第26話

 数日を経過して、サリナはイリアスの地理を少しずつ把握できてきていた。王都は王城を中心として、リプトバーグのように円形に広がっていた。ただその規模は穀倉の街の比ではなかった。
 王城を中心に、東西南北の街門に続く広い通りがまっすぐに伸びている。北に伸びる通りを金獅子通り、南へ向かうものを銀狼通り、西を紅虎通り、東を蒼龍通りと呼ぶ。それらの名は、王家の抱える王国騎士団の二大騎士隊、金獅子隊と銀狼隊、そして大神殿に所属する神殿騎士隊の二大騎士隊、紅虎隊と蒼龍隊の名と一致していた。
 王都の南東部、銀狼通りと蒼龍通りに挟まれた地区は、庶民たちの暮らす庶民街区と呼ばれ、多くの住居が所狭しと立ち並ぶ。その西、南西部にあたり、銀狼通りと紅虎通りに挟まれた地区は、商店や宿などが並ぶ商業街区。“騎士の剣亭”もこの地区に位置していた。また北西部、紅虎通りと金獅子通りに挟まれた地区は貴族街区と呼ばれ、貴族や騎士たちの住まいが並び、幻獣たちを祀る大神殿が存在する。そして――
「学究街区……」
 宿の待ち合いで王都の地図を眺め、サリナは低く呟いた。
 金獅子通りと蒼龍通りに挟まれた、王都北東部。そこは学究街区と呼ばれ、教育機関や各種研究施設が集まる地区だった。
 王立幻獣研究所――学究街区の一角に、その名はあった。
 サリナは左手で右腕を掴んだ。その手に力がこもる。サラマンダーの熱気が身体に宿ったような気がした。
「――ふう」
 知らず、止めていた息を吐き出して、サリナは頭を振った。熱気が消える。彼女は再び地図を見つめ、ふと王城を囲むように帯状に描かれている街区に気づいた。省庁街区と、そこは呼ばれるようだった。王都や王国の機能を司る、各種庁舎の名が並んでいる。す――と、サリナはその街区を指で静かに撫でた。
「何してんだ、サリナ」
 掛けられた声に振り返ると、クロイスだった。彼はサリナの隣に並んで立ち、壁の地図に目を遣った。
「幻獣研究所、か」
 並んで立ってみて、クロイスが自分よりも少し背が高いことに気づき、サリナは少し笑った。なんとなく、意外だった。
「あんだよ」
 むっとした様子でクロイスがこちらを向く。
「ごめんね、なんでもない」
「ったく」
 クロイスは地図に向き直った。彼もまた、幻獣研究所の文字を見つめているようだった。
「親父さん、どんなひとなんだ?」
 クロイスはサリナを見ずに、そう尋ねてきた。サリナも地図に目を戻す。
「よく知らないんだ」
「知らない?」
「うん。私が小さい時に捕まっちゃったそうなの。私はずっとハイナン島で育って、お父さんは亡くなったって聞いてたから」
「へえ……」
 サリナはクロイスのほうを見た。少年の顔は地図を向いていたが、その目は地図より遠くを見ているようだった。サリナはその表情に、孤独と寂寥を感じた。
「クロイスのお父さんとお母さんは、どんな方だったの?」
「あ? 親父とお袋か……。ま、普通だよ普通」
「普通?」
「普通さ。優しくてお人好しで、子どもに甘くて旅行好き。そんなふたりだった」
 何の感情も無いかのように、クロイスはつっけんどんな口調だった。くすりと、サリナは少しだけ笑った。クロイスはむっとした表情を彼女に向ける。
「あんだよ、さっきからひとのこと笑ってばっかいやがって」
「ごめんごめん。クロイス、お父さんとお母さんのこと好きだったんだね」
「う、うっせえよ!」
 ふいと顔を逸らせて、クロイスはまた地図のほうを向いた。襟足のあたりをくしゃくしゃと掻く。
「私たちのこと、こないだ話したけど。クロイスのことも聞かせてくれないかな?」
 サリナのその言葉に、クロイスはぽかんと口を開けた。その反応の意味がわからず、サリナは首を傾げた。
「お前、まさか覚えてねーの?」
「え……?」
 首を傾げたまま、嫌な予感にサリナの表情は石膏のように固まった。クロイスは深々と溜め息をついた。
「エインズワースの宿泊所でバーに行った時に話しただろ」
「え……」
 固まったまま、サリナの額を汗がひと筋流れた。
「お前、酔っ払って覚えてねーんだろ。あんだけひとのこと根掘り葉掘り聞いといてよ。は〜あ」
「ご、ごごご、ごめん! ごめんなさい!」
 サリナは腰から上を直角に屈めて謝った。その角度まで何度もぺこぺこと謝るサリナのあまりの狼狽ぶりに、クロイスは苦笑した。
「わーったわーった、もういいって」
