第44話

 森林の街クロフィールは、森の中に建設された街である。より正確に言うならば、森の大樹の間を拓いてそこに建物が建築され、いうなれば森と共存するかたちで成立している街である。かつて、まだ若く細かった木々だけが伐採された。それは建物の材料に適した太さと強度で、結果としてこの街は森の中に、森を使って建設されたのだった。
 サリナは部屋着のままクロフィールの街を歩いていた。休息は十分にとったつもりだ。セリオルは尋常ではない攻撃を受けたのだから、大事をとってもっと休めと言った。しかし彼女の体調は、既に万全であると言えた。しかし結局、一行はセリオルの判断が無い限り、マキナへ出発することは無い。彼女は森の香気と木漏れ日に満ちたクロフィールを見て歩くことにした。
 そよ風に乗った、木々の生命力に満ちた爽やかな香りがサリナの鼻腔をくすぐる。足元は土のままの通りである。これまでの街のように、石畳等での舗装はされていない。また、森の形をそのままに街が造られたためだろう、街の中には段差が多く、今サリナが歩く通りも、急勾配の丘の途中にひな壇のようにして拓かれていた。左手がのぼり坂、右手が下り坂で、短く柔らかそうな下草や茂みで覆われている。
 足を進めるたび、さくさくと土が音を立てる。鳥の声が聞こえる。すぐそこの茂みには小動物が顔を覗かせる。大木の枝葉が天蓋のように上空を覆うこの街は、どこを向いても緑が目に入り、またその間から柔らかく注ぐ陽の光が心地良い。
「きれいだなあ」
 誰にともなく呟いたサリナの近くへ、小鳥が1羽やってきた。ひとに慣れているのだろう、小鳥はサリナの頭の上を親しげに舞い、その肩へ留まった。その繊細で柔らかい羽毛が頬に触れるので、サリナはくすぐったくて小さく笑った。前にひと差し指を出すと、小鳥はその指に乗ってきょときょとと顔を動かした。
「ふふ。可愛い」
 間もなくもう1羽の小鳥がやってきて、指に留まった小鳥とともに連れ添うようにして飛んで行った。
「ここは平和だなあ」
 思わずそう言って、サリナは後悔した。自分のその言葉で、王都で戦った黒騎士の姿を思い起こしたからだった。ぞくりと身震いして、彼女は頭を振った。
 土の通りを歩き、何軒もの木造の建物の前を通った。住居には井戸が設置されているのが普通のようだった。水道は整備されていないらしい。また、街の中を小さな川が流れている。水は豊富なのだろうと、サリナは思った。広い街だが、王都やリプトバーグなどのような都会ではないらしい。様子は全く違うものの、サリナは故郷を連想せずにはいられなかった。
「おじいちゃんとおばあちゃん、元気かな……」
 王都に異変が起きたことは、既にこの街にも報じられていた。ほどなくしてハイナンにもその報せは届くだろう。その時、ダリウやエレノアがどんな思いを抱くかを想像して、サリナは胸が苦しくなった。
 少し歩いて、サリナは広場のようなところへ出た。どうやら街の中心部らしい。広場にはいくつかの露店が出ている。中央には大きな石碑と、その上に石像が立っている。近づいて、そっと触れてみる。ひんやりとした石の感触。石像は蛇のような姿をしている。石碑を見ると、こう記されていた。
「偉大なる大地の幻獣、ミドガルズオルム……」
 幻獣の像は静かに森を見守っている。美しく、神々しい像。大地の恵みに満ちたこの街の、守り神として信仰を集めているのだろう。神なる獣、幻獣。このミドガルズオルムも、バハムートやフェニックスと同じく、神話や創生物語に登場する有名な幻獣である。恐らく、玉髄の座なのだろう。
 冷たい石の像に、サリナは頬を寄せた。石は硬く、彼女の頬を押し返してくる。
 玉髄の座の幻獣。もしもその力を借りることが出来たなら、黒騎士に勝つことが出来るのだろうか。それともケルベロスの力にサラマンダーらが全く敵わなかったように、引き上げられたハデスの力には対抗出来ないのだろうか。ゼノアは、どこまで闇の幻獣たちの力を制御出来るのだろう。ケルベロス、ディアボロス、そしてハデス。3柱の闇の幻獣たちの力に、サリナたちは勝つことが出来るのだろうか。
 不安ばかりが押し寄せてくる。セリオルはどう思っているだろう。カインとフェリオは、クロイスは? 国王の命を受けた、アーネスは? そのアーネスを遣わせた、国王ヴリトラは?
