚かな兄の姿があった。
「お前、恥ずかしくないのか」
 カインの口調からは抑揚が失われていた。いつもの陽気な彼ではなかった。
「おい、兄さん――」
「黙ってろ」
 ただならぬ様子に思わず発されたフェリオの声も、ひと言の下に切り捨てられた。フェリオはセリオルと顔を見合わせた。まずい――彼の直感がそう囁いた。
「かっこわりいなあ、おい。弟にかばわれちまってよ。恥ずかしくねえか、なあ」
「うるせえよ!」
 侮蔑の言葉に、クロイスは顔を上げて怒鳴った。見下ろすカインの表情はよく見えなかった。
「金が無いんだよ! しょうがねえだろ! 俺はあいつらを養わなきゃならねえんだ!」
「……お前、ちょっと表出ろ」
 カインはセリオルとフェリオに目配せをした。拘束をやめろ。そういう意味だった。
「だめです、カイン。冷静になってください」
「兄さん、落ち着いてくれ。兄さんが怒る理由はわかる。でも――」
「殺しゃしねえよ」
 断固たる口調で言い放たれたその言葉は、クロイスを抑えるふたりを諦めさせるに十分だった。いざとなったら自分たちがカインを止めようと小声で打ち合わせて、ふたりはクロイスを解放した。クロイスが暴れないように、ふたりは上手く押さえつけながら縄を解いた。もっとも、弟たちがいる前ではクロイスももう逃げようとはしなかった。
「カインさん」
「ん?」
 おずおずと話しかけたサリナに、カインは振り返った。彼女の表情は心配そうだった。
「クロイスのこと、どうするんですか?」
 クロイスの弟たちを意識した様子の不安げな声でそう言うサリナに、カインは微笑んでみせた。
「ちょっと話をする。わからせてやるだけさ。大丈夫、俺は冷静だ」
 とてもそうは思えない様子で、カインは小屋の外に出て行った。サリナもそれに続いた。クロイスは不安そうな弟たちを一瞥し、不満げな表情を浮かべて外へ出た。セリオルとフェリオが後を追い、最後にニルスたちが出て来た。
 外に出ると、宴の声が聞こえてきた。街の中心のほうではまだ盛り上がっているようだ。花火も上がっている。赤や黄色の光が空を彩る。
 一定の距離を保って、カインとクロイスが対峙した。カインは両腕をだらりと下げ、無防備な体勢だった。クロイスは武器――彼の短剣と弓とを渡されていた。彼はその短剣をいつでも抜けるように腰に手を遣っていた。彼は混乱していた。あの男はなぜ、こんなことをする?
「抜けよ。俺に勝てたら、あの財布はお前にやる」
「はあ?」
 驚いたのはクロイスだけではなかった。サリナたちからも動揺の声が上がった。
「カインはどういうつもりなんでしょう」
「ちょっと話をするって、全然違うよ……」
 サリナとセリオルがそう疑問を口にする中、フェリオはひとり沈黙を保った。彼は兄の様子をじっと見つめていた。
「かかって来いよ」
 カインのその言葉に、クロイスが短剣を抜いて突進した。カインは鞭を構えてもいない。サリナが思わずカインの名を叫ぶ。ニルスたちは寄り添いながら、戦おうとするふたりの姿を不安そうに見つめている。
 クロイスの攻撃は空を切った。彼はかなり素早かったが、カインにはその動きを見切られていた。彼は足払いをかけられ、もんどりうって地面に倒れた。すぐに姿勢を立て直し、再度攻撃を仕掛ける。
 交錯する瞬間、カインの拳がクロイスの右頬を強打した。短剣が手を離れて地面に落ちる。クロイスは地面を転がった。激痛にしばらく立ち上がることが出来なかった。
「お前は絶対にやっちゃならねえことをやった」