「ごご、ごめんねー!」
 気にするなという様子で、クロイスはサリナに向けて手を振ってみせた。
「マキナには、旅行で行ったんだ」
「う、うん」
 地図から視線を外し、少し下のあたりを見つめて、クロイスはぽつりぽつりと話し始めた。
「今は大枯渇で砂漠が広がっちまってるけど、ちょっと前までは森と海のきれいな観光地だった……らしい」
「うん」
「昔、親父とお袋が結婚した記念の日に、旅行するのがうちの習慣だった。旅行先にマキナを選んだ理由は特に無かった」
「うん」
 短く、クロイスは言葉を切った。顔を上げて、彼はくるりと身体を反転させ、地図に背を向けた。そのまま壁に体重を預け、頭の後ろに地図が来る格好となった。
「水晶の泉って、知ってるか?」
 問いかけに、サリナは首を横に振った。
「幻獣がいるって噂があった。綺麗な泉だった。森の中で、太陽の光が水面に反射して。泉なんだけど、なんとなく氷が張ったみたいなんだ。ガラスみたいな結晶が見えた」
「すごいね。綺麗だろうなあ……」
「綺麗だった。4年も経ったけど、よく覚えてるよ。その泉で、親父とお袋はトカゲみたいな鳥の化け物に襲われて死んだ」
 言葉を失った。クロイスは短く、ふっと息を吐き出した。
「そんな顔すんなよ」
「うん、ごめん」
 はは、と、少年は笑った。彼にサリナの顔は見えていなかったが、どんな表情をしているかはわかっていた。
「そこでオーロラに会った。親父とお袋が死んで、そのそばで泣いてる俺たちのところに、オーロラが現れた。水晶の泉には本当に幻獣がいた」
「あ、そうなんだ……」
「リストレイン、だっけ? あれも泉にあった祠ん中から出てきた。オーロラが案内してくれてさ」
「アシミレイトのやり方も、オーロラから教わったの?」
「ああ。親父とお袋を殺した化け物が、オーロラにとっちゃ問題らしい。いずれそいつにまた出会うことになるかもしれないっつって、俺に色々と教えてくれたんだ」
「そっか、怖いね……」
「怖くなんかねーよ。そん時ゃぶっ倒してやる」
 クロイスがそう言った時、宿の扉が開いた。入って来たのはセリオルだった。彼はハイナン島から持って来た服ではなく、リプトバーグで購入していた大陸風の服を身に付け、いつもの眼鏡ではなく色の入った眼鏡を掛けていた。髪も束ね、一見したところでは彼本人であるとはわかりにくい姿に変装していた。王都で目立たず、またセリオル・ラックスターであると、彼を知る者に気付かれないための対策だった。
「あ、お帰りなさいセリオルさん」
「ただいま帰りました。ふたりとも、部屋に来てください。カインとフェリオが戻ったら作戦を話します」
 サリナとクロイスは顔を見合わせた。セリオルの顔には、満足げな表情が浮かんでいた。

 夕刻。斜陽に照らされる王都は、その豪奢でありながら洗練された美しさを、夕陽の色で艶やかに演出していた。
 サリナたち5人は商業街区を歩いていた。セリオルの立てた作戦に必要なものを用立てるためである。
 リプトバーグの商店街も賑やかだったが、王都も負けず劣らずの賑わいだった。食料品を扱う店舗もそうだが、この街の特徴はその衣類店の多さにあった。サリナはこれまで訪れたいくつかの村や街と比較して、王都は圧倒的にお洒落な店が多いと感じていた。
 行き交う人々もまた、その服装が洗練されているとサリナは感じた。フェイロンから愛用している武道着のままで宿を出たことを、彼女は後悔していた。自分と同年代の女性たちとすれ違うたびに、彼女らの物珍しげな視線が自分に向けられる気がした。ここ数日の滞在でこの街には多少はそういった傾向があることを認識してはいたが、商業街区はまた別格だった。ここはどうやら、文化レベルも世界最高の都市に住む人々が、おめかしをして買い物に出かける地区でもあったらしい。
「どうしたサリナ、そんなに縮こまって」
「なんでもない……」
 肩をすぼめたサリナに、フェリオは怪訝そうな顔をした。
「まだ着かねえの? 遠いんだな」
 カインがぶつぶつと言い始めた。宿を出て、徒歩の距離にしてはかなりの道のりを歩いていた。彼はたった今すれ違った、ふたり乗りの騎鳥車を振り返っていた。
「他の手近な店でも買えることは買えるんですが、高いんですよ。申し訳ないですが我慢してください」