「誰か、教えて……」
 頬を離して、サリナは石像を見上げた。幻獣の視線は、彼女を向きはしない。ただ静かに、この美しい街へと注がれている。
「こんにちは、旅の方ですか?」
 振り返ると、そこにはひとりの女性が立っていた。白く裾の長いスカートは、この村の女たちが揃って身に付けるものらしい。暑い季節は湿気も多いであろうこの街での暮らしをしのぎやすくするためか、何枚かの薄い布地が重ねられて織られているようだった。女性はいくつかの花飾りをあしらった長い髪がそよ風になびくのを、耳のところで押さえている。もう一方の腕には大きな編み篭が提げられていた。中には果物や野菜の類が入っている。買い物の帰りなのだろう。
「あ、はい、こんにちは」
 女性の優しそうな笑顔に緊張を解きながら、サリナは答えた。女性はミドガルズオルムの像を見上げた。観光客に見えただろうかと、サリナは思った。森の中に温泉もあるこの街には、湯治客も多いとセリオルが言っていた。
「クロフィールは初めてですか?」
「あ、はい、初めてです」
「騎鳥車か何かでいらしたんですか?」
 尋ねられて、サリナは少しだけ答えに詰まった。うっかりすると王都から来たと口にしてしまいそうだったからだ。この時期に王都から来たと知られれば、自警団などから質問攻めを受けるのではという危惧があった。
「あの、はい。友人たちと、チョコボで来ました」
 サリナの答えに、女性は小さく、あらと言って両手を合わせた。なぜか嬉しそうだった。
「でしたら、外の森は見られました? 綺麗だったでしょう?」
「あ……」
 今度こそ、本当にサリナは答えに詰まってしまった。隠すほどのことではなかったが、恥ずかしさから隠したかった。しかし他に適当な答えが見つからなかった。答えないサリナに、女性が首を傾げる。顔に血が上るのを感じながら、サリナは答えた。
「あの、私、その、寝ていたみたいで……」
「……え?」
 一瞬ぽかんと口を開いた後、女性は笑った。可笑しそうに、くつくつと。
「うう」
 恥ずかしさに肩をすぼめるサリナに、女性は目尻に浮かんだ涙を拭って言った。
「ごめんなさい、チョコボの背中で寝るなんて、あんまり珍しかったから」
「うう……」
「ふふ。そう、森を見られなかったのは残念だけど、また後にでも見てみてね。昼間は魔物も出ないから、チョコボと一緒なら楽しめると思うわ」
「は、はい。ありがとうございます」
 まだ冷めない顔の熱に手を焼きながら、サリナはぺこりと頭を下げた。サリナに好感を持ったのか、女性の口調は親しげなものになっていた。女性はサリナと同じ視線になるように振り返って、そのままで言った。
「この街は綺麗でしょう。森と風と光に祝福された、クロフィール」
「はい、そうですね。それに静かで、平和な街ですね」
 視線をサリナに戻して、女性はにこりと微笑んだ。野に咲く花のような笑顔だった。
「ええ。それにこの街のひとたちは親切よ。旅の方にも分け隔て無く。お店に行くとわかると思うわ」
「はい、ありがとうございます。行ってみます」
 女性は微笑んで、短くそれじゃ、と言って去ろうとした。サリナは慌てて呼び止めた。女性は振り返り、首を傾げた。
「あの、私、サリナ・ハートメイヤーと言います。あと少しの間、この街でお世話になると思います。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げるサリナに、女性はやはり微笑んだ。そして小さく詫びた。
「ごめんなさい、私ったら、名前も言わなくて。私はイーグレット。イーグレット・スウィングラインよ。この先にあるスウィングライン武具店の娘なの。もしよかったら、寄ってみてね」