 息ひとつ切らしていないカインの声が頭上から降って来た。クロイスは短剣を拾い上げて立ち上がろうとした。激痛に右目から涙が溢れてくる。歪む視界に、カインの影が不気味に揺れる。
「は、弾けろ、俺のアシミレイト!」
 リストレインを取り出し、彼は叫んだ。紺碧の光が膨らむ。短剣型のリストレインが変形し、彼の身体を覆う鎧へと変化する。マナの力が痛みを和らげてくれた。口の中が切れて溜まった血を地面に吐き出し、彼はカインへと突進した。
「奔れ、俺のアシミレイト」
 紫紺の光が出現し、カインは雷の鎧を纏った。恐るべき速度で接近してくるクロイスを、彼は拳を構えて迎え撃った。雷の力が彼の拳に集中する。
 短剣に水の力を纏わせて、クロイスはカインに向けて刃を振るった。水は鋭い牙となって空中を飛び、カインに襲い掛かった。しかしそのいずれもが、カインの雷の力によってかき消された。カインは全身から放電し、雷の盾を作り出していた。近寄ることが出来ず、クロイスは距離をとった。
「くそ!」
 クロイスは攻撃を弓に切り替えた。矢筒から素早く数本の矢を取り出し、狙いを定める。矢は氷を纏った。マナの力を得た矢は驚異的な速度で空を貫き、カインに迫った。
 だがその矢はカインの雷の波によって叩き落された。放射状に広がる雷が、今度は逆にクロイスを襲った。彼はそれを避けることが出来ず、全身を貫く電撃に苦痛の声を上げた。
 がくりと膝をつき、クロイスはカインを睨んだ。これまでこんなことは一度も無かった。幻獣の力を手に入れた彼は、最強のはずだった。それがこうもあっさりと、同じ幻獣の力を操る者が相手だと通用しなくなるものなのか。彼は歯を食いしばり、立ち上がった。奥の手を使うしか無かった。
「リバレート・オーロラ! アクア・スパイク!」
 水のクリスタルが鎧から分離した。紺碧の光が彼の頭上で膨張する。変形したクリスタルは、やがて角を生やした銀色のイルカのような幻獣へと姿を変えた。甲高い雄たけびを上げて、幻獣は巨大な水の矢となってカインに襲い掛かった。
「リバレート・イクシオン。トール・ハンマー」
 迎え撃つカインは冷静だった。紫紺の光からイクシオンが現れ、ひと声嘶いて雷の槌へと姿を変えた。槌は水の矢を叩き伏せた。水の幻獣が姿を消す。同時に雷の衝撃波がクロイスを襲った。水のリバレーターはその攻撃をまともに受け、激痛に叫びながら倒れた。紺碧の光が消え、続いて紫紺の光も消えた。ふたりのアシミレイトは解除された。クロイスの弟たちが兄を心配して叫んでいる。
「くそ……ちくしょう……」
 立ち上がることが出来ないクロイスに、カインがつかつかと歩み寄った。サリナとセリオルが制止しようと走り出しかけたが、それはフェリオによって阻止された。彼はふたりに向かって首を横に振って見せた。
「大丈夫だ。俺には、兄さんの気持ちがよくわかる」
「え、どういうこと?」
 それには答えず、フェリオはふたりにカインの様子を見るよう促した。
 カインは真っ直ぐに立ってクロイスを見下ろしていた。仰向けに倒れて、クロイスはまだ何かに毒づいていた。
「お前がやった、絶対にやっちゃいけねえことって、何だかわかるか」
「知るかよ。掏りのことか?」
 カインの問いかけに、クロイスは彼を見もせずにそう答えた。カインはしゃがみこみ、クロイスの胸倉を掴んで無理やり身体を起こさせた。
「そうだよ。掏りのことだ」
「へっ。だったらこんなことしてねえでさっさと自警団に突き出しゃいいだろ」
 クロイスの捨て鉢な言葉に、カインは再び拳で彼の頬を殴った。うんざりした様子で、クロイスがカインを睨みつける。
「何なんだよお前。ヒステリーなんじゃねえの」