 セリオルは本当に申し訳ないと思っているような口調で言ったが、その声にはどこかで有無を言わせないだけの迫力があった。
「ちぇー」
 カインは口を尖らせたが、彼も作戦の性質上、出費を控える努力をしなければいけないことは理解していだ。
「駄々をこねるなよ、兄さん」
「だってフェリオ、俺たち昨日までミラクル金持ちだったんだぜ?」
「だからって別に贅沢してたわけじゃないだろ」
「そ、そりゃまあ、お前、なあ?」
「……なんだ?」
 あらぬ方向を見て口笛を吹き始めたカインに、フェリオとクロイスがあからさまに怪しいという顔をした。
「金があると思って余計な買い物か何かしただろ、お前」
「し、ししてねえよバカ! このバカ! 何言ってんのバカじゃねえの!」
 クロイスの指摘にむきになるカインに、弟は頭を抱えた。
「兄さん、まさかとは思うけど」
「おうとも、まさかさまさか! まさかだよほんと、はっはっは」
「何言ってんだこいつ」
 呆れたようなクロイスの声に、フェリオはかぶりを振った。額に手を当てて、頭でも痛いのか、彼は苦しそうな声を出した。
「セリオル、ここ数日帰りが遅かったけど、兄さんと一緒だったか?」
「はい? いいえ、私はひとりで調査していましたが」
 セリオルのその言葉に、フェリオは確信した。セリオルと一緒に調査をしてくると言っていた兄の言葉は、完璧なまでに嘘だった。
「兄さん……」
「カイン、お前……」
「カイン……」
「カインさん……」
「う、うう」
 フェリオとクロイスにセリオルも加わり、なんとなく雰囲気に乗っかったかたちのサリナまで危険な目をしている。にじり寄ってくる仲間たちの目線に耐えきれず、カインは走り出した。目的の店とは全く異なる、見当違いの方角へ。
「逃げろー!」
「遊び歩いてただろ! 遊び歩いてただろ兄さん!」
「てめーこの野郎! 金を無駄遣いしやがったな!」
「ちょっとカイン、どこへ行くんですか!」
「えっ? ちょ、みんなあの、待ってー!」
 カインはでたらめに通りを曲がりくねって走った。仲間たちを撒こうとしたのだったが、彼自身ももはや自分がどこにいるのかわからなくなっていた。そもそも街の地理を覚えるのが苦手な彼である。その場しのぎで逃げ出したものの、結局仲間の助けを借りなければ宿には戻れそうもないと、彼も気づいていた。
 騒ぎ声を上げつつ走り回り、カインはそれまでよりやや開けた通りへ出た。飲み屋が立ち並ぶ歓楽街のようだった。いつの間にか、陽はすっかり暮れてしまっていた。そこここの店から、明かりと陽気な歌声が漏れてくる。
 そんな街の中、カインは周囲から浮いた雰囲気の人物を発見した。
「ありゃあ……?」
 どうやら女性のようだった。石造りの建物――飲食店のようだ――の壁に沿うかたちで椅子に腰かけ、前に小さな机を置いている。その机はビロード調の紫色の布をクロスのようにして被せられ、その上にはやはり布を織り合わせたものを装飾とした台座のようなものがあり、そしてそこには透明なガラスか何かでできているらしき球体が鎮座していた。机の向かいにも椅子がひとつ置かれている。
「兄さん! 何してるんだよ!」
「おお。フェリオ。いやほれ、あれなんだろうな」
「うん?」
 勢い余って急停止したフェリオに、カインはその女性を指さしてみせた。フェリオに続いてクロイス、セリオル、サリナも到着した。息を切らせて、彼らはカインの言う女性のほうを見た。
 女性は机に両肘をついて手の上に顎を載せ、通りを歩く人々を眺めていた。女性はビロード調のクロスと同じ、紫の衣装を身に纏っていた。薄い布を何枚も重ね合わせたような不思議な服で、身体の線が透けて見えるのではと錯覚させた。また首飾りや髪飾り、耳飾りをいくつも着けている。頭にはショールをかぶり、その布が目深まできているので表情を窺い知ることはできなかった。
 それだけであれば、単なる変わった服装の女性というだけだった。しかしサリナたちには、その女性が操るマナの動きが認知できていた。
「あれは……」
 セリオルが小さく呟いた。彼も初めて見るマナの動きだった。
「なんだか、不思議なマナだね。あのひと自身から、マナが放出されてる……?」
「ええ。けれど同時に、彼女の周囲からもマナが集まって来ていますね……」
「お前らすげえな。そんなのが見えるのか」