「あ、はい、是非!」
 そうしてイーグレットは去っていった。その白く長いスカートの揺れる後ろ姿は、美しかった。
 その背中を見つめながら、サリナは思い出していた。王都で別れたカミーラのことだ。彼女はサリナたちの戦いを見ていたはずだった。金獅子隊を呼びに行ったカミーラは、その後あの庭園へ戻って来ただろう。庭園を囲む柵の外は安全だった。そこから、黒騎士と戦うサリナたちを見ていたはずだと、サリナは感じていた。カミーラは友人思いの少女だった。サリナたちの身を案じて、きっとあの場所に戻っていたはずだった。
 為す術も無く敗走するサリナたちを見て、彼女はどう思っただろう。少なくとも、敗れたサリナたちを責めはしないだろう。悲しんでいるだろうか。それとも恐怖に震えているだろうか。いや、恐らく彼女は、サリナを心配しているだろう。ゼノアは彼女たちの暮らしを脅かしてはいないだろうか。あの闇の半球はもう消えただろうか。他の、王都で世話になってひとたちはどうしているだろう。アルベルトは、国王は、カルラ教師は? みんな無事だろうか。自分たちが敗れたせいで、危険に晒されてはいないだろうか……。
「サリナ、誰と話していたの?」
 アーネスの声だった。はっとして振り返ると、彼女も部屋着だった。腰には財布でも入れているのか、小さめの袋が結いつけられている。髪は長いのが邪魔になるからだろうか、今日も頭の上のほうでまとめている。サリナは目に浮かんだ涙を誤魔化そうと、小さく瞬きをした。
「あ、アーネスさん」
「サリナ、具合は大丈夫なの?」
「はい、もうすっかり。セリオルさんの薬が効いたんだと思います」
「そうね。それにここの木々と温泉も良かったと思うわ。私から見ても、相当深刻なダメージだったから」
 さりげなく口にされたその言葉に、サリナの胸は痛んだ。黒騎士に勝てなかったこと、仲間たちに苦労をかけたこと、心配させたことなどについての申し訳無さが心に満ちた。
「ほら、そんな顔しないの」
 ぽん、と頭にアーネスの手が置かれた。アーネスは優しく微笑んでいた。木漏れ日が彼女の金髪に落ちて煌いている。唯一まとめられずに垂らされたひと房の髪が、そよ風に揺れる。綺麗なひとだなと、サリナは思った。王都で見ていた、厳しい騎士隊長の顔のアーネスではなかった。優しさと包容力を備えた彼女は、あたたかな女性だった。
「それで、さっきの方は?」
 再度質問をされて、サリナは慌てて答える。
「あ、この街の方です。クロフィールのことを教えてもらいました」
「そう。親切なひとなのね」
「はい。クロフィールの方はみんな親切だそうです」
 答える代わりに、アーネスはにこりと笑って見せた。緊張した心が解れる、優しい笑みだった。さきほどサリナがイーグレットを見送った方角を見て、アーネスは言った。イーグレットの後ろ姿はすでに見えなくなっていた。
「さっきこの街を歩いてみたの。私も魔物討伐の遠征なんかで何度か来たことはあったけど、ちゃんと街を見たことは無かったから」
「あ、そうなんですか。やっぱりそういうお仕事もあったんですね」
「ええ。それで、何軒か良さそうな店を見つけたの。一緒に見に行かない?」
「あ、はい。何のお店ですか?」
「アクセサリー」
 サリナは逡巡した。アクセサリーを買うということに、彼女は抵抗を覚えていた。それは贅沢品だという認識があるからだ。
 今、サリナたちには十分な路銀がある。王都で消費したとはいえ、リプトバーグの収穫祭での賞金はまだまだ残っていた。そこにフェリオの竜王褒章の賞金が加わり、更に騎士であるアーネスの持ち出した金が合わさった。合計すると、それらは相当な額になっていた。