「弟や妹を養うのに、他人の金に手ぇ出してんじゃねえ!」
 怒号だった。さきほどまでの静かな怒りとは打って変わって、カインの声には燃え上がる烈火の如き怒りが現れていた。クロイスはびくりとその身を震わせた。
「お前の弟は何て言った? 自分たちを食べさせるためにしたことだから、お前を責めないでくれって言ったんだよ。てめえは自分の弟たちに何て思いをさせてんだ! それでも兄貴か!」
 胸倉を掴んで自分を揺さぶりながら発せられるカインの言葉に、クロイスは動揺していた。自分たちの金を盗んだことに、この男は怒っているのではなかった。
「お前のしたことは、ただ金を盗んだってだけのことじゃねえんだよ。お前の弟や妹に犯罪の片棒担がせてんのと同じなんだよ! いいか、守るべきもののためになんてことを理由にするんじゃねえ。歯ぁ食いしばって働け! お前の弟と妹なんだろう。逃げてんじゃねえよ。わかったか!」
 クロイスには返す言葉が無かった。綺麗事で済まない実感が、この男の言葉からは感じ取られた。自分から手を放してカインが立ち上がり、サリナたちの方へ歩いて行っても、しばらく彼はその場から動くことが出来なかった。
 同時に、その言葉を聞いたサリナは自分の浅はかさを心の中で罵った。自分はまだカインのことを全く理解していなかった。
「カインさん、昔のカインさんとフェリオのことをクロイスたちと重ねてたんだね……」
「ああ。だから許せなかったんだ、あいつのことが」
 一度言葉を切って、歩いて来る兄の姿を見つめながら、フェリオは語り出した。
「俺がまだ小さかった頃、俺たちもあいつらと同じように貧しかった。ロックウェルの環境はここよりもずっと悪かったよ。それでも兄さんは、俺を食わせるために必死になって働いてくれた。お陰で俺は安心して勉強に専念できた」
「時には苦しさのために、盗みに手を出そうと思ったこともあったでしょうね……」
 セリオルの言葉に、フェリオは頷いた。
「ああ。昔、聞いたことがあるよ。兄さんが独り言を言ってるのを。盗みはだめだ、それだけは、って。そんなことで手に入れた金で、俺を生活させたくなかったんだろうな。兄さんの力なら盗みなんて簡単だっただろうけど……兄さんらしいよ、まったく」
 そう話すフェリオの横をすり抜けて、ニルスたちがクロイスへ駆け寄って行った。途中でカインとすれ違ったが、彼には目もくれなかった。さきほどのやり取りを聞いていたからだろう。賢い子たちだと、フェリオは思った。
「あーすっきりした」
 開口一番、カインはそう言って伸びをした。
「カインさん、心臓に悪いです」
 そう抗議したサリナに、カインは笑って応えた。
「はっはっは。ちょっと久々にキレちゃったな。わりわり」
「お疲れ様でした」
 ぽんぽんと二度、セリオルはカインの肩を叩いた。彼はクロイスたちの方を見ていた。カインもそれに倣った。まだ地面に座ったままのクロイスに、弟たちが心配そうに話しかけている。クロイスは何も応えていないようだった。
「ま、後はあいつらの問題だな」
「そうですね。あなたの助言で、考えが変わると良いんですが」
「お。なんか俺に説得力が無いみたいな言い方じゃねえの」
「いやいや、そういうわけじゃないんですよ」
「ほんとかー? まいいや。帰って風呂入って寝ようぜ。疲れた疲れた」
「私も眠いです……あっ」
 忘れ物でもしたのか、サリナが小屋の中へ入って行った。
「兄さん」
「おう」
 弟の声に振り返ったカインは、掲げられていた弟の拳に自らの拳をこつんと当てた。彼の弟は、彼とほとんど変わらない背丈になっていた。花火の光が、兄弟の姿を照らした。

挿絵