 クロイスが感心したように言った。彼もマナの奇妙な動きを認知することは出来たが、サリナやセリオルのように具体的に、視覚的に認識することは出来なかった。それはカインやフェリオも同様のようだった。
「サリナもセリオルも、魔法を扱えるからな」
 フェリオのその言葉に、セリオルが頷いた。彼によると、魔法の修得がある段階まで進むと、意識すればマナの動きを目で捉えることが出来るようになるということだった。逆にそれが出来ないと、初級クラスの魔法の会得は完了出来ないらしい。
「だったらカインも使えるじゃねーか。青魔法」
 クロイスの疑問はもっともだったが、これにはカイン本人がにべもなく答えた。
「青魔法ってのは魔法って言葉がついてっけど、白魔法とか黒魔法みたいなのとは質が違うんだよ。白・黒魔法はマナを一定の法則で操作しなきゃなんねえけど、青魔法はざっくり言えば、覚えたことを放出するだけなんだ」
「単純ってことか」
「うっせえバカ」
 そんなやり取りをしているサリナたちに、女性のほうが気付いたようだった。いつからか、こちらのほうをじっと見ていた。
 女性がサリナに向かって手招きをした。サリナが小首を傾げて自分を指差すと、女性はこくりと頷いた。仲間たちの視線が集まる。
「なんかご指名だぜ、サリナ」
「は、はい。なんだろう」
 カインに背中を軽く叩かれて、サリナは1歩踏み出した。そのまま女性の前へと足を進める。危険な感じはしなかった。マナは乱れず、女性から敵意らしきものも向けられてはいない。
「こんばんは」
 掛けられた声は、サリナよりもやや低いようだった。不思議と存在感のある声で、特別大きな声だったわけでもないのに、喧騒の中でも良く通った。近くで見ると、女性の髪は長く美しい金髪だった。店から漏れ出る光が反射して、彼女の髪とショールを彩っている。
「は、はい。こんばんは」
 ぺこりと、サリナは頭を下げた。仲間たちがやって来て、彼女の後ろに並んで立った。
「あら、こんなに沢山のナイトを連れているなんて、凄いのね」
「え、ナ、ナイトですか?」
 くるりと振り返って、サリナは仲間たちを見た。4人の男たちは、それぞれがそれぞれに複雑な表情をしていた。皆、今の状況をよく理解出来ていなかった。サリナは女性に向き直った。女性は口元に、僅かな笑みを浮かべていた。
「ふふ。私は、占い師。自然とマナの力で未来を視るの。よかったら、少し視させてもらえない?」
「占い、ですか」
 サリナは再び振り返った。セリオルの考えを確認するためだった。彼は怪訝そうな顔をしていたが、女性の操るマナのことが知りたいのか、ひとつ頷いてみせた。
「じゃあ、お願いします」
「喜んで。どうぞ、掛けて」
 勧められるままに、サリナは椅子に座った。適度な弾力のある、座り心地の良い椅子だった。
「それじゃ、始めるわね」
「は、はい」
 サリナは唾を飲み込んだ。少し緊張した。
 女性は水晶玉に両手を翳し、低く小さな声で何ごとか呟いた。セリオルはマナの新たな動きを認知した。自然とマナの力で、と女性は話した。セリオルは、ある確信に近い考えを持っていた。自然の力をマナによって操る能力を持つ者のことを、彼は聞いたことがあった。
 マナはどうやら、女性の言うとおり、周囲のあらゆる自然物から集まってくるようだった。大地、草木、風、空。それぞれは微かなマナだったが、それが少しずつ机の上の水晶玉に集中していく。やがて水晶玉に、もやもやとした影のようなものが現れた。
「これは……」
 女性の声は、なぜかやや緊迫していた。サリナは水晶玉から顔を上げ、女性の顔を見た。相変わらず両目がショールに隠れているが、唇が真一文字に結ばれているのが見えた。
「炎……。燃え盛る、大きな炎。温かくて、神聖な力。そして闇。深淵に引きずり込もうとするような、深い深い闇。炎と闇が、激突する……? 強大な力。偉大なるものと、邪悪なるもの。狡猾なるものと、そのものに操られる、純粋なるもの……」
 そこまで女性が話した時、周囲から集まっていたマナが一挙に膨れ上がった。圧倒的な量のマナが水晶玉に押し寄せる。
 女性が悲鳴を上げて立ち上がった。同時にサリナも立ち上がっていた。水晶玉が破裂したのだ。
「あ、あなた、一体何なの……?」
「え、と……」
 押し寄せたマナが起こした風で、女性のショールがめくれ上がっていた。その女性は、長く美しい金髪に、印象的な灰色の瞳を持っていた。

挿絵1    挿絵2