 だが、それでもサリナはアクセサリーの購入をためらうのだ。これから先の戦いで、いつ大きな金が必要になるかわからない。余計な出費と言えるものは控えるべきではと、彼女は思う。だからこれまでも、アクセサリーと呼べるものには手を出してこなかった。
「サリナ、知ってる? アクセサリーの中にはね、単に着飾るだけではなくて、自分の力を高めてくれるものもあるのよ」
「え?」
 不思議がるサリナに、アーネスは服の下からひとつの首飾りを取り出し、少女の顔の前に翳した。ペンダントは銀色の鎖に、碧色の彫り物が付けられたものだった。
「例えばこれは、王国騎士団の騎士隊長に国王様から授けられる、騎士の紋章。私の防御力を高めてくれるお守り。そんなに大きな効果ではないけど、永遠に続くのがいいところ。こういうのをエンチャントメントって言うんだけど、戦いの役に立つものも、実は多いのよ」
「あ、そうなんですか……」
 口に手を当てて、サリナは小さく悩んだ。心が揺れる。
「戦いの役に立つんだったら……いい、かなあ」
 呟いたサリナの背中を、アーネスがぽんと叩いた。見上げると、長身の騎士隊長は楽しそうに笑っていた。
「アクセサリー、買ってもいいと思うわ。サリナ、女の子なんだし。これまでは男所帯で、皆鈍感だから言ってくれなかったと思うけど、これからは、ね?」
 そう言ってアーネスは、サリナに向けて片目を閉じてみせた。フェイロンを発ってから初めて言われたことだった。サリナは嬉しかった。胸が温かくなった。
 道中、サリナはアーネスと様々な話をした。これまでの旅のことがその主な内容だった。18歳の誕生日に父のことを明かされ、その翌日に旅立ったこと。カイン、フェリオとの出会い。風の峡谷でのヴァルファーレとの戦闘、リプトバーグへの旅、クロイスとの出会い、そして収穫祭。王都へ至るまでの経緯とサリナの気持ちを、アーネスは頷き、相槌を打ちながら聞いてくれた。
 サリナは自分の心がどんどん軽くなっていくのを感じた。不思議に思ったが、すぐにその理由がわかった。アーネスが女性だからだ。これまで、心の内を明かすことが出来るのは、仲間の男性陣だった。サリナは彼女の仲間を心から信じているが、しかしいかにセリオルたちとはいえ、異性であることには変わり無い。自分の全てを話すことはどうしても憚られた。そしてカミーラには、結局全てを明かすことは出来なかった。
 一行に女性であるアーネスが加わってくれたことを、サリナは嬉しく思った。アーネスは優しい。まるで姉が出来たみたいだと、彼女は感じていた。女性にしか出来ない相談も、アーネスになら出来る。それが嬉しかった。
「そういえばサリナ、私と初めて会った時のことを覚えてる?」
 会話が途切れた時、アーネスがそう言った。サリナは瞬間、何のことかわからずにきょとんとした。
「えっと、謁見の間でサラマンダーたちを呼んだ時のことですか?」
「あ、やっぱりそう思ってるのね」
 アーネスは可笑しそうに小さく笑った。サリナはアーネスの言いたいことがよくわからなかった。
「あなたが寝てる間に、皆には話したんだけど――」
 腰に結いつけてある袋を、アーネスはまさぐった。ほどなくして、そこから薄い布地で作られた、衣類と思えるものが出てきた。
「あ……ああー!!」
 髪を解いてその布を頭にかぶってみせたアーネスを見て、サリナは驚いた。確かに見覚えのある姿だった。
「あの、あの時の占い師さん!?」
 王都で貸し衣装の店へ向かう途中、無駄遣いが発覚して仲間の追及を逃れようと走り出したカインが偶然発見した、水晶玉の占い師。ショールをかぶったアーネスは、確かにそのひとだった。
「驚いた? セリオルは気づいていたみたいだけど、他の皆は全然知らなかったみたい。私も騎士隊長として皆に接してたから、ばれると恥ずかしかったんだけど」
 そう言って笑いながら、アーネスはショールをしまって髪を結った。
 そういえば、とサリナは思った。アーネスが風水術を使う時のマナの動きを、サリナはどこかで見たことがあったような気がしていた。記憶を辿ってみれば、それは確かにあの占い師が操っていたマナにそっくりだった。周囲の自然からマナを集め、それを練り上げて操る。セリオルはそのマナの動きを見て、アーネスがあの占い師だと察したのだろう。聡明な彼のことだ。試練の洞窟などでは仲間の気が緩まないようにと、口にしなかったのだろうとアーネスは話した。
「彼はすごいわね。私も王都でそれなりの立場にいたけど、彼ほどの知識と頭脳を持ったひとは知らないわ」
「はい。自慢の兄です」
 嬉しそうにそう言うサリナに、アーネスは微笑んだ。
 アクセサリー店で、サリナは大いに悩んだ。買うにしても今はひとつだけにしようと決めていたからだった。金があるからといって一挙にいくつも買ってしまっては、今後歯止めが利かなくなるのではという怖さがあった。
 店には色とりどりの宝石や装飾品が並べられていた。これまで抑えていた感情があふれ出すように、サリナは夢中でそれらの品を眺めた。どれも可愛らしい。特に赤い宝石の嵌った指輪は可憐で繊細な装飾が施され、サリナは心を奪われた。
 しかしサリナは、結局ブレスレットを選んだ。指輪は戦闘の際に、間違いなく邪魔になると思ったからだった。彼女が選んだのは、金色の金属に紅や碧、藍の色の模様が入ったものだった。エンチャントメントとしては、アーネスの首飾りと同じように防御力が向上するということだった。右腕に嵌めてみて、サリナは嬉しさに頬が緩むのを感じた。ブレスレットは美しかった。フェリオはどう思うだろうと考えて、はっとした。どうしてセリオルではなく、フェリオが最初に出てきたのか。サリナは頭を振った。
「よく似合うじゃない」
 そう言ったアーネスは、耳飾を付けていた。銀色の台に瑠璃色の石が収まっている。
「えへへ。ありがとうございます。アーネスさんも、素敵なピアスですね」
「ありがとう。サリナも開けてみたら?」
「う……」
 ピアス穴を開けることを、フェイロンにいた頃も友人たちから勧められたことはあった。フェイロンでは台などの無いシンプルなピアスが主流だったが、当時からサリナは、耳たぶに針で穴を開けるということに恐怖を覚えずにはいられなかった。そうすることを想像するだけで、心臓が小さく縮む。
「ちゃんと専門のひとにやってもらえば、痛くないのよ」
「うう。でも、ちょっと怖くて……」
 思わず俯くサリナに、アーネスは小さく笑った。仕方ないわね、とでも言いたそうな笑いだった。
「まあ、またいずれ、ね。きっとサリナはピアスが似合うから」
「は、はい」
 魔物と戦う時にはあれほど傷を恐れず果敢に攻めるサリナが、ピアスの穴を開けるくらいのことを怖がるのを、アーネスは不思議に思いながらも、同時にサリナらしいとも思うのだった。
 うきうきした気持ちで、サリナはアクセサリー店を出た。自然と右手首に左手が行く。そこにはひんやりとした感触の腕輪がある。木漏れ日を受けて、金色の腕輪はきらきらと光っていた。
「さて、それじゃサリナ、今度は武具店に行かない?」
 アーネスの声に、サリナは顔を上げた。左手は腕輪に触れたままだった。
「あ、スウィングライン武具店ですか?」
「ええ。よく知ってるわね?」
「さっきミドガルズオルムの広場でこの街のことを教えてくれたのが、スウィングライン武具店の娘さんだったんです」
「あら、そうなの。奇遇ね。さっき入り口だけ覗いてきたんだけど、意外に品揃えが充実してたわ」
 サリナは少し思案した。武具店に行くと考えると、ひとつしておきたいことが出てきた。黒鳳棍の手入れである。黒騎士との戦闘まで、いくつもの激しい戦いを潜り抜けてきた。仲間たちは幾度か武器を買い換えたり造り替えたりしていたが、サリナはフェイロンからずっと黒鳳棍を使っていた。傷も入っていたように思う。
「アーネスさん、一度宿に戻っていいですか? 私、棍を持って行ってお手入れしてもらいたいんです」
 快諾したアーネスとともに、サリナは宿に戻って黒鳳棍を取り出した。他の仲間たちは朝から出かけたままのようだった。
 スウィングライン武具店は、アクセサリー店からほど近いところにあった。無骨な印象の木造の建物。2階が住居になっていることが、外観から簡単に見て取ることが出来た。その外観に似合わぬ洒落た看板が軒先に下がっている。イーグレットが作ったのだろうかと、サリナは思った。女性的な感覚がその看板に反映されていることは疑いようが無かった。
 入り口の扉を押し開くと、中は所狭しと武具が並べられていた。剣に鎧、兜、盾、短剣、投げナイフ、棍棒、槌などなど。金属製の様々な武具が綺麗に整列して、サリナたちを迎えた。武具の陳列された高い棚などが視界を遮り、奥までは簡単には見通せない。
「あ、いらっしゃい! ほんとに来てくれたのね」
 明るい声で、イーグレットがサリナを歓迎した。すぐにアーネスに気づき、ふたりは簡単に挨拶を交わした。サリナとアーネスの関係は友人同士には見えなかっただろうが、イーグレットは特に疑問を持つことも無かったようだった。イーグレットは敏感に、サリナのブレスレットに気づいた。サリナによく似合うその腕輪を、彼女は手を叩いて褒めた。
 3人はきゃいきゃいと華やかな声を上げながら武具を選んだ。イーグレットは、サリナが武術を操ると聞いて疑ったが、使い込まれた黒鳳棍を見てようやく信じた。意外だ意外だと何度も言われて、サリナは恥ずかしいような照れくさいような気持ちになった。
 そうして賑やかに店内を物色していると、奥のほうから大きな咳払いが聞こえた。3人はその方向へさっと顔を向けた。イーグレットは僅かに顔をしかめていた。
「まったく、武具店は若い娘の遊び場じゃねえってのに」
 わざと聞こえるように言ったのがあからさまにわかる口調だった。サリナとアーネスは顔を見合わせた。
「ちょっとごめんなさい――もう、お父さん! 失礼でしょ!」
 サリナたちの許から離れて、イーグレットは大きな声でそう言いながら奥へ行った。サリナとアーネスも後に続いた。
 店の奥にはカウンターがあり、壮年の男性がひとり、その向こうで椅子か何かに座っている。右足首を左の太股に乗せるかたちで脚を組み、その上に肘をついて貧乏揺すりをしている。どう見ても不機嫌そうだった。その様子を隠そうともしない父に、イーグレットがぷんぷんと怒っている。
「ごめんなさい、サリナちゃん、アーネスさん。ほらお父さん、お詫びして!」
「ふん」
 イーグレットの父、恐らくここの店主であると思われる男は、大きく鼻を鳴らすばかりこちらを見もしなかった。サリナは恐縮した。店主の城である店内で、そのつもりは無かったもののやかましくしたことを申し訳なく思った。
 つと、アーネスが店主の前へ歩み出た。イーグレットが頭を下げる。アーネスは柔らかい微笑を浮かべて、イーグレットに怒っているのではないということを暗に伝えた。イーグレットはほっとした表情を浮かべたが、前に出たアーネスが何を言うのかと、心配なようだった。
「ごめんなさい、あなたの店で騒がしくしてしまって」
「ふん」
 やはり鼻を鳴らすだけの店主に向かって、アーネスは少しだけ唇の端を吊り上げた。不敵な表情に見えた。
「ところで、こちらには蒼雷鋼の盾はあるかしら?」
 店主は不機嫌な貧乏揺すりを止めた。そしても何も言わず、彼は立ち上がってカウンターの奥の扉を開いてその向こうの部屋へと消えた。がさごそと木箱などを動かすような音が聞こえ、しばらくして店主は戻って来た。その手には、まさに蒼雷と呼ぶに相応しい、空色の盾が持たれていた。銀色の金属で縁取られ、中央よりやや下には、植物の蔓を思わせる濃紺色の美しい模様が描かれている。
「うちにある蒼雷鋼の盾はこいつだけだ」
 無造作に、店主は盾をカウンターに置いた。サリナの目には、それは美しくて気品に溢れる盾に見えた。彼女は鎧を纏ったアーネスがその盾を構え、剣を抜く姿を想像した。アーネスは凛々しく、蒼雷鋼の盾は陽の光の下で煌いている。
 しかしアーネスがじっとその盾を見て口にしたひと言は、サリナの感想とは全く違うものだった。騎士隊長は小さくため息をついて、こう言った。
「少し、曇ってるわね」
 その言葉に、店主は目に見えて反応した。眉間の皺が消え、目が大きく開かれた。今しがた耳にした言葉が信じられないといった様子だった。
「……姉ちゃん、今なんつった?」
「曇ってると言ったの。返り血による曇りではないわね。もしかして、打たれた時の空鳴石の純度が低かったのかしら?」
 店主はしばらく沈黙したのち、唇の端を上げて言った。
「姉ちゃん、目が利くのう」
「私も武芸を嗜むものだから。少しくらいはね」
 店主はアーネスと似た笑みを浮かべた。そしてそれまでよりも一段大きな声で話し出した。
「いや悪かった。武具のことなんざぁなんも知らん娘っこどもが冷やかしに来たんかと思うた。すまんかったな」
「いいえ、こちらこそ。最初から本題を切り出していれば、あなたに不快な思いをさせることも無かったのに」
「がっはっは。敵わんな、姉ちゃんにゃあ」
「アーネスよ、店主さん」
「おう。わしゃあガンツ。このスウィングライン武具店の店主よ」
 機嫌の直った父に、イーグレットはほっと胸を撫で下ろした。隣りでサリナが同じ動きをしていて、ふたりは顔を見合わせて笑った。ガンツはもはや、その笑い声にぴりぴりすることは無かった。
「あんなに嬉しそうな父は久しぶりだわ。滅多にああはならないのよ」
 サリナに耳打ちするように言うイーグレットの声も嬉しそうだった。サリナは声を出して返事はせず、こくこくと頷いた。彼女も、なぜだか嬉しい気持ちになった。
「ちょっと待っとれ、すぐに高純度の空鳴石でぴっかぴかに磨き上げちゃる。打った時は空鳴石の入荷が悪うてな。こないだ久しぶりに高純度のを手に入れたんじゃ」
「あなたがこれを打ったの? ガンツ」
 盾を持ってまた奥へ行こうとするガンツを呼び止めるように、アーネスが尋ねた。ガンツは振り向いて、嬉しそうな声で答えた。
「おうとも」
 感心した声を上げて、アーネスはサリナのほうを見た。少女もアーネスを見ていた。
「サリナ、ガンツは優秀な鍛冶師でもあるようよ」
 その言葉の意味するところはひとつだった。サリナはその手に握った黒鳳棍を、ガンツの前に置いた。
「ガンツさん、あの――」
「おい、こいつぁあ!」
 にわかに、ガンツは興奮したようだった。盾を慌ててカウンターに置き、ひったくるようにして、彼は黒鳳棍をその手に取った。さきほどのアーネスのように、顔を近づけて黒鳳棍を仔細に観察する。だがその顔に、アーネスのような満足げな笑みは浮かばなかった。そこに現れたのは、残念そうな表情だった。サリナは嫌な予感が胸に広がるのを感じながら、続きを切り出した。
「その棍を、修理してもらえませんか?」
 ガンツは沈黙した。黒鳳棍をカウンターに置き、しばらくしてから腕を組んで、彼は口を開いた。
「この黒星鉄の棍、見事な逸品だのう。ファンロン流っちゅう武術の総本山、銀華山で打たれたもんにちげえねえ」
「あ、そうです。すぐわかるんですね」
「まあのう、これでも鍛冶師のはしくれをやっとるからな。棍ってのぁただ金属を棒状に延ばしたもんとは違う。きちっと中心に、その芯になる鋼を仕込んで強度を出すんじゃ。この棍の場合、そりゃあどうやら黒星鉄の命、芯星ちゅう鉱物を使っとる。しかしこの棍は、その芯星が破損してしもうとる。これだけの逸品をここまで使いこむたぁ、お嬢ちゃん、お前さんもこれまで相当な戦いを潜り抜けて来たんだの。これだけ使ってもらえりゃあ、武器も本望だろうて」
 血の気が引くのを、サリナは自覚した。頭のてっぺんからつま先まで、すっと血液が落ちていくような感覚だった。手足が冷たくなる。立っていられなくなって、サリナはその場に膝から崩れた。
「そんな……師匠から頂いた、大切な棍なのに……」
「サリナちゃん!」
「サリナ、大丈夫?」
 イーグレットとアーネスのふたりがサリナを支えようとしゃがみこんだ。そんなサリナの様子に、ガンツは慌てて両手を振った。
「いやいやいや、何も直せんと言うとるんじゃない。ただ今の状態はかなりダメージが蓄積されとるっちゅうだけよ」
 早口でまくし立てたガンツに、イーグレットが立ち上がって抗議した。
「もう! 紛らわしいこと言わないで! サリナちゃんショックで立てなくなっちゃったじゃない!」
「い、いや、すまんすまん」
 ほっとした。心臓に血が戻ってくるのを、サリナは感じた。すると今度は、ガンツの言葉を早とちりしたことへの恥ずかしさが生まれてきた。さきほど冷たくなった顔が、一気に熱くなった。
「それで、どうすれば棍を直せるのかしら?」
 アーネスの質問に、ガンツは腕を組んで答える。
「おう。まずは金龍鉄っちゅう金属を使う。こいつぁあ蒼雷鋼と同じくらい稀少な金属よ。黒星鉄と性質が似とってな、しなやかで硬く、マナをよく通す。金龍鉄を使うっちゅうても、ただダメージを受けとる箇所に金龍鉄を貼っつけるわけとは違う。この棍を溶かして、芯星を取り出す。そいつを金龍鉄の命、芯龍と混ぜ合わせて新たな芯を造る。そいつに黒星鉄と金龍鉄を配合した合金を纏わせて、よみがえらせるんじゃ」
「なんか、大変そうですね……」
 心配そうなサリナに、ガンツは軽く頷いて見せた。
「何日かはかかる。じゃが約束しよう、最高の出来に仕上げちゃる。わしゃあお前さんらが気に入った」
「あの、ありがとうございます。よろしくお願いします」
 ぺこりと、サリナは頭を下げた。ガンツは笑った。アーネスが料金は十分に支払うと言って、ガンツはそんなもんは気にするなとまた大きく笑った。
 そこへ、店の扉が勢い良く開かれる大きな音が飛び込んだ。続いてばたばたと床を走る足音。サリナたちの目に、ひとりの少年の姿が飛び込んだ。
「親父! 姉ちゃん! 大変だ、お化けの大木が出た!」
 切迫した様子でそう叫ぶ少年は、その全身に小さな擦り傷を負い、衣服には僅かな破れが見え、そして木の葉にまみれていた。

挿絵